ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

一月の紅梅 三室・文殊寺にて

2014-01-30 21:39:27 | 日記

ぼつぼつ、春の便りが届いてきます。

紅梅が咲き始めています。

   

               ○紅梅の紅の通へる幹ならん  高浜虚子

隣は、寒椿・・・

 

昨年暮れに捻挫し、ほぼ治ったのですが、階段の下りだけいまだに不安です。なるべく遠出は避けています。

ここは、三室の文殊寺。・・・古くは氷川女体神社の境内にあった寺です。神宮寺であった当時は、廃寺寸前だったようです。寺伝によると、30坪の本堂と文殊堂があり、大般若経(玄奨三蔵訳の経典で六百巻)を収蔵し、毎年正月8日、天下泰平・五穀豊穣の転読会が催されていたといいます。

・・文殊寺

氷川女体神社の社宝・大般若経の写経文を廃仏毀釈のときの危機から、寺ごと移設管理して、当地に移りました。寺の駐車場に、紅梅と寒椿は咲いていました。

春の便り 紹介 ・・・   春のお知らせ・・・蕗の薹の顔を見た  比企さん

蕗の薹は未だ見つけていませんが、他にも、春を、散策のついでに探してみようか、と思っています。

 

 


遮光器土偶 馬場小室山遺跡 in 三室(浦和)

2014-01-30 04:36:28 | 史跡

  ・・遮光器土偶 *写真は”遮光器土偶”画像より転用

遮光器土偶が三室の馬場小室山遺跡から発見された。

・・・馬場小室山(三室)からは縄文時代中期から晩期にかけての集落跡、土壙群などからなる夥しい量の遺物を包含する大遺跡が発掘されている。ここからは人面画付土器や遮光器土偶も発見され一躍脚光を浴びることになった。また、この遺跡と一部重なるように隣の大字三室字東宿からは弥生時代後期の集落跡も発掘されている。・・・

この宇宙人みたいな、少し滑稽な土偶は、古代日本人を表現しているなどと到底思えない。それに、まるで眼鏡をかけているようにも見える。・・・これはいったい何なんだ?!・・・

三室は古代、”聖なる地”であったと言われる。氷川神社の発祥に、地元神を祀る”荒脛巾”という神がいたという。神は火を操り、産鉄の技術を持っていたらしい。

そこで、空想だが・・・大胆な仮説で、”たたら”で鉄を造る時、火力を強めて目を痛めるのを防ぐための”眼鏡”だったのではなかろうか・・・と思う。滑稽な空想であるとは思うが、意外と信じている自分がいる。

そしてもうひとつ・・・鉄の製法は渡来人によってもたらされたというが、渡来人秦族の中に、製鉄の技法をもった”タタール人”がいたのではないかと・・・根拠は何もない。

 ・・小室山遺跡・小室山

  ・・小室山風景

 ・・祠に ”小室社”とあります。

 ・・

付近に、”武蔵武芝”に繋がる氷川女体神社の宮司家を勤めた武笠家もあります。

 

 


荒脛巾神社 (=門客人社) ・・・大宮氷川神社

2014-01-29 20:11:04 | 歴史

大湯祭・・・

大宮氷川神社の12月10日は、大湯祭と呼ばれる”火の神事”が盛大に行われます。別名を、10日に行われることから、"十日町”とも呼ばれ、続いて浦和調(ツキノミヤ)神社の”十二日町”の”火の神事”が行われます。この、”oo町”は、屋台の出店の”さま”を言っているようですが、”火の神事”は、なにやら”ゆかしい”ような神秘的でロマンを感じます。

 ・・・門客人社 in 大宮氷川神社 *門客人(カドマロウド)と読むそうです。

”火の神事”=大湯祭は、どうやら門客人神社の祀りごと、の言い伝えのようです。門客人神社のことを調べて見ると、出雲族がこの地にやってくる前の地元神だという。地元の民が先にいて、あとから出雲族がやってくる訳だから、なにか逆のような気がする。門客人神社のことを、荒脛巾(アラハバキ)神社とも言うらしい。”マロウド”とか”アラハバキ”とか、言葉が日本語とも思えなくなる。

大湯祭は、古くは「御火祭り」「火剣祭」といい、神橋の手前東側にあった本地堂(観音堂)東の芝地で火渡りを行い、火王子社殿前で釜湯の神事探湯(くがたち)を行っていたそうです。これは釜に湯を沸騰させ、笹を湯につけ、それを振り掛けて清めをおこなうものです。それで大湯祭というようになったそうです。ただこの儀式は江戸時代に、儀式のやり方を吉田神道家と相談して、それ以来と聞きますから、古式の本来は”火渡り”などが基本で、中氷川神社と同じやり方だったと想像しています。本地堂は、本地垂迹の考え方の現れで、神仏習合の残滓の具体的な残存でしょう。本地垂迹説なるものは、あまり分かりませんが、「神も仏も、もとは一つの聖なるもので、現世に顕れる形が神であったり仏であったり、違う形で顕れる」というもので、現状を追認した方便論のような気がします。

・・・「御火祭り」は「おんべ焼き」(地方によりどんと焼き)に通じるのではないかとも思います・・

地元の民は、火を使って鉄を造る蝦夷の人達のようである。縄文・弥生を経て奈良朝の辺りの武蔵野の地は、蝦夷の土地であったらしい。・・・ここら辺までは、何とか理解出来ます。蝦夷の人達が、火を使って、鉄を造り出す技術・文化があったらしい。そうすると、氷川神社の周辺は、産鉄の地と言うことになります。

大宮氷川神社から、そんなに遠くない伊奈町小室の県立がんセンター敷地内で、昔の製鉄所・”たたら"跡の遺跡が発見されました。「大山遺跡」と言います。氷川神社から約8Km。・・・昔、関東郡代頭・伊奈熊蔵忠次の居館・陣屋のあった場所の近く。・・・小室という地名もなにやら意味深?・・・

参照;大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

三社をもって一神社となす、の大宮氷川神社の中氷川神社(=現・中山神社)に、それらしい神社があります。

  ・・荒脛神社

荒脛神社の読み方は、アラハバキなのかアラスネなのか分かりませんが、門客人神社のことでしょう。アラは砂鉄から鉄を造る”たたら”のときに出る滓を言います。

  ・・火塚

神社の前に、"火の神事”を行う「火塚」があります。古代より江戸時代まで、この神事は行われていたが、明治・大正と行われなくなり、最近この神事は復活したと聞きます。燃え残る炭火の上を、裸足で歩くのだそうです。四方の火塚の四隅に石が置かれています。この火塚の神事の火力で、中氷川神社の”氷”が溶けて、この地区・中川が名付けられたと聞きます。ちなみに、この”鎮火祭神事”は12月8日に行われるそうです。

   

順に”姫石”、”力石”、”力石”と彫られていて、最後の石は解読不能。・・・この石の意味は解けません。

 ・・・中氷川神社(=現・中山神社)

荒脛巾神社を奉じた蝦夷人達は、一部は出雲族に同化し、一部は東北に後退した、とききます。

東北・多賀城に、製鉄の伝説を持った荒脛巾神社が存在します

 ・・多賀城・荒脛巾神社

 ・・多賀城跡


蝦夷の人達は、鉄を狩猟に使って、農具には使わなかったのでしょうか・・・

 

 

 

 


武蔵一宮氷川神社の神主さん達の歴史

2014-01-27 02:35:57 | 歴史

氷川神社境内の見取り図 ・・江戸時代寛政の頃

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今の、氷川神社の境内の社格とだいぶ違います。

まず明治初期に起こった廃仏毀釈の運動で、別当寺である氷川神社の神宮寺が破壊されて撤去されています。従って、宝積院、愛染院、大聖院、常楽院、統轄の神宮寺はなくなっています。

(西)角井家は今の社務所の所でしょう。


(東)角井家は、昔の趣そのままに、参道脇に存在します。

  ・・薄くなった表札に角井の文字がかすかに読み取れます。

(東)角井家の隣、少し竹藪が見えます。・・・ここが神宮寺跡ではないかと・・・

 ・・岩井家跡・刺使斉会館

さて岩井家ですが、神主はもうやめていると聞きます。

とすると、絵図面の二ノ鳥居は、今の三ノ鳥居のことでしょうか。岩槻街道に面した、今の二ノ鳥居は創建が新しく、少なくとも江戸時代以前は、今の二ノ鳥居は存在しなかったことになります。

境内の中の配置もかなり違う様です。拝殿と楼門が新たに加わり、拝殿後ろの男体社と女体社は奥殿に収まっているため様子が分かりません。門客人社は荒脛巾神社のことに思えます。*荒脛巾・アラハバギ、と読むのだそうです。

 

昔、三社一体であった氷川神社は、それでもそれぞれが別の所にあったため、別々の担当がいたらしい、とのことです。

・男体社(氷川神社)は岩井家が、・女体社(氷川女体神社)は(東)角井家が、中氷川社は内倉家のちに(西)角井家が担当だったようです。・・・明治になって、三社が合祀されると、神主達は男体社に集まります。集まった神主達の居所が、先ほど確認した絵図面の場所のようです。

合祀されて、主祭神のいなくなった旧社の女体社と中氷川社は、地元の氏子達によって僅かに守られますが、それでも荒廃していきます。

 

 
 

 

 


権現堂堤の水仙 ・・幸手にて

2014-01-26 01:34:30 | 史跡

水仙 in 権現堂堤 ・・

権現堂堤・

権現堂堤は、県下有数の桜の名所で、約三千本の桜は、壮大で、かつ優美である。その時期に咲く菜の花の黄色は、桜のピンクと色相の対比を醸しだし、幽玄なさまを演出する。
初夏の六月初めの頃、堤の一面に紫陽花が咲き競う・・
夏の彼岸を迎える頃・・・この堤は曼珠沙華に覆われる。この赤も見事・・・
さて、一月後半・・・この土手に、”水仙”が咲き乱れていた・・・

・・・今日は、水仙の見学

 

                  水仙や 笑うがごとく 咲きにけり

      水仙が咲いている、と言うことは、もうすぐ春 ・・春告草   ・・彼岸花と同種とは、知らなかった・・

  

 

権現堂公園 in 幸手

 

 

権現堂川と権現堂堤の歴史・
権現堂川と権現堂堤の歴史はやや複雑。この歴史には、関東郡代頭・伊奈熊蔵忠次が関わる。.
利根川の本流の変遷・・
・江戸幕府開幕前・・利根川の本流は、会の川・浅間川から古利根川の流路が本流だった。
・新川通の開削で拡幅が行われ権現堂川が利根川の本流となった。・・元和7年(1621年)。
・赤堀川が開削され、利根川の一部が赤堀川から常陸川に流れる。今の銚子で太平洋に繋がる流れの原型が、ここから始まっています。・・承応3年(1654年)
・栗橋から権現堂川・江戸川を経由し江戸へと至る水路(=中川)が完成する。
・逆川が開削され、関宿から江戸川への水運の大動脈が開かれる・・寛文5年(1665年)

役目を終えた、権現堂川の水運は、ここに衰退する。
かっての利根川が本流だった痕跡の川は、中川として、今も存在します。経路には、古利根川がところどころ存在します。
権現堂の歴史は、かって利根川東遷のかなり重要な一部であったようです。そして、代用水と水運の役目を果たした「中川」の、堤防として権現堂堤は現在に到っています。

 ・・権現堂川ではなく、中川。分水して代用水かつ水運の川だった。

川の向こうは、茨城県五霞町になる・・・


  ・・かっての氾濫原の水害の悲劇の逸話・・巡礼の碑・巡礼の絵が・・

 

 

住所;幸手市内国府間

 

 


みむろ物語 ・・・武蔵武芝のこと

2014-01-23 00:23:17 | 史跡

・・みむろ物語・見沼と氷川女体神社を軸に・井上香都羅(かつら) 著

この本は絶版と聞きます。扱っている内容から、読者を多く持たなそうで、発行部数も少なそう。現在は流通段階に在庫が少数あると聞きますが、・・・

はじめは、三室のこと、氷川女体神社のこと、見沼のこと、武蔵一宮の神官家のこと、そして見沼干拓のこと、女体社の祀り、社僧と社家と続いて、見沼干拓以降で女体社の修理造営の話があり、明治以降の三室が語られています。・・・巻末は、武笠家と武芝の関係など示す系図があり、武笠家の所有した古文書が付録されています。

著者紹介・・・井上書都羅(いのうえ・かつら)

昭和9年 熊本県天草本渡市に生まれ。 独学で「大検」合格。
昭和27-57年 海上保安庁・ 海上保安官。34年 巡視艇爆発、両脚切断。
昭和42年 車の免許取得、翌43年施設訪問全国一周。以後、福祉活動、ボランティア活動に従事。
著  書 体験記『やればできる』(講談社 1970年)
     『別府温泉入門案内』(1985年)
     『銅鐸「祖霊祭器説」─古代の謎発見の旅』(彩流社 1997年)
現  在 古代史、考古学、民俗学研究

・・・、両脚大腿部切断というハンデを負った著者が、両足に義足を装着、松葉杖を支えに、手動式改造自動車を駆って、北は北海道から南は沖縄まで、縄文・旧石器遺跡500ヶ所以上を踏査。あるときは杖もつけない崖を岩や木の根・草の根につかまり、はい上がりながら、調査を続けた。そして、神山信仰は日本に独自に発生したのではなく、大陸から伝えられたものだという確信から中国・韓国まで足を延ばし、十数ヶ所を調査、事実であることを突き止めた。・・・「遺跡が何故そこにあるのか!」という必然性を証明し、考古学界・古代史界への新しい“挑戦状”・・・

みむろ物語・・・

まず、書の途中、武州一宮の神官家のところから・・・

この場合、武蔵一宮氷川神社は、維新の法令によって一カ所に集められて合祀された、今の大宮氷川神社のことではなく、それぞれが独立の社稜を有しながら、三社がまとまって、氷川神社と呼ばれていた江戸時代以前の”一宮”のことです。高島に氷川男体神社、中川に中氷川神社、三室に氷川女体神社がそれぞれあり、祭神から言えば、須佐之男命の男体社(大宮氷川神社)から南東に、ほぼ直線に、王子神 大己貴命の中氷川社、奇稲田姫命の女体社と並んでいます。言ってみれば、父・子・母となるのでしょうか。
・・・ただ中氷川社は、多少妙な感じがします。境内の参道を挟んで荒脛(アラハバキ)社があり、更に火の神事を行う火塚が存在します。火の神事により、中氷川の真ん中の文字が熱で溶けて、ついには中川となり、ここの地名なったという言い伝えがあり、中川の山の神社というところから、中山神社の別称もあります。荒脛といい、火の神事といい・・ペルシャ辺りの”ゾロアスター教”を連想してしまいます。・・・道草でした。

武笠家のこと・・・
 氷川女体神社の神主家は、長いこと武笠家でした。・・氷川女体神社は、短略で女体社と書くこともあります。同様に、対で男体社(氷川男体神社=氷川神社)もあります。
 この武笠家の祖先の出自が出雲族ではないだろうか、と言うところから、この書の解説は始まります。まず女体社は、由緒書に出雲から勧請された、とあり、出雲の加茂の神原神社にも、武蔵の氷川神社を出雲からの勧請の記録が残ります。この頃氷川社は、男体社と女体社に分かれておらず、従って神主家も同一族であったと考えられます。当時の環境などの状況からは、まず三室が氷川神社勧請地として、可能性が高いように思われます。これは定かではありません。記録にある崇神天皇の時代は弥生時代と比定できます。そして、現在の大宮氷川神社の神主。西角井家に残る古代系図に、その祖を、出雲族の祖の天穂日命(アメノホヒノミコト)と記録にあります。・・・系図は、時折後世に作為された可能性は残りますが。武笠家と角井家は、歴史書の記録の中にその関係性が出てきます。武笠家にも古代家系図はあったのであろうが、室町期に、盗賊に襲われて記録が焼失したという資料が、武笠文庫にあるそうです。それより、何よりの証拠は、弥生時代から延々と続く三室山・出雲神信仰を、同一の場所で継続して続けてきたこと自体が、武笠家を神官家とする証明であると確信します。
 さて、武笠家は、古代に武笠佐伯家と呼ばれていたそうです。女体社の由緒諸に「天武天皇の御宇白鴎四年武蔵一宮御来栄有之、神主佐伯朝臣国造足立郡司に兼任せらる」とあります。ここで分かることは、弥生後期を経て、奈良時代に武蔵一宮は存在し、神主が佐伯という人であり、武蔵国の一部の足立郡の首長に任じられた、ということ。その前は、地方首長は、国造という役名で、どうも廃止になり、新たな制度の郡司という役が出来たようです。・・・別書で確かめると、「大化の改新」で新制度の国司、郡司の制度がここから始まっています。どうやら、国司は中央(=朝廷)からやって来る、郡司は従来の在郷の国造の役名の取替のようです。武笠家は、女体社の成立以来の神官ですから、武笠家と佐伯家は同じで、武笠佐伯家ともなるようです。

 また、「続日本紀」の・・767年の12月6日と8日の条に、6日・「武蔵国足立郡の人外従五位下丈部直不破麻呂等六人に姓を武蔵宿禰と賜う、8日「外五従位下武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国国造となす」の記載があり、氷川神社の神官・角井家の祖先として西角井家の古系図にあります。・・東西の角井家の分化は、この時代より後年に起こります。・・この文章を精査すると、武蔵宿禰は複数人いたようです。それと角井家と武笠佐伯家は同族のようです。
・・・ここで釈然としないのは、宿禰や佐伯が姓なのかどうかです。あまり詳しくないので、奈良時代の位階などを調べます。
・・まず宿禰・八色の姓(ヤクサノカバネ)とは、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つの姓の制度のこと。中央集権制のヒエラルキーの姓で、純粋の苗字とは別の位を示すもののようです。その中に”宿禰”はあります。
・・佐伯・佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた、とあります。地方の朝廷親衛隊の意味でしょうか。元々は官の統治のための下賜姓のようですが、平将門の乱以降、武笠家は、中央への従順の意を示して、佐伯姓を名乗ったのでは無いかと推測します。醍醐天皇の時代に「佐伯朝臣幸栄に従五位下を下し賜う」との文があることから、類推の読み方で、織田弾正忠平朝臣信長=織田信長が正式な名乗り、を思えば、佐伯朝臣幸栄が正しく、その頃武笠の名を見つけることは出来ません。恐らくは信長の名乗りに従えば武蔵佐伯朝臣幸栄となるのではないかと想像します。角井家の登場もこの時代の後のことのようです。
・・上記のように、同じ氷川神社の神官であり、同じ位階の従五位下を賜っているところを見ると、佐伯家と丈部直家は、同族でしかも位階も同じと言うことになり、上下の関係が見えてきません。

*参考:織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(タイラアソン)は氏名、信長は実名となる。

 ここで、武蔵武芝のこと・・・
 武蔵武芝は、天穂日命を祖とする武蔵国造不破麻呂の六代の孫とあります。そして、武蔵国造・足立郡司・判官代という三つの役職が記録されています。武蔵武芝の足立郡司の統治の時、中央から国司代武蔵権守興世王と介源経基が赴任してきます。この中央からの役人と武芝の間で紛争が起こります。・・・前述なので詳細略・・・。こうして起こった「将門の乱」は将門の敗北で幕を閉じます。
 武芝については、先述の”不破麻呂六代の孫”とありますから、西角井家の系列です。
しかし・・・武蔵武芝と武笠の名前に、恣意的な類似性を感じてしまいます。偶然かどうか分かりませんが、「将門の乱」以後に武笠家が顕れ、以後の名前の中に、武笠武豊とか武笠房武とかの「武」の重なる名前が確認出来ます。そして・・・武蔵武芝は、武を笠にして重なるので、敗戦で武蔵を外して、神官と農に帰して恭順を示したのではなかろうかと・・・焼失した武笠家の系図には、祖として武笠武芝の名前があったのではないかと・・・今となっては推測するしかありません。
・・頼朝の時代の西角井家の家系図に、角井家から武笠佐伯家に嫁に行った女子が記されているそうです。佐伯径高妻となっているそうです。古代から幾たびか婚姻関係があり、その証左の一つとされています。
・・武蔵武芝の本拠地はどこか、は明らかになってはいません。三室が聖地であり、人口集積のあとが確認されるところから、大宮氷川の地より三室の方が可能性が高いと思いますが、定かではありません。
・・・氷川神社の神官は、明治維新以降合祀された氷川神社で、参道から拝殿への第三鳥居の左側に、西角井家が、左側に東角井家が、東角井家の隣の竹藪が神宮寺(別当寺)の跡になっております。長らく男体社の神官であった岩井家は既にありません。

・・・・・ことわり;上記文は「みぬま物語」に準拠していますが、角井家と武笠家の出現を、「将門の乱」以降にしています。また、武笠佐伯家を、武笠を家名とし、佐伯を氏名とし、武芝を実名としています。佐伯を古代中世の苗字、武笠を中世現代の苗字としている混同が見られます。この部分は、少し書き換えてあります。


 


御室神社 武蔵武芝のこと

2014-01-21 23:44:24 | 史跡

・・御室神社

三室と言うところは、遺跡の宝庫のようです。縄文式の遺跡のみならず、弥生式の遺跡も発見され、発掘されています。貴重な”土器”の類は、夥しいほど発掘されており、考古学の徒には、垂涎の場所のようです。この場所に、氷川女体神社は存在します。そして、三室の高台から見下せば、昔は広大な沼の、今では干拓された、”みぬま"が広大に広がっております。

御室神社は、しかし三室の地ではなく、木崎という地に存在します。御室神社の御室は、地元では”おむろ”または”おんむろ”と呼ぶのだそうです。木崎は、見沼の縁の三室の地と近接しています。

どうも、”室”が暗示する意味は古代の墓、古墳に関係があるのではないかと、気になります。それと、御室と小室山と三室は、語源が共通するように思えて成らない。そして・・・、御室神社と小室山を含む地域は、すべて武笠家の所有の土地であった。

・・・御室神社・鳥居方面から

どうもここは、霊地のようです。祭神を確認すると、櫛名田比売(くしなだひめ)が祀られています。また、祭神の起草の署名の所に”西角井某”とあります。・・・どうも、氷川神社の末社の可能性がかなり高そうです。

 ・・・鳥居と祭神

 

浦和武笠家は、旧家として、この地方の大地主であった。それが、近代税法になって、大地主にかなりの資産税が掛かるようになり、併せて代が変わる時、莫大な相続税が発生し、払いきれなくなった武笠家は、税を「土地という物納」で収めた。・・・それでこの一帯は有数の新興住宅になった・・・三室にしても木崎にしても、閑静で瀟洒な、緑の多い住宅街になっています。

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武蔵武芝に拘るわけ・・・

昔、勉強した社会科の歴史の教科書に、「承平天慶の乱」というのがあって、平安時代中期のほぼ同時期に、関東での「平将門の乱」と瀬戸内海での「藤原純友の乱」で、朝廷に対して反乱を起こしたと教えられた。だが関東では、この反乱者はなぜか人気が高い。大学生の頃か、「将門記」という本を読んだ。・・・武蔵武芝が、地方で善政をしていたところ、京都から派遣された役人に武蔵を荒らされ、高税をかけられて苦しめられた、とあった。・・そして、武蔵武芝を助けたのが平将門・・・

「歴史とは、勝者の勝手で、不都合を隠蔽し、書き換えられてしまうのだ」と、かなり衝撃を感じた時の”きっかけ”が、武蔵武芝のこと・・・

ふと思うのは、いま「特定秘密保護法」という法律が出来そうな状況になっています。権力を持つものに不都合な事実は隠蔽されてしまう世の中になってしまうのでしょうか。

 武蔵武芝には、もう少しだけ、こだわってみます・・・

 


氷川女体神社と馬場小室山 ・・・武蔵武芝のこと

2014-01-19 15:45:16 | 史跡

 ・・氷川女体神社

  見沼用水西縁線

 

・・・武芝については、主に「将門記」に記載され、その他の古書でも散見される。それらの書によって想像を巡らせれば、武蔵国の領内、足立郡(足立の郷)の郡司で、領内の氷川神社(女体神社)を保護したという。平安期に京都朝廷から派遣された地方官が、従来の習慣を破って任官し高税をとって統治しようとしたことに抵抗し、ついには”平将門”と同盟したと、記録にある。

・・・詳細・武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源径基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入。そのため、足立郡郡司判官代であった武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承久天慶の乱(平将門の乱)の遠因となった。・・・

・・・将門記によれば、武芝の評判は・長年公務に精勤し、良い評判があり謗られるようなことはなかった、とされ、公明正大な人だったようである。

馬場小室山と御室神社、・・馬場小室山遺跡・ブログから引用

・・・話はそれるが、氷川女體神社から真西へちょうど1km行ったところに馬場(緑区大字三室字馬場)というところがあり、その最も標高が高いところを小室山という。おそらく、御室から三室と小室へと変化したのではないかと思われる。ちなみに、馬場小室山からさらに真西へ1.8kmの地点、浦和区木崎5丁目に御室神社がある。地元の人は「おんむろ神社」と呼んでいるようだ。この神社の主祭神も稲田姫であり、東西一直線上にあることから当然意識して建てられた社といえそうだ。

さて、馬場小室山からは縄文時代中期から晩期にかけての集落跡、土壙群などからなる夥しい量の遺物を包含する大遺跡が発掘されている。ここからは人面画付土器や遮光器土偶も発見され一躍脚光を浴びることになった。また、この遺跡と一部重なるように隣の大字三室字東宿からは弥生時代後期の集落跡も発掘されている。・・馬場小室山で特徴的なのは「環状盛土遺構」で、直径150mの円形地の範囲に大きな盛土遺構が五つ環状に形成されているという。そして、この盛土の端に「多埋設土器群大土壙」があり、そこから上記の人面付土器などが発見された。・・ところが、五基の盛土の内、全く手付かずのまま残されていた二基の内の一基が含まれる森が突然、宅地開発業者による開発が進められ大変な騒ぎとなった。・・ショベルカーにより削り取られた土砂は見沼たんぼに埋め立て用土として集積され、そこから夥しい数の土器の破片が採集されたことから、「馬場小室山第二遺跡」と呼ばれることになる。
 
 
 最後に残された馬場小室山遺跡の一部 あとはすべて住宅地へと姿を変えた
 
 
これらの遺跡が眠る馬場小室山一帯の所有者は武笠家であった。武笠本家は小室山にあって、浦和では有名な旧家であり、現在、武笠一族は不動産業をはじめ手広く商売をしており、活躍しているようである。・・ そして、現在、職を辞してはいるものの、明治の初めまで氷川女體神社の神主家として長くその職責を全うしてきた一族なのだ。

武笠一族で出色の人物というと、武笠三(さん)(1871-1929)だろう。
この人、一般的にはほとんど知られることのない作詞家だが、その作品は意外とメジャーなのだ。「雪やこんこん」で始る『雪』、「田圃の中の一本足の案山子」の『案山子』、「出て来い出て来い池の鯉」の『池の鯉』などの作詞をしている。そして、文部省唱歌は、文部省唱歌はとして記載され、作詞作曲者の名前は教科書に明らかにされた例はない。これが武笠三が世に名を示さない理由である。・・・武笠三は、浦高から東大文学部へとエリートコースをあゆみ、文部省の職員として教科書の編纂にたずさわり、作詞も行なった。多くの人々に口ずさまれた作品には、作詞者名も作曲者名も記されず、ただ文部省唱歌とのみ記載されたのだ。

ところで、武笠家はいつのころからかその姓を改めている。元々は佐伯を名乗っていた。それでは一体なぜ姓を変えなければならなかったのか。
 
 
御室神社については  参考:スネコタンパコ/3407383.html

神社 木崎御室神社 - スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語 - Yahoo

 
 
 ・・武笠家表門 ・浦和くらしの博物館に展示
 
今のところ、この武笠家と武蔵武芝を結ぶ証拠となるものは、傍証・・所謂状況証拠ばかりですが、・・・・・なぜか気になります。
もしそうなら、大宮氷川神社の岩井家(・廃家)、西角井家(中山神社・氷川男体神社神官)、東角井家(氷川女体神社宮寺)の東角井家より先が武笠家になりそうです。”更級物語”の武芝寺も三室辺りかも知れません。角井家は菅原道真に通じる家とも聞きます。武芝家が帰農して、京都藤原一族からの追求を躱したのかも知れません。いずれにしても興味は尽きません。
 
武蔵武芝家は、平将門の乱のあと、忽然と歴史から消えてしまっています。
 
 

大山遺跡 ・・・昔の製鉄所跡 in伊奈町

2014-01-17 23:31:13 | 史跡

 大山遺跡・たたら(昔の製鉄所)模型 ・・展示・県立歴史博物館(大宮公園内)

・・ 大山遺跡・たたら(昔の製鉄所)模型 

・・弥生時代住居・・県立歴史博物館庭に展示

・・弥生時代墓・・県立歴史博物館庭に展示

大山遺跡・たたら(昔の製鉄所)模型

前面に散在するの黒い塊は”鉄”だと思われます。

・・大山遺跡から発掘された鉄製品の数々

 

・・大山遺跡が発掘された県立がんセンター(伊奈町)

・・大山遺跡・発掘調査のあと埋め直されて、遺跡の痕跡はありません。・・看板など案内物は一切ありません。

・・大山遺跡裏手からの遠景撮影・建物はがんセンターの病棟。

 

大山遺跡

読み方:おおやまいせき
場所:埼玉県北足立郡伊奈町小室
調査期間:平成21年4月21日~平成21年11月30日
主な時代:奈良時代・平安時代

埼玉県伊奈町大山遺跡は、JR高崎線上尾駅から東方約3㎞にあります。遺跡は、県立がんセンターの敷地内に広がっており、 原市沼川(はらいちぬまがわ)に面した標高13m前後の台地の西側斜面にあたります。 発掘調査では、今から約1300年前の奈良時代から平安時代にかけての円筒形の製鉄炉(せいてつろ)や できた鉄を加工する鍛冶工房(かじこうぼう)、炉を作るための粘土を採掘した深い穴などが見つかり、 古代鉄生産の様子がわかってきました。

 参考:

大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

ここで判明されることは、奈良時代に鉄を造る”たたら師”が存在したこと、出土された遺物から、鉄が製造されたこと、鉄製器は主として農具であること、鉄製器の質は、それほど高くなく、高温で造る玉鋼の質にいたってないことが確認出来ます。しかし、鉄の所有は、力のある豪族の存在を暗示します。鉄の所有は武力を担保します。
この地に、”たたら”があることは、付近は良質の”砂鉄”の採集場があることを示唆します。さらに、砂鉄の選別法の比重選別法が考えられるところから、流水のある川が必要になります。川の存在は、原市沼川しか確認出来ませんが、今では流れのない沼と化した原市沼川は、当時荒川と通じており、流れがあったのではないかと推定できます。
 
たたらの歴史については、日立金属のホームページが分かりやすいので、参考までに案内します。
参考:
 

 


寿能城跡 ・・・古跡訪問

2014-01-16 16:40:39 | 史跡

 寿能城跡 ・・・古跡訪問

 

寿能城跡・・・

 ・・・潮田出羽守資忠の墓

 

 ・・・寿能城跡碑

説明碑・・・【寿能城跡】・ここは寿能城本丸の跡と伝える。寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で、母方潮田家をつぎ永禄3年(1560)ここに築城、大宮・浦和・木崎寺を新領とした。城地は東西約872m、南北約436mあり、見沼、沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所を出丸と呼び、今も寿能という小字名を残している。資忠は小田原の北条氏に属し天正18年(1590)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが、4月18日父子ともに討死し家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火※にかかって落城した。
墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。
大正15年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中に高射砲陣地として雑木林は開墾され、※また新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園として永く保存することとなった。(※は判読不明箇所)

・・・「武州足立郡大宮壽能城主也其先 清和天皇九代後胤従三位右京太夫兼兵庫頭頼政十九世嫡流太田美濃守三樂齋資正第四男也 天正十八庚寅年四月十八日相州於小田原討死因滋家臣北澤宮内私於城地自営此塚也 子孫譲之至邸于今不失墓祭之禮焉■■資方初而■此塚實始祖思恩寵餘澤之深亦患無姓名之誌再命北澤某令造墓石永為不遷之廟矣・

元文三戌午年四月十八日謹造建之
資忠六世嫡 潮田勘右衛門源資方」・・・

寿能城規模・・・城地は東西約873メートル 南北約436メートルあり、見沼の沼沢をめぐらした要害で 東方に突出した小高い所を出丸と呼び 今も寿能という小字名を残している。

・・・寿能公園内・さいたま市大宮区寿能町2丁目

 

さて、こんなところが、寿能城の古跡の概容とされるところであるが、今一つ実感として分からない。城域の規模については、先の説明にあるところだが、面積から推定すると、ほぼ今に寿能町の全域ぐらいとなる。現在の風景から比定すると、大宮公園駅(東武線)や公園の公園口付近から大和田運動公園(野球場・プール)、大宮第2公園に接する辺りまでとし、思ったより広域で、寿能公園内の城跡からは思いもよらず、大きく想像を超えてしまう。

潮田氏の統治の規模は、以下の文から推定される。・・・『潮田家文書』によると、永禄3年12月30日、太田資正(岩槻城主)は「大宮・浦和の宿、木崎・領家方までこれを進められ候、恐々謹言」という判物を資忠に下している。これにより、資忠は大宮・浦和・木崎・領家の一帯を領することになり、寿能城を本拠として本家である太田家を支えた。・・・見沼を隔てた台地には、同じく永禄3年(1560年)伊達城(さいたま市見沼区大和田町)が太田家の家老である伊達与兵衛房実(ふさざね)によって築城されており、これら寿能城と伊達城は、岩付城の西方を守る支城網のひとつとして機能した。さらに南には、中丸城(さいたま市見沼区南中丸)、松野城(さいたま市見沼区御蔵)を築いて北条方に備えている。

また、大宮の水判土に、「城跡」としての「慈眼寺」が記されている。・・・「標高およそ12mの小高い場所に位置し、東・南・北の三方を水田で囲まれ、東方には鴨川が流れ、西側だけが台地続きで佐知川へと続いている。新編武蔵風土記稿に、この寺は元々城塁があった所だという記録があり、古くはここに武士の館跡があったことが伺われる。そしてここは、小田原北条に属した岩槻城太田氏の氏族、潮田氏の家臣の守る城だったという伝承が残されている。しかし、秀吉の小田原攻めの時、寿能城ともども水判土城も戦火で焼失し、資料はないが、寿能城落城と時を同じくして水判土城も焼け落ちているところを見るとこの説は正しいと思って良いのではないか。

前文の流れで、ときに「北条側に備える」と書き、ときに「小田原北条に属した」と書いて、少し混乱を招いたと思う。この整合性のために、この地の、立て軸(時間軸)の関係性を見て見たい。

まず、寿能城城主潮田資忠は、岩槻城城主の太田資正の四男で、親子関係の家臣である。太田資正の祖先にいる太田道灌は、扇谷上杉家の家宰(家老)で、太田家は扇谷上杉の勢力下に、一貫としていたといってよい。それが、川越夜戦で、小田原北条に、同盟を組んでいた山内上杉・古河公方・扇谷上杉は敗れ、山内上杉が本拠の上野平井に、公方は古河に、扇谷上杉は松山城に退去したのち、扇谷上杉は滅亡する。主君を失った太田資正は、山内上杉や佐竹氏と同盟しながら、小田原北条と対抗を続けていたようだ。太田資正の武将としての資質は、道灌と並び称されるほどの勇猛果敢な武将であったという評価がある。当然、四男の潮田資忠も行動を共にしていた。

公方と関東管領の関係・・・公方は、足利幕府から、関東の領国支配のため、京都から派遣された足利一族である。室町初期の時代、公方は鎌倉に派遣されて、鎌倉公方を名乗っていた。関東管領は、鎌倉公方の家宰(家老)の役目であった。だが、関東管領の任命権は、公方にはなく、幕府にあったのは不幸であった。力を付けた関東管領は、公方の命令を聞かなくなる。関東管領は初期の時代は二人制であった。やがて関東官僚の職は、山内上杉が専任で独占するようになる。この頃から小田原北条の力が鎌倉を凌ぐようになり、管領家、公方は鎌倉を追われるようになる。そして拠点を武蔵野、上野、古河に持ったと言われる。

鎌倉のあった上杉家は、鎌倉の地名を冠に、それぞれ宅間上杉、犬懸上杉、山内上杉、扇谷上杉とよばれた。この一族も、関東管領の座を巡って、激しい勢力争いをしたようだ。

・・・宅間上杉は勢力争いで没落し、やがて山内上杉に吸収されていく。犬懸上杉は、”上杉禅定の乱”で敗北し、関東の権力争いから遠ざかっていく。関東管領を一番多く輩出したのが山内上杉家で、後半小田原北条との長い対立から、最後は、越後の長尾氏を頼り、関東管領の職と家名を長尾景虎に譲り、隠棲することになる。ここに、上杉景虎・後の上杉謙信が誕生することとなる。扇谷上杉は、上杉家の庶流であるが、川越を拠点として、太田道灌などの力で勢力を拡大し、山内上杉と肩を並べるようになる。・・・

寿能城潮田家は、長く扇谷上杉のために小田原北条に抵抗していたが、主家を失ってついには、小田原北条の軍門に下り、秀吉の”小田原攻め”の時は、小田原に詰め、この戦火に散ったと言われています。・・・潮田の寿能城は、家臣が守っていたが、やがて落城する。この時は秀吉の”小田原攻め”の時と言われる。