ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

河津桜、いま二分咲き ・・・

2015-02-27 16:41:52 | 草・木・花 風に吹かれて

河津桜、いま二分咲き ・・・

 

春は名のみの 風の寒さや ・・
しかれども 河津の桜 
見沼用水の岸辺に 二分に咲いて、・・
やがての春を 僅かに告げる

春近し の季節になった。


早春賦 作詞者:吉丸一昌、作曲者:中田章

春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

氷解け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空

・・

情景は、安曇野あたりの早春。
この郷の中学校(現・高等学校)の校歌を作りに来た吉丸が、
安曇野の寒さ、そして春の暖かさを詠ったという。

吉丸一昌
大分県臼杵市出身。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。
文部省・尋常小学唱歌編纂委員会の作詞委員会委員長


河津桜の特徴
一月下旬から二月にかけて開花する早咲き桜である。
花は桃色ないし淡紅色で、‘染井吉野’よりも桃色が濃い。
また花期が一ヶ月と長い。


梅園の梅と福寿草 & 貝塚

2015-02-26 09:31:18 | 草・木・花 風に吹かれて

梅園の梅と福寿草 & 貝塚


安行梅園 (in 植物振興・梅園)

大変珍しい、夫婦枝垂れ梅の木 ・・・梅の実が二つ重なる

梅の実

この梅の木が神社にあると御神木とされ、祭神の御神徳により子授けの霊験があると伝えられています。
その場合、御祭神は、木花咲耶姫で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の妻とされることから二命が祀られることが多いそうです。
・・・しかしここは神社ではありません。

梅園 ・・・

 

 

福寿草

○ 風花の 舞い落ちてさき 福寿草  ・・庄


白鳩椿 名前がおもしろい

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安行梅園に隣接した貝塚

安行の貝塚 ・・・猿貝貝塚

安行氷川神社の脇の道を神社裏の広場に沿って北に向かって数分歩き、ブロック塀が途切れた地点の左手に森に入る小径があり、その小径を約50m入った辺りから、左側斜面に貝殻を多数見ることができます。・・この貝塚は縄文時代後・晩期の遺跡で、外環自動車道の建設に伴い発掘調査が行われました。・・隣接する猿貝北遺跡では昭和56年の発掘調査で、平安時代の製鉄炉6基、奈良時代後半のものと思われる住居跡2軒など多数の遺跡・出土品が発掘されています。

貝塚風景

少し分かりぬくい場所 ・・・

安行氷川神社・隣接で安行氷川公園。まずここを目指します。

少し下って行くと、左に小径があります。貝塚への道。

貝が散らばっている

猿貝貝塚の貝殻 ・・・泥を洗い落とした状態

この穴は、たたら跡? 墓?

隣接の、猿貝北遺跡からは、たたらの跡が発見されたそう!、どこからが北遺跡か分かりません。

 

ここは、大宮台地の端っこです。縄文時代は半島で、海に突き出た状態ではなかったかと想像しています。

この先、川口・新郷にも貝塚(大規模)が発見されています。低地の方は、弥生と古墳時期の遺跡群が、かなりの数散在しています。


 

翌日談 ・・・
猿貝北遺跡の場所も分からぬままで、なにか消化不良のよう、気分的に冴えません。
そこで、翌日発掘に携わった人のブログをネットで見つけました。


確認したのは、猿貝北遺跡 住所:安行大元805
かなり近くに持宝院という寺があります。持宝院住所:安行大元803


それに下記の文書と猿貝北遺跡図面があります。
「この遺跡は外郭環状道路の建設工事に伴い、埼玉県埋蔵文化財調査事業団が1981年10月から1983年7月まで、記録保存を目的として、発掘調査しました、大宮台地の東南の鳩ヶ谷支台にあり、川口市安行(大元)に位置しています、埼玉県選定重要遺跡の猿貝貝塚と隣接しています。」
「猿貝貝塚の北側には、東から西へと沖積谷が深く入り込んでいます、猿貝北遺跡は、この沖積谷とその谷頭、およびその沖積谷と挟んで猿貝貝塚と向かい合う洪積台地にかけて立地しており、遺跡全体の範囲としては、猿貝貝塚を含めた範囲が想定できますが、製鉄遺構が存在するのは、猿貝貝塚と向かい合う台地の南側傾斜面です。」*図面地図は、北が上ですから、南側傾斜面はおかしいように思いますが・・

 

猿貝北遺跡図面

 

これで何とかなりそうです。
ぬぬ!図面を見ると、猿貝北遺跡のほぼ中央に、外環自動車道が走っています。猿貝貝塚と猿貝北遺跡は谷を挟んで向かい合う形・・・遺構の真上に自動車道が建設されたようです。かなり複雑な気持ち ・・・

 

上記は、猿貝北遺跡の端っこの部分 

製鉄遺構は、砂鉄の存在が前提です。この台地・大宮台地の鳩ケ谷支台は泥炭が確認されることから、砂鉄の礫層が存在するのかも知れません。あるいは、旧入間川が、上流から砂鉄を運んできたのかも知れません。
それにしても、川口は、鉄に関係する歴史の多い所です。



入間川と入間様

2015-02-23 01:01:39 | 歴史

入間川と入間様

写真:入間川・加治付近

「入間様」という奇妙な物言いは、実は狂言の中にある。
正直申せば、歌舞伎も狂言も浄瑠璃も・・・その他の古典芸能については、言葉を知っていても、興味もなければ知識もない、無知文盲の輩を自覚している。従ってテレビにその類が写れば、自然とチャンネルを変えるか消すかする方に手が動くというありさま。
こんな自分が、狂言・「入間川」をたまたま読み、「入間様」に、突然興味を抱いた。「入間様」は、”いるまさま”ではなく、”いるまよう”と読む。

狂言・「入間川」 ・・
シテ 大名:山本東次郎、アド 入間の何某:山本則俊、小アド 太郎冠者:山本則秀

左側が大名の山本東次郎氏・重要無形文化財保持者(人間国宝に)

前知識:・・予備知識として、入間川の名に伴い、、その当時、「入間様(いるまよう)」といって、言葉遊びが流行っていたことを頭に入れておく。・・この”入間様”というのは、全く逆の意味を言う”逆さ言葉”のことだという。例えば、楽しい時に「楽しくない」、怒っていないときに「怒っている」、泣いているときに「笑っている」、そんな言葉のキャッチボール遊びを下敷きにして、この狂言は始まります。


あらすじ・・

大名が、入間川にさしかかり、川を渡ろうとします。
そこで登場するは、ちょうどあたりを通りがかった「入間の何某」。
大名は、地元の何某に渡り瀬を尋ねます。
「入間の何某」は・・「このあたりは川底が深いから、もうすこしむこうで川を渡りなさい。」親切にも、渡り瀬を教えるのですが、大名は、まるで無視して、太郎冠者や何某の止めるのも聞かず、目前の川瀬を渡りはじめます。・・案の定、深みの石に足を取られて、濡れ鼠になる大名。途端に、大名は激昂して、入間の何某に向かい刀に手を掛けます。
「大名」は・・「入間の何某と名乗るなら、当然、入間様を使うはず。入間の者が、ここは深いというならば、浅瀬の筈。大名をまんまと騙して濡れ鼠にさせた罪は重い。手打ちにしてくれるわ!」
さて、入間の何某はピンチ! どのように切り抜けるのでしょうか?
件の入間の何某は、これに騒がず、「なら、どうする?」と問えば、
「大名」は、・・「弓矢八幡、成敗いたす」と誓わせ、
「入間の何某」・・「やら心安や」と述べます。
つまり、「成敗いたす」は、入間様にしたがって意味を考えると「成敗しない」と言うこと。
大名が入間言葉を持ち出したのを逆手にとって「成敗する」と誓わせたので逆に成敗できないだろうという理屈です。
ここから逆さ言葉を使っての応酬になります。
命を助ける、助けない。忝ない、忝なくもない。物を与えても、祝着にもござらぬ・・・などなど、やり取りが続いて、大名は様々な物を男に与えます。
そこで入間の何某が、頂き物を持って帰ろうとすると、大名が引き留め「入間様を除けて真実を言え」と持ちかけ、男が「身に余ってかたじけのうござる」と言ったのをタネにして、与えた物を取り返し退場する。

読み終わってその時は、なんで入間川が”逆さ言葉”なのか、なんで逆の意味が”入間様”なのか、皆目見当がつかなかった。
だが、物語自体は、洒脱で面白い。本当にあった話とも作り話とも取れるが、娯楽としては、秀逸のもののように思えた。中世・鎌倉・室町・戦国の題材だろう。その頃は防御のため、川に橋を架けなかったそうだ。しかし大名が登場するのは、秀吉以降の時代になり、そこは辻褄が合わないが、狂言の文化は江戸時代に花が咲くから、地頭とか豪族を大名に書き換えたのだろう。とりあえず、訝しげなところをそのままにして、暫く忘れていた。

最近、見つけた埼玉南部の古墳群地図を眺めていた。
考古学の趣味は、あまり熱くはないが、多少持っている。地図を見ながらあれこれ考えるのは楽しい。

写真・旧入間川(毛無川)水系

大宮、浦和、鳩ヶ谷、川口、さらに都・足立区にある古墳群は、弥生時代に集中し、合計すると500を超えるのだろうと推定される。あるいはもっと多いのかも知れない。
古代の食料採取は、海辺や川辺が容易であったのだろう、このことは貝塚から発見される貝殻を中心とする様々な骨から想像することができる。飲料水と川魚も、重要な生活の糧であったのだろう。
古墳群を見ると、植水、側ケ谷戸、大久保、土合、白幡、新郷、谷塚、伊與などの地名の下に古墳群の文字が付いている。その側に旧入間川が流れているのだ。旧入間川は、鳩ヶ谷辺りから毛無川に名前が変わっている。入間川の水路は、伊奈郡代の荒川の西遷で、荒川に変わったが、それからずいぶん前の古代・弥生時代の話である。縄文時代を加えないのは、関東平野の海岸線の南下が弥生時代の寒冷期と重なるという結論が出ているからだ。古墳群のある所は縄文期は全て海の底。

毛無川・入間川の流域 ・・こういう文書も見つけました。

毛長川は川口市の安行慈林に端を発し、鳩ヶ谷市境を下り、川口市江戸袋付近から草加市にかけて、東京都足立区との境をなして東へ流れ、綾瀬川に注ぐ小河川ですが、かつてこの川筋を入間川が流れていた頃はかなりの大河でした。足立区の伊興遺跡付近では当時川幅400m程度の河道があった事が分かっております。
古墳時代の入間川は利根川水系の主流であり、川越市付近から、さいたま市の旧大宮市西部、旧浦和市の大久保、文蔵地区を通って川口市の芝、鳩ヶ谷市の辻、里地区に至り、三ツ和を経た後に現在の毛長川に沿って流れ、足立区の千住付近で東京湾に注いでいたと考えられています。
旧入間川は両岸に自然堤防を発達させ、これら低地部に沖積平野を形成して行き、古墳時代になると足立区北部迄はほぼ陸地化したと考えられております。
草加市西地総田、東地総田、足立区舎人、伊興、花畑等の遺跡は弥生時代終末期~古墳時代初期にかけてほぼ時を同じくして出現しており、古墳時代に入って、低地部の陸地化に伴い、人々がこの自然堤防上に生活圏を拡大していった様子を伺い知る事ができます。

写真・旧入間川・東遷前

確認の意味で、伊奈郡代の荒川東遷前の河川図を眺めてみました。
河川は、関東平野奥地の各山岳部より、扇の要のように江戸に向かって絞り込まれていく様子が見て取れます。これでは雨期に、江戸周辺で、洪水が起こるのは必然です。利根川と荒川を分離する事業は、希代の大事業です。この関東平野の河川図に、その絵を描き実行した人は偉業です。伊奈関東郡代に尊敬を禁じ得ません。

この河川図を見ていて、一つだけ異形の水路をとっている川を見つけました。概ねの川は、水源から多少の蛇行を繰り返しながらほぼ東京湾に向かって流れ注いでいますが、入間川だけ、右上に流れ、やがて右下に流れています。
これだと、・・・
青梅から大宮氷川神社に向かうと、ほぼ東から西へ一直線に向かうとすれば、最初に入間川を渡るときは、水流は”右から左”へ流れ、氷川神社近くの入間川を渡るときは、流れは”左から右”に流れています。同じ川の、”逆さの流れ”です。その頃、そんな道があったかどうかは知りません。


ああ・・これが「入間様(いるまよう)」なんだ。

入間川・出丸橋付近


大宮・普門院

2015-02-17 12:11:22 | 街 探求!

大宮・普門院

由緒 : 今は昔・・、応永三十三年(1426)の正月のある夜のことである。
武蔵国一ノ宮、氷川大明神(現、氷川神社)の神主、岩井常陸介が不思議な夢を見た。
 ・・ 白髪の老翁が枕元に立って、「いま社頭に一人の高僧が仮寝の夢を結んでいる。この方は希有な知識があり、高僧である。よってこの方をこの地にとどめて布教せしめよ、西方の観音堂に案内するがよい。」 ・・ といい終わると消えた。・・神主は目覚めて、そ夢を不思議に思い、社頭に行ってみた。 ・・ と、一人の僧が社殿で寝息をたてている。この寒夜に安眠できるとは、よほどの修行者 ・・この僧こそ曹洞宗の巨匠、月江正文禅師であった。 ・・これが普門院創設の端緒となった。

時の領主・金子駿河守大成は、寺号を経『観音普門品偈』の普門をとって普門院として、自らの城郭地に開基し、月江正文禅師を迎えた。
大宮・大成 ・・・地名の裏を覗くと、”大成”の由来が見えてきました。地名に、人名が残る例は幾つかありますが、共通しているのは、その領主が地元民に愛されていた証のように思えます。

*氷川神社の神主・岩井家は、おそらく物部系流であろうと推定する。神道・大明神の最高位は大祝であり、大祝は、”おおほうり”と読む。それに準じるの神職が祝であり、いつの時代にか、”ほうり・祝”が”いわい”に読み替えられて、岩井家になった、とする推論である。・・・しかし根拠はない。

この寺は、幾つかに顔があるが、・・・

この寺は、江戸末期の幕臣・小栗上野介の菩提寺で墓がある。しかし小栗の墓は三つある。

小栗上野介は上野・倉渕で斬首されたが、普門院の寺小増が密かに盗み帰り、当地に埋葬したという。
当時逆賊の汚名があり、密かに埋葬するも目立たぬように、丸石にしたという。

小栗上野介・・ 
小栗上野介は文政10年生まれで、二千五百石の幕府直参であった。秀才であった彼は、万延元年三十四歳の時井伊大老から日米通商条約の遣米使節の一員としてアメリカへ派遣された。帰国後、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、海軍奉行と数多くの役職を歴任。・・慶応四年、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍徳川慶喜に対し、主戦論を強硬に主張して、その職を解任された。以後、薩長維新から、幕府強硬派の主導者として睨まれ、追跡される。上野介は、上野・権田村(現、倉淵村)で捕縛される。「農兵を養成し謀反を企てようとしている。」として逆賊として烏川原で斬首刑となった。四十二の歳だった。
こうして、幕府側の開明派の俊才は、幕府側に生まれたが故に維新側から睨まれて散ったという。

・・大成館跡, 金子駿河守大成が居住したと伝えられる室町時代の館跡。 形状は正方形で面積は三万平米に及ぶ。土塁・空堀・水堀等の遺構とその残影が境内西側にあったが、今はない。

大成館(大成城)跡:当時の面影はない

『新編武蔵風土記稿』・・「普門院、上野国白井村多林寺末、大成山と号す。本尊正観音。開基は金子駿河守なりと云。永享七年(1435)八月廿四日卒し、幻公庵壽居士と諡せし由寺記に載たれど、その事跡詳ならず。又當境内は駿河守の城跡なりともいへり。」
  ・・境内にある金子駿河守の墓・・「是も文字摩滅して詳ならず。永享の二字わづかに読べし。」とある。
『新編武蔵風土記稿』・・「古は金子庄とも称せしよし伝ふれど、當村は昔金子駿河守の知行なりしゆへ誤りいへるならん。又大成は彼駿河守の名乗りともいへり」
・・普門院門前には「金子」の表札を出した大きな家が一軒あった。金子駿河守と繋がるかどうか、は詳しからず。

普門院からそう遠くない地に櫛引氷川神社がある。荒脛巾(アラハバキ)を祀ってあるという。さらに天目一命も祭神にしているという。

櫛引氷川神社


荒脛巾(アラハバキ)は、産鉄と関係があると言われるが、普門院のある大成に鴻沼川が流れ、川に架かる橋は”鍛冶橋”といい、この川沿いは”鍛冶屋堤”と言っている。

確かに、由緒書きに”アラハバキ”の文字はあるのだが、祠は見つからない。(右拡大図)


『新編武蔵風土記稿』には・・「鍛冶屋堤、今は堤もなし、昔鍛冶の住せし処と云」という記録が残る。

鴻沼川:この川の堰堤は、かって鍛冶屋堤といったという。鍛冶橋は、この辺りだが、見つからない。

そういえば、少し前、入間川の沿岸の”砂鉄の寺”を調べたことがあった。

 参照:(2014-11-28 22:28:41 | 歴史) 加治丘陵の麓にある寺 
      ・・・ 砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子

 

入間・仏子の金子家は砂鉄の寺・高正寺の開基で加治・鍛冶族。普門院の開基の金子家は付近に鍛冶橋や鍛冶屋堤を持つという。
偶然にしては、不自然に思う。まして、江戸期に関東郡代の伊那忠治の荒川の東遷までの中世に、入間川は足立の郷・氷川神社の氷川の原の懐深くまで剔り込んでいたのだ。入間川流域を制していた金子党が武蔵一宮の氷川の原を金子党の翼下に治めることは極めて容易に思う。そこで金子一族のことを調べて見た。

 

普門院の”金子駿河守大成”は、武蔵七党の村山党の一支族・金子党の系流なのかも知れない。それにしても、なぜ入間川流域を勢力範囲にしていた、製鉄氏族・金子一族が、武蔵一宮の近くに出現しているのか、それも鍛冶の職業を伴って ・・ この歴史的背景は大変興味を惹かれます。金子駿河は、金子家光のことだという説もあります。

 

『新編風土記稿』には「境内は(金子)駿河守の城跡なりともいへり、今も東北の方に、から堀など残り住居の跡なる事知らる」と言う記述がある。そもそも新編武蔵風土記稿とは、文化・文政期(1804-1829)に編まれた武蔵国の地誌です。境内は、普門院の境内のことで、江戸時代には城跡があり、空堀などがあって住居跡を示している、とあります。
源平合戦の頃・・・
鎌倉時代少し前 金子彦十郎家忠(入間の豪族、武蔵七党の村山党に属し、多摩から指扇辺りまでを領地)は、源頼朝の平氏打倒に抵抗し、河越重頼や畠山重忠らとともに平氏に与していたという記録が残っています。坂東平氏が、頼朝に抵抗したのは最初だけで、やがて畠山重忠を中心に坂東平氏は、頼朝に靡いて行きます。金子党も、例外ではなく頼朝の御家人になっていきます。
やがて時が経ち、室町時代・・・
入間川流域を拠点にしていた金子党の金子家範は加治の瑞泉寺に館を構えます。瑞泉寺には金子一族の宝篋印塔が今も残っているそうです。入間川・仏子には、家範の子金子親範が住み、砂鉄の寺・高正寺を開基しています。
この頃、大宮・指扇は入間川の下流でした。入間川流域に勢力を伸ばしていた金子党は、金子家範の末裔を指扇に置き、金子山城を作って居城としていたようです。大成城は、金子山城の支城的存在で、城と言うより、職業氏族・鍛冶集団の中心的館ではなかったか、と思われます。この領主が、大成城の金子駿河守家光で、その祖は金子家範であり、武蔵七党の村山党であり、金子党でありました。

 

この金子駿河守は、金子駿河守家光とあり、他書に金子駿河大成ともあるが、家光が名を示し、大成は法名であろうと思われる。
この指扇の金子氏は、戦国時代に金子彦十郎の代になって、河越氏と争い敗れ滅亡したと伝えられている。

 

 

普門院・伽羅の木

これほどの大きなキャラは珍しいという。幾星霜を過ごしてきたのやら ・・・


 


棟方志功 木の精霊への旅路

2015-02-12 02:37:03 | 美観・芸術

棟方志功 木の精霊への旅路


「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は。
相槌の火花を散らしながら。
わだばゴッホになる。
裁判所の給仕をやり。
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。
わだばゴッホになる。
とわめいた。
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにはならずに。
世界の。
Munakataになった。
古稀の彼は。
つないだ和紙で鉢巻きをし。
板にすれすれ獨眼の。
そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
彫る。
棟方志昴を彫りつける。
※原文のまま


埼玉新聞10月15日(土)版には以下のようにありました(2011)。
「・・・・市内の寺を見て歩いた時に、簡素な鉈(なた)彫りの仏像や神像が散在することに気付いた。円空作ではないかと考えた秋山さんは、9月に、円空仏に造詣の深い棟方に、仏像などの写真と手紙を送って鑑定を求めた。・・・棟方は約束通り同市を訪れ、秋山さんの案内で、同市南中野の正法院の薬師如来立像・十二神将像などを見て歩いた。棟方は「円空様デシ。間違いなく円空様でゴザイマショ」と、円空作であることに太鼓判を押してくれたという。これが円空仏発見の端緒となった。・・・」
円空さんの彫ったもの抱いて、満面の笑みですね。最高の笑顔です。
棟方さんは円空さんを見て、「オオ。・・オヤジ・・・」って言ったと。


 
**(注)記事中の秋山喜久雄氏は大宮市の円空仏の発見者であると同時に「大宮雑記帳」の著者でもあります。**世界的な版画家で文化勲章受章者の棟方志功と交流のあった旧大宮市市史編さん室長の故秋山喜久夫さん…2011/10/15 00:00 【埼玉新聞】
・・・上記は、大宮の円空仏発見に関わる、棟方志功と秋山さんの逸話であります。大宮・南中野の正法院の奥さんの話とも繋がりました

大宮の円空仏の発見は、秋山喜久雄であり、その確認が棟方志功であること上記の文から、そして発見の時期は1962年(昭和36年)で、埼玉県立博物館の正法院円空仏・説明パンフから確認出来ます。

参考・・

・・県有形文化財(彫刻)指定H6(1994).3.16

円空学会編『円空研究 Ⅱ 特集関東・東北・北海道』
  1973.6.30 人間の科学社
   ・・秋山喜久夫「随筆/円空さまの祟りとご利益」 113p~119p・・


○嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値
『毎日新聞』1982年(昭和57)9月8日
○おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見
『読売新聞』1982年(昭和57)9月8日
『埼玉新聞』1982年(昭和57)9月9日



さて、ここからは感性の世界。木に宿る”仏”は何を語るのか!


粗々しき風貌と優しきまなざし!
女体菩薩は、母性菩薩なのか!
円空と棟方志功は、”円空仏”をとうしてなにを語らったのか?


棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子


棟方志功「三尊仏の柵


棟方志功「半跏趺坐菩薩の柵


棟方志功「不動明王


既成の秩序からかけ離れた意匠は、怠惰をむさぼっていた美意識をずたずたに切り裂きます。
これでもか・・・・・   これでもか・・・・・・、 と。


追記: ・・・ 円空仏 驚異の作仏数の疑問?

2015-02-10 18:20:49 | 美観・芸術

追記:円空仏 驚異の作仏数の疑問?

さすがの権威ある国立博物館や県立博物館の「円空仏展」の案内にも時々記載があるが、”円空の仏像制作数は十二万体”の文字が、至る所で見受けられる。

”本当だろうか?”、”十二万体の仏像制作は可能だろうか?”・・・きわめて、素直な疑問が頭に浮かびます。

春日部市小渕の「小淵山観音院」の円空仏群は七体の円空仏があり、中でも聖観音像は高さ196cmと、円空仏の中でも大型です。到底一日では彫りきれないだろうと思います。大宮南中野の正法院の円空仏は、およそ70cmぐらい、これなら1~2日で一体は可能かも知れません。中には50cm以下の小枝に彫ったものもあるようです。仏像を彫る木材を準備していて、朝早くから夜遅くまで彫れば、”小さき仏像”は三十体ぐらい可能かも知れません。よく旅をした円空は、どう考えても”旅の貧乏僧”で、修験の托鉢は、つまり”乞食”です。旅の一宿一飯がかなり難儀で、手配にかなり時間がとられます。さすがの円空でも歩きながらの”作仏”は無理だとすれば、一日一体の”作仏”が、そこそこ無理をした数字か、せいぜいの限度だろうと想像できます。

円空の生涯を調べると、1632年美濃・羽島で生まれ、七歳の時長良川の氾濫で母を失い、父のいる美濃・郡上の星宮神社に引き取られたとあります。そこから、星宮神社の別当寺・粥川寺に出入りして、木地師(母親の出自)や山伏の修験に馴染んだとされ、三十四歳まで過ごし、木地師の木の扱い、鑿や斧の使い方を習得したようです。この時、練習作として仏像も彫ったものと考えてよさそうです。自身の納得がいくものも何体かあったと見ていいと思います。そしていよいよ旅に出るわけですが、その時期は1666年頃と思われます。
それから25年間、漂泊の仏師・円空の”作仏”の旅は、飛騨・高山の千光寺で終わりを告げます。この時、齢60歳前後、以後遠出の旅の記録は残っていません。没年は、1695年となっていますから、余生を郡上近くの若きときに育った所で過ごしたのでしょう。ここまで来ると、創作活動もかなり衰えていたと思われます。

そうしてみると、一日一体で年間365体、25年間で9125体の仏像を彫ったという計算になります。若きときの習作と、余生の時の作仏を合わせて、およそ一万体という計算が出てきます。一万体でも、驚くべき数字です

では、いったいどこから円空が12万体の仏像を彫ったという、とてつもない話が出てきたのでしょうか。全てではないが一部の県博物館では、”円空仏展”の解説文に、堂々と”12万体”をうたって、説明しています。県博物館は、専門の学芸員が存在して居るはずです。どうして、学芸員の知識の穴をすり抜けてしまったのか気になります。

どうも、円空の生涯の”作仏”数が12万体の根拠は、二つあるようです。

 

ひとつは、飛騨・高山の桂峯寺の十一面観音・善女竜王・今上皇帝像の三尊のうち、今上皇帝像の背面に、墨書で銘文があり、擦れて判読不能の部分もあるが、赤外線写真を拡大すると、ある程度読めるそうです。そこには ・・・

 ・・・・・ 元禄三庚午九月廿六日
 ・・・・・ 今上皇帝 当国万仏
 ・・・・・ □□仏作已」

と判読できるようです。
・元禄三年(1690)9.26、この像の現所在地(高山市上宝町金木戸)で円空がこの仏像を彫ったのは確実です。
・当国万仏・の「当国」は、日本の各地で一万体の仏像を造ったと読むことができます。「当国」を飛騨国と読み替えることは可能だが、少し無理があるように思えます。
・次の行一文字目を「十」とも「千」とも読めるがかなり擦れています。次の文字はマに似た形とみて、これが「万」と読む説と「部」のこざと扁(=”阝”)とみる説があります。
・・「万」と読む説は、「当国」を飛騨とみて、飛騨国で一万、全国合わせると十万体を造り終えたと解釈するようです。・・・これが十二万体説の根拠。
・・「部」と読む説は十部仏、あるいは千部仏、つまりたくさんの種類の仏を造ったという意味に解釈します。

文字の解析はさておき、先述の”作仏”が一日一体がせいぜい、を現実的とすれば、十万という大量の造像を伝説にすぎず、「当国」は日本とし、元禄三年までに一万体、あるいはその前後の数で、沢山作ったという円空の感慨の吐露したというのが、説得力があるように思えます。

いまひとつは、円空が大量の仏像を残した荒子観音寺(名古屋市)に残る『浄海雑記』の「円空上人小伝」に
 ・・「自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スルノ大願ヲ発シ」とあるのを根拠にしています。
 ・・既に十八世紀末の資料に十二万造仏の記事が見られる。しかし、”大願ヲ発シ”は願望であって、実際の仏像制作の完了のことではないと思えます。
 ・・・「浄海雑記」全栄(荒子観音寺第17世住職)天保十五年(1844)
 ・・・書かれたのが、円空没後149年後で、伝聞によると思われ、それも高山の桂峯寺の今上皇帝像の背面文字が根拠の可能性があります。

円空の仏像は、飛騨・高山のように背面に墨書があるものもたまにあるが、ほとんどに銘はなく、その彫りの仕様などから円空作と比定されるようです。従って正確ではなく、また簡易な彫りも多く見受けられ、子供の遊び玩具にされたものも多かったようです。その為か、恐らく散逸や破損で、かなり多くが失われたと思われます。
評価は、稚拙をもって評価するのではなく、その作者の傑作をもって評価すべきであり、稚拙が存在しようとも、いささかに円空仏を貶めるものではありません。




参考:背面文字解読の諸説 ・・著作者のみを記します・
①長谷川公茂氏(2012『円空微笑みの謎』)
②池田勇次氏(2003『円空の原像』)
③浅見龍介氏(2013「飛騨の円空展」図録作品解説)
④池之端甚衛氏(共著「円空心のありか」(2008)
⑤小島梯次氏(2009「円空木喰展」図録作品解説より)
⑥梅原猛氏(2006『歓喜する円空』)
⑦伊藤治雄氏(2010『円空の隠し文』)
・・・背銘についても新解釈を提起しておられるので紹介します。


伊藤氏は赤外線写真を拡大して検討した結果以下のように読めると提起しておられます。
「當国万佛 千面佛作已」  ・・とうこくまんぶつ せんめんぶつ つくりおわんぬ(おわりぬ)。 
その部分をA4に拡大した赤外線写真を見ると、伊藤氏の読み方が正しいように思えます。
これが正しいとすれば、十二万体は否定され、漸く”とてつもない数の伝説”がやはり伝説にすぎず、結論は合理的なところへ収まる様に思えます。


円空の生涯:年譜

和暦、西暦:できごと
寛永9年、1632:美濃国(現在の岐阜県)に生まれる
寛文3年、1663:岐阜県郡上市美並町 神明神社の神像3体を造像
寛文6年6月、1666:北海道に渡り、仏像を作る
寛文7年夏、1667:青森に滞在
寛文9年秋、1669:名古屋市の鉈薬師で造像
寛文11年7月、1671:奈良県法隆寺で学ぶ
延宝3年、1675:奈良県吉野の大峯山で修行
延宝7年7月、1679:滋賀県園城寺で学ぶ
天和2年、1682:栃木県日光で高岳法師から法を授かる
貞享元年、1684:名古屋市荒子観音寺で学ぶ
元禄2年3月、1689:滋賀県伊吹の観音堂の十一面観音像を作る
元禄2年6月、1689:再び日光山に登る
元禄2年、1689:園城寺で秘法を授かる
元禄3年9月、1690:岐阜県高山市上宝の桂峯寺今上皇帝像を作る
元禄5年、1692:岐阜県関市洞戸の高賀神社で雨乞い、歌集制作
元禄8年7月、1695:関市の弥勒寺で歿する

両面宿儺像

円空仏の傑作・晩年の仏像の微笑み

円空・荒神像  ・・いいね-! これ好き!

・・了


梅園の紅梅 

2015-02-08 21:29:24 | 草・木・花 風に吹かれて

梅園の紅梅

 

少しだけ、白梅よりも先駆けて ・・・

 

白梅も、遅れまいと・・・

 

○梅一輪 一輪程のあたたかさ  ・・服部嵐雪
 
 
「梅の花が一輪一輪咲く(開く)ので暖かくなる、つまり春が来る」という理解と
「きびしい寒さの中で梅が一輪咲き、それを見るとほんのわずかではあるが、一輪ほどの暖かさが感じられる」との意味と ・・・どちらの方が作者に近づけるのでしょうか。

 


円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師

2015-02-08 17:07:07 | 美観・芸術

円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師


十二神立像・円空・正法院・県立博物館寄託蔵

円空の生きた時代は、江戸時代初期と言われる。
・・「円空は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は生涯に約十二万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。」・・Wikipedia

円空仏像・一本彫り・市立博物館

今でこそ、円空の木彫り仏像は有名で人気が高いが、実は昭和30年頃まで、ほとんど無名に近かった。円空人気の火付け役は劇作家飯沢匡で、昭和30年代に飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 それまでは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っているという。
さらに輪をかけたのが「歓喜する円空」の写真付き著作を出版した梅原猛であった。
この二人は円空の人物像に隔たりがあり論争しているが、そこには立ち入らない。

円空は、仏像を彫るとき”一本彫り”という技法を使う。この技法は、それまでの木製仏像制作の方法と顕かに違う。京都・奈良の寺院にある仏像は、寄せ木造りで、大勢の職人が手分けして部分パーツを作り、合体させて磨き上げ、漆を塗って装飾して完成させる。形状は、銅などで作った伝来の仏像とほぼ同じだ。これには教科書があったようだ。
円空の仏像は、一本の丸木を縦に割り、鑿を使って彫り上げる。それは、見た目の通り、荒削りな仏像だが、表情が優しい。

茨城県笠間市にある月崇寺の観音菩薩像の銘には、「御木地土作・大明神」という円空の自署がある。木地土は木地師であり、大明神は木地師の守護神である雄鶴大明神をさしているようだ。どうも、伝来の仏像制作の”仏師”から技法を学んだわけでもなさそうだ。

そうだとすると、木を扱う技術の習得が気に掛かる。
出自を調べると、・・・円空は1632年美濃国(岐阜羽島)で生まれています。母は郡上美並の木地師の娘、とあります。父は、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。何か問題があったのか、父親の神社の宮司は、母子を羽島に遠ざけて面倒を見たようです。ところが円空七歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。そこで、円空は西神頭家の庇護を受けに郡上に引き取られます。・・・

郡上市美並の伝承 ・・・円空は寛永九年(1632)美濃国郡上郡の南部、瓢ヶ岳山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。・・少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています ・・・どうも幼少の時、周りは木地師で、木地師は浮遊の民であり、そのような環境であることが見て取れます。後の放浪の仏師・円空の素地はここにあります。
円空の彫刻の技法、山伏の修験、仏法知識は、七歳から三十四歳まで過ごした瓢が岳山麓や伊吹山山中で醸成されたと見るのが合理的です。

それから、二十五年間、たまに戻りますが、北海道から東北・関東・飛騨などへ仏像を作りながらの旅が延々と続くわけです。

円空の仏像は、かなり広範囲に発見されていますが、やはり生まれ故郷の岐阜県が一番多く、続いて愛知県、三番目になんと埼玉県がランクしています。円空は、生涯で十二万体の仏像を彫り、そのうち四千五百体が確認されています。埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域に集中しており、文献には埼玉で仏像を彫った事歴は見つけられないが、北海道・東北や日光や富岡へ行く道すがら、日光街道沿いで仏像を彫ったようです。特に日光へ行ったときは、四年間関東に滞在したらしく、このときの仏像が、大宮、蓮田、岩槻に存在するようです。

 十二神将像、薬師如来像、 正法院 見沼区南中野

  

 阿弥陀像・、・・・・・、 満蔵寺 見沼区膝子


 十二神将立像、・・・・・、 薬王寺 見沼区島町


 龍頭観音像、他三体・・、 観音堂 見沼区宮ケ塔
 など

数日前、正法院、満蔵寺、薬王寺を訪ねてみました。観音堂は場所不明で届かず。しかし、案内板はあるものの、写真のみ ・・円空の仏像は、県立博物館へ寄託とのことです。
 *寄託 ・・所有権は移動せず、火事・盗難から守るため、さらに公開するために、管理を県立博物館に任せたようです。
 *上記の理由で、県立博物館は、蓮田の矢島家の”円空仏群”を始めとする、市内近郊の円空仏が保管展示されています。


*仏像の写真は、Gケース(ガラス)越しになり、見にくい光の影が出てしまったものもあります。


棟方志功の話

見沼区南中野の正法院へ行った時、住職は留守で、奥様とお話しする機会を得ました。

・・「埼玉で、”円空仏”が発見されたのは正法院が最初だそうです。・・発見から暫くして、棟方志功が正法院を訪ねてきたそうです。・・棟方志功は、”円空仏”を見つけると、両手に抱きかかえ、”円空さんだ・・円空さんだ・・”と円空の名前を呼び続け、感激で泣き始めたと言うことです。・・棟方志功は、円空が好きだったんですね-」

 ・・正法院の奥さんの話はこれだけでしたが、僕には「棟方志功と円空」という命題が、どうも出来たようです。そいうえば、棟方志功の版画絵と円空の木彫り仏の力強さは共通しているように思えます。美術の専門家ではないのでうまく言えないが、内面には共通項があり、表現の媒体(版画と仏像)が違うだけではないか、なんて、二人の作ったものを見比べると、そう思えてなりません。

 

   ○ 円空の 怒髪 天を衝き 雁が飛ぶ        

 

参考:梅原猛(哲学者)『歓喜する円空』
参考:棟方志功『板極道』、『板散華』。棟方は版画と言わず板画という



漆器 日本的なるもの

2015-02-06 20:56:47 | 美観・芸術

漆器 日本的なるもの

轆轤・漆器皿 in 市立博物館

この色の漆器は珍しい。
絵は松と思われるが、独特な朱の上に描き、透明な漆の膜で、絵を保護しているのか!

食器としての漆器
木の椀は汁を入れると水気が木に染みてしまった。木の椀は、材料が豊富で、軽くて加工しやすい。誰かが、水漏れではないが染みるのを防げれば、実用に耐えるのではないかと思った。・・・古代中国の着想と工夫である。
漆の木に傷を付け、漆の樹液を取り出して椀に塗ってみた。塗っては乾かし、塗り重ねてみたら、漆の膜は水染み、水漏れを防いだ。・・・これが漆の機能である。
そして、この技術が中国から日本へやって来た。時代は、農耕文化や仏教の伝来とほぼ同時期と言われる。正倉院に、漆器が宝物として存在するからだが・・。

紐で軸棒を回転させている絵がある。これが轆轤(ロクロ)。


平安時代に、「木地師」といわれる浮遊の民が生まれた。轆轤を使って、椀や盆などの円形の食器を作る職業集団である。山岳に良木を求めて渡り歩くので、浮遊の民と呼ばれた。集団は大規模ではなく、おそらく5から20の家族の単位であったらしい。
浮遊の民は、浮遊の旅が保証されていたようだ。これは、・・・山中の木を切り,漆その他の塗料を加飾しない木地のままの食器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽ともよばれ,ろくろを用いることから轆轤師ともいう。
近江国小椋谷の蛭谷・君ヶ畑を本貫地とし,惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ集団で、十六花弁の菊紋を付けた通行証を持っていたため、良木を求める旅が可能であったとされる。
惟喬親王を支えた藤原氏家系の二人の兄弟は、小椋、大蔵を名乗った。木地師の多くは、小椋、大蔵、小倉を苗字に持つと言われるのは、その末裔とされるからだ。

木地師の作業風景

芸術としての漆器
やがて時が経つと、権力者たちは、実用の椀に装飾を求めるようになっていった。京の近くや、朝倉氏や、江戸時代には加賀藩や会津藩などが、椀つくりの職人を保護するようになった。この時代になると、木地師の中から漆塗りの職人は分化して、京や庇護者の近くで定住するものが現れる。木地師は、食器に適する良木を伐採し尽くすので、次を求めねばならないが、漆塗り師の必要な漆の木は、幹に傷を付けるだけで伐採をしないので移動の必要はない。

漆塗り師は、定住することにより、漆塗りの技術を飛躍的に発展させた。
まず色であるが、鉄粉を混ぜることにより黒漆が発明された。”漆黒”の誕生である。そのあと顔料を漆に混ぜることにより次々と漆の色が開発された。朱の色は辰砂が原料である。丹党とか丹生とかの名は辰砂の生産地に関係していると言われる。辰砂の朱は、濃淡様々の色合いを出すと言われる。今では白漆と言われるのも開発されています。

さらに発展形は、蒔絵と呼ばれるもの。ここまでくると、漆器は食器を離れる。蒔絵は文箱や刀の鞘などに適用される。
蒔絵 ・・蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文または、平脱」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つ。
蒔絵、平文/平脱、沈金、螺鈿などはもはや芸術の極みの領域である。

明治維新になると、日本の漆器に西洋人たちは魅せられて、かなり多くのものが海外に渡った。漆黒の黒や朱椀の朱は西洋にはなかった色で、その深みの色相は魅惑的であった。海外に渡った多くの漆器類は、今は無いという。日本と湿度の違う西洋では、その当時漆器を保全できず、多くの漆器の漆の膜は乾燥で剥がれ、ゴミと化したのだ。無残である。

・・次回は、木地師でもあった”円空”の木彫りの仏像 ・・


足立野の風景

2015-02-04 23:05:20 | 名勝

足立野の風景

 足立 ・・飛鳥・奈良時代「足立」という地名が記録に残されているのは、735 年が最初で発見された木簡に「武蔵国足立郡」とその名が記されており、「足立」という地名は奈良時代に起源がある古い地名のようです。
起源を辿ると、足立郷の範囲は意外に広く、大宮・上尾・桶川・浦和・川口を含め、現在の都・足立区まで広がっています。
歴史資料を紐解くと、三室の武蔵武芝が、足立郡司を名乗っていたり、鎌倉期に、足立一族の足立遠元という武将が上尾一帯を支配していたことが「平治物語」に書かれたりしています。

それから暫くしてから、江戸の足立郷の千住に足立総鎮守の神社が出来たりして、足立の中心が移動しましたが、つい最近まで大宮近辺は、大きな郡郷の括りで足立と呼ばれていました。・・例:北足立郡伊奈町など。 ・・・足立郡の範囲. 足立郡は、東京府・埼玉県にあった郡。 ... 現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたるとされる。

浮世絵に描かれた足立野の風景 --

浦和宿 第四

『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
天保六年(1835)、渓斎英泉 画。
 ・支蘇路(木曽路)ノ驛
 ・浦和宿
 ・浅間山遠望
街道を行くとと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。・・・ただ、かなりディフォルムされていて、位置関係はおかしい。・・・浮世絵は、この様の省略・誇張・変形がよくつかわれる。

英泉の浮世絵は大宮宿の手前にある六国見の立場から高台橋を描いています。

吉敷町の神道小僧と高台橋と刑場
・・さいたま市大宮区北袋町1丁目
左が火の玉不動、右がお女郎地蔵の祠・・ここが高台橋で、かつて刑場があり、長谷川平蔵の出世話として有名な大盗賊神道小僧こと神道徳次郎が、この刑場の露と消えました。
この辺りは大宮原あるいは氷川原と呼ばれる野原だった。推測すると、ここ北袋は木崎の一部・浦和だったらしい。


・・・高台橋のお女郎地蔵
 「昔、大宮宿に柳屋という旅篭屋を兼ねた女郎屋に千鳥、都鳥という美人姉妹いました。姉の千鳥は宿場の材木屋の若旦那と恋仲になり結婚の約束までしましたが、当時悪名高い大泥棒の神道徳次郎が千鳥を見染め、若旦那に嫌がらせを始めました。そして千鳥は自分の為に迷惑はかけられないと進退窮まり高台橋から身を投げてしまいました。それからこの橋付近に人魂が現れるようになり、人々は哀れんで地蔵尊をたてたのがこの女郎地蔵のいわれ」。
・・・火の玉不動
 「この高台橋の火の玉が、哀れな千鳥の人魂かどうか、その正体をつきとめようと、一人の男が、小雨の降るなか松にかくれ出てくるのを待ち構えていました。そして火の玉が出てきたところを無我夢中に斬りつけてみるとキャッと声がして消えてしまい、かわりに物凄い面体の男が立っていました。男はおそるおそる何者だと尋ねてみると「俺は不動明王だ」というので、「それなら剣を持っているはずだ」といえば、「剣はいまお前が斬り落したじゃないか」といって消えてしまったそうです。翌日この話を聞いた人達が、高台橋に行ってみると不動様はにがい顔をしてその手には剣を持っていなかったそうです。それからというものこの不動様を誰いうとなく「火の玉不動」と呼ぶようになったそうです。」

 

大宮宿 第五

『木曾街道 大宮宿 冨士遠景
天保六- 八年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・大宮宿
 ・富士遠景
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷。
左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。
・・大宮台地の”はけ”が目立ちます。桜が咲く頃の田園風景が清々しい。

 

上尾宿 第六

『木曾街道 上尾宿 加茂之社
天保六-八年(1835-1837)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・上尾宿
 ・加茂之社
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男二人女二人の農民が唐箕を使って籾の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の二人連れ、一服しようと立ち寄る商人一人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は三つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。

 *** 中仙道六十九次 浦和宿 大宮宿 上尾宿 三枚の浮世絵は市立博物館所蔵。桜木古木の版木からの多色刷り・複製で、本物と思われます。浮世絵はその性質から本物が複数存在します。紙は高密度の和紙、細川紙かどうか、専門家でないので分かりません。江戸時代、中仙道が、一般呼称としては”木曾街道”(”支蘇路”・宛字)と呼ばれていたことが分かります。この時代の自然への信仰が厚く、”火山”が、愛情と畏敬をもって崇められていたことが見て取れます。


 

加茂神社


京の賀茂別雷神社(上賀茂神社)を勧請した加茂神社は、加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなった社である。 徳川幕府による文化七年(1810)の創建ともされ、『新篇武蔵風土記』にも「加茂社 加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数林あり 土地のさま 旧社と見ゆれど 勧請の年代詳かならず」と記されている。 なお、加茂神社と加茂宮村およびその周辺地域は、合併による宮原村等の時代を経て、さいたま市北区宮原町に重なる。
・別雷・わけいかずち ・・しばらく”雷”神社と思い込んでいた。雷神社は”菅原道真・神社”のこと。別雷は、雷を分かち、雷は雨を伴うところから、農耕の神とされる。別雷命が、加茂神社主祭神で、加茂明神とも呼ばれる。

加茂神社は、三つの地名を残している。一つは、加茂宮ズバリの地名、二つ目は、隣接は宮原 ・・宮原の宮は氷川神社ではなく加茂神社、三つ目は、鴨川 ・・鴨川は荒川の支流とも入間川の支流とも目されている。

実際の上尾宿は、ここからやや下った所にあった。風景の見せ場として、上尾宿の象徴が加茂神社だったのかも知れないが、定かではない。