ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

蓮 ・・蓮華

2016-07-28 10:49:18 | 草・木・花 風に吹かれて

蓮 ・・蓮華

蓮畑 ・・・

撮影していると、管理している方が見えられました。

立ち話 ・・

・「この蓮は、なのが目的で栽培しているのですか?」
・「盆の飾りだよ」
・・・・・・

 

盆飾りの「蓮の葉」

 

お盆は、もう直ぐです。
お盆は旧暦の7月15日頃、新暦では8月15日前後になります。
お盆の意味付けは、「ご先祖様が我が家に帰ってくる」ことだと親から教わりました。

 

・・・「迎え火と送り火」は、道案内です。
八月の月明りも、盆提灯も、赤いホウズキも道案内に関係しています。
精霊馬(茄子(牛)やキュウリ(馬))を乗り物に見立てて足を付けるのも、
墓から我が家までの道のりを”難儀しない”ようにという心遣い。
だから、迎えの時は、墓から我が家に向き、送りの時はその逆で・・
眞子(まこも)のゴザの上の精霊棚は、ご先祖の霊への供応だそうです。・・・

 

盆飾りの「蓮の葉」は、お皿替わりで、水の子という食べ物を盛りつけました。
・水の子 ・・きゅうりと茄子を賽の目に切り、洗米を振りかけます。
お盆は、本来仏教の供養行事ではありません。
盂蘭盆会(うらぼんえ)は、釈迦の教えの感謝儀式で、祖霊供養ではないのです。
・江戸時代に、盂蘭盆会と祖霊供養を一体化して広めた宗教政策で、仏教を体制内化して一向宗などの反抗を鎮めました。お盆と先祖供養の読経はこの時から・・

 

仏教は転生ですから、生まれ変わってしまい祖霊は存在しません。
どちらかといえば神教の儀式っぽいのですが、それとも、少し違うみたいで、
”連綿と続く家父長制度”の名残で、おそらく神仏習合の意味の後付けでしょう。

 失礼しました。「家父長制度」は封建制度の遺物で”死語”ですね!


百日紅

2016-07-24 04:08:30 | 草・木・花 風に吹かれて

百日紅

浦和・野田の植木農家で

百日紅のことを深く知っているわけではない。
夏の花。濃い紅と薄い紅(ピンク)と白の花。幹の肌が滑々。最近街路樹でよく見かける。
知識としては、こんな程度の浅学。



夏の花としては、ヒマワリとともに代表格で、開花の期間が長く、妙に懐かしい。

 

ど迫力!7000本の百日紅。

秩父ミューズパーク

 

○百日紅浮世は熱きものと知りぬ・漱石

 

天才・浮世絵師の北斎の娘も・鬼才・絵師であった。

  その物語の題名が「百日紅」。←:押すと内容に飛びます
  その物語の作者が漱石の俳句を知っていたか否かは知らない ・・・

 

○さるすべり 古寺の閻魔の脇に咲く ・庄


永六輔さんが亡くなりました

2016-07-17 23:50:39 | ひとりごと

永六輔さんが亡くなりました

こちらが一方的に知っているだけで面識があるわけではありません。
友人のツイッターで、永さんのことが書かれていました。ちょっと紹介 ・・・
 ・・・ 「永六輔さんが亡くなった。永家は三河から家康について江戸に出てきたお家だそうで、徳川びいきでした。徳川昭武の記念館の準備で夢中だった頃、羽田空港で突然声をかけさせていただいたら、しばらくして戸定歴史館を訪ねてくださいました。」 ・・・
 * 戸定歴史館は、松戸にあります。徳川昭武は、最後の将軍・徳川慶喜の弟で最後の水戸藩主、戸定は水戸藩別邸、戸定歴史館は大名屋敷を再現したものです。
 
甲高い声で物腰は柔らかいが、戦争を嫌悪することを体臭として発散していた人でした。
江戸文化や古き物への愛着や憧憬が深く、その知識が豊富だったことも記憶しています。
今このブログにたびたび登場する神社のことは、かって自分は、神社の社叢の薄暗さや陰湿さが嫌いだったのですが、ある切っ掛けでたびたび訪れるようになり、その価値観を変えるのに、永さんの神社の知識に助けられた部分があると思っています。

足立神社があります。安達も安立も足達も阿達も同類です。かつて武蔵野に足立郡なるものがありました。その範囲は広大で、中心は武蔵一之宮です。武蔵一之宮は現・大宮氷川神社のことです。この足立郡の一帯に村社を建てる必要があったとき、氷川神社と祭神を同じくしながら、同名を憚って、郷名をつけた”足立神社”が各地にできました。ですから、旧名を異にしながら明治期に改名されたものが多い。その頃の足立郡の名残は、東京の足立区と足立神社だそうです。この知識は、永さんのラジオ放送からです。知れば、永さんは仏門の住職の息子であったそうです。

戦中の永さんの疎開先は、信州・小諸の三岡というところのようです・・・(小諸から小海綿に乗り換えて三岡駅からはリヤカーを借りて……。)。そこで幼年を過ごし、当時の上田中学(現・上田高校)の一年の時東京へ戻ったということです。
この、信州・佐久は、早稲田高校の同級生で仲間だった渥美清が、仕事の疲れたとき誰にも告げずに訪れていた第二の故郷だったそうです。
このきっかけは、永さんと渥美さんの二人だけのエピソードかもしれません。

後日訂正:
高校の同級生ではありませんでした。
永さんの高校生時代、「ラジオつくり」に熱中していたことがあり、入り浸っていた秋葉原で顔なじみになった違うグループの「ラジオつくり」の仲間、だったそうです。訂正します。

昭和を駆け抜けた骨っぽい人が、また逝ってしまいました。
今日は、「水原ひろしの”黒い花びら”」でも聞きましょうか。

  

 


寺山の廃寺・と ひまわり

2016-07-17 15:41:59 | 神社・仏閣

  寺山の廃寺・と ひまわり

地籍は、浦和・緑区 寺山 ・・・

「寺山」を地名に持つということは、かって、周囲の信仰を集めた寺があり、付近は緑が多いところ、と勝手に想像した。
その寺に興味を覚え、散策した。
場所は、”浦和東高校”裏手、後背を緩やかな斜頸にした”植木農家”の中に存在した。
ちょうど、”さぎ山記念公園”と”浦和東高校”の中間に位置する。

”浦和東高校”は、日本代表のサッカーのゴールキーパー・川島選手の母校です。

その建物は、少し荒れていた。屋根はトタン屋根、錆び赤が斑になっている。
建物の前に祠が立ち、脇にも朽ちた祠があった。

祠の中の、仏像

朽ちた祠の中の、烏帽子像


山号も寺名も確認できるすべがなく、どうも、”廃寺”の如く,である。

手前の畑に、夏の花・ヒマワリが咲いていた。