ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

1:高麗川と寺院仏閣

2021-08-20 18:30:42 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!


1:高麗川と寺院仏閣
  
 「高麗神社」

写真:トーテンポール?
   トーテムポールのような標柱。「将軍標」という朝鮮半島で使われる魔除けの境界標

 一風変わっています。


 高麗神社 由緒 --- ・「当社は、高句麗からの渡来人 高麗王若光を主祭神として祀る社です。他に、導きの神 猿田彦命、長寿にして長く朝廷に仕えた竹内宿祢が祀られています」
 *高麗王若光 ;高麗(こま)の王(こき;古代朝鮮語)し若光(じゃっこう)---・

 どうやら、主祭神は「朝鮮半島」からの「亡命者」の類であろうか。後先の時系列から言うと、新羅という外敵から攻められて、支援を求めて「大和朝廷」に来たのだが、最中に・・高句麗が新羅に攻め落とされて帰るところを失ったとの筋書き・・大和朝廷に派遣されたのが、高句麗の「王族」に関係するとかしないとか・・の人物が「若光」であり、真偽は別として、大和朝廷は「高句麗王族」として扱った、というところであろうか?
 ここで、「高麗神社」にあまり関与がなさそうな「竹内宿祢」が祭神として祀られている。何故であろうか考えてみた。
 竹内宿祢は、伝説上の人物・・何しろ330歳まで生きたというから驚き・・業績を見てみると、内政のかなり有能な官僚(能吏)の実績が記録に残る・・恐らくは、亡命した高句麗民族に、日本における「移住地」を宛がい、存続出来るようにしたのが彼であろうと想像するのだが・・・これが事実かどうかの記録はないが・・では、何故に「高麗神社」の祭神のの一つになっているのか」を考えると・竹内宿祢の関りを暗示しているように思われる。
 高句麗王族に限らず、朝鮮の「王族」政権は、どうやら、絶えず脅かされて入れ替わっていたようで、敗者は、正式ルートに限らず、海流に乗って命からがら亡命した例は、かなり多かったのではないかと・・日本は、その亡命先で、古事記や日本書紀の記述には、累々の天皇家も、・・出自は大陸であろうかとの「傍証」が幾つもあり・・その伝手を頼りに「亡命してきた」と考えると「さもあるかな」と・・

 

..出世明神と呼ばれる:《 高麗神社 》


 巾着田 曼殊沙華・群生・・
 この異国情緒が残る風景に、何やら似つかわしい・・

 

 

 「竹寺」


 深き山中に、不思議な寺はあった。
 異国風情の漂う・・寺のような/寺でないような・・寺であった。そして、美しい。
 参道の竹林を抜けると、「牛頭天王」が登場する。この竹林が、俗称「竹寺」の由来・・のようだ。

 ・「医王山薬寿院 八王寺」--・正式名称
 由来は・:歴史 ---・天安元年(857年)に円仁(慈覚大師)が東国巡礼の際、病人が多いのを憐み、この地に道場を造り、大護摩の秘法を修したのが開山とされる。

 ・この竹寺の「本来」は「薬草園」のようである。


 ・本尊は牛頭天王、本地仏は薬師如来としているが明治維新の神仏分離から免れ、神仏習合の寺となっている。
 ・牛頭天王・本坊・三十三番結願堂・本地堂(瑠璃殿)・弁天堂・稲荷社・水屋・奥の院・鳥居・石燈籠など・・.

 この「神仏習合」というのがよくわからない。「大護摩の秘法」というのは、浅学の私でも、記憶の片隅に「密教」の法であることを教唆する。つまり仏教の前提・・仏教以前の宗教を意味する。「神仏習合」の、学校教育の「教科書」的意味は、神社と仏閣がまずあり、やがて「いいとこどり」をして共存関係になった・・」と理解していたのだが、ここの「竹寺」では、その時系列関係を拒否している様である。

牛頭天王のことを「スサノウ」と同一人物と比定する学者は多い

 

 開山は、円仁(慈覚大師)---・第三代天台座主。生まれは上州佐野。(「佐野サービスエリア」隣の「みかも公園」の端の方)。この人は遣唐使・・行も帰りもかなり苦労しているようである。特に「帰り」は、いろいろの理由で、なかなか帰国できなくて、「新羅」の人脈に相当お世話になったようであり、新羅に駐留し、ここで「薬学」を中心に「密教」の知識を会得したようである。そして、「新羅人」が随伴して帰国し、その後「新羅人」は帰らずに、円仁の手足になったようである。
 この寺には、「トーテンポール」のような「将軍標」があり、「新羅」の牛頭山の牛頭を冠にした「牛頭天王」があり、牛頭天王の子供の「八王子」を祀った御堂があり、その御堂は、東方楽園・浄土を表す「瑠璃殿」の名称であり・・つまり、「新羅」が多く残っている様である。


 ここには「新羅」、そして近在に、対称である「高句麗」の「高麗神社」を配しているのも「妙」である。


 茅の輪 --・登り口の鳥居に茅の輪が設けられている。木製の蘇民将来の護符を授与している。両者とも蘇民将来伝説に関係する厄除け ・

・・・「蘇民将来伝説」は、どうも日本の説話ではないような気がするのだが、・・これを否定する説を見かけない。

.

 

 あえて・・・ かつて「秩父三十四札所」を巡ってみたが、また訪れたい寺は、それらの札所より、「竹寺」である。

 「秩父三十四札所」には、なぜか「天台宗」派はない。

 

 

 

 


越辺川と高麗川

2021-08-20 18:26:08 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

越辺川と高麗川:

◇:越辺川と高麗川
 
 高麗川は正丸峠辺りを源流とする。高麗川と名栗川を挟んだ山岳は有数の杉の美林・・。高麗川に沿って走る西武鉄道が秩父まで繋ぐ。
 高麗川の周辺には、趣のある神社仏閣があるが、・・高麗神社、竹寺、能仁寺、子の権現などなど・・このうち、高麗神社、竹寺は、後で詳細する・・巾着田は、高麗川の一部で、「がま口」のように蛇行して流れ、時期には、曼殊沙華の群生が埋め尽くす。巾着田に隣接する「宮沢湖」は、最近人気の「ムーミンバレーパーク」というテーマパーク・・
 高麗川は、流れて坂戸と鳩山の境あたりで、越辺川に合流する。

ムーミンバレーパーク 写真
飯能市宮沢:郊外型レジャー施設。ムーミンテーマパーク

 

 越辺川は、外秩父山系の黒滝を水源とする。流下して、越生の梅林の中を通り、先述の高麗川と合流し、物見山の裾を捲いて、川島の長楽辺りで都幾川を合流して、やがて入間川にそそぐ。
 物見山は「平和資料館」「岩殿観音」「大東文化大学」「東京電機大学」「こども動物自然公園」などが集積する。また、八幡橋は「冠水橋」で有名、少し上流は、「白鳥の飛来」で人気のところ・・この付近は自然が残り、TVや映画などの「ロケ地」でたびたび登場する。

平和資料館 写真


2:慈光寺、都幾川

2021-08-07 10:49:12 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

慈光寺、都幾川:


2:慈光寺、都幾川
 --・戦国の僧兵たち &番匠、湯葉など

 

 都幾川 --・ときがわ町(玉川村と都幾川村が合併してできた町名)、因は、町を貫流する都幾川。その都幾川は、慈光寺の山号「都幾山」を由来とする。

 慈光寺のホームページの紹介の項に、「戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌らによって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどること・・」という文面がある。
 
 その慈光寺・・

 時がたち・・嘗ての慈光寺が如何なるものであったか?」は、「web」を巡ることである程度把握は出来そうであるが、本来の規模や勢力の実感は、--・つまり筋肉質や血の実感までは、「見える化」しなければ霧のように遠いのである・・その「見える化」の作業・・
 この輪郭の明確化こそが、この項の要である。
 恐らくは、頼朝から寄進された「1200町歩」という領地の規模が、この慈光寺の性格を定義したのであろうと推測して・・以下の作業

不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

 開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
 奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。
 つまり、霊山院(リョウザンイン)はもともと「慈光寺」の僧坊で、その塔頭の一つだったわけで、・・・

山門は、現在「瓦葺」になっているそうです・・

 ---・【白河天皇】より ... 法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。・---

 ここであえて、「霊山院」を取り上げてみたのは、山岳仏教の武装寺院の「慈光寺」の性格の輪郭を明確に描きたいためである。中世におけるこの寺院の存在の必然性は何だったのか?

 霊山院の創設は建久年間で、鎌倉幕府成立の時期と重なるわけで、その「宗派」の臨済宗も、始めを同じ頃としていた。僧侶にも、偏諱の制度なあったかどうかは詳しくないが、烏帽子親や烏帽子名の習慣が僧侶の世界にもあったとしても不思議はない。臨済宗の祖が、自分の一字を高弟に与えて、「栄朝」と名付けて東の官の寺である慈光寺に派遣したとみるのは合理的である。叡山の天台宗が、天皇家と深い繋がりがあるのは、その頃から、天台宗座主に、天皇の子息がなっている例は多い。栄西、道元、法然、親鸞、などなど・・宗派分流のもとの仏教の学校が「叡山」であった。従って、天台宗「慈光寺」の僧兵の分流に、「臨済宗」や「密教」や「台教(=顕教)」があったのは、ごく普通の話であったようだ。それぞれの流派の塔頭・僧坊は繁栄を極め、「一山七十五坊」あったと記録が残る。坊あたり何人の僧兵がいたかは不明だが、かなりの要塞であったのは確かで、これが戦国の時代まで続いた。

 都幾川の地元には、その僧兵の蛋白源としての「豆腐」や「湯葉」の産業、あるいは「番匠」という大工の集団の移住の地名や「大工」より収入が安定できるとして変質した「建具」の産業が、遺産として残る。写経などで大量消費しただろう「和紙」の産地も近くに残るのも、僧兵=学徒の存在の傍証かもしれない。

 慈光寺は、鎌倉時代前後に、『慈光寺実録』によると、慈光寺別当. 厳耀は、畠山重忠の伯父であったという。 畠山重忠は板東八平氏の一つ秩父氏の出身の関東武士で、初期から「頼朝」を助けた。この別当というのは、経済的支援者で、この寺は平良文流の秩父平氏で、さらに頼朝から「1200町歩」を寄進されており、1町歩=100俵:2俵=1石とすれば、120000俵/2=60000石(6万石)という中堅クラスの大名と同じ経済力ということになる。

 要は、中世において慈光寺は守護大名と同じ経済地盤だったということ、中世の戦国は、その経済地盤の領地の「分捕り合戦」が常であった、ということ。先述で、太田道灌"ら"により「焼き討ち」にあったとあったが、この「ら」は、--・天文年間(1532~55年)小田原北条氏の家臣で松山城主上田朝直が大築城を築き、一山75坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するのに際して付城とし、北方約4㎞にある慈光寺を焼き打ちにした。---・とあるので「上田朝直」であろうか! (大築城・・ときがわ町大附(オオツキ))

 付録:同時期に、東松山にある「正法寺」が、同じように「焼き討ち」にあい、周囲にある「僧坊」を焼失している」という記録が、同じ書に残る。「正法寺」も、比企一族由来で北条政子の加護寺(守り本尊)なので、鎌倉幕府より多くの寄進地があったのだろう。「正法寺」は岩殿観音として親しまれている寺・・

 とにかく、以後に慈光寺に、江戸時代まで坊の記録を見ないので、「焼き討ち」の以後に、この寺は武装を解き、知行地を奪われたとみるのが合理的であるが、家康の江戸入府で、この寺は、御朱印を受け、ここからまた100石の寄進地を得ていて29坊を作っている。江戸・上野の「寛永寺」の山号は「東叡山」で、比叡山の関東の拠点を意味し、慈光寺は、寛永寺の末寺にされている。恐らく「天海」の策と推定・・ 鎌倉時代は、比叡山・延暦寺「別院」であったとか?・・

 これらの史実の記録を残した『慈光寺実録』の作者は、九十六世信海」となっておりますが、いささか疑問??九十六世信海」は江戸時代の人・どこかで読んだが、調べてみたがわからず・・慈光寺の創設が、宝亀元年(770年)道忠が開山とあり、信海が生きた江戸時代中を1700年とすれば、天武(40代)-東山(113代)の間で、天皇家はこの間:73代の天皇がいたことになり、ほぼ同期間に96代慈光寺住職は疑問?併せて、慈光寺の創設時期が、書により「マチマチ」なのが気にかかる・・
 中世の山伏の宿坊・75坊は戦火で焼けたことは記録に残るが、江戸時代の29坊は、現存を一つも見ない、のはなぜか?
 経緯・由来から、天皇家・後鳥羽上皇などと関係が深いが、南北朝時代はどちらに与したのだろうか?生い立ちから「南朝側」とみるのが自然であるのだが・・
 霊山院の塔頭・栄朝は、老いて上野へ退き、長楽寺を創設。長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥・・とある。
 --・戦国以前は、子息に、自国領土の一部を分譲し宛がった。新田義季の宛がわれた地が「世良田」であった。中世の封建時代は、目下のものが目上の者を「呼ぶ」とき「正式な氏名」を呼ことは憚られた。代用は、お館さま、お頭、あるいは住んだ土地名で、例えば「世良田さま」とか。妻女には、み台さま、奥さま、奥方さまなど・・この世良田は、新田氏の有力な一族であった。南北朝時代、絶えず天皇側であった新田氏は、「後醍醐上皇」に与して、その世良田氏はご醍醐上皇の子息・「宗長親王」の側近として行動を共にした。世良田氏は、宗長親王亡き後も、その子の尹良親王を助けて連戦し、敗れて「奥三河・設楽」に隠棲して、そこで松平と姓を変えた」とある。徳川家のもとの松平の出自である。
 上野国・世良田(今は、群馬県太田市内)には、長楽寺の隣に「東照宮」があり、家康が祀られている。

都幾川:三波渓(群馬・鬼石の三波石と同等の石が散在する・・に因んで)

 都幾川・・慈光寺・霊山院のあるところ、都幾山というが、その脇を、都幾川が流れる。その山懐の開けた地に、湯葉や豆腐、建具の産業が息づく。土地の名は、「大工の集落」を意味する「番匠」という。流れはやがて槻川を落合して、さらに流下して、越辺川と落合する。