ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

あじさい

2016-06-18 23:36:59 | 草・木・花 風に吹かれて

   あじさい


 

 

 

 

 あじさい が 似合う季節になりました・
 
 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 あじさい の ”あお” が雨に似合う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関東では、箱根登山鉄道の車窓の”あじさい”が人気だそうです。
鎌倉には、”あじさい”が似合う”寺”がいくつかあります。
熊谷にも”アジサイ寺”がありました。
でも、”あじさい街道”が気になります。
”あじさい街道”は越生にもありましたが、やはり”正丸街道(別名:あじさい街道)”が好きです。
高麗(日高)から秩父へ抜ける”峠道”のことです。

 

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淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

       ・・・達治 一節

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2016-06-13 00:30:42 | 草・木・花 風に吹かれて

    

「タチアオイ」という種目だそうです。

6月、梅雨前 ・・・葵、夾竹桃、アジサイが咲き乱れます・

 

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葵の紋;・

みずあおい

葵の紋

三つ葉葵 紋

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言わずと知れた”徳川家の紋”ですが、こんな逸話があるそうです。

 ・・・享禄二年(1529)岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が吉田城(豊橋市)を攻めた時、当時の伊奈城主・本多正忠は清康軍に参加、先陣をきって東門を破り城を攻め落とした。正忠は清康を伊奈城に招いて凱旋の祝宴を開き、城内の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ清康は大そう喜び、「立葵は正忠の家の紋なり、此度の戦に、正忠最初に御方参て、勝軍しつ、吉例也、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり。」(藩翰譜・新井白石編)
 この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺に残されている清康の肖像画には、「立葵の紋」が描かれています。 このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられています。・・・

みずあおい

上の文中に「「立葵は正忠の家の紋なり」という言葉があります。
これは何を意味するのでしょうか。

”葵”の紋は、徳川将軍家が使っている家紋です。
徳川幕府ができて以来は、葵紋を使用することが禁じられました。
しかし例外がありました。
そうです・・・徳川家が葵紋を使う以前から使っていた由緒あるところは、例外的に使うことを許されました。
京都・賀茂神社と善光寺です。ここの紋は、古来からの”神紋””寺紋”です。

たちあおい紋・神紋


それと、上の文中の「本多家」です。

 善光寺紋・本多家紋

鋭い方は、もう気づいているのかもしれませんが、「本多正忠」の城の名前は”伊奈城”といいます。伊奈城は、現在の愛知県・豊川市にあります。”葵紋”と”本多”と”伊奈”で連想できることは、善光寺につながります。
「本多正忠」の本多本家と三河に分家した本多一族は、善光寺創設にかかわる”本田善光”の末裔・・・それを証明するものは、当時も現在も残っていませんが、この一族はこれを信じていたようです。
山岡壮八の「徳川家康」の中でも、家康の参謀となった本多一族の”本多正信”と家康の”かけあい”も、この背景を知った前提で読むとかなり深く読めるように思われます。

 *伊奈は「伊那」のこと。本田善光の生まれ故郷。そして”善光寺”の故郷、「元善光寺」が伊那・座光寺にあります。

先ごろ、オリンピックの”意匠”のことで何かと話題になりましたが、考えてみると”紋章”も”意匠”なんですね。と思って、つくづく眺めると、どれもこれも均整の取れたフォルムで洗練されています。昔も”デザイナー”という職業があったのでしょうか。
少しだけ興味があります。