ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

もみじの色彩 ・・・御嶽神社(東郷神社)

2013-11-29 13:43:43 | 名勝

 御嶽神社 紅葉           ・・・”もみじまつり”のポスター、”いざ秋さんぽ”

さすがに、埼玉一と言われるだけあって、もみじの本数に圧倒される。赤と黄の紅葉のコントラストは絶妙・・平林寺は、手入れされた紅葉の美があるが、ここのは自然の織りなす色彩の芸術・・・

惜しむらくは、撮影者のカメラの腕?!・・・”伝えきれない” ・・・

 

   

   

     

     

 役行者の像 ・・・     

清貫一誠霊神 信州木曾御嶽山の行者として、その生涯を捧げた清貫一誠霊神。

日に三度の水垢離をとり神に仕え、衆生済度に全身全霊を傾けました。秩父御嶽神社を創設。後に東郷公園整備。今も公園の入り口に凛として立たれ、人の辿るべき道筋を示しています。

11月26日・・・御嶽神社  もみじに燃ゆる・・・木曽御嶽山を分霊して1895(明治28)年に開かれた神社。創立は比較的新しいです。

住 所 :飯能市坂石580


堂平天文台  秋のグリーンライン in 奥武蔵

2013-11-24 02:37:20 | 建造物

都幾川の慈光寺の秋を堪能した後、時間に余裕があったので「グリーンライン」の白石峠まで登ってみた。堂平天文台が目的である。

奥武蔵には舗装された林道が、峠と峠を繋いで走っている。この峠と峠をつなぐ林道は、通称「グリーンライン」とよばれ、所々に関東平野を見下ろすビューポイントを持っている。関八州の見張り台もこのライン上に存在する。・・・過去のブログより・・

白石峠から、堂平天文台までが、やく2Kmの登坂行程。ここからの見晴らしは、秀逸・・・”関東一”という人もいるが、当方は、そんなに色々の”ビューポイント”を知っているわけではない。

・・誰かがつくった”関東一の展望”の看板

 

 

周囲を見渡せば、秩父の山は勿論、浅間、八ヶ岳、富士山も見渡せる・・・・・さすが関東一・・かどうかは分かりませんが、見晴らしは抜群で、感動ものです。

展望台近くのロッジ周辺の紅葉の模様・・・ロッジは宿泊も可能のようで、ペアが申し込んでいました・・・

   

  

 

ここに、グリーンラインの、もう一つの顔が浮かび上がります・・・・・

・・ここは、パラグライダーの聖地でもあるようです・・・

下の写真は、パラグライダーの、”飛翔”の地ならびに訓練の場所でもあります。

  

たまたま、偶然ですが、人が鳥になった場面に遭遇しました・・・

 

自分は、高度恐怖症ですが、かなり”うらやましく”思いました。・・・見物人が40人ぐらい、そのうちの7割が”モトライダーのようです。

夏場には、このグリーンラインは、自転車族の聖地かと思っていましたが、オートバイ族の聖地でもあるようです。冷気を帯びた高原の風が、彼等を誘うのでしょうか・・・・・

 

 


慈光寺 ・・・秋 紅葉

2013-11-24 02:27:40 | 史跡

都幾川の慈光寺・・・秋 慈光寺の紅葉

 

葉書の語源・・・”たらよう”という、めずらしい木、葉の裏に文字が書けます・・・                          

   ・・多羅葉の木

★葉の裏 に傷を付けると黒く変色する不思議な植物がタラヨウです。「葉書の木」のニックネームで知られています。左の写真の葉っぱの字はマジックインクで書いたのではありません。


先の尖った物で、書いただけです。書いた跡はペンで書いたように見事に黒くなり、はっきりと字が読めます。宛先の住所を書いて切手を貼ればそのまま葉書になります。こんな葉っぱが採れる木が近くにあれば、メモ用紙 代わりにもなりそうです。昔は子供が字や絵を描いて遊んだことも多かったようです。字を書いた後の葉は、そのうちに枯れて茶色くなってきますが、それでも、かなり長期間にわたって、字はしっかりと読める状態で残ります。

・・・まあ、しかし、これはどうもこじつけのようで、葉書は、「端書」が語源のように思えます。

実験で、実際に”たらよう”に文字を書いて、切手(規格外¥120?)を貼って投函したら、届いたそうです。でも、、自然のものですから、熱に弱そうだし、郵便屋さんも困りそうなので、実行禁止!で。

この木は、慈光寺の山門を潜った脇にあります。

慈光寺・・・由来書

・・・九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の二年(六七三年)癸酉、僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。 その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈道忠によって、慈光寺は創建されました。道忠は、仏法を広めるため東国を巡錫しましたが、徳望篤く利生に努めましたので、民衆より広恵菩薩と敬称されました。道忠は、当山に仏像を建て、一尺六丈の釈迦如来像を安置し、一山学生修学の大講堂としました・・・

かなりの名刹のようです。天台宗とありますから”密教”との関係も深く、山伏の寺でもあるようです。従って、修行道場とか学林とかの、お坊さんを育てるお寺であったようです。かっては、修行僧が寝起きする宿坊が周囲に乱立していたと言われています。宿坊は、寺院自体と違って造りが悪く、ほとんどが残存していないようですが、

 寺を取り巻く紅葉が、慈光寺を飾ります・・・

   

      ・・本堂 ・・周囲の遠景・・    クイックで画面を拡大できます


場所;比企郡ときがわ町大字西平386



高麗の神社 ・・・”いにしえを”を訪ねて

2013-11-24 01:45:56 | 史跡

秋の晴れた日に、思い立って、狛犬を見ようと思って、高麗の里の神社に行った。

この神社は、全国の狛犬の”故郷”、高麗神社である。狛犬は、高麗犬とも書かれる、、神社の”眷属”である。

 

この高麗犬というのは、犬の姿としては、いたって妙である・・・・・

高麗神社の、この高麗犬の像は、新しい。恐らくは、前に存在していた像が、朽ちて破損した後に惜しんで再建したのであろうが、全国に残存している高麗犬の容姿から想像すれば、先代を忠実に再現したであろうことが、容易に想像される。だけど・・・はたして、現実に、こんな犬が存在するのであろうか?・・・この疑問と想像が、悠久のロマンへの入口になっている・・・

・・・高麗神社(日高市) 全国の高麗神社の総本社といわれる。

・*高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光です。この一族は、最盛期は5世紀の「広開土王」、「長寿王」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。・・・『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。・・・

この由来書を信じれば、元中国北東部に勢力を拡大した高句麗の一族(民族)は、ユーラシア大陸を、西に東に闊歩した遊牧民であることが説明されています。この高麗族は、新羅系渡来人が割と容易に日本人と同化したのに対し、独自性を保持しながら、大陸や朝鮮の古式文化を伝承していたことが垣間見られます。

この頃の日本の文化レベルは、大陸系・朝鮮系の文化に比べ、未開といえるほど低かったと言われています。せいぜい、土器や矢尻や住居や祭祀の文化はたかが知れています。大陸系の、鉄製造や農耕や宗教など、諸々の文化のレベルは、数段も高かっただろう、と言われています。朝鮮から日本への渡航は、今でも難民が漂着することでも分かるように、陸を離れて海流に乗るまでと、日本に近づいた時上陸するまでが、人力を労するぐらいで容易で、この頃渡来人は続々と日本にやってきて帰化や同化します。その頃、国という概念は曖昧です。従って国境という概念も存在しません。彼等が日本の政府に帰属して貢献したという資料も、数え切れないぐらいのようです。朝鮮・大陸に残った一族に、他族に攻められる危機や内乱の危機の情報が伝わると、政府に帰属した帰化人は、政府を動かして、朝鮮まで応援に駆けつけたりもしています・・・例、白村江の戦い・・・。

参考1・・・対馬海流(黒潮)の傍流の一つは、大きく朝鮮半島に接近して流れ、その後日本海に、そして能登半島付近で、日本に急接近する。この潮流の早さは、秒速50Cmと言われる(=時速18Km・・自転車並)

参考2・・・新羅系渡来人は割と容易に日本人と同化した・・出雲大社や皇室の創生に、新羅系渡来人が関わっているという論文は、幾つか発表されている。その関係性の詳細に立ち入るつもりはないが、どうも無関係ではなさそうだ。

さて、高麗犬ですが、中国東北部にも朝鮮半島にも、この容姿の犬どころか動物まで、確認出来ていません。高麗族が遊牧民族の時、西征した時に見たか、あるいは交易で、西方の情報が入り込んだ時にその姿を認識したか、というストーリーが成り立ちます。

高麗犬の容姿は、どう見ても、”ライオン”に見えてしまうのですが、百獣の王が眷属だなんて・・・悠久のロマンを感じて、つくづく高麗犬を眺めています。

眺めていると、・・・そういえば、獅子舞の獅子の顔も、この高麗犬に似ているような気がします。なにか関係があるのでしょうか・・・。・・・ふとした疑問に、わくわくします。

参考3・・・獅子頭・・・古くは〈師子〉と書くことが多く,伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来は中国で成立した「破邪の霊獣で,その起源が,より西方の猛獣であることはいうまでもない。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬の彫刻ともなり,一方で楽舞用の伎頭となったのである。・・・世界百科事典より

参考4・・・獅子舞のことを英語で、” lion dance ”と言うそうです。

 高麗神社の紅葉・・・クイックすると画面が大きくなります。

    

 

高麗神社の社家・・・高麗王若光の子孫が代々住んだという・・・

・・屋根に草が生えていました  ・・トーテンポール・道祖神とも識別標とも・・

                                          

  


高麗神社の社家の脇にある高麗家の家系図。家系図の隣に山道があります。「私道に付き、立ち入り禁止」の看板。この隣の山は、この神社の神体山ではないかと想像します。 神社の高麗犬の脇にも、山道の入口があります。ここを登り切ると、小さな鳥居と祠がありました。高麗神社の元の位置は山の中腹・・・とありました。ここが元々の高麗神社の位置?と比定しました。山道の途中の七福神の石像?・・かなり、愛らしい。この小神社の奥に、やはり、高麗一族(郎党)の墓がありました。奥津城というのでしょうか・・・

 *七福神の石像?・・・調べて見ると、七福神のどれにも該当しません。仏像ではないし、羅漢の体裁もありません。不思議な像です。もしかしたら・・・白髭老人・・若光だったりして・・・・・、と楽しく想像しています。小さな石像です。

*白髭神社と名がつく神社もあります。一説に、白髭老人=高麗王若光を祀ったとする説もあるそうです。

神社探索の後、聖天院に向かいます。歩いて5分ぐらい・・・

・・・聖天院全景・・・正式名称高麗山聖天院勝楽寺

     

高麗王若光の廟所・・小さな建物の中に石積みの塔が安置されています・・・

高麗王若光の生没年は不詳とされていますが、続日本紀に、706年、若光に「正五位」の官位が贈与されていることが記載されています。飛鳥時代のようです。

この頃の墓の様子は、大型古墳時代が、莫大な経費問題の反省で、簡単な円古墳時代に移った時代とされています。また古墳という墓の文化は、大陸からの流入と言うこともあり、古式に従えば、神体山の中腹に穴を掘り、埋葬して小山を盛り上げて、高貴な人には目印の石を置いたという習わしがあるようです。そう考えると、・・・この霊廟の下が小山の塚であり墓であるのか、後ろの山の中腹にあった目印の石積みの塔を移設したのか、が考えられます。墓石が登場するのは、もっと後期からのようです。

大陸の古墳は、中国辺りでは土盛りの古墳が普通であり、西方の砂漠地方では石積み墳が普通で、「ピラミッド」は石積み墳のバァリエーションのようです。

・・・羊も門を守りますが、意味が解けませんでした。もしかしたら、大陸にあった高句麗の時代に、羊はなにかを守ったのかも知れません。昔は、羊は日本に存在しない動物ですから、それとユーラシア大陸の、遊牧民の友が羊であったという記憶もあります。

聖天院の紅葉・・・クイックで画面が大きくなります

                             

聖天院は最近改築されたばかりで、大変美しい、手入れの行き届いた寺でありました。ただ参詣には拝観料が必要です。改装費が足りなかったのかも知れません。しかし、どうもこの寺院は、観光地化を強く拒否している意志を感じます。それは、最近になっての改装からのようです・・・石灰石の塊の霊山と関係があるのでしょうか・・・

   ・・高麗川の秋の風景。

高麗川を渡った高麗の里に、ちっぽけな村社、野々宮神社があります。

・・野々宮神社

この由来書(上記)に、創立が大宝三年(703)とあります。この地は、高麗王若光が各地に散らばった高麗族を集めて、住居とした地であり、創立は高麗神社や聖天院より古そうです。また、勝手な想像ですが、ここに集結した高麗一族は、一族の団結や繁栄、農の豊穣や感謝、高麗王への感謝と尊敬を、この神社で祀り、祈願したのではないかと・・・・・。ここの獅子舞が当初からのものであれば、見て見たいものだと思います。獅子舞の面も気になります・・・

 

場所;日高市新堀833


秩父の秋 ・・・中津峡の紅葉

2013-11-15 17:10:05 | 名勝

中津峡・・・

・・おそらく、中津峡の中で一番の、紅葉の名所なのであろう・・・

持桶トンネルの手前、「持桶女郎もみじ」の看板もある。・・女郎・・の間が開いていて、”女と男”と解釈するのだという、逸話もあると言うが、この先の鉱山が栄えた頃、鉱夫が千軒長屋に溢れており、彼等を商売の対象としたような所ともみえるのだが・・・、とにかく、「もみじ」は艶やかである。カメラを手に持つ輩の数も、ここが一番多い。

すでに、秋・たけなわ・のようで・・・

                

中津峡は、秩父市、奥秩父北東部に位置する渓谷。紅葉は秩父を代表する。中津峡は、荒川源流のひとつ、中津川上流の渓谷のことを指す。ほんの少し先は、分水嶺となり、神流川上流となり、利根川水系となる。・・・三国峠、十文字峠、十石峠・・直ぐ先が県境になっているのだ。

甲斐・秩父往還(R140)を、大滝温泉(道の駅)を過ぎて直ぐ、三峰神社方面と中津峡・雁坂トンネル方面の分岐を右・中津峡方面に行きます。滝沢ダムのループ橋を過ぎると、県道R210に右折します。ここからが中津渓谷が始まります。

・・ループ橋

    

渓谷に沿った、紅葉です・・・

 途中に、茶屋があり、”猪の剥製”が置いてありました。

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こちらの紅葉は、来る時寄った御嶽神社(飯能)の紅葉です。

門前の紅葉は、色づいていましたが、鳥居奥の、神社のもみじは、まだ緑でした。・・・もみじの紅葉まで、あと二週間ぐらいという所でしょうか。・・・もみじの紅葉に限れば、平林寺と御嶽神社が、色目と本数で、圧巻。時期には、ライトアップもあるようです。

 

 

 


天空の寺の秋・・・

2013-11-14 00:53:00 | 史跡

天空の寺は、世俗から隠れるようにの人里から離れて、山の奥の斜面に、へばりつくように建てられていた。

 ・・山門

秩父の山奥の、またその奥に、天狗が住むといわれた秘境があった。

さて、その場所は、三峰神社に近く、標高も同等と思われる。甲斐・秩父往還(R140)を、道の駅・大滝温泉の手前の大血川渓流(釣り場)の方へ左に遡上することやく5Kmの山中・・・。

鎌倉時代末期から南北朝時代にむかう動乱の時代、当山開山仏国国師は後嵯峨天皇の第三皇子として京の都に生をうけられた。当時の京の都は鎌倉幕府の無力化とともに朝廷を巻き込んだ政権争いがにわかに激しさを増してきている時代であった。・・建武の新政の争い、後醍醐天皇・足利高氏・新田義貞VS北条得宗家の戦いのこと・・、そうした争いを避けるかのように16歳の時仏門に入った国師は、遥か東国に修行の地を求め鎌倉建長寺にはいる。その後さらなる悟りの道を求めて獣も寄り付かぬといわれたこの渓谷にたどりついた。

こうのような経緯を読むと、この寺の宗派は「臨済宗・建長寺派」となるが、ことはそんなに単純ではない。仏国国師の生き様を見ると、教典からかけ離れて、禅宗の自然同化の思想を持っていたようだ。山岳宗教の山伏とも関係を持っていたらしい。この独自性は、やがて、この寺が、東国の女高野山と言われるように、戦火に落ちた女人達を匿うようになる。

・・・・・ちなみに、臨済宗は武士の仏教宗派といわれ、室町期までは臨済宗・建長寺派(鎌倉)は南朝派、臨済宗・妙心寺派(京都)は北朝派に分類されたが、長い年月が両派を混濁化し、その後は新しい南北朝と無関係な宗徒を持つようになり、今では分類が出来なくなっている。足利尊氏も、宗教には寛大で、両派を差別して取り扱うことがなく、南朝側の仏閣への圧力はなかったようだ・・・・・


  ・・山門を守る阿吽の像

*口を開いている方が阿像、口を閉じている方が吽像、・・・

   ・・仏閣 懸崖造りの方は宿坊?

 ・・林道に寺の入口がある。ここから下ること30M・・寺の裏口に通じる。

 ・・大陽寺?と読める

大陽寺は、どうも太陽寺ではなさそうだ。日の光は、太くはなくて、大きいのだ。由来板を読むと、昔は、袋養寺と言っていたらしく、いつの間にか大陽寺になったらしい。読み方は同じようだが、昔の袋養寺の方が、歴史を考えると味があるように思えるのだが・・・・・。

    

輪廻・・今回の訪問は、実はこの額の輪廻の”昔文字”に興味を覚えたことも関係している。輪廻の世界観は、仏教の世界観だが、最近少しづつ、現世とか来世とか輪廻とか、神社の世界観と仏教の世界観を比較しながら、歴史を眺めるようになってきている。

・・・・・東京に、ある異質の神社があり、ある時、なんでこの神社は、”死者の霊を祀っているのだろうか”と疑問に思って以来のこと・・・、本来の神社とは違うのではないだろうか、と思い続けているのが原点にあるようです。権六が、何故に創建を思い立ったのか?・・その思いも、二重三重に歪んで、今に到ったのではないかと・・心にあります。*権六=村田権六(大村益次郎

 ・・参道の脇の滝。日向山山頂近くに寺があるが、水源がどうなっているのか・・不思議。大血川の源流。

 

  ・・甲斐往還(R140)の大陽寺へに入口辺りの、荒川の紅葉・・ここから、大血川に沿って上流へ・・

 ・・大血川・・昔、平将門が乱に敗れた時、その妻である桔梗が供を連れてここに逃げたが、追っ手に囲まれて、全員が自決した。その時の大量に流れた血が川を染めて、その逸話から、この川が大血川と名がついたという。・・・その由縁があって、大陽寺(帒養寺)は戦乱の女性の落ち人を匿うようになった・・とか?

 

紅葉が飾る山容のむこうに、三峰神社があるはず・・・ここからも、山道が続いて神社に行けますが、今日は中津峡にいきます。紅葉を見てきます。

   ・・大陽寺から周囲の山容・・紅葉で色づいて

   ・・大陽寺付近の紅葉

 

場所;秩父市大滝459 電話0494-54-0296 

 

 

 

 


鷲神社と植木のさと・・・

2013-11-11 00:11:20 | 日記

・・鷲神社、由緒板

神社の名前は、妙ではあるが、由来は一般的な縁起のようだ。古い神社は、どうも源某の名前が好きなようで、大概ここらの地の神社は、京都や奈良の朝廷に従わない東北の豪族をやっつけに東征し、途中の地で戦勝祈願した場所が、神社として設立され残っている。戦国時代も、地方の豪族が隣接と戦う前に、古の法にのっとり、その神社に戦勝祈願している。

鷲・・という、他ではあまり類を見ないが、大鷲神社とすれば例は多い、規模の小型の由縁か。

・・鷲神社奥の院

 

この地は、周囲より標高をもつ台地で、職業は農家に分類されるようだが、いささか風景を異にする。野田、代山辺りから安行、峯八幡辺りまでは、日本では有数の植木の育成供給地である。下の写真は、その植木の苗畑の様であるが、ここの季節の色は趣がある。特に、秋と春は、付近の私道とも覚しき迷路のような細道を散策するのが楽しい。目的の神社や仏閣を地図で探し当て、訪ねても、一発で目的地に到った試しがないが、ここの季節の色は、疲労感などを感じさせない。

・・庭の植木の苗木

・・同上・そのまま庭に・・・

東武野田線の大宮駅の次の次の駅が大宮公園駅で、公園と反対側に盆栽町がある。ここは昔盆栽村と呼ばれていた。関東大震災の時、東京の小石川付近の植木職人や盆栽業者が集団移住して形成された集落という。のちに地元の盆栽好きもここに住居を求めて移住し、今や世界的に有名な盆栽の町になったという。しかし、現在、ここは造園業・植木業・園芸農家が存在しないことも特色である。

勝手な想像であるが、関東大震災で東京を離れた植木業、造園業の商売を重視した人達は、もっと広域に、植木苗場が豊富に作付けできる、さいたま市緑区や川口市安行などへ分流して、ここに一大植物園の植木の苗場をつくったのではないかと思っている。先日、群馬の御荷鉾山系の端の三波河原の三波石という庭石の産地を見て、今日ここに、植木を見て、日本の庭園を思ってみたが・・・実は、マンション住まいで・・・叶わぬ夢・・・

 

場所;鷲神社・・埼玉県さいたま市緑区南部領辻

 


金鑚神社 ・・砂鉄の神社か 武蔵二宮 

2013-11-06 00:18:51 | 史跡

金鑚神社 あるいは金佐奈神社ともいう

  


金鑚神社・・かなさなじんじゃ・・は、式内社、武蔵国二宮(五宮説有り)。式内社とは『延喜式神名帳』に記載されている神社をいい、『延喜式』の時代・延長五年(927)に記載されている。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。官幣中社は国家の保護を受けた神社で、明治になって改めて、近代社格制度で確認登録される。


金鑚とは・・
1火打石・火鑚金が御霊代となっているから、2金鑚とは、砂鉄を意味し、神流川で良質な砂鉄がとれ鉄の材料になった。砂鉄の採集地を鉄穴(かんな)というが、神流川は金鑚神社の近くを流れている。銅もとれたらしく祭神は金山彦であるともいう。
「金鑚」の語源・・・砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫している。・・・現在も神流川は砂鉄が多い。また砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。

 
・・・・・社伝によると景行天皇の四十一年(111)、日本武尊が東征に出かけるとき、叔母の倭姫命から草薙剣をもらい、その時一緒に貰った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽(御室山)に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀とあるが・・・??。その後、欽明天皇二年(541)に日本武尊を合祀・・・??。延暦二十年(801)に、坂上田村麿が蝦夷平定を祈願し、?永承六年(1051)には源義家が蝦夷平定を祈願、?なぜか東国平定のために皆が立ち寄ったことになる。・・・果たしてどこまでが本当か?


別当寺・・旧別当寺で現在は独立している。大光普照寺 - 通称「金鑚元三大師」


中世には武蔵七党の児玉党の氏神として崇敬され、阿保氏が当社近くの御嶽山に御嶽城を築いた時、多宝塔を寄進して氏神とした。多宝塔は現存しているのでこれは確かである。なお御嶽山は御室山に隣接し、天然記念物の鏡岩がある。

 ・・鏡岩


なお、最近の説に、御嶽山と御室山の両方を金鑚神社の御神体山としているのを多く読むが、これは誤りで、御神体山はあくまで御室山のみである。ちなみに御室は霊廟所を意味し、大陸系の風習であることから、ここに渡来人(・朝鮮系)の豪族の墓があったのだろう。

            ・・・これは、中門。中門の裏は山であり本殿はない。奥が御室山・・御神体山


特徴・・
神社の原型を示す。本殿を設けないで、御神体を”山”・・「御室山」とする。この類型は、諏訪神社(長野)と大神神社(奈良)の三社が代表。極めつけは、信濃安曇野の穂高神社で、奥の院の御神体は穂高岳で、山脈を御神体として雄大である。他に原型とされるのは、岩や滝など自然のものを御神体とする神社も多い・・那智神社(ここの御神体は滝)など。これらの神社は、古代祭祀の面影を残し、古くより崇敬を受けた。


多宝塔(重要文化財)・・・

・・・阿保氏からの寄進。(阿保氏・武蔵七党)


境内

・・・境内から拝殿を臨む

 

       ・ 行春や 鳥啼魚 の目は泪 ・       ・芭蕉

          ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ

 

・芭蕉の句が刻まれている。芭蕉が奥の細道への旅たちで江戸を離れる際に作ったとされる有名な句である。

でも、なんでここにあるのかが分からない。たしか、千住辺りが出発点だった気がするが・・・

ここから、延々と鏡岩に向かって500Mの道沿いに、句碑が並ぶ・・・壮観なり

 

華奴蘇奴国 中心地説・・・『魏志倭人伝』の記述、倭人の国の一つである「華奴蘇奴(かぬそぬ)国」の中心地とする説(山田説)がある。この説によれば、華奴蘇奴は、金鑚神社を中心とした国であったとする。その説を裏付けるかのように、児玉郡は埼玉県内でも最古級の古墳があり、説に見合うだけの歴史があるようだ。

追記・・・

「たたら」跡地の探索

「たたら」跡地の探索は、今となっては困難を極める。製鉄の方法で、「たたら」の製法が使われなくなって久しい。
その、可能性を探る方法としては、「たたら」製鉄方法の流れから、確認しなければならない。その方法に見合うところが、この北埼玉の地方にあるのかどうか・・・。
まず、「たたら」の製鉄所が多く確認される、島根南部地方から、「たたら」を学ぶ。
・・・島根県南部の中国山地は、風化花崗岩地帯という土質のため、良質な砂鉄が多く産出された。それを原料に、古くから「たたら」と呼ばれる製鉄が盛んに行なわれてきた。
まず、砂鉄含有の多い土質を掘り出し、流れのある川に入れる。比重の重い砂鉄は、近くに沈み、他の土砂は流される。・・・基本的に砂金も同様な採取方法・・・
つぎに、山腹に横穴を掘り、粘土製の炉のなかへ、原料である砂鉄と燃料である木炭を交互に装入し、砂鉄を溶かして鉄の塊を得る。これが「たたら」の製鉄法です。作業は3~4昼夜にわたって行われ、最終日には炉を壊して炉の底で成長した約4tにもなる鉄の塊「ケラ」を取り出します。
たたらの操業は、「たたら師」と呼ばれる職能集団によって行われました。たたらの技師長であり砂鉄を装入する「村下」がすべての責任を持ち、村下の指示によって砂鉄を装入し木炭を管理する「炭坂=裏村下」、木炭を装入する「炭焚」、ふいごを踏んで風を炉に送る「番子」が一体となって作業をしました。
良質の鉄を得るためには指示をくだす村下の役割が重要であり、炉から吹き上がる炎の色を読むという一子相伝の技術が必要でした。たたら製鉄は、炎との格闘であリー歩間違えれば炉の爆発もある危険なものでした。
鉄穴流し・・・たたら製鉄の原料となる砂鉄の採取方法。斐伊川・飯梨川上流域の奥出雲地方から鳥取県日野川流域にかけては、良質の真砂砂鉄が分布していた。花崗岩の風化土を切り崩し、流水を利用した比重選鉱法であるこの採取法は、土砂から砂鉄を選別する優れた方法だったが、下流域に大量の土砂と汚濁水を流下させるなどの悪影響を及ぽした。いつからか下流域の農家との取りきめで、この作業は秋の彼岸から春の彼岸の間のみ行なわれるようになった。・・・島根・出雲の「たたら」の歴史より
この「たたら」の歴史に沿って、「たたら」跡を探索するとすれば、まず、砂鉄が含まれる風化花崗岩地帯という土質かそれに類する土質が必要になる。これが、この地方にあるのかどうか、・・・。そして、粘土製の製鉄炉が可能となる横穴、大きさは、たたら師5-10人ほどが作業できる広さの横穴と言うことになる。そして、この横穴の近在に、流れのある川(沢)と砂鉄含有の土質の堀跡が条件になる。「ふいご」などの製鉄の道具でもあれば、決定的に思える。さらにさらに、この鋼鉄を受け継いで発展した職業群落、「刀鍛冶」や「農具鍛冶」でもあれば、有力な傍証ともなるのだが、・・・

残念ながら、金讃神社にも付近にも、これらの痕跡は見つけられなかった。もしかして、「ある」のに見つけられなかったのか、「あった」のに風化して痕跡をなくしたのか、分からない。昔の知識人が、言葉に注目して想像をたくましくして、無理矢理に金讃と砂鉄を結びつけてしまった可能性もある。

昔々、「卑弥呼」の時代に、この児玉郡は金讃神社を中心に、国家をなして栄えていたという説がある。部族の力は武力の力でもあり、武力の力の優位性は鉄製造の技術に裏打ちされて可能であったと思う。その意味で、この北埼玉の砂鉄の跡を探してみました。

 

住所;埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮750


三波石渓谷の秋・・・

2013-11-03 11:49:32 | 日記

金讃神社に行った時、寄ってみた。

金讃神社は、埼玉県児玉郡にあり、直ぐ隣が群馬県鬼石町。鬼石町には、有名な冬桜の”桜山公園”があるが、一度来たことがあるので、もう開花時期を過ぎて、冬桜が咲いていることは知っていたが、”三波石渓谷”の方に行ってみた。

・・・下久保ダム このダムだ出来たことにより、ダム湖・神流湖が誕生した。下から見上げると流石に迫力あります。

また、このダムの建設により、一時的に、三波川は干上がり、無水川となって、渓谷の奇岩など川沿いに散在する、有名な三波石が黒ずんで、石と渓谷の風景を破壊したが、水量を調整いしながらの放流は、渓谷美と三波石を復活させた。

                    

                    

この緑がかった石は三波石と呼ばれ、いまや天然記念物に指定される。従って、現在は採掘が、規制で不可能と思われるが、かっては”庭石”として最高級の取り扱いがされていたらしい。下世話な想像だが、写真の上の石など、O千万円の価値がありそう・・・鬼石町は、町の名前も奇妙だが、庭石の石屋さんがいたるところにある。

・・・ 鬼石」の語源はアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説もあるが、不明である。

渓谷の秋・・紅葉が始まっています・・・

  

              *そうせきばし

             

*そうせきばし・・・漱石枕流・・流れに枕する理由は雑言を聴いた耳を洗うため、石に嗽ぐ理由は悪口を言った口を洗うため・・から拾って命名。河原に突き出たゴロゴロした岩を”歯”に見立てたのでしょうか・・・夏目漱石とは関係なさそうです

 三波石渓谷の紅葉は、始まったばかりのようです。秋の深まりとともに、紅葉の色を濃くして、エメラルドの川の色と対比して、コントラストの美は、目を楽しませれくれそうです。

三波石の三波の名は、どうやら渓谷美だけのものだけではなさそうです。どうも、日本構造線の外側に全国に変成岩帯として分布しており、固有名詞ではなく普通名詞になっているようです。地殻変動・・造山活動に連動して出来た地帯で、この地層から、多くの”化石”が発見されています。

*三波川変成岩帯は中央構造線のは外帯に接する変成岩帯である。日本最大の広域変成帯とされ、低温高圧型の変成岩が分布する。名称はここの場所名から取られた。利根川流域の御荷鉾山鉾山の北麓を源流とする三波川産出の結晶片岩を三波川結晶片岩と呼んだことに由来する。分布は関東山地から諏訪湖・上伊那を経て天竜川中流域、紀伊半島、四国から九州の佐賀関まで1000Kmに及ぶ。生成はジュラ期から白亜紀後期までとされることから、化石の含有が多いことでも有名。・・・

かつて、御荷鉾山系のスーパー林道に憧れて、林道ドライブを計画したことがあったが、いまだに果たしてない。ここは、林道の草分け的な存在だった。・・・四駆の流行始めの頃の話で、もう昔話・・・

そういえば、この近くから恐竜の骨が発見されて、「恐竜センター」もこの付近でした・・・

 


柿の実のなる秋

2013-11-01 23:48:07 | 日記

柿の実のなる秋

近くの公園の近く・・・柿の木の葉が色づいていました。

      

柿の実の色を、オレンジと言うか?どうか知りませんが、撓わに実っています。
秋の風物詩に、”すすき”と”柿”は欠かせません。特に柿の色づきは、涼しくなった秋風の中で、何故か心を温めてくれるような気分にしてくれます。

                

                    「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」・子規、

と言う句がありますが、子規の随筆「くだもの」の中で、あの鐘の音は、実は東大寺の鐘であることを明かしている。


・・・奈良の宿で、出して貰った柿を食している時、東大寺の鐘が鳴ったそうで、その場で、句の発想が暖められたが、俳句の絵画的な背景には、法隆寺が似合うと思い、翌日に法隆寺を訪ねる予定であった。翌日はあいにくの雨で、結局、法隆寺には行かずに空想で、あの句ができあがった・・・のだそうだ。

子規は、無類の柿好きであったらしい。その中でも、樽柿を好んだという。柿は、甘柿と渋柿に分類され、その渋柿には幾つかの「渋抜き」の方法がある。樽柿は、その中で、酒をまぶして渋を抜く方法。昔、少し酒の残った酒樽に、渋柿をいれて10日間ぐらいすると、酒のアルコールで渋が抜けたということから、樽柿の名がついたという。がしかし、・・・自分はいまだ食したことはない。

信濃の南信地方に、最近急速に”ブランド”化した”市田柿”という干し柿がある。こちらは乾して渋を抜く方法だが、寒暖の差が激しいところで工夫をすると、干し柿の周りに白い粉が吹き出して、和菓子のようになる。・・・これが、市田柿。これを世に送り出したのは、地元の農家ではなく、東京から田舎暮らしに憧れて南信州に帰農したエンジニアらしい。

先日、法事で飯田に行った時、バスの車窓から見た風景は、昔と変わっていた。

林檎の果樹園だったところが、柿の果樹園になっていた。・・・昔は、ほとんどの農家に、2,3本の柿の木があったが、果樹園にはなっていなかった・・・