鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その2

2011-03-07 06:41:33 | Weblog
 案内板には「震災記念屋外ギャラリー」とあり、震災による被災品を展示するものだと記されています。

 鉄柱が熔解してグニャグニャに曲がって固まったもの。大日本麦酒吾妻橋工場内で樽に入っていた大量の鉄釘が熔解して固まったもの。東京高等商船学校内で焼損した魚雷の残骸。自動車のボディが焼失しそのシャシーだけが残ったもの。この車は車両番号第一号で、銀座の明治屋商店で震災直前まで使われていたものだとのこと。激震により破損してしまった鳥居の柱もありました。これは浅草区(現在の台東区)の駒形の桜守稲荷の境内にあったもの。「安政五年」と刻まれているから、西暦では1858年ということになります。中の鉄筋がむき出しになったコンクリート柱は、麹町区(現在の千代田区)丸の内にあった内外ビル玄関脇の柱。大日本麦酒吾妻橋工場内で使われていた百馬力電動機が破損熔解したものなどもありました。

 桜守稲荷の破損した鳥居も黒味を帯びており、展示してあるものすべてが黒々としているのは、それらが猛火に見舞われたことを物語っています。

 大地震による建物の倒壊に生き残った者であっても、その後に襲ってきた猛烈な火災(猛火)により命を失ってしまった人たちがどれほど多かったかを、これらの残骸は示しているように思われました。

 それらの黒々とした残骸を見て回った後、「復興記念館」に入りました(9:00)。

 入口手前の「復興記念館について」という案内板には、かなり具体的な被害状況が記されていました。それによると、死者は99,331名、負傷者103,724名、行方不明者43,476名、家屋全壊128,266戸、家屋流失868戸、家屋焼失447,128戸。

 この数字からも、地震による家屋倒壊による死者はもちろんのこととして、その直後に発生した火災(家屋焼失)による死者(焼死者)がどれほど多かったかをうかがうことができます。

 特に東京の下町は家屋が密集し、その地震の発生時刻が午前11時58分ということもあって、ちょうどどの家庭もお昼の支度をしている時間帯であり、それが大火災を発生させた原因といっていいかも知れない。

 猛火は気圧の変化によるフェーン現象を伴い、熱風となって家屋や人々を襲ったことでしょう。吹き付ける高温の熱風は、あっという間に家屋を燃え上がらせ、逃げ惑う人々を死に追いやったのです。

 その案内板の「復興記念館の由来」には、この横網町公園は元陸軍省の被服廠の跡で、東京市がその跡地を公園にするために陸軍省より買収し、大正12年7月に公園を造るための一部の工事に着手していたところが、9月1日に大地震が発生し、この公園地は住民の避難場所として数万人の人々が集まるところとなった、ということが記されていました。しかし地震後に起こった火災による大旋風が、ここに避難していた人々を襲い、多数の人々がここで焼死したのだという。

 そのことにより、この公園が、遭難者の慰霊の中心地となりまた葬祭場として使用されるようになった、といったことがまとめられていました。

 大正12年(1923年)9月1日の大地震発生から、家屋倒壊から逃れて避難民がここに集まってきて、そして震災直後に発生した火災が引き起こした高温の大旋風により、ここに避難してきた数万の大群衆がどのような事態に立ち至ったのか。「阿鼻叫喚」の大地獄図といったものを想起しました。

 このような状況は、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲においても同様であったでしょう。

 「復興記念館」内は1階から2階へと見て回りました。

 「被服廠跡ノ分割図」からは、陸軍被服廠の敷地が、この横網町公園の敷地を含むかなり広いものであったことがわかります。

 館内には、被災地の情景を写した多数の写真や、被災状況を描いた絵、また解説パネルや被災品などが展示されていました。「11時58分」で針が止まっている時計の写真もありました。また震災当時使用された木製車椅子の展示品もありました。

 ちょうど「石川光陽が遺した戦災写真パネル特別展」もやっていました。この「石川光陽」さんは本名「石川武雄」。元警視庁所属の警察官・写真家で、戦時下、警視総監直々の命令を受け、決死の覚悟で死体に手を合わせながら「東京大空襲」の惨劇を撮影した人で、これにより、「東京大空襲」の惨状が写真という形で後世に残されることになりました。

 東京市内ばかりでなく、八王子の空襲後の様子も写されており、石川さんが八王子まで足を延ばしていたことがわかります。八王子駅の空襲後の惨状や、空襲により焼け野原となった八王子市街が写真に写し撮られていました。


 続く


○参考文献
・『写真で見る江戸東京』芳賀徹・岡部昌幸(とんぼの本/新潮社)
・『横山松三郎』(カタログ・江戸東京博物館)


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