ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

第三章 簸王子社と荒脛神社

2020-07-16 13:49:30 | 時事ニュース

承前啓後  簸王子社と荒脛神社


「承前」と書いてみて、ハタと思いとどまった・・「承前啓後」のほうが、意味が似つかわしいのではないか・?と・

今回も、かなりマニアックな「神社」の由来に関するもの・・こういう歴史に関するものは、興味のない人は冗長である。「ロマン」を感じる人だけを対象としたい。「ロマン」を感じない人は、飛ばしてください。


前回、「”武蔵一之宮:大宮氷川神社”は、創設当初は「二社」であった。」と書いた続きである。この思わせぶりの「書き様」は、後にも、氷川神社の存在を暗示している。
第三の氷川神社は、「簸王子社」と呼ばれたり、「中氷川神社」と呼ばれたり、「中山神社」と呼ばれたりしている。
由来---・「中氷川」の由来は、氷川神社と氷川女体神社の中間に位置することから付けられたという。社伝では、鎮火祭(後述)の火により「中氷川」の氷が溶け、「中川」の地名になったとされる・---
 
◆:中山神社:アラバハギ神社

祭神は、大己貴命 (大国主の別名)で、氷川女体神社の祭神:奇稲田姫の子とされる。脇に建つ「荒脛神社」は、その由来の因を示すといわれているが、謎が多い。
じつは、「アラバハギ神社」は、武蔵一之宮:大宮:氷川神社(男体神社)にもあるのだが・どういう訳か、神社の名前が違うのだ。
 
◆:「門客人神社」(アラバハギ神社):大宮氷川神社

かっては、「アラバハギ」神社と呼ばれていたのだが、今は「門客人神社」という訳の分からない名前になっている。「アラバハギ」も分からなければ、「門客人」も分からない・神社名。ちなみに、「門客人」は「マロウド」と読ませるらしい。
二社が出発点であった「氷川神社」は、明治中期と後期の「神社合祀」により整理されるにいたる。その時、武蔵一之宮:大宮氷川神社は、先述の「四社」の併合により成立したものとされているが、定説では、「アラバハギ」神社を除いたものが正論いう説もある。
この流れは、県社、郷社、村社という括りでその範囲を鎮護:あるいは鎮守するという意味合いが付与されている。従って、併合の社(神社)は、摂社と末社ということになり、時を重ねて併合を重ねていったらしい。ただ、氏神としての屋敷神としての神社は、併合の流れからは外れていたようで、「おしめん様」などの俗称の「神明神社(=伊勢神宮系)」はほとんど併合されていない。


違う角度から眺めてみよう。


先述の「四社」の神官家を調べてみると、江戸時代以前には、氷川神社は、男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、幕府から、1699年(元禄12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。


*1:---・この岩井家だが、神社では、祭祀のことを「祝」、呼称は「ほうり」とよぶ。つまり「読み」は「ほうり」だが、「書き」は「祝」であり、書いた「祝」を「いわい」と読むに至り、「岩井」となったのではないか・---と思っていて、勝手にかなり信じているのだが、古書の裏付けがほとんどないので、私見です。


*2:大宮氷川神社が、神社としての体裁を整えてきたのは、江戸時代初期で、関東郡代:伊奈忠次が命じられて「中山道」を整備したころに始まる。---・文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として氷川神社:男体社の社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった・---。

中山道が整備される江戸時代以前に、大宮氷川神社:男体社に関する記述は、かなり乏しい。
江戸時代以前、古書に登場するのは、ほぼ三室の「女体社」:氷川神社である。その事実から察するのは、有名かつ、信仰を集めていたのは、どうやら三室の方でありそうであるが、これも古書から散見する類推の域を出ないので、私見としておく。


さて、四番目の神社は、「荒脛巾神社(=アラバハギ:神社)」であり、この社の神官は「氷川家」である。この氷川家は戦国期には、潮田家の家臣であった。


多少なじみが薄かろう潮田家のことを、概説だけ述べていおくと、岩槻の太田道灌に系流する「別家筋」で、太田家の有力武将である。地領は、今の大宮周辺で、寿能城(寿能町:氷川神社のある高島町となり)が居城で、太田道灌は、説明を必要としないまで有名な武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であった。どうも、かっては、氷川氏が神官である「荒脛巾神社」の社叢が、そのまま「氷川の森」で、氷川神社の敷地になった可能性が強い。ほとんどが状況証拠なので、このことも私見とする。


なお、岩槻:太田家は、三室の女体社:氷川神社を保護・後援していた事実が書に残る。江戸時代以前までは、三室:氷川神社の方が信仰を多く集めていたらしい」の傍証である。


*3:三室:氷川神社の角井家(後に東角井家を称する)は、「武蔵武芝」一族であるという有力な説が存在する。この武芝は、『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説で、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。また、「平将門の乱」では、--・武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている・---  その後の武芝の消息は不明である」のは、平将門が、朝廷に敵対したため、同盟を組んでいた「武芝」は、「武笠」と名前を変えて隠棲して生き延びて、今日に至るという説が根強く残り、武笠の末裔が明治になって、文部省の役人になり、唱歌:「案山子」を作ったとされる。


 

参考:みむろ物語 ・・・武蔵武芝のこと

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621
(https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621)

さて、本筋に戻ります。
荒脛巾神社の--・氷川内記が神職であったときに、神祀伯吉田家へとどけ出て、門客人社と改号し、テナヅチ、アシナヅチの二座を配社した」とあります。大宮氷川神社にある「門客人」神社は、もともとは「アラバハギ」神社と呼ばれたのだ。


哀悼! 鶴見俊輔

2015-07-28 17:36:23 | 時事ニュース

哀悼! 鶴見俊輔

 I mourn over Death of Shunsuke Tsurumi.

鶴見俊輔が亡くなりました。死因は肺炎、死亡日は7月20日、93歳だったそうです。
哲学者だったそうですが、物知りの、頭の柔軟な視野の広い、平和主義者の、となりのおっさんという感じでした。
直接、学ばせて貰ったわけではありませんが、かってに「門下生」を自認していました。

鶴見俊輔が亡くなったと聞いた日、書棚を眺めたら彼の本は数冊しかありません。それでも「門下生」を自認しているのは、「思想の科学」という雑誌を待ちわびて、むさぼり読んだ記憶からです。
「あしたのジョー」に始まる漫画から、様々な漫画にはまった学生時代、大人にも読める漫画が市民権を得ていったときの、考え方を教えて貰ったような気がします。
家具が、精緻を極めていったとき、実用の極地が”芸術”だと教えてくれたような気がします。これは、鶴見さんの仲間である、”柳宗悦”が、民芸家具を絶賛したのと共同歩調だったように後で聞きました。
在野のポスター屋とか大正の浮世絵師とか言われた竹久夢二を、いち早く芸術と認めて、世に広めようとしたのも、柳と鶴見であったように思います。
この境界線の芸術論は、”限界芸術”という形で発表され、僕らの感性にかなりの影響を与えたように思います。
そういった理性と感性と経験に立った所からの平和運動には、共感して、末席ながら参加していました。
贈る言葉に、なんという言葉が相応しいか考えましたが、ほかに思いつきませんので、次の言葉を使います。
・いろいろ教えて頂きありがとうございました。やすらかにお眠り下さい。・・・ べ・庄


謹賀新年

2015-01-01 00:35:17 | 時事ニュース

謹賀新年



新春・・ドライブ お奨め ・・・

未年 羊の牧場 それぞれ 高原牧場です

 


羊のこと

埼玉の東・・日高地方に高麗の郷というのがある。
そこに鎮座するのが高麗神社。むかし朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光を主祭神とする神社らしい。

この神社は、”出世明神”の別名がある。

境内に、掲示されている”芳名札”を見ると面白い。浜口雄幸や鳩山一郎などの名前がある。文学者としては、檀一雄や坂口安吾、太宰治の名前もある。最近では、小泉純一郎の名前もあったように記憶するが、記憶は不確か。手水場は、空手の大山倍達氏の奉納だったような気がする。


 ・・・・ 高麗王若光の読みは、”こまのこきしじゃっこう”、「王」を”こきし”と読む。
高麗王若光の霊廟は、高麗神社から歩いて約5分の、神社の並びの日和田山の山麓に建つ。その名は、聖天院・勝楽寺。高麗氏の菩提寺で、若光の三男とされる聖雲が建立した。
寺の雷門手前右側に、若光の墓とされる高麗王廟があり、本堂左側には若光の銅像がある。

 

 ・・・・ ここに、狛犬のように、”羊”が若光の墓を守るがごとく存在するのだ ・・

若光が渡来した年代は、社伝にはない。しかし『日本書紀』の天智天皇称制五年(666)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名が見つけられると言います。つづいて、『続日本紀』文武天皇大宝三年(703)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記載があり、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、帰るべき祖国を失い、さらに帰れば身の危険を察し、日本の留まったことは当然考えられ、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われる ・・・・高麗神社由来。

さて、羊のことだが、・・・・・
中国の古書・『逸周書』王会篇に、 ・・・・「西周初年。周の成王は洛邑(洛陽)を創建した後、諸侯を招いて大会を催した。この会議に参加した東北の高夷は、高句麗族の源流である」
「紀元前1046年、周武王が商を滅ぼすと、高夷氏は周朝の東方に居を置き、周朝の属国として高句麗と称した。後の東北の高句麗である」とある。さらに、『逸周書』王会弟五十九成周之会に、
・・「北方臺正東、高夷?羊、?羊者、羊而四角。獨鹿??、??善走者也。孤竹距虚。不令支玄・。不屠何青熊。東胡黄羆。山戎戎菽、其西般吾白虎文」
とある。意味不明の語彙の羅列 ・・・
冴えない頭は理解を拒絶しているので、解説を利用すると ・・・ (中国の)北方台地の東、高夷は高句麗の昔の名前もしくは別称で、?羊(けんよう=頬袋をもつ羊)、?羊とは四角い羊である。なにやら特産品のことを述べているようだが、この高夷に関して、隋書を編纂した唐代の学者「孔頻達」は、次のように注釈を記している。 ・・・ 北方台地の東の高夷氏とは東北夷の高句麗である。 ・・・ 高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り、東夷族の中原進入に従って、商時代には河南省北部に進入していった。やがて中原から東北地方に移住した高夷氏は、後に高句麗と名乗った、という。
要するに、読解不能な語彙もあるが、判読可能なところをつなぎ合わせると、高句麗は大陸東北部から朝鮮半島の大陸寄りまでの広範囲に活躍し、その生業は羊の遊牧であったようだ。その羊は四の角を有していたらしい。
羊飼いの遊牧民はユーラシア大陸を東へ西へ闊歩していた遊牧民と同質であった。
つまり羊に対する扱いと信仰は、ユーラシア大陸の他の遊牧民と類似していたことが類推され、食の糧であるとともに、生け贄の対象でもあり、死者への鎮魂の神でもあった、と考えてもあながち外れてはいないだろう。
古代仏教を、現地まで赴いて伝授された弘法大師の教えの中に、仏教の経典を読み解いて、「羊」「鎮魂の羊」「一代守本尊の羊」などがあるが、教義は直接的・教条的で、 日本では日常の生活の中で、羊とのなじみは薄かった。
しかし、弘法大師の書の中の引用に、高句麗の王族の陵墓に「鎮魂獣」として置かれた羊 と言う表現があるという。
「羊のいけにえ」については、キリスト教も、そのもとになったユダヤ教も、ゾロアスター教も、羊を信仰の儀式に使い、キリスト教はペルシャのゾロアスター教の影響が強いから、『新約聖書』は「羊」と言いつつ「世界の支配者」を示しているといわれている。

日本への伝来は相当早い時期になる。しかし羊の実物となると、日本には存在してないわけで ・・・・・。
したがって、鎮魂の羊は、とりあえず日本では古書の中だけの存在となる。やがて宗教に儀式が必要になり、海の向こうの珍獣や想像獣たちは形を整えて信仰の中に出現するようになる

「生け贄の羊」は、大陸から来た信仰儀礼の中で、鹿が代用されるようにもなる。
いまでも残る諏訪神社の古式儀礼の「鹿の贄」は、大陸からの、それも遊牧民からの伝承であろうと推測されている。神社の古式伝統行事には、ユーラシア大陸と似通うものが多いと訊く。
また各地に残る、羊や羊太夫伝承は、大陸系渡来人、高句麗や秦族の居住の地を指し示しているようにも思う。むかし語り継がれてきた意味は途切れ、もはや地名と碑だけが残る。

こうしてみてくると、干支の未は、古くに渡来人を先達として、昔の日本の知識人が習い覚えた鎮魂獣を、未消化のまま伝えたとする面がかなり強い。
そして今年、羊の年を迎えた。
願わくば ・・・・・”荒ぶる魂”を鎮める鎮魂の歳であって欲しいものだ。

 

気になるところ

・・・「高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り」

高夷(=高句麗の古名)が、白鳥を信仰の対象にしていたことが見えてきました。古事記や日本書紀の挿話や伝承を、なんでもかんでも渡来人に結びつけるのもいささか考えすぎのような気がしますが、それでも谷川健一の「白鳥伝説」との関係が頭に浮かびます。・・・日本武尊が遠征の旅に疲れて、故郷近くで病に伏せたとき、日本武尊にかわって、故郷へ向かって飛んでいったのが白鳥・・・だったように記憶しています。つまり、白鳥は、日本武尊であるわけで、この伝説の根底には、渡来人の信仰が存在するように思えてなりません。・・・この白鳥伝説が、日本武尊の伝承にでてくるのは、かなり唐突感があり、違和感を覚えていたので気になりました。

 

 


 


浦和レッズ 2位 決定

2014-12-06 23:59:47 | 時事ニュース

it’s a pity!

2位 決定

SAITAMA URAWA

RED DIAMONDS

 

今宵は、酒場で、残念会 !!

それにしても、G大阪は、降格の危機から、あれよあれよ!と勝ち続け、優勝。

見事 天晴れ !

 


リニア新幹線・「玉砕国家日本はどこへ行く」

2014-11-03 18:33:51 | 時事ニュース

リニア新幹線・「玉砕国家日本はどこへ行く」

先日フェースブックに、
「玉砕国家日本はどこへ行く」と題するリニア新幹線批判が掲載されていた。

参照:全国民が見るべき動画。リニア新幹線のバカさ加減が ... - Blogos


この「アニメ動画」を検証します。

ここには、「リニア新幹線」への懸念と批判が凝縮されていて興味深い。
しかし、その内容は、いくつかの賛同の部分と多くの納得出来ない部分が含まれている。論理的でない、科学的でない飛躍や短略は、最初に”反対ありき”の結論からの醜悪なプロパガンダに成り下がるのかも知れない。

①:最初に画面 ・・・”ライチョウ”、”クマタカ”、”生態系破壊”と出る。
 ・・・ 確かに赤石山脈(南アルプス)にトンネルを掘って、”リニア新幹線”を走らせようとする計画。懸念されるのは、むしろ山麓に住む猪、鹿、猿や山麓の草木の方らしい。山脈の山頂付近の、”ライチョウ”への影響は、ほぼ無いと見られるが、森林破壊で、”クマタカ”への影響は、懸念される。しかし、まだ未知の部分も多いので断定はできない。 ・・・これを巻頭の掲げるのは、”意図”を感じる。
②動画に移ると、漫画的説明に移って、突然”猫”が出てきて、”リニア新幹線”なる無謀な計画は、中止させなければならぬ」と宣言する。 ・・・無謀であるなら止めさせなければならない。
③無謀の理由は、電力消費が3倍で、スピード(対東海道新幹線)が2倍。 ・・・エネルギー効率が悪い。
④ここで、猫は、原子力発電の再稼働容認と関連していると説く。 ・・・本当だろうか。 ・・・調べて見たが、JR東海は、だから原発は必要だ、というような声明は一切出していない。これは民間の事業だが、政府からの電力必要量の懸念も発表されていない。尤も、リニアの計画は、原発事故が起こる相当前であり、その頃は総電力量の中に、原発電力も含まれていたのも確かだろう。話の順序は、リニアが先で、原発事故があり、リニアが具体化してくる時、電力が足りるかどうか、という話である。無理矢理、原発必要論と結びつけるのは、飛躍・短略であるようだ。
⑤JR東海の考え方 ・・・電力の安定供給のために、原発は必要。 ・・・まあ、電車は電気の動くのだから、電力の安定供給は必要でしょう。夜、灯りが必要なのも、TV・パソコンを動かすのも、電車に乗るのも、電力は必要なことは大前提で、その上で電力を作り出すのに、”危険な原発が必要”かどうかは、意見が分かれるところ ・・・筆者は”原発”に反対である。しかし、ウランやプルトヌムなどは、発電しようとしまいと、所持していること自体が危険であり、発電とは基本的に関係が無い。
⑥「原発がなければリニア新幹線は成立しない」 ・・・これは論理矛盾である。電気がなければ、電車が走らない、ということである。 ・・・これは意図的なすり替えである。
⑦電磁波の健康被害 ・・・基準値を下回っても危険だというと ・・・何を信じたらいいのだろう。防御壁を作っても心配だ、というのなら、危険を伴う”新しいこと”への挑戦が不可能になる。
⑧トンネルが多く、中央構造線の下をほって、リニアを通す計画。 ・・・確かに未知な部分が多く、予知できない危険があるかも知れないのは事実。 ・・・ただ、ルートが地震多発地帯だというのは聞いたことがない。どこからの資料であろうか。
⑨環境面。大井川の水量の減少は事実であろう。
⑩環境面。動植物への影響。①の内容。
⑪環境面。トンネルの残土。関連自治体に”処理”を依頼した。
⑫採算性。経済性ついては、全く正反対に、利便性は経済を活性化させると思います。延長の名古屋-大阪は、余り経済の活性化をもたらさないように思いますが。また、途中駅での経済効果も、地元の取り組み如何でしょうけれど、大きく貢献するようには思えません。時間の短縮は、思わぬアクセスルートの変革がありそうですが。

総じて、このアニメ動画は、かなり”粗雑”だが、リニア新幹線の解決しなければならない問題はありそうだ。
東京-名古屋間40分は夢である。時間短縮の運行時間は、利便性の向上である。交通機関の交通網は、この前提に立って改良されて現在に到っている。これが歴史的な現実である。

これは、「リニア新幹線」を偏見しての、”ヘイトスピーチ”まがい。先に結論ありき。


富士山 ・初冠雪

2014-10-17 02:11:10 | 時事ニュース

 嵐が過ぎると、急に肌寒くなった。 暖房が恋しくもなった。

時折台風が過ぎると、前と違った季節が出現する。落ち行く秋 ・・・


富士山 ・初冠雪 ・・・10月16日

毎日新聞より、転載


 ・・・ 里は秋だが、山は冬 ・・・ 御嶽山の「行方不明者」の捜査は打ち切り ・・・
複雑な心境である ・・・

富士山の初冠雪は、例年より16日遅く、去年より3日早いのだそうです。


御嶽山噴火

2014-10-03 01:08:04 | 時事ニュース

御嶽山噴火

 

 

9月27日(土)、正午少し前 ・・・長野県と岐阜県に跨がる「御嶽山」が噴火した。ニュース画面より転用 ・・

御嶽山の噴火を伝える「信濃毎日新聞」号外


「御嶽山」は、木曽の”おんたけさん”と呼ばれ、3067mは、日本で十四番目の高山である。高さは十四番目であるが、木曽山脈にも飛騨山脈にも属さない、独立峰である。
この山は霊山として名高く、近年までは、修験者以外の入山を拒み続けた山で、火山としての登録はあるものの、火山としての活動や災害の悲劇を余り聞いたことがない。
生を、木曽山脈の反対側で受け、御嶽山の"歌”や"言い伝え”や"禁制”を聴きながら育ったものとして、入山者・登山者の多さに驚きを感じている。
10月2日、御嶽山噴火での入山者の死亡確認は47人に達したと報道されている。

この、「御嶽山」に対する思いは、愛知県、岐阜県、長野県の人達他と、それ以外の人達では、温度差の違いを感じる。
「御嶽山」に対する”思い入れ”の温度差の違いを、独断と偏見と思い込みがあることを恐れずに、自分の考えを書いてみたいと思います。

木曽川は、濃尾平野を貫流する。

木曽川


美濃と尾張、岐阜県と愛知県である。木曽川は、濃尾平野の”母なる川”である。古代より、木曽川は、広大な濃尾平野の水田にとって恵みの川であり、その源流に、御嶽山はあった。自然と、木曽川と御嶽山に敬慕の念が生まれ、それが信仰に変わっていった。
川とその上流に位置する源泉の山が、信仰の対象になるのは、日本では希なことではない。江戸時代に、荒川上流の秩父へ、とりわけ三峰山へ、江戸の市民は、参詣に、足繁く通ったという。山岳の奧に鎮座する神社の奥の院は、ほぼ例外なく、川の源流に位置する。

木曽川の源流、御嶽山には、「御嶽神社」が鎮座する。
 ・・・ 同じ御嶽神社の字で、「みたけ」と読む場合と、「おんたけ」と読む場合とでは、神様が違うらしい。
・・○「みたけ」神社は、蔵王権現を祭った神社、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂。
・・○「おんたけ」神社は、木曽御嶽山の木曽御嶽神社が総社。木曽系の御嶽(おんたけ)神社。

御嶽山・頂上付近

この木曽御岳神社は、全国に分社があるが、極めて面白い、特徴的なデータがある。つまり、御嶽神社の神社数だが、愛知県が一位、岐阜県が二位、三位と四位は、ほぼ同数で長野県と埼玉県が占める。この一位と二位の愛知・岐阜は、ともに濃尾平野で、木曽川の恩恵を受けていることからして頷ける。御嶽神社の所在地の長野県が、後塵を拝しているのは面白い事実だが、埼玉県が上位に顔を出しているのは、不思議な現象である。

これには、歴史を眺めると、訳がある。
江戸時代、御三家の尾張藩が、木曽御岳神社を庇護し続けた歴史が、御嶽山岳信仰を全国に広めたと見て良い。
この尾張藩が、木曽御岳神社を庇護し続けた前提は、木曾家の重臣・山村家の存在を抜きには考えられない。
戦国時代の木曽氏(木曽義昌)は、信玄の武田家と姻戚を結び、やがて武田を離れて秀吉につき、そして家康の家臣となった。この経緯も面白いが、長くなるので別の機会とする。
家康の家臣になった時、木曾義仲を祖とする木曽家の重臣の千村家と山村家は、家康の特殊な家臣となった。"山林政策を専門とするテクノラート官僚”である。”木曽路は全て山の中である"ので、彼等は、山林に詳しい。そこで、千村家と山村家は、幕臣として、「山林奉行」を命じられる。さらに山村家は、木曽が尾張藩に宛がわれた時、尾張藩の重臣(家老)になっている。千村家も、同様に、信州南部の山岳と遠州の山岳を知行されている。
つまり、山村家は、尾張藩家老、幕臣で「山林奉行」。千村家は、寄り合い大名格、幕臣で「山林奉行」という、二足のわらじを履いた、特殊な幕臣だったわけである。
なお、千村氏は、明治維新になって、本来の義仲の末裔と言うことで、木曽氏に苗字帰りをしている。
江戸時代に、山岳信仰の御嶽神社は、一時幕府の禁制の宗教になったとき、尾張藩は、この禁制を解くべく幕府を説得し、その信仰は自由になったと言われる。この山村家が、尾張藩の家老として、熱心に御嶽神社を庇護し続け、さらに藩主に訴え続け、御嶽神社を整備したのだ、という。

こうして、木曽川は、濃尾平野の、母なる川になり、御嶽山は、尾張・岐阜の地域の信仰の山になっていった。この山は、尾張藩と関係が深い山として、伐採は禁じられて、さらに神域として、人家を作るのが憚られた。

伝承として残るのは ・・・「木曽の檜は、枝一本に腕一つ、木一本に首一つ」といわれ、住民は恐れて近づかなかった。

文豪の島崎藤村の実家は、尾張藩家老で幕臣・木曽代官の山村家の家臣で関所番・高瀬氏と同族で本陣宿を経営。藤村の父は、国学・平田派の学徒で飯田と交流。 ・・・この部分は検証していません。

”木曽路は全て山の中である"は、名文として知られる。冒頭の一文で、木曽谷の風景が一挙に脳裏に刻まれ、「夜明け前」の藤村の世界に引き込まれる。この冒頭の一文は、藤村記念館にある生原稿では”木曽路を全て山の中”となっている。掲載前の校正で、書き換えられたらしい。校正が、藤村自身か校正員かは定かではない。その後、藤村からの原文復帰がないことから、藤村が了解していたのは確実と思われる。

さて、”木曽路を全て山の中”である、としたら、いささか意味不明で、文法的にも疑問でもある。 ・・・生原稿は、こうした”謎”も、時には提供するらしい

御嶽山は、休火山のように思われているが、それでも数は少ないが、噴火の事例はある。しかし、神域として、人家がないために、過去の噴火の災害は、人的被害にまで至っていなかった。

木曽川の浮世絵

木曽節
------------------------
木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳(おんたけ)さんは ナンジャラホーイ
夏でも寒い ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

袷ょ(あわしょ)ナー 中乗りさん
あわしょやりたや ナンジャラホーイ
足袋もそえて ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ

人はナー 中乗りさん
人は見目(みめ)より ナンジャラホーイ
ただ心 ヨイヨイヨイ
合唱:ハー ヨイヨイヨイノ ヨイヨイヨイ
------------------------3番まで;


木曽節:”中乗りさん”は、筏乗りの中央に乗る人で、船頭さん。、木曽檜を筏に組んで、尾張まで運搬する時の、筏舟歌

木曽の観光案内パンフレットから

木曽川・江戸時代御嶽山の噴火の死者の方の出身地を見ると、愛知や岐阜の方を多く見受けます。

 

山登りが好きな方と同時に、こんな昔からの信仰もあったのではないかと・・・
いや、信仰までも行かないが、御嶽山は”なぜか懐かしい”思いがあったのではないかと思い、その懐かしさの源流を自分なりに探って見ました。
当たっていないのかも知れませんが ・・・、 また行方不明の人数のニュースが流れました。

・・・亡くなった方に、ご冥福をお祈りします。 合掌!


飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

2014-08-31 19:14:13 | 時事ニュース

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

信濃毎日新聞

「JR東海、リニア工事認可申請 アセス評価書最終版も提出」 08月27日(水)

[写真・省略] ・・国交省の担当者にリニア中央新幹線の工事実施計画を提出するJR東海の宇野護・中央新幹線推進本部長(左)=26日、東京・霞が関 
JR東海は26日、リニア中央新幹線の東京(品川)―名古屋間について、工事実施計画を国土交通省に提出、工事の認可を申請した。太田昭宏国土交通相の意見を受けて補正した長野県を含む沿線1都6県の環境影響評価(アセスメント)書の最終版も提出。アセス手続きは、29日から1カ月間実施する公告・縦覧を残して終了した。太田国交相が認可すれば、JRは10月にも2027年の同区間の完成に向けて事業着手する。

 実施計画では、JR東海が負担する同区間の総工事費が従来の説明より935億円増えて5兆5235億円になるとの見通しを示した。高性能設備の導入や人件費の上昇などを理由に挙げた。

 長野県が知事意見で求めていた作業用トンネル坑口(非常口)の削減は、木曽郡南木曽町や下伊那郡大鹿村は当初計画から変更されなかった。同村の小渋川に架かる橋の地中化、市町村などとの環境保全に関する協定の締結も評価書の最終版には盛られなかった。

 長野県分の評価書には、トンネル掘削による発生土の活用先の候補地情報を追加で記載した。知事意見を踏まえて調査した絶滅危惧種「ミゾゴイ」の調査では大鹿村で鳴き声を確認。同じく「ブッポウソウ」は、工事車両が通る上伊那郡中川村でつがい3組の繁殖行動などが見られたとし、JR東海は「必要に応じて環境保全を検討する」とした。

 JR東海は26日に長野市で開いた記者会見で、大鹿村のトンネル掘削で出る残土の運搬経路となる県道松川インター大鹿線について「改良にかかる費用を負担する考えはある」と説明。同様に他の狭い道路を運搬経路にする場合も「必要に応じて改良しなければならない」とし、一定額の費用を工事実施計画に見積もっている―とした。

 JR東海の宇野護(まもる)・中央新幹線推進本部長が国交省鉄道局を訪問。江口秀二・施設課長に対し、7月の国交相意見を踏まえて補正した評価書などの書類を提出した。その後、都内で記者会見したJR東海の金子慎(しん)・副社長は、評価書について「関係部門が総力を挙げて充実した内容に仕上げた。記載した内容に基づき(工事などを)しっかり進めていく」と説明。「認可をいただき次第、安全面、環境面に十分配慮して工事を進めていきたい」と述べた。

 JR東海は工事認可申請を2回に分けて行う予定で、今回はトンネルや橋、駅など土木構造物を中心に申請、工事費は4兆158億円とした。電気設備や車両などは別途、認可申請する。

 ・・・ 2027年完成に向けて リニア中央新幹線の敷設工事は着実に動き始めているようです。しかし、全容については、まだ詳しく分かりません。

次回は、リニア中央新幹線とは ・・・ を見極めてみたいと思います。


圏央道 相模原愛川IC~高尾山IC開通

2014-06-28 19:55:28 | 時事ニュース

6月28日(土)15時
圏央道 相模原愛川IC~高尾山IC開通

そして、上尾道路は?

圏央道の上記部分が開通すると、どこに行くのが便利になるのでしょうか。
愛川・高尾山間は、相模原と八王子の間です。

 桶川・北本IC

 高尾山IC

  愛川IC

東名には、海老名JCで繋がります。
億劫な首都高は通過せずに、湘南・伊豆・静岡・愛知へ行けそうです。
湘南へは、まだ多少めんどくさそうです。
厚木経由西湘バイパスで小田原や伊東へは便利になります。


では、大宮から圏央道はどうでしょうか。

上尾道路--

計画は、R17のバイパスで、大宮バイパスの宮前JCTを、上尾道路に分岐して、
桶川・北本ICを通過して、鴻巣の箕田を終点として、R17に合流する道路です。
合流という表現は正しくない。R17とクロスして熊谷バイパスに繋がるという。
機能は、高規格道路。地域高規格道路は2車線以上の車線を確保し、
自動車専用道路の高い規格を有し60km/h以上の高速サービスを提供できる道路として整備される。

現状は、宮前ICから上尾・小敷谷までが、片側一車線・両側二車線で半端に開通しており、
いまだ高規格道路の体裁は無い。

しかし、今日通過してみたら、きれいに草刈りがされ、
道路工事用の車があちこちになにか調べている。
これは、両面四車線化の始まり・・・・・・とみたが・・・
小敷谷から桶川・川田谷まではどうなっているのだろうと思ってみたら、
既に整地は済んでいるようだ。



 

若干遅れた原因は、
桶川・川田谷間に、絶滅危機の鳥類に指定されているオオタカの巣が発見された。
オオタカの営巣地は道路予定地から800mほど離れているものの、
捕食活動などの生活圏が予定地と重なっており、対策に手間取った模様。
どにような対策がなされたかは、、調べても分からず・・・誰か教えて欲しい。

 

それで、結論は、2015年春開通予定。--上尾道路

圏央道 桶川・東北道間までは、2016年完成か?!土地の買収の目途は立ったというが・・・・・・

 


”服喪”のこと・・・

2014-06-13 20:13:43 | 時事ニュース

去る6月8日、桂宮さま逝去・の報が流れた・・・
生前は、NHKに勤め、心筋症で退職し、のち緊急硬膜下血腫で倒れて、以後療養生活と車いすの生活で、福祉活動やスポーツ振興に努めたと聞きます。生活態度が厳格な方でその中にも優しさをもった方だったと聞きます。ご冥福をお祈りします。

さて、話は”服喪”のこと・・・
東京新聞に依れば、天皇・皇后と皇太子夫婦は8~5日間、三笠宮夫婦は30日間、他の皇族の方は7から5日間の喪に服す・という記事が載っていました

自分のことで恐縮ですが、三年前に妹を亡くし、法事に出ていた時の”若住職”の話です。
この寺は、臨済宗・妙心寺派の寺で、臨済宗・鎌倉・建長寺派では無いそうです。我が故郷は、どうも小笠原氏の拠点で、京都と関係が深かったのだろうと思います。

その”若住職”は、「法事は、もともと仏教には無い考え方で、仏教は”輪廻”の世界観があり、生まれ変わってしまうので、死霊が現世に浮遊して、死後何日か留まっている、という考え方」は無いそうです。
「霊の考え方は、神社の世界観であり、神社は、”生命力”を尊び、”死”とか”血”を忌み嫌い、結界を設けて穢れ・死や血など・を神域から遠ざけている」のだそうです。結界のしるしは、鳥居であったり、紙垂や注連縄だった」りするようです。
神社の行事を見ると、生誕や七五三や今では廃れた元服や婚礼や厄の回避防衛(厄年祈願)など、一族の繁栄や生命力謳歌に熱心で、弔いには不熱心であるように見えます。
神仏が習合した時、仏教は「弔い」の分野を取り入れていったようです。

肉親の死は、深い悲しみを伴います。悲しみは、時間に経過とともに薄らいで、やがて現実世界に戻らなくてはなりません。
”若住職は、この流れを、神社に成り代わって、仏教が、葬儀、法事という儀式に、ルール化した」のだといいます。そこには、本来仏教にはない”霊”の考え方を入れて・・・

皇室の服喪の期間は、一般の仏教の服喪の期間と比べると短いようにも思えます。が、神道・神社の考え方では、この方が当たり前のようですが・・・・・