ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「松本」学、あるいは「松本」考:9 :9-2:「信玄」の松本支配まで

2024-08-31 18:27:08 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

:9-2:「信玄」の松本支配まで


信玄は、「塩嶺峠」で「小笠原」を破り、松本平を支配するに至った。支配する拠点は、小笠原家の陣屋のある「井川」でも「林城」でもなく、支城の一つであった「深志」城であった。


松本平は、盆地である。

三才山を発祥とする「女鳥羽川」は、まず「田川」と合流し、次いで、木曽を源流とする「奈良井川」と合流する。美ヶ原を源流とする「薄川」も「奈良井川」と落合する。その「奈良井川」は飛騨山系を下流とする「梓川」と合流して、「犀川」を名前を変え善光寺平へと繋ぎ、千曲川と合流して、「信濃川」という大河に名称が変わる。この奈良井川と梓川の合流地点は、昔は「深瀬」と呼ばれる湿地地帯であった。「深瀬」は、いつの間にか、なまりで「深志」と呼ばれるようになった。

「深瀬」は、島状な状態の台地を有し、この場所は「犬飼島」と呼ばれ、平安末期に、朝廷より「国衙」を仰せつかった「犬甘氏」が陣屋を作った。この「犬甘氏」(いぬかいし)は、「山家氏」(やまべし)と同様に、予備知識がなければ、到底正解に至らない「難読文字」の例である。


この府中に、建武の新制に、なびかぬ者として、北条得宗家の御身内とされる「諏訪神族」と北条得宗家の「「村上一族」を筆頭とする「御家人」衆があった。これらの反旗をなびかせる者たちの「鎮撫」に足利尊氏から「小笠原貞宗」が信濃守護として宛がわれたのである。


府中は、なびかぬ者たちの橋頭保であった。そこの相対的首位の豪族は、国衙でもあった「犬甘氏」であったが、従順に受け入れたようである。「小笠原貞宗」は、当初蟻ケ崎の脇の城山に「陣屋」を構え、三男で、名跡:継がせた坂西氏を深志支城に置いた。後に、自らを「井川」に移し、城山を「犬甘氏」に返したようだ。深志城は、水運の集結地で経済の要地なっていった。


こうして、「犬甘氏」と「井深氏」を自軍の中に取り込んで、わずかに機能する国府を残滓として、名ばかりの「府中」を存続させた。名ばかりの・・・というのは、この地方の治安の面は、確かに府中「小笠原家」だが、貞宗の後は、連続しての「守護職」を外されているのだ。ここに、「小笠原家」の三家抗争・内訌が潜んでいる。


このようにして、府中は、小笠原貞宗の武力をバックに、後丁氏の存在を、かすかな機能の証として、地名としての担保を得ていたのであったが、・・・


ついには、隣国の、巨大化する甲斐「武田」信玄に、小笠原長時が敗れ、府中を追放されたのであった。居城の林城を取り囲むような家臣の「山城」群は、ほとんどが戦わずして自落し、長時は、自分の城にたどり着くことも能わず追放されたのであった。


「府中」の名実の喪失である。その後、多少期間、「府中」の呼び名が続いたとしても、それは悲しい残滓の記憶である。


当然ながら、「信玄」は、松本平(その時は、この名称はない)の経営の中心を「深志城」において、馬場長春に「縄張り」をまかせ、後に、松本平の経営を「工藤源左衛門尉」が引き継ぎ、後に、工藤は「内藤修理亮昌秀」と改名している。

深志城の「石垣」や「天守閣」は次の時代の産で、ここでは、度々水害を起こす河川の治水が主で、女鳥羽川、薄川、田川、奈良井川、梓川の治水に「甲州流」がもち入れられたという説があるが・・・確かではない。

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9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因

2024-08-18 16:48:43 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


:9-1:府中消滅の因


『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----


国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。


時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。.


『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。』
『林城の戦いは、武田晴信と小笠原長時の戦 ---天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した晴信は、天文19年(1550年)信濃国の松本平に侵攻。遂に長時の居城である林城の攻略に乗り出した。支城の犬甘城が落ちると、深志城、岡田城、桐原城、山家城の将兵は雪崩をうって逃亡。長時はこれを知ると、林城を捨て平瀬城に移り、その後信濃国の豪族村上義清を頼って落ち延びた。一連の戦いにより、晴信は筑摩郡を平定した。』


上記は、府中小笠原家・当主小笠原長時の、府中追放の過程であるが、追放の過程を、ことさら追うのが本意ではない。長時の居城・林城を、防衛線の如く取り囲む山城がいとも簡単に落ちたかが肝要である。それも、塩嶺峠の戦いの後、瞬く間の出来事であったようだ。しかして、長時は、居城・林城に戻ることできずに追放、落ちていった。
それは、防御線を構成する山城(林城の支城)の幾つかが「調略」により信玄の側のついたのではないか、と仮設される。


:保科正俊のこと


保科正俊の三代前・易正は、熊倉と関係があった、という説がある。熊倉は、生坂村の隣村である。春日神社の神官をしていた「熊倉」(藤原)家だそうである。また、生坂の大日方氏は、当時「武田」の側にあり、保科氏や真田素と同様に、武田軍の「先方衆」と呼ばれていた。大日向氏は、保科正俊の娘婿の関係、保科正光の妻は真田昌幸の娘という関係・・・
『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』

「調略」---

もし、「調略」があったとしたら、調略した方・保科正俊、された方・井深氏 ・・・大日向氏はそれに噛んでいた・・  なんて」仮設。

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何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?

2024-08-04 17:58:14 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9

9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・ 人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?


疑問である。
歴史を振り返ってみよう・・・


『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』
なんか、成行ですね。


歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。
-----、松本が「府中」と呼ばれていたころ、国府は女鳥羽川沿いにありました。今の「サッカー場」と「総社」の間辺り・・・ところが洪水で、国府は水没してしまいます。時期は、鎌倉期初期とされています。その時、緊急避難ということで、善光寺脇に、「後丁」として「国府」を避難させました。長野市に、後丁(後町)という町が今でも残っています。
ただし、善光寺後丁(後町)を国府として、無理やり機能させたのは、大塔合戦(大文字一揆)の前の短期間だったとされています。それ以前も以後にも「機能」の実績がありません。


大塔合戦 -----


『大塔合戦とは、応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる』
『室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。』


鎌倉初期、緊急避難した「後丁」は、府中へ戻っています。「井深後丁」です。


松本にあった県庁は、また戻ってくる日があるのでしょうか?


仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。

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ひとりごと・・

2024-08-03 10:20:27 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:8

8 再開に向かって 

 

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