鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.2月取材旅行「行徳~八幡~鎌ヶ谷」その最終回

2011-03-01 05:35:26 | Weblog
崋山は旅先において、機会があれば気さくに人々に声を掛け、積極的に情報を摂取しています。相手は老爺である場合もあれば、子どもである場合もある。彼は出会った人々から耳にしたことで印象に残ったことを、簡単にメモをし、日記に書きつけたりする。しかし人々と話したことで、記さなかったことも多かったと思われる。この「四州真景」の旅では、まず、本行徳の「大坂屋」で昼食を摂った時から、一人の人物と出会っている。その人物とは、白井宿までの木下(きおろし)街道で後になったり先になったりしていて、そしてなんとその日の夜に泊まった白井宿の旅籠「藤屋八右衛門」方では、偶然にも部屋が隣同士でした。「大坂屋」で初めて出会った時から話を交わしているかどうかはわからないし、また白井宿までの道中で、話を交わしているかどうかもわからない。しかし本行徳の「大坂屋」で見かけた時から、崋山にとっては気になる旅人の一人であったものと思われます。崋山は、この旅人が、九十九里浜の漁村椎名内(しいなうち)村の名主弥右衛門であることを本人から聞きだし、またおそらく白井宿の旅籠「藤屋」の部屋において、弥右衛門から、当時九十九里浜において活況を呈していた鰯漁のことについて詳しく聞き出しています。かなり詳しく聞き出していると思われますが、崋山は「八手網」や「サデ」(すくい網)について簡単にメモしているばかり。広大な鎌ヶ谷原という馬の放牧場の中を延びる木下街道を歩いた時も、崋山は出会った人々に気さくに声を掛け、牧場のことや新田開発のことなどについて情報収集をしているのではないか。「釜谷原放牧」に描かれた親子らしき二人は、崋山一行が鎌ヶ谷原で出会った地元の人であり、崋山がこの牧場のことについていろいろ尋ねたのは、菅笠をかぶり杖をつき、白い法被をひっかけた父親の方ではなかったか、とさえ思われてきます。崋山の父定通は前年(文政7年)の8月に亡くなってます。木下街道の鎌ヶ谷原で二人に出会った時、崋山は、存命だった時の父定通と子どもであった時の自分を想起したのではないか。草を食む馬があちこちに見られる広大な牧場の中を通過する時にたまたま出会ったこの二人に、崋山は気さくに声を掛けて、その牧場のことについて尋ねたものとしよう。杖を手にした男(父親)は、いったいどういう内容のことを答えたか。そういったことが気になってきました。 . . . 本文を読む