ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

再び・・牡丹の寺へ

2014-04-29 14:10:03 | 美観・芸術

                                  ようやく・八割の牡丹が開花しました・・・

                     

                     

                                        

                                        ↑ クイックすると拡大します

 

                                      藤棚の藤も咲き出しました

                     

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                                            蕪村の画

                                   蕪村論・・的な一文

                               ○牡丹散て うちかさなりぬ ニ三片

                    蕪村論なんて、そんな”恐れ多い”ことを、もとから書くつもりはないが、
                          句を読んでいると極めて特徴的なことに気付く。
                  切り取った絵画的な空間の中に、いとも簡単に、時間を表現しているようだ。
                        簡単と見えるのは、実はそうでもないのかも知れない。
                            それにしても、牡丹が題材の句は多い。


                             ○牡丹散てうちかさなりぬニ三片
                             ○閻王の口や牡丹を吐んとす
                             ○山中の相雪中のぼたん哉
                             ○虹を吐てひらかんとする牡丹かな

                


                   代表作○牡丹散てうちかさなりぬニ三片 は、読み方に異説があることを知る。
        ・・散てを・・散って、と読むか、散りて、と読むか・・は蕪村が知人に宛てた手紙で、散りて、であることが顕かにされている。
                   ニ三片を・・ふたみひらと読むか、にさんぺん、と読むかも、議論のあるところ。
                          ここは、自然の流れで、にさんぺん、を支持したい。
        この句の要は、”ぬ”の完了形がきいていて、牡丹の絵画的なるものが、時の流れを醸しだし、三次元的になっているのだろう。
                            ”うちかさなりぬ”は、すごい、と思う。

                     さらに、絵画的空間は次の様に時間を共有する。


                            ○菜の花や月は東に日は西に
                            ○歩き歩き物おもふ春のゆくへかな
                            ○春の海終日のたりのたり哉


                  菜の花畑は、恐らく広大な菜の花で埋め尽くされた畑だろうし、
           歩き歩きの字余りは、それはそれで悠長な時の流れだろうし、 蕪村は”字余り”をよく使う。
                他の句は説明を必要としない、 ゆっくりとした時の流れを感じさせる。
                          
                  ○春の海終日のたりのたり哉 は丹後の天橋立近くで作られたらしいが、
                     この地方は"与謝”と呼ばれ、のちに蕪村の号になった、という。


                蕪村は、画家としては有名であったが、俳人としての評価は、後のことである。
           絵画的で光に満ちた俳句を数多く書き残し、鮮明なイメージを言葉で喚起することに成功した。
                    蕪村の発句は芭蕉と異なり、思想性が表面に出ることはない。
       しかしその言葉遣いは他に例を見ないほど洗練されており、彼は穏やかな情景をわずかに描写するだけで、
              景色の背後に広がる永遠の時間を感じさせるという、天才的な言語感覚を発揮した。

                後世に、蕪村の評価を定着させた人・・正岡子規、萩原朔太郎、安東次男。

                 

                                        蕪村の蟹の画

                        参考:子規の蕪村論 正岡子規 俳人蕪村 - 青空文庫

                                  クイックすると子規の「蕪村論」へ飛びます


植木の郷の散歩道・・・

2014-04-28 01:01:16 | 日記

 

                                      ○ 近づけば おおでまりの白 まぶしくて  ・・某                          

                          

                                 植木の郷の小径は、ところどころに、花が咲いている・・

                          

                                               芝桜の誘われて・・・

                          

                                              植木農家の長屋門・・・

                          

                                            庭なのか、それとも植木の苗場・・・

                          

                                            竹林に、竹の子が、頭を出して・・・

                          

                                    四月の日の光が、辺りに充ちて、ときに影を作り・・

                                         和らいだ風が、木の葉をゆらす

                                         この付近の散策は、心を癒す・・・

                                            My Favorite Things !

                              マイ・フェイバリット・シングス- ジョン・コルトレーン - YouTube

                                         ↑   クイックするとソプラノサックスが聞こえてきます


物見山・つつじ祭り

2014-04-26 18:24:35 | 写真と詩歌

                                                       物見山・つつじ祭り

                                  再度の 訪問です。 4月26日より・つつじ祭り

               

                                  ○ 盛りなる 花曼荼羅の 躑躅かな  ・・虚子

                       

                                     ↓  小さな写真は、クイックで拡大します

                                 

                                   ○ 百両の 石にも負けぬ つつじ哉  ・・一茶

                

                

                                 ○ 馬は食み 鹿は喰わねど 躑躅かな  ・・庄

                                         つつじが咲くと、もうすぐ夏・・・

 


庚申信仰 ・・第二話 秀吉

2014-04-25 01:31:50 | 歴史

庚申信仰 ・・第二話 秀吉

庚申信仰は、三尸説に基づいて、人間の胎内に、生まれながらにいる三匹の悪い虫が、人間の睡眠中に体外に出て悪戯をする・・という信仰で、その悪戯で寿命が縮まるという伝えられ、庚申の日には、宴会をやって眠らないようにするとか、三尸の虫は、青面金剛を怖がって出てこないとか、明治時代まで本気で信じられていた信仰で、今では嘘のような話だが・・・先述の青面金剛像や庚申信仰の話・・・

                  ・・青面金剛像

続きは、・・・秀吉の話です。

青面金剛の使いは猿で、これは庚申の”申”は”さる”と言うところから、猿田彦神社も庚申信仰の対象とされたようです。
日吉山王神社も、御神体は”猿田彦神で、庚申信仰の対象でした。

      川越日枝神社(猿田彦)

         ・・日吉山王神社・滋賀・・転用

織田家家臣時代、秀吉は、信長から”猿”と呼ばれていた話は有名です。顔が、猿に似ていたという身体的特徴から、と思っていましたが、そればかりでは無いのではないか、という着想が、彼の幼年の名前から浮かびました。
まず、秀吉の幼年の名前の日吉丸が、なぜ付けられたのか。猿の神様に日吉山王神社があります。日吉神社は日枝神社とほぼ同じです。単独で山王神社もあります。

『絵本太閤記』によれば、豊臣秀吉の母が男子を授かるよう日吉神に願ったところ、懐中に太陽が入る夢を見て秀吉を身ごもったとあり、秀吉がサルとあだ名されたことは近江の日吉信仰や猿神信仰に関係しているとの説もあります。
この話のもとは・・釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、蒼頡は実は釈迦の前世であり、釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉大社に集まったことが記述されている。これはたぶん創作と思われますが、先に信仰があってのこじつけと思われますが、日吉神社に猿と縁があることは確かなようです。
嘘か誠か、秀吉も庚申日生まれ、とされています。

・・*蒼頡(そうけつ)・中国・黄帝の官吏で漢字の言語を整理した人。伝説上の人物とも言われる。一部に漢字を作った人の説もあるが、あの膨大な漢字が、一人で作り得るのかは、物理的に不可能のため、整理・取捨選択して、中国の文字として普遍化に最大限貢献した人物と見た方が説明が付く。

戦国大名の代表格の織田信長が、庚申の日に、家臣と”眠らずの宴会”を開いていたことといい、日吉丸こと秀吉の出生に纏わる話、家康の日光東照宮や秩父神社の三猿の彫刻等々、戦国武将の庚申信仰の保護を含めて、本気で信じていた痕跡が、今でも多く残っているところを見ると、これは侮れないと感じます。

             ・・信長、秀吉、家康・・転用

    ・・三猿(東照宮)

たまたま、仏教と習合し、あるいは神社と習合しますが、どうも神社仏閣と異質で、輸入されたものといえ、日本的なものを内蔵して、それを祖先らが、すべからく信仰していたとなると、青面金剛像を改めて見直してしまいます。


雪壁の回廊

2014-04-23 19:33:29 | 日記

                  あるプログを見ていたら、日本ロマンチック街道と草津が出ていた。そして、もうすぐゴールデンウィークである。

                             ・・・・・ その頃・・強烈な印象の風景がある。それを思い出した。
                   幼少を山国で育った自分が、始めて”海”を見た時の、あの衝撃の、感動を伴った、あの感じである・・・。
                                    あの時は、確か蒲郡の海だったと記憶する。
             草津まで、日本ロマンチック街道に含まれるみたいだが、草津から志賀高原を通り中野まで抜けるルートを”志賀・草津林道という。
                                   最近は林道の名称が外れたのかも知れない。
               映画で「私をスキーに連れて行って」が人気で、同名の”ユーミン"の歌が流行った頃、この道路は”ロケ地"になったという。
                                         謂わば”ツアースキーのメッカ”。


                        

                             草津から渋峠の手前あたりだったと思うが、”雪壁の回廊”はあった。
         このルートは、雪が積もっていなくても絶景で、白根山辺りから毒性ガスが発生し、硫黄の臭いが充満して、その為か木立が余りない。
                      目線には、遮る障壁がほぼ無く、目に入るのは青い空と稜線と、眼下に山を見るのみである。
                           この様な山岳ルートを”スカイライン"というのか、とかってに定義している。
                 それが、”雪壁の回廊”の時期は、両脇の雪壁の”白”と行く先の回廊の上の”青"さ・・・これは感動ものである。
                            今期は、雪が多かったので、雪の壁も相当高いのではないかとも思う。
                       このルートは冬期通行止めになっているが、例年ゴールデンウィーク前に開通している筈。
             この様な雪壁の回廊は、立山のアルペンルートや金精峠付近でもあるらしいが、アルペンルートは規模が大きいが、少し遠い。
                       金精道路は、雪壁の厚さが薄いそうで、ドライブの経験はあるがこの季節はよく知らない。
                               無性に行きたくなっているが、車を使う用事があり、どうなるか・・・


牡丹の寺  ・・総持院

2014-04-22 10:38:56 | 写真と詩歌

                     牡丹の寺・総持院


             牡丹園に咲く、つぼみも多い・・・・

              まだ季節に早いのか、疎ら・・・・    

                ------------------

                総持院 別名牡丹寺
                住所:さいたま市緑区南部領辻2944
                宗派:真言宗智山派、山号: 阿日山宝袋寺

                ------------------

 

                

                

                 これは、シャクナゲ!?

                

                                    ・・山門は、鐘楼門 鐘が見えます・

 

                                ○風月の 財も離よ 深見艸   ・・芭蕉

                 この場合の”財”は、財産ではなく、才能や才覚のことと読めるが、世渡りの才覚としたい。
                       ”艸”は草のことだが、山に似ているところから、さしずめ山草のことか。
                            そういえば、牡丹は、薬草とも聞いたことがあるが、・・・

                          この句を詠むと、つい思うのは、小笠原長棟と中島明延。
             長棟は、武田信玄と対峙した時、さっさと嫡子長時に家督を譲り、寺に隠棲して、白牡丹を育てたという。
        長棟の重臣、中島明延も、時を遅らせて、武士を止めて小笠原家を去り、京都で、将軍や公家らと”茶”を楽しんだという。
                              ・・・京都呉服屋の豪商・茶屋四郎次郎家の祖。
                    二人とも、風流の道を選んだというが、本音は信玄が怖かったのではないか、と・・・ 
         長棟が、育てた白牡丹は、子の長時が府中(=松本)を去る時、武田に荒らされるのを恐れて、ある寺に隠したという。

                          今は松本城に戻っているというが、もう咲いているのだろうか。

 


枝垂れ桜 散る頃

2014-04-21 00:28:27 | 写真と詩歌

                                  枝垂れ桜 散る頃 ・・・                       


○喜多院に 羅漢ら酒呑みて さくらふる     ・・庄


ちなみに、白い斑点は桜の花びらではありません。
鳥のふんでもなく、古い碑石や墓跡などに付く、苔ではないか
と、違うブログに載っていました。


庚申塔の記

2014-04-20 20:32:33 | 歴史

                                   庚申塔の記 ・・青面金剛

                                        むかし、婆様に
          「人間は生まれながらに胎内に、悪い虫が三匹おってナー、そいつが寝てる時に体から抜け出して、悪さをすることがあるンジャ」 
                                     ・・・と聞いたことがある。

                       高遠・藤沢の庚申塔 青面金剛像

最近では、総持院に桐の花を見に行った時、境内で、青面金剛像を見かけた。また、時々田舎道を歩いていると、文字だけの”庚申塔”や”明王を彫った青面金剛像を見かけることがある。数年前、信州高遠の藤沢と言うところを歩いていた時、道のところどころに、凝った彫りの庚申塔や石に文字だけを粗く彫っただけの、すさまじい数の庚申塔を見かけたことがある。その時は、”さすが、石工の街”という感想であったが、考えてみると、かって民衆に深く土着した信仰であった様な気がする。この「庚申信仰」とは、一体どんなものなのか・・興味が湧く。

                         

                                
・・・
現在に伝わる庚申信仰とは、中国道教の説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である・・三尸とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫ともいう。・・さらに、上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。・・これでは、何のことか分からない。

                     総持院・青面金剛像
                                                更に調べると・・・
庚申信仰の行為は、六十日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずに過ごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。・・庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。

                                     大興寺

                          以上を、婆様の言葉と重ねて照らし合わせると、少しだけ理解出来るようになった。

『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣二十余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともあるという。・・ 宗教を信じないような振る舞いの信長が、庚申信仰は信じていた・・と。
『入唐求法巡礼行』承和五年(838)11月26日の条に・・〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである、とあります。

                                 高遠藤沢の青面金剛像

                                            歴史の流れを見て見ると・・・
庚申待が一般に広まったのがいつ頃か・・、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついたようです。仏教と結びついた信仰では、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。
また「日吉山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申塔」や「碑」には、「申待」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化しているようです。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。・・仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。
しかし、大正時代以降は急速にその信仰が失われた。

                                    大興寺

庚申塔の中の、青面金剛は、日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。・・インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。

                            遊馬・高城寺

庚申の申は、かのえさる・・猿に通じ、庚申信仰は”猿”が庚申の使いとされ、庚申塔には猿が描かれるようになり、三猿を見かけるようになった。また、猿は猿田彦の神道にも通じて、猿田彦を祀る神社も、庚申信仰の対象になった。           ・・ それにしても、神仏習合は、道教も習合していたのか!


つつじ・・咲き始め  in 物見山&巌殿

2014-04-16 14:27:10 | 名勝

                           つつじ・・咲き始め  in 物見山&巌殿

                   

                   

                   

                               つつじ咲く小径 そしてつつじトンネル・・・

                   

                   

                   

                   

 

                                      つつじの花を、フォ-カス        

             

                      

                     

                     いつの間にか・・巌殿・物見山は、”つつじ”の名所になっています

                       見頃の時期は、ゴ-ルデンウィークのころ・・かと思います

                       山の北面?を覆い尽くすつつじの群生は、それは華やか!

                 見下ろせば、古刹・巌殿観音の正法寺が・・・しかし見えません・・樹木が隠しています

                                    ・・・・・・・・・・・

                                     そして・・・

                                    巌殿へ参詣・・・

              

                          山門の仁王像

 

                            本堂の左手に、祠がありました。そして、石灯籠・・

            本堂 左の祠・・・

           ↑クイックで拡大   権現と弁天 ・・神が仏に姿を変えて現世に出現・・ 神仏習合 日本の宗教は分かりません・・

          石灯籠 ・・・正徳二辰年十月十日 信州松本城主 従五位下出羽守○○○○ 下の方が読めません 

          ↑クイックで拡大                   調べると、正徳年間の松本城主は、水野忠直と判明しました。

                       でも、なぜ松本城主の水野忠直が、この寺に石灯籠を寄進したのか、意味がわかりません。
                  この地も、この付近も、大名水野家が所領した事実はありません。水野家は、家康の母・於大の方の生家の系譜。
                          忠直は、幕府の命令で、江戸近郊の治水の事業をおこなったことがあるようです。

                                        想像を逞しくすれば・・・巌殿の山が崩れて、その修理に携わったとか?

                              そこがこの付近かも知れませんが・・それ以上は、深くは調べません


八重桜の咲く頃・・

2014-04-14 18:33:52 | 写真と詩歌

 

                                         八重桜・・満開

                      

                       小円内は桜の花びら クイックで拡大

                        

                  

                       円形トリミングは、PhotoScapeで加工、先輩にソフトの存在を教わりました。

         ・・・・・・・・・・

                古き友人の、facebookから転載・・ 時々安否確認で見ています。  季節の花に、添え書きがありました

                          

                                    春三月縊り残され花に舞う

                   東京は三月だが、北陸は四月ですね。^_^;通勤路の川岸も今や満開です ・・ H.M.

                        ・・・通勤途中の浅野川の沿岸に咲くソメイヨシノのようです。

                       でも句が・・・確か大杉栄の・・・似合わないような気がしますが・・・

                               多少・・なにかあったのかと気になります・・

 

 

                               

                        ハナミズキがほころびそう。気持ちが季節に追いつくのは容易ではない。

                                   一つづつ花の夜明けの花水木

                                       という句があります。・・・ N.I.

 

                      ・・・気持ちの整理が付いてきたのでしょう・・・でも完全にというのでもない・・・

                      一つづつの夜明け・・・彼の気持ちの代弁。 さて、ぼつぼつなにか書いてみたら・・・