ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

泉福寺の龍

2017-01-03 13:15:51 | 神社・仏閣

  泉福寺の龍

2016/11/10:「左甚五郎の龍」の中に、・泉福寺(埼玉県桶川市) - 正門の竜  と書いた。
・記事にした手前もあり、訪ねてみた ・・・

 

 ◇山額の写真


 

泉福寺:山号は東叡山:院号は勅願院:房号は円頓房。・・・宗派は天台宗。
 ・東叡山  関東の比叡山。かなり重い・・つまり格式が高い。
 ・勅願院  天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。
 ・円頓房  房 ・・すなわち宿のこと。僧房 ・僧侶の住居。
       円頓 現にあるがままの心に功徳が円満にそなわり,すみやかに成仏するという考え。
       円頓房はおそらく円頓という名の僧侶の住居ではなく、心安らぐ共有の宿という意味か。
       天台宗の教えの中に、”布施屋”の思想がある。”布施屋”とは、・
         難儀の旅人の、救済の宿と施しの食料、病院の薬師。
         本堂を開放して、”入るを拒まず”で、寝食の場所を提供した、とか。


 ◇境内と本堂の写真


         
山門の龍
 よく見ると、針金で縛られています・「雨乞いの龍」


 
 ◇山門の写真


 ・・・逸話・・・http://www.okekan.com/mukashi/senpukuji.html ←”雨乞いの龍”の話も覗いてください。


 
 当たっていないとも思いますが、彫刻の精緻が甘いというか、、
         左甚五郎とは無関係ではないかと思いました。
         山門と阿弥陀堂・向拝の彫物は長坂猪之助友雅「推定」の説もあります。
         
・泉福寺を調べてみると、
    かつて大学林(僧侶学校)を有した天台宗の関東の拠点で、
                         相当な古刹であったようです。
 ・”かつて”とは鎌倉期から江戸初期までの間・
 ・江戸時代・寛永に、東叡山・寛永寺ができて、寺格を引き継がれる。以後泉福寺は勢力を衰退。
   ・・・理由は、江戸将軍家・徳川家の菩提寺が、江戸城近在に必要だったためと思われるが、不詳。
   ・・・江戸・上野の「東叡山・寛永寺」は、「東叡山・泉福寺」の孫寺ということになる。
 ・「東叡山・泉福寺」の大学林は、幾多の戦禍・戦火により規模を失った、とあるが、、
    川田谷の地名や河川からの距離から、洪水の災害ありの方が理に適う。
    昔日の河川の名は、「荒川の西遷」前で、眼前は吉野川が流れていたのだろう。
    なお、この「東叡山・泉福寺」の地籍は、大宮台地の北西端に位置する。
    江戸以前の荒川は、この大宮台地の東側を流域にしていたらしい。痕跡:元荒川と綾瀬川。
 ◇地図・


    
 ・山門の石の仁王像
    ・建立の時期から、高遠石工(たかとういしく)の誰かの作と想像します。
    ・江戸城の石垣作りに駆り出された”高遠石工”集団は、
       その一部は高遠へ帰らずに、石像や石細工を請われて、
         全国に散らばったといわれています。
    ・泉福寺の石像の建立時期が、記載の通りであれば、
       石工の技術者は”高遠石工”しか考えられません。
    ・もし、この仁王・石像が、”高遠石工”作とすれば、
       埼玉で「秩父札所三十一番鷲窟山観音院」に続く2例目になります。


       
 ◇山門の石像の仁王像

 

荒川越しに、眼前に広がるのは、「本田エアポート」
 ・戦中の「桶川・飛行学校」の訓練飛行場の跡地に・・・
   どのような経緯で、本田宗一郎が、そこを取得したかの詳細は分かりません。


   
 ◇本田エアポートの写真  地籍は桶川市川田谷だそうです。