鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その最終回

2011-03-01 05:35:26 | Weblog
 「鎌ヶ谷八幡神社」の「御由緒」には、以下のようなことが記されていました。

 祭神は八幡大神=誉田別尊(ほんだわけのみこと)。清和源氏の氏神となったことによって、源頼朝時代には神々の中でも八幡大神のみが特に崇敬され、そして武士の守護神として広く尊崇されるようになったのだという。

 頼朝が鎌倉に幕府を開き、諸国に守護・地頭を置くことになると、中央より遠い地に補任された者ほど、源氏(清和源氏)に因縁浅からぬ八幡大神を任地官衙(かんが)のそばに勧請(かんじょう)して、八幡社を営みました。

 鎌倉幕府は、延喜の制における下総小金五牧を踏襲して、新政のもと、牧場野付の村に御家人・馬役人を配置して執務させましたが、これらの人々も朝夕、兵馬の健全と武運長久を八幡大神に祈りました。

 鎌ヶ谷においても、この例にもれず、八幡社はこうした八幡信仰の広がりを背景にこの地に勧請されたもの。

 古来、兵馬守護の武神として信仰されてきましたが、地元の人々の生活とも結びついて、勝運繁栄・子育て安産の神として現在でも多くの人々の崇敬を受けている、という。

 同じく「御由緒」の記述によると、鎌ヶ谷は、野付村の一つとして下総国五牧の内、大結(おおい)馬牧に属し、地区内には官馬の往還の便として上古から「かしま道」(現在の木下街道)が通じ、野中の要衝として人馬が行き交うところであった、という。「野付村」とは、「牧場の管理と牛馬の世話等に役務する村」のこと。

 このようなこの村の性格・役割は、江戸時代を通じてもほぼ共通するものがあったと思われます。

 石畳の参道が一直線に社殿の方へと向かっています。参道には石鳥居がいくつかあり、参道両側には古い狛犬や石灯籠が並んでいます。境内で関心を惹いたのは、「浅間神社」「北口登山 大願成就」と刻まれた石碑がいくつかあったこと。これは富士講関係のものであることは間違いない。ということはこの鎌ヶ谷宿にも富士講があったということであり、ここから富士登山に出掛けた人々がいたということです。「北口」とはもちろん吉田口登山道のことだから、鎌ヶ谷→江戸→甲州街道→大月→冨士みち→吉田口→冨士山頂上というルートをたどったことになる。帰途は、須走口登山道→須走→足柄道→東海道→江の島→鎌倉→江戸→鎌ヶ谷というルート(あるいは、→足柄道→大山街道→大山→江の島→東海道→江戸→鎌ヶ谷といったルートも考えられる)をたどったのではないか。

 また「庚申道標」(鎌ヶ谷市有形文化財建造物)もありました。正面に「青面金剛王」、右側に「寛政七卯年」、左側に「十一月吉日」と陰刻文字で書かれています。台座左右に「それぞれ「東さくら道」「西こがね道」と書かれ、道標を兼ねていたという。もともとは小金佐倉道と、木下街道が交わる十字路(現在の大仏十字路)の塚の上に立てられていたものだとのこと。

 「寛政七年」は、西暦で言うと1795年のことだから、崋山一行が、鎌ヶ谷宿で夕飯を摂った後で、この十字路に差し掛かった時、当然目にしたものということになる。

 「忠魂碑」もあり、「鎌ヶ谷地区戦没者名簿」が「戦病死年月日順」に、上下二段にわたってびっしりと刻まれていました。

 戻る途中、参道右手に「庚申塔」がずらりと並んでいましたが、案内板によると、これを「百庚申(ひゃこうしん)」というようです(鎌ヶ谷市有形文化財建造物)。「百庚申」は、天保12年(1841年)11月から13年(1842年)3月にかけて建てられたもので、青面金剛像を彫った刻像塔10基と、「庚申塔」と文字を彫った文字塔90基で構成されているとのこと。江戸後期におこり、数量によって多くの功徳を願う数量信仰の影響を受けて生まれたもので、下総地方を中心に流行したのだという。

 やや苔むした古い石鳥居には、「享和三 癸亥歳」と刻まれていました。これは西暦で言えば1803年。崋山一行がこの社前の木下街道を歩いて行った文政8年(1825年)よりも前のものということになります。石灯籠にも「享和三 癸亥歳」と刻まれていました。

 その鎌ヶ谷八幡神社の社域を出て、新京成電鉄の「鎌ヶ谷大仏駅」から、松戸→常磐線→上野→中央線経由で帰途に就きました。



○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター) 


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