ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

音楽寺 鐘の音が美しい 札所二十三番 ・・・秩父巡礼

2013-07-31 23:17:23 | 史跡

音楽寺 札所二十三番

音楽寺の由来は、ここの鐘楼の梵鐘の鐘の音の美しさに、付けられた名前だと言うことです。名前から、音楽を志すものや音楽で成功を願うものが、よく参詣すると聞きます。ここから約5分の奥院には、歌手が「ヒット」を願って、幾つものお札が奉納されているそうです。残念ながら、雷が鳴り始めたので、奥院は割愛しました。・・・決して5分の山道を嫌ったわけではありません。

音楽寺は、秩父市街地や武甲山をはじめ秩父連山が一望できる山の中腹にあります。堂前の鐘楼には、市の文化財の梵鐘。鐘身の上方に108個の乳頭、下部には聖観音、不空羂索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の六観音が浮き彫りされているある。

この地、小鹿野・・・秩父と小鹿野は隣接です。音楽寺は境界線上・・・

僧侶が、この山へ登りはじめたが道に迷って困っているとき一頭の小鹿が現れて僧侶を案内・・・・・この由来で、この地を、小鹿野と名付けられたという・・・

音楽寺は、秩父ミューズパークの中というか、隣接というか・・・手入れされた緑の公園の木立の間に見え隠れする。車で来た人は、公園の駐車場を利用・・・トイレも同じ・・・

急な石段参道・ ここでお札を・ 本堂?・・・・・ 

 

                庭園です。つつじの頃美しそうです。

 

六地蔵・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、を六道と言うのだそうです


秩父困民党無名戦士の墓がここにあります・・・  

・・・経済的に困窮した秩父の農民は、この寺の鐘を合図に、秩父市内(大宮)へ乱入していったと言います。 

この碑の文面は・・・・・

   われら秩父困民党

   暴徒と呼ばれ、暴動といわれることを

   拒否しない 

・・・

この、すさまじい覚悟と、そうしなければ生きられなかった正義に、感動して、哀悼の頭を下げます。

 

住所;秩父市寺尾3778

 


童子堂 萱葺きの山門とさるすべり 札所二十二番 ・・・秩父巡礼

2013-07-31 13:11:21 | 史跡

童子堂 札所二十二番

めずらしい、萱葺きの山門・・・

さるすべり・・・夏の花 が山門を彩ります。

                         違う角度から・・・

 

   山門を守る あ うん ・・・           

これは、素敵だ・・・!   荒削りで、表情豊かで、その上愛らしい。決して精緻とは、嘘でも言えないが、筋肉たくましく、眼光鋭く、それでいて微笑ましい。・・・寺のなにを、なにから、守っているのでしょうか・・・この門を、正式には”仁王門”といい、門を守る二像を”仁王”という。

                     山門から寺へ続く道・・・ 

                    寺庭にも さるすべりが・・・

 さるすべりが飾る童子堂・・・ 

        身代わり地蔵ととげぬき地蔵・・・ 

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      華台山 永福寺

 この堂は、童子堂と称し、府坂地内より現在の地、 永田城跡に移したと伝えられ近くに城の堀跡が今も 現存しております。 山門の仁王門は、童子仁王といい稚拙であるが愛嬌の あるもので童子の名にふさわしい仁王門です。本尊は、聖観世音がまつられております。 

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秩父札所二十二番 童堂 西陽山(華台山) 栄福寺(永福寺)・・・

童子堂は、昔童(・・わらべ)堂とも呼ばれたらしい。童子に纏わる逸話が多くあり、いつの間にか童を冠にする名前が定着したらしい。個人的には童(・・わらべ)堂のままが良かったが・・・そして山奥の府坂から移されたという・・・地図で調べたが、府坂、西陽山、華台山とも分からず・・・ここは、永田城跡地とも聞く

・・・伝承によると永田林四郎の居館で、天正(1573-1592)の頃には諏訪氏が居たとも、北条氏邦の家臣・寺尾氏が居たともいう(『秩父志』)・・・この頃の諏訪氏は、信玄に臣下していたので、武田家の秩父に於ける橋頭堡だったのかも知れない、と思って調べたが、諏訪神党の中に見えず、不明。

住所;秩父市寺尾3595

 

 


観音寺 素朴な お地蔵さん 札所二十一番 ・・・秩父巡礼

2013-07-31 12:28:27 | 史跡

観音寺 札所二十一番

秩父札所21番寺は平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久・東国平定を祈り、鏑矢を納めたから矢之堂。また八幡大菩薩が邪神悪魔退治の際、その放った矢が魔族を射抜いたまま、ここに落ちたからこの名がついたのだ、とも言われております。

正直、矢を納めたので矢納堂、というのは信じますが、平将門が秩父に来たという話は信じられません。奥さんの桔梗が、この近くまで逃れてきたという話は聞いていますが・・・。日本武尊の逸話は、秩父の至る所で、見たり聞いたりします。八幡大菩薩は、先述の”やはた”から、渡来族の秦氏の氏神ですから、秦氏がここで”戦”をした時のこと、具体名は憚られるので、魔族とか邪神悪魔の名を借りて表現した、むかしの表現ではよくあるなぞらえのような気がします。

岩之上堂を出て、観音寺に向かうところ、民家の庭に・・・

               てっぽうゆり?・・   

                宝篋印塔・・      

服着て帽子かぶって、目鼻立ちの彫りはかなり浅いです・・           

こんな、素朴な地蔵さんが幾つか・・  

 

住所:秩父市寺尾235

 

 

 

 


岩之上堂 花の寺 札所二十番 ・・・秩父巡礼

2013-07-30 06:19:36 | 史跡

岩之上堂 札所二十番

この岩之上堂は、秩父巡礼三十四のうち、最古の建物と言われています。

 

寺の庭に、様々な花や木が植わっています。さながら植物園のごとくです。蝶もいましたが、蜜蜂もいました。・・・5月頃の、つつじが咲いている様は、この寺の一番美しいとき、・・とか

             

荒川の岸壁のやや傾斜地に、この寺は存立します。入り口から、石段を下って、寺にたどり着きます。本来ならば、眼下に、荒川を眺め、風光明媚を堪能したいところだが、木立が生い茂り、視界をさえぎります。

                   

旧秩父橋の写真は、この寺から30Mぐらい離れて、ビューポイントを探しました・・・

                         

この寺の管理所有は、内田さんという旧家だそうです。一般の方だそうですね・・・・・ 

昔、鉢伏城の殿様が戦いに敗れて、ここに来て居着いたそうです。・・というと、秀吉の小田原攻めの時で、こっち方面は、前田か石田が攻めてきたのでしょうね!とすると・・内田さんは、もと北条さんとか、北条さんの家臣とか・・・     

 

住所;秩父市寺尾2169

 

 


秩父ミューズパーク ・・・見果てぬ夢

2013-07-29 00:55:49 | 建造物

秩父ミューズパーク ・・・見果てぬ夢

見果てぬ夢・・・

ミューズというのは”知の女神”のことだそうだ。たぶんに美しい名前・・・にふさわしく、ミューズパークも風光明媚なところで、花の回廊と野外音楽堂とスポーツの森をもち、この雄大な敷地の中に、秩父札所二十三番音楽寺も所在する。たぶん、野外音楽堂は、札所二十三番にちなんだものと勝手に推測する。・・・実際、音楽寺参詣の際に、ミューズパークの駐車場を利用しました・・・。

 

 

花の回廊のお花畑・・・

          ・・転用

 

 

 

野外音楽堂・・・ 

    ・・転用

 

 

 

堤康次郎というひと・・・・・

 

西武鉄道の創業者に堤康次郎という人がいます。この人の私生活は、現代社会のモラルから言うと、褒められたものでは無かったようで、かつビジネスの世界でもかなり強引な手法をとったようです。

だからといって、彼のやった業績の評価は、別個の基準で判断してもいいと思っています。例えば、織田信長が、ネロみたいな世界的大虐殺をやっても、楽市楽座みたいな政策は、貨幣経済の発展に寄与したんだと・・・

まず堤康次郎は、箱根の観光事業を手がけ、ある程度の成功を収めると、次ぎに武蔵野鉄道と軽井沢をビジネスとして手がけます。当時経営不振に陥っていた武蔵野鉄道を買収し、鉄道の整備と路線の延長を目指し始めます。沿線に付加価値の施設を創設しながら、都内に通勤する為の沿線の宅地化です。まず目を付けたのが、村山貯水池と呼んでいた丘陵地帯の開発と観光です。ここは西武園として開発され、プロ野球の全天候型のドーム西武球場を中核に、スポーツ・レジャーランドの施設を次々と創出してゆきます。武蔵野鉄道も、名称を西武鉄道と変更し、路線を延長させ秩父へと繋ぎます。沿線はどんどん造成されて宅地が並んでいきます。商業施設も、ターミナル池袋と所沢に百貨店をつくり、さらに各駅付近に西友というスーパーを貼り付けます。

そんな中、秩父まで繋いだ西武鉄道なので、秩父を、第二の箱根にしたかったのでしょうか、秩父ミューズパークを手がけます。庭園とスポーツと音楽、総合してのレジャーのミューズパークの誕生です。この少し前に康次郎は逝去され、息子の義明に、夢は引き継がれています。・・・やがてここは経営上の問題で、西武の手を離れ、秩父市に無償譲渡されます。ですから、今の所有は秩父市で、埼玉県と秩父市で共同運営をし、実務は西武系の会社が管理しております。

堤康次郎は、西武鉄道を、池袋から所沢、秩父を経て、軽井沢に繋ぐ夢を持っていたと言われています。現実には、山岳を繋ぐ鉄道は、トンネルやら鉄橋やらで、莫大な費用が掛かり、一企業では無理な話で、計画の俎上にも上らなかったと思いますが、・・・今では長野新幹線が開業したので、大宮・高崎経由でも軽井沢には行きやすくなりましたから、競合するとなるとさらに厳しいでしょう。・・・地図を広げると、・・・確かに、池袋と秩父と軽井沢は、まったく直線上に並びます。

そもそも西武は少し前の不祥事より堤家の手からほとんど離れています。この不祥事というのは、堤家の家業であった鉄道事業と国土開発・観光事業を、公的な株式会社にしておきながら私物化したという、よくある話で、家業が企業に発展できなかったという悲劇(喜劇?)ですが、詳細は割愛します。

先日、堤家から離れた西武が「OTB]・・公開買い付けにかけられると言う話題がありました。資金援助を受けていた外資系のファンド会社が、経営の合理化を提案した会社の乗っ取りです。この中に、不採算路線の”西武鉄道秩父線”の廃線が合理化案で提案されました。・・結果、外資ファンド側は敗北し、秩父線はどうにか存続する見通しです。・・・・・秩父が好きで、西武秩父線の存続に関心があったので、ミューズパークのことを書いてみました。

 

 

 

・・・・・

 

 

 

 

最近、旧秩父橋が秩父の名勝になりつつあるように思います。

 

          札所二十番岩之上堂近くから撮影

アニメ「あの日見た花の名前を僕たちは知らない」で登場する橋です。

旧秩父橋、遠景です。奥は歩道と自転車・・・ 手前は自動車通行 下に流れるのは荒川・・

 

 

 

 


川越めぐり ・・ 時の鐘 と 伊佐沼

2013-07-25 15:57:28 | 日記

時の鐘

川越の蔵造りの街並みを代表する観光名所・・鐘撞堂(かねつきどう)の呼称で呼ばれる。

火事を知らせる役目もあるかと思ったが・・・・・

どうも、時を知らせる役目だけが、説明されている・・・

・・・この付近、蔵造りの店舗がならび、江戸時代にタイムスリップ・・のシンボルの時の鐘。

 

伊佐沼の古代蓮

近くの病院に通った頃、3,4年前は、確か古代蓮は無かったと思ったが、いまではこんなに古代蓮が、沼の半分近くまで広がっている。

            

                   

                             

新名所になるかも・・ネ・・

 

 


わらべうた ・・”通りゃんせ” in 三芳野神社

2013-07-22 14:48:39 | 歴史

わらべうた ・・”通りゃんせ” in 三芳野神社

『通りゃんせ』  作詞・不詳 本居長世 編・作曲?

 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細道じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちょっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つの お祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ

 

”わらべうた” を漢字で書くと童謡となるのかも知れないが、厳密には少し違う気がする。

”わらべうた”には”あそび”という行動を伴う要素があること、さらに日常の行動の中での注意を促す要素をさらりと言い得る信仰的な意味合いがあること、この二点が現代の童謡と異なる。

・・・・・

 三芳野神社 庭園内の小高い塚から撮影 

・・・・・ 

 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ

・・・ この部分の文言は、かねてより、色々と物議を醸してきた。・・要は、”なぜ、こわい”のだろうか、と。・・・謎である・。

これの解釈に、ある説がある

食べるものがないので、子どもを仕方なしに殺すということです。ひとり殺しては一つ、こけし(子消し)をつくって供養するんですが、この歌では、子どもを殺すのを天神様に許してもらうってことでしょうか。死ぬ前の祝い事です。祝った後は悲劇が待っているので、怖いんではないでしょうか。その罪悪感、悲壮感たる壮絶なものでしょう。

・・・貧しい時代の、子供の間引き、と言うことでしょうか。悲しい物語ですが、どうも納得出来ません。埼玉のこの地は穀倉地帯で、それほど貧しい土地柄ではありません。それに、子どもを殺すのを天神様が許すとは思えません。極悪非道の領主がいて年貢が高かったという話も聞きません。あまり説得力があるとは思えません。

また、ある説では

私が聞いたのは「こわい」はどこかの方言(確か東北地方)で「しんどい、疲れる」という意味だ、という説です。「行きはまだ最初だから元気があるけれど、帰り道にはさすがに疲れてる。疲れているけど、ここを通って帰らなきゃ」という意味だそうです。

・・・この方言説にも納得しかねます。埼玉では”こわい” を疲れるという意味には取らないようです。

また、別の説では

「通りゃんせ」は、川越城の中にあった神社を参拝した客が見た機密事項を外部に漏らさないように、管理していた事があり、それを揶揄した唄。という解釈があります。
城の門番は、入る時は比較的簡単に中に入れてくれますが、上のような理由で、出る時は、検閲が厳しかったといいます。  ・・三芳野神社は、当時川越城内にあった・・

・・・この説は現実味があり、比較的信じても良さそうな気がしますが、はたして、どうでしょうか。”歌” にするような、事柄でもない気がします。ですが、この説が定説になろうとしています。

諸星大二郎・・・・・が、”通りゃんせ” に直接コメントしているわけではないが、・・・ 

散文的な話ですが、子供が遊びにでかけると、行く時は、遊びに行くので楽しいが、帰れるかどうか分からない……「神隠し」に会う可能性があるぞ、という歌なのではないかと思います。「帰りは怖い」は、行って帰って来て、帰りが恐ろしいのではなく、帰ろうとすると恐ろしいものがたちふさがるということを警告している、・・・と、こんな説もありました。これが一番説得力がありました。

この ”わらべうた” の原型は、江戸時代、戦国室町時代、鎌倉時代、平安時代のどの時代につくられた、のだろう・・・・・か

 

        


天神・・・

「天神様」は火雷天神とよばれ、天から地に降りてくるものを神として祀った事に由来する。すなわち、雨であり雷であるものが神で、農耕と深く結びつく。のちに菅原道真が火雷天神と呼ばれたことから、学問の神様としても有名になる。本来は農業の神で、慈愛と正直が神たるところである。なお、菅原道真が九州太宰府に流された時、天候がすさまじく荒れて、雷と大雨が降ったという。都の人は怖れて、これを道真の「たたり」としたという。


七つのお祝い・・

7歳のお祝いは女子の「帯解きの儀」がもとになります。つけ紐で着物を着ていたのを、大人と同じ幅広の帯を結び始める儀式です。着物も子ども用のものから、大人と同じものを肩上げして使うようになり、大人の仲間入りを果たすのです。

この様に見てきますと、”通りゃんせ” の歌と遊びは女の子の遊びと言うことになります。天神様は、お参りする付近の神社というだけで、深い意味はなさそうです。この七つのお祝いは民俗学で江戸時代からの儀式とされています(七五三と併せた儀式は明治以降と聞きます)。今では七歳の女の子が大人の仲間入りは早すぎる気がしますが、当時の大人に成り立ての女の子の”怖いこと”とは何でしょうか。どうも、人さらい、のような気がします。人さらいへの警告と注意が、このわらべうたに託されたのではないでしょうか。・・・全く確証はありません。ありませんが、そんな気がします。

三芳野神社・・・

川越城に隣接する神社。太田道真・太田道灌親子によって築城された時、この神社は城内天神曲輪にあった。その後城主が何人も変わり、徳川の時代になって、藩主が酒井忠勝の時、家康の命で現存の社殿が造営された。この時に神社は城外に区分されたようだ。以後三芳野神社は、喜多院、仙波東照宮とともに幕府直轄の神社となった。あと何度か改装で手直しをされている。

この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細道をとおってお参りしなければならなかった。・・・また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と川越城内の子女の間で唄われるようになり、・・・それが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行ったものである。

この ”通りゃんせ” のわらべうたの成立が、室町時代の太田道灌以前とすると、城がないので、この説は矛盾します。また、江戸時代前(1590)酒井忠勝は城と神社は敷地を分けていたので、江戸時代もこの説は成立しません。しかし、わらべうたの七つの祝いは江戸時代からはじまっている。とすれば・・・密偵が城内に入り込むことの警護の説は、矛盾だらけで成立しません。

川越城の改築は、酒井忠勝の時と知恵伊豆の松平信綱の時と江戸時代に二回ありました。本稿では状況から、酒井が城主の時としましたが、知恵伊豆の時の可能性も少しあります。

また、七つの祝いが、儀式として定着するのは、将軍綱吉野時代で、我が子徳松の三歳の髪置きの祝いを暦を選んでこの日に行ったことによって、以後、髪置き、袴着、帯解の祝いを十一月十五日にするように布令しました。・・帯解の祝いが、女の子の七つの祝いです。

そうすると・・・

七つの祝いで、大人になりかけた女の子が、人さらいにさらわれるのを、”こわい”からと注意し、警戒するようにと、祈りを込めながら歌に託したとする説は、かなり信憑性を帯びてきます。天神様にも警護を御願いしているのかも知れません。

 

         歌にある参詣道・・いまでは細道ではないが・・・

 

『七歳までは神の子』・・・七五三の縁起

昔子供が成長してくると、髪形を整え、男児は雄々しさを示し、女児は大人びてみせるなど、いずれも命あやうい幼児期を通過して少年少女期に移ったことを意味します。これらは、子供の無事成長を神に感謝するだけでなく、この儀式を経ることによってようやく地域社会から一人前の人格と認められるきっかけとなっていたようです。つまりデビューです。今のように小学校の入学式などなく誕生日というものもない時代、氏神に詣でることによって氏子帖に記載され、世間に一人前の「子供」として認知される儀式として昔から盛んでした。
『七歳までは神の子』といわれ、生まれた子が生育する期間は霊界から人間界に入ってくる過程と考えられていました。乳幼児の死亡率が高く、七歳まで育たなかった子は霊界に戻すものとして本葬儀を行わなかったというほどです。また人別帳(戸籍簿)への届け出もだいたいこの年齢前後にされていました。したがって特に「この子の七つのお祝いに」は幼年期最後のもっとも大切な行事とされていました。

・・・・・お札を納めにまいります・・というのは、神社(氏神)の氏子帖に登録して貰う、名前を書いた ”お札”ということになります。

 

          隣接する川越城本丸後

         季節の花・・・さるすべり・・

 

川越城は別名「初雁城」と言われています。

三芳野は川越の昔の呼び名です。

 

・・・童謡ともわらべうたとも違うが、似て非なるものに唱歌があります・・猪瀬直樹著の『唱歌誕生』(文春文庫刊)。・・たぶん、猪瀬のこだわりの部分で、政治的発信とは違うものを感じます。・・ いい内容 に思えます・たぶん・・・。

 

住所:川越市郭町2-25-11





 

 

 


五百羅漢 in 喜多院

2013-07-21 19:51:02 | 史跡

五百羅漢 ・・・7月21日(日) 川越 喜多院 にて

様々な羅漢・・・まず表情を・・そして仕種を・・

   

   

   

談笑しているのでしょうか・・とにかく、顔の表情が身近です。

寝ているのか、泣いているのか・・のもあります。

    

   

               

 

ひそひそ・・・内緒話でしょうか、話題が気になります。

 

     荒々しくて力強い、これ好き  おどけて・・これも好き

 

お休みですか、お疲れですか、ではおみ足を擦りましょう。ごゆっくり・・・・・

 

                          中央に鎮座します。

 

これはこれは、酒盛りですか・・・・・いやいやこれは般若湯という。では般若とは・・??

それにしても、どの羅漢も、耳が大きいですね!・・高僧はみな”耳デカ”なのでしょうか

 

         考えている羅漢、笑っている羅漢、悩んでいる羅漢・・・     

            

                  ・・・羅漢らも、この世も同じ 夏の風・・・

*羅漢(=阿羅漢)・・・悟りをひらいた高僧。サンスクリット語・・しかして仏にあらず・

 

随風と北院・・

・・昔、随風という旅の僧がおった。随風は生臭で、その上独尊で生意気であった。随風は、誰彼いとわずに論戦を挑み、そして政治を説いた。・・・随風のこの性根を好んだ大名が2人。小田原北条家と徳川家である。どうも随風は、小田原北条により肩入れしていたらしい。やがて、小田原が秀吉に滅ぼされると、随風は天海と名を改めて、当時川越の大寺院の無量寿寺の北に位置する宿坊を借りて偶居する。この宿坊は北院というあばら屋であった。やがて、家康が天下を取ると、家康は昔からの知遇で話の馬が合う天海を、江戸城に呼びだしては話すようになる。江戸城には、家康同様、昔からの知り合いの春日もおり、春日の局が家光の乳母だったことから、家康の宗教方面の参謀になり、それで北院は所領をもらい、寺院として独立する。これが、北院建立の起源だが、北院が春日との関係で、三代将軍家光の産所となり、名を改めて”喜多院”となる。・・

<写真は、Wクイックで拡大できます。> ・・・羅漢の表情観察にどうぞ。 

場所;川越市小仙波町1-20-1


 


かえるの寺と龍谷寺 札所十九番 ・・・秩父巡礼

2013-07-20 12:56:24 | 史跡
龍谷寺 札所十九番

この堂は、大きな岩盤の上に建てられ、七間半四面の大きな堂である。内まわり中央に四天柱を建て周囲を虹梁でつなぎ、その背面に本尊を安置している。 堂内には、閻魔をはじめ十王像など冥途の恐怖を強調するものがある。

本尊は、千手観世音坐像、像高49cm、寄木造り室町時代の作である

            これが岩盤、大きな・・・本当のことなのだ。

 

            三途の川の脱衣婆(だつえば)をまつる三途婆堂。

奪衣婆は三途の川の渡し賃である六文銭を持たずに来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆で、通常は恐ろしい顔付きをしている。実際、赤いべべ着て、こちらを見る様子に、一瞬立ちすくむ。

・・・

戦後秩父霊場は多くが荒廃してしまい、中でも19番は無住の為、荒廃が激しかったそうだ。
無住のための家屋は、カビと雨漏りで急速に劣化する。惜しんだ地元は、浄財を集め、現在の観音堂が完成したとのこと。道半ばと思うが、あと、庭に木や草を整え、岩盤の砂を落とし、苔むすように水をやり、土を除けて岩を顕かになして完成と言うことか。・・・祈る・


 

            かえるの寺 宗福寺

 宗福寺でも納経を受け付けています。立ち寄ってみます。

 

本堂の前に蓮池があり、池の周りに”かえるの石像”が顔を覗かせています。

大小さまざま、数もかなりです・・・・・

                    

かっぱに見えるかえるも居ます。

 

          かえる以外・・・

          蓮の華と下駄、下駄は何の意味?

寺の後ろに池があり、蓮が咲いているそうです。蓮の名所として有名だそうです。今回は割愛。

 ・・<小さな写真は、Wクイックすると・・拡大します>・・

 場所;秩父市大畑町15番31号

 

 

 

 

 

 

神明寺 ここにも修験者の跡が 札所十八番 ・・・秩父巡礼

2013-07-19 22:01:32 | 史跡

神明寺 札所十八番

神明寺・・・ごうどじ、と読むのが正しいそうだ。だが、さすがにこれを読むのは難しい。

向拝の彫刻が素晴らしい観音堂が建っている。本尊の聖観音は、両手で蓮華を持つ立像で、室町時代の作。寺伝では、安阿弥の作とされている。聖観音は撮影失敗。

『新編武蔵風土記稿』に、「別当神門寺、青苔山不動寺長生院と号す、神門寺と称するは、寺号と云にはあらねど、神門にありし寺ゆへに、爾が唱来れり、本山修験、同郷の内今宮坊配下なり」

どうも、この文章から推測されるのは、まず今宮神社の末社の長生院を称して、神仏を習合し、かつ修験者の修行と宿坊を兼ねたらしい。その頃に、大きな二本の榊が枝を張り、やがて左右の榊の枝が結び合い、さながら、神門のごとくと参詣者に話題になり、別称ともなり、、仏閣の認可される時に寺名になったという、・・・この様なことだろうか。

だが、江戸時代に仏閣ともども、名物の榊も焼失して、今はない。・・現在の建物は、後に再建された社稜であるそうだ・・・

現在の境内から東北にある台地は、九世紀末から十世紀初のころ、後に秩父神社の主祭神となる妙見大菩薩が、最初に祀られたところとされる。その台地から程近い神門観音の境内地あたりは、古いころから妙見宮の神領地とされたと考えられ、当初は神戸(カンベ)とされたが、神門は、その神戸の転のことばともとれる。

*神戸・は神領の所属の民と集落の土地の両方を意味する。神門寺の名前の読み方は、こんなことに由来しているのかも知れない。

 

          蓮華堂

本堂の左側に十二支守り本尊のお堂があります。蓮華堂と記された堂内には、お釈迦様を中心として佛像が祀られております。仏像の台座は、中央を除き蓮華の台座です。中央はお釈迦様でしょうが、台座は隠れて見えません。 

          不動明王

本堂の右手に、火災鎮護の不動尊のお堂があります。端正ですね。この不動様は火災鎮護のご利益があるそうです。秩父は何度も火災に遭い、故にか、ここの信仰は厚いようです。

 

 

           

観音堂の裏には回廊があり、大日如来、千手菩薩、文殊菩薩、虚空蔵菩薩などが灯明を前に金色の姿を浮かび上がらせている。なぜか、こけし大の木彫りの仏像が、愛らしく思えたので、それの方を撮影しました・・・

 

          ヌヌ・・修験者の数珠?

 

室町期古札番;二十二番札所でした。

住所;秩父市下宮地町5-5