ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

秩父 道の駅ふたつ ・・・荒川&両神温泉

2013-08-31 20:17:56 | 建造物

道の駅 あらかわ

「道の駅あらかわ」は奥秩父の荒川にあり自然に囲まれ、美味しいそばや四季折々の花が楽しめます。
周辺には、花ハス、水芭蕉、カタクリなどが時期には咲き、のどかな里山散策を楽しめます。
道の駅ではここでしか購入できない行者ニンニクがあり、人気。・・・これが道の駅あらかわのアピール文。

”そばがき”というものを食べたことのない人は、ここで経験するのも悪くないです。まあまあ・イケます。

道の駅あらかわは、国道140号上の道の駅。愛称は農園村役場

道の駅の発祥の地。以前は道の駅荒川村でしたが、秩父市に合併したことから現在の名称に変更。

 ・・道の駅の食堂の方の建物。周りは果樹園に囲まれています。

 

場所;秩父市荒川日野538番地1   電話;0494-54-0022

内容;駐車場・トイレ・公衆電話、食堂、地産物販売所など

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道の駅 両神温泉 薬師の湯

豊かな自然の中で、良質な温泉で静かに、ゆっくりとくつろぐことが出来ます。日帰り旅行者など、どなたでも気軽に利用ができ、心も身体もリフレソシュ。季飾の新鮮野菜や心が伝わる手作り工芸品が人気の、農林産物直売所もあります。・・・これが、ここのアピールポイント。・・”そばうち”が体験出来るようです。

裏山は両神国民休養地に指定されている四阿屋山・花しょうぶ園などがあり、都会の喧騒を忘れるのに最適な空間です。

ここの特徴は、なんと言っても温泉です。・・・・・源泉は地下600mより毎分280L、泉温24.3度で湧く冷鉱泉。フッ素とメタほう酸が温泉法規定値を満たすことから温泉認定となる。 低濃度ながらPh9.2のアルカリ値由来の、ほのかなツルッと感が温泉情緒を醸す。浴場は男女各内湯1つのみのシンプルな造りで、館内には食事処や休憩所が整う。・・・温泉の基準値を備えた鉱泉で、沸かし湯のようです。

 

 ・・道の駅両神温泉の建物

 

場所;秩父郡小鹿野町両神薄2380番地  電話;0494-79-1533 (注意・火曜日休日)

内容;駐車場・トイレ・公衆電話、農産物販売所、食堂、温泉・・薬師の湯

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補足、秩父の「道の駅」・・・

秩父には道の駅がかなりあります。まずR140では、寄居方面から、道の駅皆野、道の駅秩父、道の駅あらかわ、道の駅大滝となります。R140は昔、甲斐秩父往還と呼ばれました。最近雁坂トンネル(有料)ができて車の往来が可能になっています。・・・最近秩父地方は、サイクルスポーツのメッカになって、三々五々の自転車隊が横行していますが、トンネルは歩行と自転車は通行禁止です、・・たぶん。R299(正丸街道)沿いには、道の駅横瀬、道の駅両神薬師温泉、道の駅龍勢会館があります。後の二つはR299から幾分ずれますが、合計7つの道の駅があります。あらためて数えてみると、秩父は車で回る人が多いのだろうと想像します。龍勢会館には、高校生大学生らしき2,30人の男子を見かけました。「あの花・・・」のアニメが、8月末に再放送され、映画が公開されたので、その関連でしょうね。好評と聞きます・・・

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追加・・・・・

平将門伝説

秩父平氏の誕生
初代の平将恒は、平忠頼と、平将門の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡を拠点として秩父氏を称した。将恒の父・忠頼は平将門の従兄弟で、将門と対立した平繁盛を仇敵と呼び、将門の娘を妻としたことからも、忠頼の父・良文は将門と親しかったと思われ、将恒の「将」の字も将門から名付けたと思われる。
将恒の子の秩父武基は、前九年の役に従軍して秩父別当に就任した。さらにその息子の秩父武綱は前九年の役で戦功を挙げた源有光の長女を妻とし、後三年の役の戦功で、秩父平氏は発展した。秩父重綱の代には、武蔵国国守の代理職を勤め、一族は大いに発展、秩父郡吉田郷に居館を構えて勢力を拡大した。その後、秩父氏の家督は、長男の血筋ではなく、次男の血筋(河越氏)が継承し、嫡流の河越氏を中心にして秩父党が形成された。秩父氏は、こうして、国内の武士を統率・動員する権限を持っていた。秩父平氏の一族は元皇族の血筋を武器に婚姻関係によって当地の豪族と結びつき、武蔵国各地に広がって多くの坂東武者を輩出した。

こうした背景を見ると、秩父平氏は”平将門”にかなりの”シンパシー”を抱いてたと思われる。直接の参軍は資料に見えないが、敗走の時に秩父平氏を頼った可能性はかなり高い。事実秩父には、将門伝説とその遺跡が幾つも残されているが、それは、平将門の一族郎党の敗走を、時が経ち、”一族郎党”の部分が淘汰されて、いつの間にか”平将門”のみになったのではないだろうか。歴史に、平将門の敗走ルートは、かなり明確で、秩父に来たという痕跡はなさそうである。

将門伝承1
【城山(熊倉城址)】旧荒川村大字呑だ熊
この地の城山は、将門の居城だったといわれています。この城で、桔梗の前が敵方に内通した疑いで惨殺されたと伝えられています。この城山に将門が籠っていたころ、将門の乳母が訪ねてきましたが、風邪を病んでなくなったといいます。乳母祠(おばっこ)と呼ばれ、婆神様として乳母の霊を祀ったといわれています。
・・・・・呑だ熊とは面白い地名です。たぶん、将門の部下の小隊長クラスの誰かだと・・

将門伝承2
【将門橋】旧荒川村日野
押手沢に架かる「将門橋」があります。古くからの橋ではないようで、この近くに「将門塚跡」があるのでこの名が付いたと思われます。この押手沢が、荒川に落ちるところが「将門の滝」になります。
・・・・・完全に後付の観光用です。橋は昭和あたりの建造物に見えます。

将門伝承3
【将門の滝】旧荒川村日野
荒川橋を途中まで渡ると、左手に押手沢から流れ出す「将門の滝」が見えてきます。落差30m。
・・・・・この滝も最近名付けられた滝だそうです。昔から無名で無視されていたのが、将門ブームで、名付けられたようです。

将門伝承4
【将門塚跡】旧荒川村日野
旧秩父往還と国道の丁字路の南に「将門塚」があったと思われます。この塚は、将門の墓、または武具を埋めた塚だといわれています。この塚は今はなくなっていて、「松葉区農村センター」や集会所の建物があります。
・・・・・将門軍の残兵が武器を隠すために埋めた可能性は、少しあります。

将門伝承5
【若御子神社】旧荒川村上田野
武州日野駅前を過ぎ、上田野地区のそば畑の中を歩きます。「千手観音堂」をすぎると「若御子神社」入り口です。この神社の説明板に、古くより武将達の崇敬が厚く、天慶年間、藤原秀郷が平将門を討伐の時、この社に戦勝を祈願したとあります。

将門伝承6
若御子断層洞】旧荒川村上田野
若御子神社の山手に「若御子断層洞」があり、この洞穴に戦いに敗れた将門が隠れていたと伝えられています。
【清雲寺】旧荒川村上田野
若御子神社の隣にあります。清雲寺は、境内にある樹齢600年といわれる枝垂れ桜は有名です。若御子神社と同じように、この寺の山裾に洞窟があり、将門一族が潜んでいたという伝えがあります。
・・・・・将門軍の敗残兵が潜んだ可能性はあります。

将門伝承7
【白久の自由山円通寺】旧荒川村白久
自由山円通寺。この寺の地蔵堂の地蔵尊は、将門が戦場に赴くさいに、常に従者に背負わせて、身辺に安置していたと語り継がれてきたといわれています。
・・・・・そういうことも、あるかも。

将門伝承8
【秩父札所30番法雲寺・将門の隠れ里】旧荒川村白久
法雲寺。この寺の奥院の近くにある洞窟は、「将門の隠れ里」といわれています。
・・・・・そういうことも、あるかも。

将門伝承9
円福寺(埼玉県秩父郡皆野町大字皆野293 新編武蔵風土記には将門開基とある。
日野沢谷の入り口、皆野町の椋神社の下にある円福寺墓地に平将平の墓地がある。
将平は石間村(吉田町)幡武山の城主である。将門は貞盛、秀郷によって討たれ、将平は源経基王によって滅ぼされた。将門は当地に一宇の伽藍を建立した。円福寺開基。その所以により、僧侶比丘は将平の遺骸を石間にもとめて、当寺に葬り墳墓を建てた

将門伝承10
城峯神社(埼玉県秩父市吉田石間4716)
将門が、この城峯山に籠もり、追討軍と最後の決戦をしたが、愛妾桔梗姫の裏切りにより最期を遂げたため城峯山中では現在でも桔梗の花は咲かないという。周辺には、門平、館跡、将門馬場、隠れ穴等、の地名も多い。新編武蔵風土記では弟がこの城に籠もり、ネズミの大群に武具が襲われそのあと秀郷に攻められたという。山頂直下に城峯山神社が鎮座している。社殿正面には「将門」と書かれた扁額が掲げられている。

将門伝承11
九十九神社(埼玉県秩父市大滝)
将門の妾桔梗姫は将門亡き後一族を連れてこの地まで逃れてきたが追手の探索に逃げられないと覚悟し自害した。将門の妾たち、家来、付き人たちが九十九人次々と自害したので、川は七日七晩血に染まった。それからこの川を大血川と呼ぶようになった。

将門伝承12
桔梗塚(埼玉県秩父市大滝大血川)
桔梗が自害した場所。幸島家(埼玉県秩父市中津川)大滝村落合は荒川と中津川の合流点で将門残党を追った追討軍は中津川から流れてきた大きなわらじをみて捕らえられたのが猿島一族でのち生き残った一族は幸島という名に変えて土着した。
のちに平賀源内が鉱山開発のため当家に立ち寄ったという。

将門伝承13
十二御前神社
腰之根の勝負沢で将門の残党と藤原秀郷が最後の戦いをした。将門の愛妾十二御前を中心とする一団が自害した場所が十二御前神社である。

・・・・・この説明に、いささか疑問を持っています。名前に十二を使うのは不自然です。素直に読めば十二人の御前(愛妾)です。敗残兵として逃れてきた時、十二人一緒というのも多少不自然だし、一緒の自決も不自然です。この神社には、なにか違う謂われがあるのではないでしょうか。


 

 


長泉寺 花の寺 札所二十九番 ・・・秩父巡礼

2013-08-31 17:00:58 | 史跡

長泉寺 花の寺

まず、石庭が美しい。

 

しばらくぶりの石庭です。中学の修学旅行の天龍寺以来か、その後もどこかで見たような記憶もありますが、とにかく久しぶりの石庭です。この寺は正確には、笹戸山長泉禅寺というのだそうです。

 

本堂・・

本来なら、入口の”しだれ桜”が有名だそうです。続く”木蓮”も美しいと言われています。庭園の”もみじ”も、色づきが見事だと言われているようです。今は、この寺にとっての”花枯れ”の時期、旬の時期に見たい気がします。

この寺は、”はなのてら” と呼ばれているそうです。

庭園・・   枯山水風・・奥に竹林もあります。

 

     ・・竹林の前のお堂、紅葉大権現が祀られています。

”火伏せ”の文字が見えます。秋葉神社のお寺版なのでしょうか。神仏習合の変化形かも知れません。この寺は、今の寺の前山に、懸崖造りのもとの寺があったのが、火災で焼けて、江戸時代に今の姿になったと聞きます。

 

住所;秩父市荒川上田野557 電話0494-54-1106

 


橋立堂 そそり立つ岩山 札所二十八番 ・・・秩父巡礼

2013-08-31 15:56:44 | 史跡

橋立堂 札所二十八番 

・・橋立堂の背後にそそり立つ岩山、石灰岩で出来ているそうです。迫力満点。

橋立堂は、明治以前は14番今宮坊の末寺で修験道の道場、明治5年の修験道禁止令に伴い、曹洞宗の寺院となった。めずらしく、馬頭観音が本尊であるそう・・・境内に白馬の像がありました。
この立地環境をみれば、いかにも修験行者が好みそうな場所といえます・・・。

  ・・本堂  

 

隣接で、橋立鍾乳洞があります。・・・鍾乳洞への道

入口に、入場料¥200 とあります。「足の悪い人はご遠慮下さい」との文字で、断念。

*案内・・

雲取山、甲武信岳、金峰山などの 秩父多摩国立公園は、秩父古生層という水成岩から出来ているそうです。 秩父古生層と呼ばれる地層中には石灰岩体があり、 秩父・奥多摩一帯には、多くの鍾乳洞が分布しています。
橋立鍾乳洞は、 山全体が石灰岩でできた武甲山の西麓にあって、 たくさんの鍾乳洞が点在する埼玉県内で唯一の観光洞となっています。

武甲山にはその他にも、 白沢第一鍾乳洞, 小桜鍾乳洞, 西尾根上部の鍾乳洞, 根古谷鍾乳洞、, 大指鍾乳洞などがありますが、非公開。 これらの鍾乳洞は、 竪穴式のものが多く、 石灰岩体が急傾斜であるという構造に起因すると考えられています。 ・・・受け売りです。


・・境内の茶屋でしょうか。境内と鍾乳洞入口が、兼用です。駐車場は無料。

アイスクリームとそばが評判です。アイスクリームのメニューは22種類・・・・・

 

住所;秩父市下影675  電話0494-24-5399

 


藤沢・黒河内荘 溝口あたり ・・・

2013-08-29 20:46:57 | 歴史

高遠から、白山トンネルを潜り、しばらく行くとダムが見えてくる。・・・ここが美和ダム 

そして、これが美和湖・・・

上流で、モーターボートとラフティングをやっているのが見える。ラフティングは急流でやるスポーツだから、初心者への手ほどきも知れない。

三峰川のダムやダム湖なのに、なぜ美和ダムなのだろうか、訝しがって地元の人に尋ねると、湖底に沈んだ集落が美和というのだそうだ。このダムは砂防ダムが主たる目的だという。つまり、三峰川は、地層帯の合わせ目、中央構造線の真上を流れ、土砂崩れや谷を削った土砂が河床を積み上げ、河床が積み上がれば氾濫が起こりやすくなる。その悲劇の歴史を繰り返して、ようやく砂防ダムにたどり着いたという。さらに、三峰川から分流して、東春近に流したおかげで、畑作ばかりの東春近に水田が出来たという。もともと、自然を破壊してコンクリートのダムを作るのは好きではないが、地元の悲劇を知れば、納得しないわけにはいかない。

その美和湖のほとりにある、道の駅

・・道の駅 南アルプス村長谷 と言うのだそうだ。大きくないが、まとまっていて小綺麗。

”パン屋さん”が人気、アルプス村の名から、勝手にイメージするのは”チロル”風・・・

さて、次は溝口へ

      ・・暫く走って、宗良親王の名と常福寺の名を見つける。

常福地本堂・・

 

 ・・かなりの数の馬頭観音です。

南北朝時代、南朝の宗良親王を守って倒れた、上野(群馬・太田)の新田一族の無名戦士の墓とも言われています。南朝が不利の時、続々とこの地に逃れ来て隠棲し、再起を待ったとも言われています。何割かは、この地に住み着いたとも、大徳王寺の戦いで北朝側に敗れたとも言われています。南朝の、宗良親王の痕跡は、大鹿村や諏訪大社ばかりではないようです。昔黒河内といったこの長谷村にも、この先の峠(杖突峠)を越した大草地区(中川村)にも、かなり残っています。相模次郎(北条時行)といい、宗良親王といい、この地の山岳は、時の権力に対峙して、悲劇の人を守り抜く優しさを持っているのでしょうか。

 

・・寺の裏山のお堂。名前はありません。

 

大徳王寺城 城跡

赤い屋根が常福寺になります。

南北朝時代の終わり頃、大徳王寺の戦いがあったことは、何冊かの古書で確認されていましたが、場所の特定が出来ませんでした。 昭和15年になって、常福寺の屋根裏から、宗良親王の関係する仏像や他が発見され、常福寺の裏山(=御山)が、大徳王寺跡だろうと推測されるようになりました。この時の南朝側は、北条時行と諏訪頼継だったようで、宗良親王は戦いに参加していません。

その後、この地を訪れた親王は、襲われてこの近くで死んだと言われています。

 

   ・・御山の遺跡の案内板と宗良親王の墓へ続く石段・・

  宗良親王のはか・・・

    ・・卵石は、坊さんの墓を意味します。

                                                                   合掌

 

 

 

 

 

 


高遠の街並み 寺院,、神社 ・・・

2013-08-29 01:53:25 | 歴史

高遠に来たのは初めてである・・・。

歴史好きから、伊那忠次を知って、その関連で保科家を知り、色んな本を漁っている内に高遠は、来てもいないのに旧知の町になっている。今日は、時間がないので、町の有名旧跡と雰囲気だけになりそうだが・・・

本音の行きたいところは、峰山寺と遠照寺と台殿あたりの諏訪神社だが、峰山寺以外は下準備が不備で、地図案内が覚束ない・・・おそらく残念・・・

 ・・高遠の観光地図・・おそらく歩いて回れるところでしょうか?

メインの城は、今日の予定には入れません。

街並み風景をいくつか・・・

        

 蔵造りの家や店が点在する、懐かしい街並みです。いつまでも残して欲しいような気持ちになります。

 次は、建福寺・・

本堂、前に守屋貞冶の地蔵がありました(前回掲載)。

 

        ・・山門です・・・手入れの届いた寺で、背景に山を背負っています。

 

          墓地に墓が三基。

左から順に、諏訪御料、保科正直、保科正光 の墓です。

恐らく建立の順序も、この通りだと思われますが、武田勝の母が、なぜ並んでいるのか、考えても分かりません。それと、保科正俊と保科正則の墓がどこにあるのかも、興味があります。二人とも戦死したわけではないので、墓が無いのを、ずっと不思議に思っています。

次は蓮華寺・・・

本堂・この寺は、日蓮宗です。”絵島”は敬虔な日蓮宗徒であったようです。

  ・山門 ・絵島の墓 ・絵島の像

江島の墓は、大正5年に田山花袋によって発見されるまで、世間からは全く忘れられていました。

 

 次は、満光寺です・・

 本堂・

松が見えます。”極楽の松”と言って有名だそうです。一度見ると「極楽に行ける」とか・・・

 

 ・・鐘楼門、この方も有名、さすがに立派。

 

 

 

 ・・山門 ・・お堂

 

・・保科小源太の墓   内藤家の墓。

保科左源太は、保科正直の妹の子です。正直の継承した、保科正光は子がいませんでした。そこで、正光は、嫡子予定で、左源太を養子に迎えました。ところが、信玄の娘の見性院から、幸松の養子を依頼されます。幸松は、将軍家光の弟(後の正之)です。結局正之が相続し、左源太は秘されたまま暮らして、早死します。運命のいたずらなのか、悲劇なのか・・。

満光寺は、高遠藩内藤家の菩提寺です。内藤藩は、特に六代目、七代目が名君だったと言われています。内藤藩主の墓地が、ここにあります。

 

 

次は、峰山寺・・ほうざんじ

本堂・ 

 ・・こちらは、学校のようです?

この寺の背景の山は、月蔵山と呼びます。

ここ峰山寺には、高遠ゆかりの名士の墓がある。「高遠藩の藩学の祖」と言われる阪本天山、その門人で、「高遠の学」を完成させたとされる中村元恒、元恒の孫で「日本の林学の祖」と言われる中村弥六などである 

 

    大きな墓があります。文字は擦れて読めません。

おそらく、高遠藩主だった鳥居家の藩主の墓?だと思います。

この寺のもとは、文明寺と言います。保科正俊の参謀の文明寺某の寺です。和尚なので、保科家の家臣とは少し違いそうです。その時代の痕跡が少しでもあれば・・・と思ったのですが、簡単に分かるわけありませんよね。正俊の”鉾持除けの戦い”で活躍したそうです・・・「槍弾正の逆襲」・中村彰彦

文明寺は廃寺となって、鳥居家が藩主で高遠に来た時、鳥居家の菩提寺で再興したそうです。

 

次は、鉾持神社・・

 

  ・・長い石段です。高遠の鎮守でしょうか。

この山を背に、この神社と建福寺と蓮華寺が並びます。

 

 

 


高遠町藤沢付近 保科の里 ・・石像の祈り 

2013-08-25 17:35:05 | 歴史

 高遠藤沢 御堂垣外 本陣・・

 

   ・・本陣は藤沢家が勤めた

藤沢谷 ・・むかし、保科正満が藤沢に来て、武士を棄て帰農した。保科正則の叔父(正利の弟)かも知れないという。土着して改名をした言う。恐らくは・・・(藤沢正満・藤沢邑主)。しかし、定かではない。

貴船神社・・・

  ・・昔は、”貴布弥”神社・・・こう書いたのか

 

   転記、藤沢御堂垣外の風景・・・

 

石像の祈り・・・

それにしても、石像の多い所・・・いたるところに・・

庚申塔・・

庚申塔の石形や彫られる仏像、神像、文字などはさまざまであるが、申で猿だから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿を彫り、村の名前や人の氏名を記したものが多い。仏教は、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。さらに塞神として建立されることもある。・・

・・・左下に猿が二匹”み猿、きか猿”、右は三匹の猿”いわ猿、み猿、きか猿”・・・


     ・・・文字だけの庚申塔・・・

 

  高遠石工の名人”守屋貞冶”の地蔵尊。 これは建福寺にありました。

 

・・石仏では無い様な気がしますが・・

 ・・手を繋いだ双体像です・微笑ましい

 一面四臂の青面金剛仏に三猿

 

・・三面六臂、腕は一本欠けています

 

・・不動明王でしょうか

 

個人的には、顔や手の多い仏像は、現実離れして、あまり好きではありません。出来れば一面二臂がいいのですが。民衆信仰には、十一面観音が多く見られます。なぜだか分かりません。

高遠は石工の町と言われています。

石工は、石仏、石灯籠、石階段、石垣、地蔵など石を細工するもの何でも作ります。一番多いのは、やはり墓石なんでしょうが。名人”守屋貞冶”は、そのうち石像、仏像の名手でした。緻密で柔らかい表情は、いまでも、仏の優しさを訴えてきます。高遠の石工は、石の造成物作成の時、いつもかり出されます。江戸城の石垣を作る時も、保科家を通して、石垣築造の指揮にかり出されています。この地が貧しかったので、出稼ぎも多かったようです。高遠石工の使った石は、少し緑がかった石で、長い風雪に耐えるようです。この高遠の近くに、石の産出場があるのでしょうね。

 


高遠町 藤沢片倉・古屋敷付近  ・・・守屋の里

2013-08-25 09:44:39 | 歴史

o盆前・帰省の途中・・・

松本で高速に乗り、諏訪ICで降りて、杖突街道、峠へ・・・本の知識で得たイメージ、杖突街道の名が示す急坂の難所より、いくらか穏やかな坂を登り切ると、林間ながら、なだらかな下り坂となる。

進行の右側、恐らくこの山は”守屋山”・・御神体の山・・・

由来の案内板・・・文章

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守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、
祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、


由 来

(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、
信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多
(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊
を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して
家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したる
は、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍
に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二
百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべ
く)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼
(かいじん)せしと申傳(伝)へり、
社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、
山王小社同所にあり(社地略)、
権現山神小社同所にあり(社地略)、
山神小社同所にあり(社地略)、

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物部守屋大連を祭る・・と書いてあることから、祖霊は物部守屋か?・・

簡略すれば・・・物部守屋の子孫が、はるばるこの藤沢に、蘇我入鹿の追っ手から逃れてきて、長い年月を隠棲して子孫を継承してきましたが、守屋一族も”守屋”の名を継承して、一族も家数戸になり、祖霊を氏神として祀ることにします。この守屋の子孫が住んだ氏神守屋神社附近の屋敷跡を古屋敷といいます。その隣の五輪原には(この地の守屋子孫の初代を祀った)古墳があります。最初に守屋子孫が、この地に住んでから1280年以上経ち、今では子孫一族は72戸になりましたが、残念なことに寛永年間(1624-44)に火事があり、村が焼失し、古書や重器が皆焼けてしまったと言う申し伝えがあります。・・神社内には宮司の建物と合祀した三つの神社があります。・・・こんな内容でしょうか・・

              守屋神社 里宮・

              ・・転記

                   雪ちるや 穂屋の芒の 刈り残  ・・ 芭蕉 

友人に俳句を詠むのがいまして、つい芭蕉の句を添えてみました。思いつきです。自分は俳句は作れませんし、深い理解も出来ませんが、これは、かなり好きな一句です。夏のいまとは季節も違います。芒は薄(ススキ)のことで、穂屋は芒を敷き詰めた神の座るところ・・座所を意味するそうです。穂屋の芒は、そのままなのか、編んだのか分かりません。”刈り残”も、”刈りのこり”なのか、”刈りのこし”なのかも分かりません。なにか凜とした空気が漂い、まだらな白と土色の色彩世界に、穂のもつ豊かさと、すすきと刈り残の寂しさの、二つが漂う神の座所・・芭蕉は神社に、こんな印象を持ったのでしょうか。

みれば、狛犬が一対神社を護ります。この神社は諏訪大社と関係が深そうですが、割愛します。

 


藤圭子 哀悼・・・8/22 ネットのニュースに藤圭子死亡・・が流れました

2013-08-22 15:55:51 | 時事ニュース

今日は、昔よく聞いていた、”暗い歌”を続けて聞いて、暗くなります。暗くなりすぎたら、そこからは、少しずつ明るくなっていくのでしょうか・・・

 

ふじけいこ  ゆめはよるひらく &

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき よがあけたら・・

http://www.youtube.com/watch?v=PpRthIn_IvM

あさかわまき かもめ・・

http://www.youtube.com/watch?v=2rI9xaT42nE

りりー わたしはないています・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ちあきなおみ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=WnK0LtfVm2o

ふじけいこ かすばのおんな・・

http://www.youtube.com/watch?v=Oy35M5jcDFg

あさかわまき くらいにちようび・・

http://www.youtube.com/watch?v=aLiz6nYJT0I

かるめんまき ときにはははのないこのように・・

http://www.youtube.com/watch?v=f6I-Shd9Oqk

 ふじけいこ シングル・・うたいくつか

http://memoryyoutube.blog133.fc2.com/blog-entry-17754.html

 

・・・ビートルズも、、たまにジャズも好きですが、こういう演歌も、好きでしたよ ・・・       哀悼・拝 

 


三才山 小日向付近 ・・・御射神社

2013-08-22 01:41:42 | 歴史

三才山(ミサヤマ)は松本市と上田市の境に存在する山であり、隣接は美ヶ原である。

所は、松本市の奥・・・

ここへの興味は、三才山の女鳥羽川沿いにある小日向という集落が、この地方の小豪族、小日向氏の住居ではないかという、歴史的な興味からで、あるいは何の関係もない場所かも知れないが、とりあえず訪ねてみようか、という程度であった。痕跡は残っていないかも知れない、と言う不安はあった。

歴史書に、松本に小日向源右衛門があり、高遠の保科正俊の娘が小日向に嫁ぎ、また小日向源右衛門から正俊の嫡男正直のもとへ、側女が来ているという。少し時が立った時、正直の嫡子正光と真田昌幸の娘との夫婦に子がなかった時、跡継ぎ約束で、保科正俊の娘と小日向源右衛門の子の小源太を養子に迎えている。その小日向家の屋敷跡と小日向家の墓でもないかと、当たりをつけて来たのだが・・・・・・さらに欲を言えば、保科正俊の所在不明の墓があるのではないかと・・・・・

ひとえに歴史的興味である。

  これは、三才山トンネルで、有料のトンネル。国道R254・・・

R254は、長い国道。三桁国道としては、R125とともに、首都圏でかなり交通量が多い国道で、走る区間により、違った名前を持っていることでも有名。埼玉県内は川越街道、群馬県では富岡街道、長野県に入ると佐久街道と呼ばれる。国道R18の脇往還でもある。

さらに延長すると松本まで繋がる。昔この道は松本上田往還と呼ばれた。あるいは上田松本往還なのかも知れないが・ 。つづら折りの長い峠道で、難所でもあったという。それが、R254が整備され、三才山にトンネルを掘り、かなり往来がし易くなったという。

聞けば、このルートの所要時間は、高速とほぼ同じ、というではないか。高速の松本市街への入口付近は、常に渋滞している。時間帯により、このルートの方が早く着けそうな気がする。もともと目的地はこのルート沿い、東部湯ノ丸で高速を降り、R254の道をたどる。

三才山トンネルの松本側出口付近が、三才山小日向という地名である。ここが小日向か・・・・・最近松本からのバスも、少し下の稲倉(シナグラ)までで、小日向橋のバス停は、廃線で、バス停を寂しくしている・・・

歴史的な建造物を尋ねると、城跡と神社だという。

 城跡の城の名は、三才山城。城主の名前すら覚束ない。どうも、小笠原氏の出城は砦のようで、あるいは小笠原家臣の赤沢氏の出城であるかも知れない。

       三才山城入口、民家脇の坂道。  城跡の地図

来たついで、と思い、急坂を登ってみたが、途中から獣道みたいになり山中に消えていく・・・これではまずい、と思い、諦めて引き返す。もともと城跡の探索は目的にはないのだ・・・

歴史考察・・・

この三才山小日向地区は、古くは、御射(ミサ)神社の神領の本郷六村の一つとされた地区であるそうだ。後に小笠原家が信濃守護として、伊賀等荘より府中(=松本)に移ってきて、その家中の赤沢氏が稲倉に城を構えて、この小日向を含む本郷六村も領内としたらしい。この赤沢氏は、小笠原家の別流(別家)らしい。そういえば、武士の嗜み、「弓馬の礼法」を作ったとされる小笠原家は、惣領家ととに赤沢家が実務を担当し、ともに、この「弓馬の礼法」を作成し、将軍家及び天皇家に、「礼法」を教授すべく、京に上り、赤沢家はそのまま京に居着いたとされる。あな赤沢家の片割れが、稲倉城の城主だったのかと・・・

さらに、御射神社

   御射神社鳥居・・・

この神社は、秋宮と言うらしい。と言うことは、春宮もあることを意味する。当然秋宮が奥の院と言うことになる。境内を彷徨くと和歌の奉納案内版がある。そこには、和歌とともに詠み人、諏訪社大祝某の記名もある。なるほど、御射神社と諏訪社大祝の二つの確証で、ここは諏訪社・・・、参詣の子供連れに、この神社は諏訪神社ですか、と尋ねたら、「そうらしいが、地元ではないので詳しくは分からない」とのこと。

また、彷徨いていると、老婦人、というか農家のおばさんと話ができた。このおばさんが話し好きな人で、神社近くの人は、比較的新しい移住者で、古くからの人は城山の麓の地区にいるらしい。小日向を名に持つ家は、旧家どころか、どこにもないという。狭い地区なので皆顔見知りだという。また、地区の旧家は、柳沢一族だという。「ほら、あの家も、その家も、あそこも、柳沢・・」という。御射神社の春社は、浅間温泉郷の奥にあるという。古い墓地はどこ・・・には、小日向橋を神社に向かう、橋を越して右手の丘の上・・・行ってみたが、沢山の道祖神の他は、柳沢ばかり・・・小日向はない。

小日方家探索は、むなしい結果に終わる。・・・・・小日向が真田の家臣で、領有地に小日向を見るが、そこではないと思う。・・小日向家が、保科正貞と良好な関係があり、飯野藩近くに移住した可能性はある。・・小日向家が、御射神社の宮司で春社・浅間温泉郷に移る住んだ可能性は・・・課題は残ったが、小日向探索は、ここまで・・・

  ・・御射神社境内1  ・・御射神社境内2

御射神社境内3

 

ミサ山のこと・・・

かって、地図で三才山の文字も見て、”ミサ”やまと読むのだと知って、キリスト教関連の山みたいだと、面白がって、すぐに忘れた。今回に、この付近に来た時、山の名前は直ぐ思い出した。そして、この御射神社に出会う。御射神社の御射の読み方だが、多くは”みしゃ”と読み、”みさ”とも読むらしい。この地の御射神社は、”みさじんじゃ”と呼んでいるという。創建は古いが、資料が無いため、年代は確定できなく不詳とされるが、平安末期の吾妻鏡に浅間社が見えることから、平安かそれ以前よりの存在が予想される。それぞれを勘案してみると、三才山の名は、御射神社のある山から由来し、名前は後付けのように思える。

 ある御射山神社

諏訪大社と御射神社あるいは御射山

御射山は御社山、御斎山、三才山とも、多少ややこしいが同義とされる。それは、諏訪神社の神事、生け贄用の狩りの山を示すとされる。これを表現するのに”射る”を文字に含めた”御射山”が、もっとも神事にふさわしい山の名前のようだが、のちに変化して一般化しても不思議はない。この神事のために、生け贄用に、狩り場で射られる、二つ角の動物は、鹿である。そういえば、諏訪神領の南部奥地にある大鹿村は、いかにも鹿のいそうな村であった。

と、ここまでは、諏訪神社あるいは諏訪大社に関心のある方は、ご存じの基礎的知識の範囲。

神社には、眷属が一対社稜を護るという風習がある。この場合の眷属は、俗に”家来”と訳してもいいが、より正確には家来一属という種族と理解した方がよい。神社を護る眷属に、狼や蛙は希で、その多くは”狛犬”という。御射神社の眷属も、その”狛犬”である。よく見ると、いや、よく見なくても、これは普通の犬ではない。毛がふさふさして、ライオンに似ている。神社の歴史は、紐解くまでもなく、古代から存在している。確認できる”存在”の資料でも、物部守屋の時代からは確かだ。それ以前より日本にライオンがいた痕跡は、嘘でもない。とすれば、ライオンを見た人が、日本に伝えた。それも、神社とか、神道に関わった人が・・・と考えるのが筋道がたっているように思える。他に考えようがあるのだろうか。だが、神社とか神道は、日本独自のとか日本古来のとか、ずっと考えてきた。

”ミサ”、”狛犬の獅子”、”生け贄の神事”、これらの日本の神社に関わることが、何処かの国から来たとすれば、どこの何という宗教なのだろうか、これは興味があるテーマだと思う。ただ、深入りすると出口のない、カオスの沼に溺れてしまいそうな気がするので、そこそこにと肝に銘じて・・・

想像はつくが、まず”生け贄の神事”と”ミサ”という言葉から・・・

旧約聖書では生贄の子羊の血は、イスラエルの民を護り、救うものであった、とあります。それは神の儀式であり、神の食事でもあったようです。この儀式のことを”ミサ”と呼んだらしい。このことを、古代ユダヤ教の解説書から辿ってみると、「古代ユダヤ教には生贄(いけにえ)の風習があったようで、ユダヤ教およびキリスト教の聖典である旧約聖書には、罪を贖(あがな)うために子羊などの生贄を捧げる習慣についての記述が散見されます。たとえば『レビ記』には、”生贄を捧げ、穢れのない子羊の血を振りまく”とあります」。聖杯はこの場合、子羊から出る血を受け止める器で、聖なる儀式に使うための道具で、かなり重要であったようです。日本では、羊がいないため、山野に生息する鹿が代用されたと見るのは、極めて自然な成り行きです。・・・この生け贄儀式は、神の食事儀礼として”ミサ”と呼んだみたいです。

古代ユダヤ教を受け継いだキリスト教・・・参考

罪を贖(あがな)うため儀式は、イエスによって変形されて、キリスト教に受け継がれます。イエスの十字架への磔の刑は、自らを子羊になぞらえての”生け贄”の儀式です。キリスト教において、この「子羊の血」の代わりとなったのがイエス・キリストの血、すなわち赤ワインでした。 最後の晩餐の席で、イエス・キリストはパンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたとされています。キリストは「神の子羊」とも呼ばれるように、人間の罪に対する贖いとして、キリストが未来永劫に生贄の役割を果たすと考えられており、キリスト教徒たちは、穢れのない神の子羊であるイエスの血によって、すべての人間が免罪され得ると考えています。このことを聖体変化とか聖体拝領と呼んだようです。

ただ、この”生け贄”の儀式に、鹿を供物にする日本の神社は、諏訪神社しか確認していません。他の神社がどうなのか、また昔の儀式にはあったのか、興味のあるところですが、今は分かりません。諏訪神社は、かなり原始的な儀式を継承しているのは確かです。

次ぎに、古代ユダヤ教の死生観を見て見ます。

「一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。」

これは、日本の神道の死生観とかなり類似しています。神道では、死後も”魂”は霊魂として地上に残り、邪気を払って永らえれば、祖霊として存続するとされています。仏教のように、死後の世界があったり、輪廻転生といって「なにかに生まれ変わる」という、死生観はありません

またユダヤ教は、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない、といわれています。これも、神はみんな仲良し、八百万(やおよろず)の神の、神道に類似している点です。

また、ユダヤ教がイスラエルの地に生まれた宗教と考えるなら、獅子の姿をした狛犬のモデルがライオンであってもおかしくないし、モデルを見てからのデフォルメは納得が出来る事です。

渡来氏族の秦氏(はたのうじ)の一部は、原始キリスト教徒であるという、説があります。この真偽は分かりませんが、日本神道の形成に影響をあたえたという事例は幾つもあります。このブログに秩父地方を回った時の渡来人秦族の末裔を幾つか見ました。神社創建にも関与して事例も確認しています。その時は、ユダヤ教的な習慣まで、見つけることが出来なかったのですが、可能性としてはあります。

これも、真偽が疑われていますが、明治天皇の言葉に次の様な下りがあります。・・・・・「私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は、神道である。しかし神道は、本来はユダヤ教である」

 

 後日談:追記
「おびなた」と呼んでいた人のことだろう。とにかくこれが先だということを認識することから、日本の中世史は始まる場合があるようだ。
赤羽記では、「松本の小日向氏」という表現だったと思う。しかし、上記のように、調べればむなしい結果に終わった。
ここで原点に立ち返ると、「おびなた」の当て字は「小日向」の他に「大日向」かもしれない・・更に、松本を、松本周辺と広げると、違った視界が開けてくる。
「しなの」は「信濃」でもあり、「科野」でもあり、「品野」でもあり、、、「ほしな」は「保科」とも「星名」とも書けるのだ。
開けた視界から眺めると、松本近く・・生坂村に、「大日向」氏族があった。この士族は、内部で分裂し、「上杉」支持派と「武田」支持派に分かれた。
そして、「武田」支持派の「大日向」氏は、確かに保科正俊の娘婿であり、ここから養子を迎えているのだった。
 



 

 

 

 

 


三州街道 塩の道 足助

2013-08-19 12:11:22 | 日記

三州街道 足助宿 ・・・今は豊田市足助 の街風景です・・・

蔵屋敷の風景は、郷愁を呼びます・・・

 

昔、塩問屋だった、・・・莨屋(タバコヤ)さん

 足助川・・     ・・この川は、巴川に繋ぎ、やがて矢作川に合流します・・

 格子戸の見世  ・・バスの待合、潜ると休憩所と御輿倉、奥は裏通りに・ 

  

           足助城 転記

足助 塩問屋 宿場・・・

三河湾等でつくられた塩は、足助で運搬に便利なように七貫目(約26kg)に俵を包み直したため、「足助塩」、「足助直し」と呼ばれました。塩は一頭の馬の背に四俵乗せて、江戸時代には年間五〇〇〇頭を超える馬が信州向けの塩を運んだといわれます。信州からは年貢米・たばこなどの山の幸が運ばれました。この街道で物資を運搬した人々を中馬と呼び、伊那街道は中馬街道とも呼ばれました。

天和元年(1681)に、七〇〇〇石の旗本本多氏が知行地として陣屋を置き、幕末まで足助町を支配しました。宿場町と商業の中心地として、本多氏が与えた特権などにより豊かな御用商人も生まれました。この時期の経済力が、足助の歴史的な町並みをつくったのです。特権の一つとして、足助町の問屋連中は馬稼ぎ人から「荷ノ口銭」と呼ばれる通行税を徴収したため、江戸時代末期に足助の商人が打ち壊しにあった「加茂一揆」や通行税廃止を求める争い「荷ノ」が起こりました。

明治時代になり、盛んな物資輸送で足助の町はさらに繁栄しましたが、明治四〇年(1907)に国鉄中央線が30km北の東濃地域に開通すると、信州と結ぶ交通の要衝としての役割は全くなくなりました。

足助城

足助城の城主は、鈴木氏で、盟主は今川だったり家康だったりしたようです。武田信玄の三河侵攻の時落とされて、暫く信玄配下の下条氏の守城になりました。この頃、桶狭間の戦いがあり、今川家は信長に滅ぼされます。そして、信玄と駿河の境界線協定を行い、家康は、三河と遠州と駿河の三国の太守になります。大大名への出発です。この境界線の策定をしたのは、信玄側は足助守城下条氏で、家康側は東三河の旗頭酒井忠次であったとされます。

・・・足助の町は、蔵が残る風情のある町でした。不満は、昼時リーズナブルな食事の場所が見つからなかったこと、車の駐車場が見つからなかったこと・・これは当日夜祭のためかも知れませんが・・できれば平谷のように”道の駅”があれば、便利に思います。・・・これで、リターン、帰路につきます・・・