ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

近くの公園の紅葉と皇帝ダリヤ

2018-11-21 00:33:28 | 草・木・花 風に吹かれて

近くの公園の紅葉と皇帝ダリヤ


朝晩が冷え込んでくると、空の青が濃く感じられるようになります。

併せて、落葉樹の「アントシアニン」がつくられて紅葉(黄葉)になります。

自然界のメカニズムで、葉緑素からなす「光合成」が採算性の歩留まりから樹木の体力維持のため、落葉して身を守るのだそうです。

 

 

時を同じくして、「皇帝ダイヤ」が花を開きます

近くの公園の紅葉と皇帝ダリヤ


・皇帝ダイヤは、身の丈が大きいので、台風の多い年にやられれば、無残になりますが・・
・・今年はどうでしょうか? !!


会津若松城(鶴ヶ城)・紅葉

2018-11-17 14:54:05 | 歴史

会津若松城(鶴ヶ城)・紅葉


同期会・(旧職場)・18/11/10 in 会津


鶴ヶ城が廃城になる前、戊辰戦争の銃弾で「ボロボロ」に痛んだ城はまさに「痛ましかった」という。廃城になり、民間に払い下げになった時、旧会津藩士・某は、私財をなげうって払い下げを受け、旧藩主・松平家に寄付した。それから期間が経ち、会津松平家の後裔は、城を、会津若松市に寄付し、地元の寄付で今の姿によみがえった。

今の姿は、コンクリート作りである。

広大な場内公園:若松公園は、「白虎隊」の末裔で、東京帝大の総長であった山川健次郎氏が公園博士といわれた「本多静六」(東京帝大農学部)さんに設計を依頼し、その設計を元に月日をかけて完成したものと聞く。
訪問した時が、ちょうど紅葉の時期であった。


会津城の戦いは、落城ではない。
約ひと月の戦いの後、戦死者を増やさないための開城であった・・


それにしても、美しいお城ですね!


土津神社・参詣

2018-11-14 19:02:47 | 神社・仏閣

土津神社・参詣

 

 

同期会・(旧職場)・18/11/10 in 猪苗代

土津を、”はにつ”とだれが読めるのだろうか?
まず、"はに”の意味解きから入ります。どうやら、土のことを”はに”という古語があったらしいです。その土は、鉄分を含んだ粘土質で、主に焼き物に使われたり、布を黄色に染める顔料だったりしたようです。この”はに”を土と書くことはごく稀で、「埴」と書く方が圧倒的に多かったようです。
「布を黄色に染める顔料だった」”はに”は、顔料の種類が少なかった時代、絹本着色といって、宗教絵画に使われた例が多かったようです。保科正之が、吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来したと伝承されていますが、吉川惟足は、このような古語に精通した人物であったのだろうと推測できます。それと、数奇な運命をたどった名君・保科正之は、仏教観では自分の人生観を整合できなかったのだろうと思うに至った次第であります。
土津神社から20分の奥の山中・高台に奥の院があり、そこが「保科正之」の墓所のようです。今回は準備不足で、奥の院まで行けなかったのですが、墓所の前に、土津神社の末社が、右に四社、左に三社控えて建っているそうです。正之の子息と重臣たちの末社・神社が「正之」を霊を守護するが如く侍っているようです。その家老たちの末裔は、何人かは今に馴染みの人で、知る人ぞ知る・

・下記に一部列挙・
  ・梁瀬正真 子孫・県知事や衆院議員
  ・田中正玄 子孫・田中清玄、田中玄宰(中興の主宰者)
  ・井深重光 子孫・井深大(ソニー創始者)
  ・会津藩の家老ではなかった人も、会津出身者は秀才が多いと聞く・・


 脱線・・
  過去に、学生だった頃・・興を覚えて、丹念に丁寧に、「田中清玄」の行動・言質を調べていたことがあります。当時日本共産党から徹底して嫌われた、右翼であったり左翼であったりした「清玄」は、僕の目からしたら案外一貫していて、”感”に入った人でした。
  清玄の先祖・正玄は、保科正之が15歳の時から仕え、教練の師となり、家老として差配した高遠と会津両方の藩の重鎮だったようです。保科正之が、磐梯山のこの山麓を墓と定めるとき、すでにそこにあった田中正玄の墓に向かって「正玄、ここにあるか、我も近く参るぞ」と言ったそうで、「父と見たか、師と見たか、あるいは・・」・・伴のものは皆涙したといわれています。

                       

土津神社の紅葉・・


白い鳥居が目立ちます。


 


・鳥居の起源

  ・-- 天岩戸の隠れた「天照大御神」を誘い出す「常世の長鳴鳥」の止まり木


・白い鳥居
  ・--- 本来は白だそうです。朱色の鳥居は、神仏習合より・(赤は魔除け)


・土津神社
  ・--- 磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社


漱石山房・訪問記 

2018-11-12 16:40:46 | 神社・仏閣

高校Å組同級会・10/16


漱石山房・訪問記

その人の名は「半藤末利子」というらしい。そして、今日行った「漱石山房」の名誉館長だそうだ。

何故名誉館長なのか?気になったので調べてみた。以下の図である。



「漱石山房」は、同級会・飲み会前の散策の目的地であった。場所は、漱石が生誕し、東京で生活したときに暮らした新宿の周辺である。
最寄りの駅は、東西線「早稲田駅」・・同級生の中には、早稲田大・出身者もいるわけで・・若かりし時代の馴染みの場所だもという。神楽坂や牛込・山吹町にも近いわけで、学生さんたちの下宿やあそび場にも近いわけで・・多少馴染みの人もいるわけで・

「漱石山房」は、出来たまだ新しいそうである。新宿区が、地区の誇りとして記念館創設を尽力したという。

 
 

漱石は、言わずもがな「文豪」である。「文豪」であるが、なぜか、心に沁み込んだ文脈が思い浮かばない。思い出すのは「吾輩は猫である・名前はまだない・」みたいな自虐的なフレイズのみで・・作品タイトル名の羅列や文脈解析などは、かなり馴染んだ経験があった。受験対象として取り組んだ痕跡、悪しき習俗の残骸みたいなものなのだろう。それでも多少懐かしくもあり・・である。


 
さて、名誉館長の「半藤末利子」は、漱石の孫にあたる。半藤末利子の母は「筆子」で、この筆子が漱石の長女である、という図式。筆子の結婚した相手は、松岡譲といって「漱石の門下生」であり、二人が結婚するまでの経緯の中に、恋のライバルとして「久米正雄」という、やはり漱石の門下生がいたりして、その経緯の流れを小説に書いたりしていて、松岡譲も反論として小説を書いたりしている。
この流れは面白いのだが、僕は、「漱石山房」へ行くまで知らなかった。

 



半藤一利のことだが、文藝春秋編集長の彼のことは、良心的な硬派として、太平洋戦争の見方や天皇制に関しての見解に共感している。その人の奥さんが、漱石の孫だったことは、恥ずかしながら、ここにきて知ったわけでして・・
・・・・・
今日は、歯が病むので・「飲み会」は遠慮して・一人帰宅。