鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

江戸博の企画展「横山松三郎」について その5

2011-03-11 06:13:08 | Weblog
蜷川式胤(にながわのりたね)や写真師横山松三郎らが、旧江戸城の撮影を行ったのは明治4年(1871年)3月9日を含む数日のこと。この「3月9日」は旧暦だから新暦に直すと「4月28日」となり、もう初夏に近い時期。蜷川式胤と思われる人物が、洋傘を日傘のようにさしているの、この時期的なことを考えれば納得できます。当時、蜷川は36歳。松三郎は33歳。撮影に関わった一行の人数は、蜷川や横山を含め20名弱(警備の者も含む)。一行の撮影コースは、岡部昌幸さんによると、本丸天守台→二の丸→本丸→西丸→内曲輪→外曲輪ということになる。本丸・二の丸およびその周辺が35枚、西丸およびその周辺が3枚、内曲輪の見附付近が17枚、外曲輪の見附付近が9枚、計64枚(『旧江戸城写真帖』に納められたもの)。そのうち、本丸御殿跡から中雀門などを写した写真(コロディオン湿板)のネガに「明治四年三月九日 横山松三郎写之」と墨書されており、この旧江戸城の撮影日が「三月九日」を含むものであることがわかる。岡部さんの推測した撮影ルートから考えると、本丸や二の丸などを含む写真を撮影したのは「三月九日」か、あるいはそれ以後のことと思われる。撮影した写真機は、「外桜田門・桜田堀」を写した写真の真ん中に写しこまれています。写真機は複数使ったことが、この写真からわかります。東京国立博物館所蔵の『旧江戸城写真帖』全64枚には蜷川式胤によって、ところどころに建物や場所の記載がされているという。ということは『写真で見る江戸東京』の「第一部 江戸城残影」の写真は、東京国立博物館所蔵のものということになり、写真の書き込みは蜷川式胤によるものということになる。この書き込みから江戸城のどこを写した写真なのかがわかるのですが、もっと詳しくは、蜷川が明治11年(1878年)に刊行した『観古図説 城郭之部』(73枚の写真が収録されている)からわかり、撮影地点については『横山松三郎』(企画展示カタログ)のP26~27からわかります。 . . . 本文を読む