葵と紫陽花
葵と紫陽花が同時に咲いた ・・・
・・葵の花は白と赤・
・・紫陽花は額紫陽花・
葵
木の葉が、ディフォルメされて家紋章になると・・・
紫陽花
そうか!もうじき梅雨になるのだ ・・と花が教える。
沖縄は、もう梅雨に入っているのかも知れない。
最近の話題は、火山火口付近の”活発な活動”であり、
昨日は震度4の地震もあった。 不気味な情況なり。
それでも、花は咲く ・・・
葵と紫陽花
葵と紫陽花が同時に咲いた ・・・
・・葵の花は白と赤・
・・紫陽花は額紫陽花・
葵
木の葉が、ディフォルメされて家紋章になると・・・
紫陽花
そうか!もうじき梅雨になるのだ ・・と花が教える。
沖縄は、もう梅雨に入っているのかも知れない。
最近の話題は、火山火口付近の”活発な活動”であり、
昨日は震度4の地震もあった。 不気味な情況なり。
それでも、花は咲く ・・・
天空のポピー 2015/05/22
・・ poppy in the sky ・・
約1500万本のシャレーポピー
in 秩父高原牧場南面傾斜牧草地
秩父鉄道皆野駅から無料シャトルバスも運行
観光協力金は一般200円、中学生以下無料
峠道 外秩父山系にて
東秩父牧場の「天空のポピー」を見た帰り ・・・
”白石峠”経由で”都幾川”を通って帰ろうと思い立った。そうするには ・・・
・来た道を戻ってから定峰峠、それから白石峠、都幾川のルート、
・牧場の中を下り、粥仁田道へ繋ぎ、粥仁田峠、札所一番・四萬部寺の脇を通り皆野へ、そこから定峰へ駆け上がり定峰峠へ、林道を白石峠へ、そして都幾川のルート、
粥仁田道の選択は、一部舗装のない砂利道があるが、こちらの道を選んだ。
江戸時代、秩父・札所巡り・三十四札所巡礼のメインルートの峠越えの道である。
・・・ 参考:秩父への峠越えの三ルート、横瀬越え、粥仁田越え、風布(秋山)越え。
粥仁田峠の手前、東秩父牧場の牛たち ・・・
粥仁田峠の”榛名神社” ・・・
・・この神社脇に大きな沼があったという・・
ここの”粥仁田”は”粥新田”となっている。
さらに、高崎・榛名山の榛名神社の本家とも、姉宮とも言っている。
つまり系譜を示し、こちらのほうが古いと言っているのだ。
”半信半疑”で榛名神社を調べて見たが、他には「それらしいこと」は見つからない。
根拠があるのだろうか?見た目には”小さな祠”にしか見えない。
上州新田荘の新田、新田義貞の新田であり、
伝承の「粥煮る」の変化形ではなさそう。
さらに「風布・釜山神社」の神主の岩松氏は新田一族であった、と重ねると
上州との関係を疑う要因になるが、・・・
四萬部寺・札所一番
四萬部寺付近の花畑
定峰峠から白石峠 ・・・
堂平山山頂付近 ・・・
遠景の山麓のしらけた部分が”東秩父牧場”
山頂付近の白い木の花・天文台付近・・
慈光寺
帰路 ・・
浄蓮寺 in 東秩父村
橋を渡り、東秩父村和紙の里、伝習館へ行く手前 ・・・
地籍が、東秩父村御堂とあります。隣が小学校、槻川が流れています。
浄蓮寺。 ・・・浄蓮寺自体が御堂なのでしょう。
この寺の墓地に「松山城主上田朝直の墓」があります。
墓地の前の狛犬?狼?
上田朝直の墓・どれだか分からず・
上田朝直は、文明の頃、戦国初期の武将。
はじめ、扇谷上杉の重臣として、後北条と戦いました。
松山城の城主は、最初難波田氏、後に岩槻の太田氏。
太田氏が岩槻城の城主を相続するため岩槻に戻るとき、
上田朝直に松山城が託されました。
変遷した”松山城”の城主は、すべて”嫁さん”を通じての姻戚関係。
以後、後北条に敗れて後北条の家臣になり、
越後上杉が進出してきたとき上杉の家臣になり、
戦国の世に翻弄されます。
後に、出身の東秩父に隠棲し、居館を浄蓮寺に開基したそうです。
それにしても、墓石ではなく板碑が多い墓地ですね!板碑・いたひ・と読みます。
そういえば、小川町の仙元山(道の駅近くの長い滑り台のある山)の端の方に、板碑採掘場があったような?・・・
与野公園 バラ祭り
開催 ’15/5/16(土) - 5/17(日)
与野公園シンボルの「翔の銅像」
バラの共演
与野公園:開園は1877年(明治10年)
公園としての開園はかなり古い。
■一山神社;木曽御嶽講;(恵比須神)、■天祖神社;与野公園の中;(寿老神)、■御嶽社 木曾御嶽講;(弁財天)、■ 円乗院;畠山重忠が創建した名刹;(大黒天)が公園を取り巻くが、与野公園はこの四つの神社仏閣の境内敷地が寄進されて作られたという。
与野のシンボル。しかし地名からは与野が消えた。
所在地 : 中央区本町西1丁目地内
月の町 浦和
「二十三夜」って、なに?
今は”さいたま市”になってしまったが、
浦和の町の産業道路を走っていると、
太田窪辺りの交差点に、突然「二十三夜」と言う交差点に出くわす。
あれ・・、面白い名前の交差点、と思って、由来を尋ねてみた。
御丁寧に、交差点近くのバス停も「二十三夜」となっている。
そういえば、浦和には”調・つきのみや・神社”があり、
眷属が”うさぎ”で、月に関係しているらしい。もしや”浦和は月の町”、 ・・・と思ってしまう。
調べて見ると、江戸時代に隆盛を極めた民間信仰で、「二十三夜講」という講があったという。
所によっては、昭和の初期まで続いていたらしい。
なにも浦和に限らない、全国至る所にあった”月待ち信仰”だという。
「二十三夜講」の内容は、 ・・・
・・「二十六夜」など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすること・・・毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月、11月の一定の月を祀る所が多く・・・月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざま・・・講の組織になっていることが多くあります。・・
信仰の発生については、・・・武蔵野は安住の郷域でしたが、源氏の将扇谷上杉定正一族の勢力争いに端を発し、小田原の北条氏秦らが加わりここに果てしない戦渦が広がり、住民の多くはその被害はかりしれず、やがて農兵の徴発となり人々の恐怖の果てにおかれた・・・この頃当地方に起こったのが月待信仰(さんやまち)であり、後に「二十三夜まち」講として行事化されたと伝えられます。
これは、たまたま浦和の例ですが、他所でも同様の不安に駆られた出来事があり、この不安から、民観信仰が始まったのでしょうか。
「二十三夜講」とほぼ内容を同じくする”月待ち講”は十五夜講や十六夜講、十九夜講などがあったようですが、「二十三夜講」は陰暦の二十三夜の月は”下弦の月”で真夜中の月の出となり、先述の ・・・人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすること・・・で、絆を深め、運命共同体的な「一帯感」を醸成するには丁度良い時間の長さを有していたので、この特定の月齢の夜が圧倒的に多かったのだろうと思われます。月齢の月の形は上弦や満月、月の出は、宵の口や真夜中など様々。
信仰の対象はまさに”月”ですが、祈願塔、供養塔として板碑や石塔も多く、文字として”二十三夜”を刻印し、あるいは”勢至菩薩”仏像を彫刻したものもあるようです。
”勢至菩薩”
”勢至菩薩観音”と言うのが出てきました。
この観音さまは、月の観音さまで、知恵の仏様のようです。
難しく言えば、 ・・仏の智門を司り、衆生の菩提心を起こさせる。智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩。大勢至といわれる所以は多くの威勢自在なるものを「大勢」、大悲自在を成し遂げる(果)に「至」るから採られている、ということ。 ・・・と書いてあるが、よく分からない。 とにかく”円空”や”棟方志功”が愛した仏様であることは確認している。
善光寺の”背光三尊阿弥陀如来”でいえば、右側が”勢至菩薩”。ちなみに左は”観音菩薩”。形状的違いは宝冠で、勢至菩薩は宝冠に花があり、観音菩薩には宝冠に阿弥陀如来があるようです。真ん中の阿弥陀如来の左右の侍仏と言うことでしょうか。
ただ、「二十三夜講」は民間信仰なので、仏像まであるのは珍しく、ほとんどが路傍に石塔が鎮座する例である。同じ民間信仰なので、庚申塔と紛れる場合も多く、予備知識があると見かけたときに違いが理解出来るということだ。
浦和の、石像二十三夜塔は、ほかに、中尾の不動ケ谷戸と西堀日向にあるそうだが、どうやら、”調神社”の月とは無関係。
”調神社”の発祥は、律令時代の”租庸調”の”調”に由来し、租税の穀物を貯蔵した”倉庫”の跡が神社になったというのが、通説である。
”調”を”つきのみや”と読ませた所から、後世に、”月”とか”うさぎ”とかがこじつけられて、現在に到ったというのが本当のところのようで・・。
まあ・・・、夢のある話なので、あえて「いちゃもん」は控えたい。
追記 ・・・
「さんやまち」ともいう。「まち」というのは古語で「まつり」のこと。三夜待は二十三夜の尊、神道では月読命、あるいは三日月様と呼ばれる神々のこと。23日の月の出を待って、地区の街道すじにある二十三夜の石碑の前にむしろを敷き、当番の人が酒肴を持参して先ず神に捧げ、おさがりをいただいて四方山話に花を咲かせたという。
古式に則り宗教的な儀式をまず行ってから、飲食の宴が行われる。
後年は、親睦会の色合いの方がかなり強い。
カルミヤの花
Kalmia
つぼみ 美味しそう!
金平糖、アポロチョコレート に似て!
常緑の低木で高さは1m~5m
つぼみは突起があり金平糖、アポロチョコレート
いかにも幾何学的な造形
アメリカ石楠花 とも
スプーンの木 インディアンは、この木の根からスプーンを作る
ただし、葉は毒・・羊殺し
散策中 ・・近くの邸宅の庭で発見、鑑賞!
日本一 美しき村
「切り絵カレンダー」より
御所平 宗良親王寓居
花が咲いている。
季節は、春なのであろうか?!
背面に”巍巍として”聳える山は、 ・・・・・「小河内岳」?”赤石山脈”である。
こんなところに、南北朝時代の‘南朝’の指令本部の拠点があったとは、???
にわかには信じられないが、事実である。
「切り絵」が醸し出す単色の風景は、妙に懐かしい。
・・・ 柳さんの描く”大鹿村”の風景が、人々を魅了していくと、
ほぼ同じ頃から、大鹿村が「日本一 美しき村」と評判になっていった。
ヒマラヤケシ
柳 土情(やなぎ どじょう)
・・・本名 柳下 修
1933年 神奈川県川崎市に生まれる
1987年 大鹿村に移住
1990年 カレンダーの切り絵の創作開始
1994年 「詩歌信濃路の旅」信濃毎日新聞連載
1995年 「詩歌信濃路の旅」単行本
1996年 「子どもたちの時間」内山節著 岩波書店刊 挿絵
柳さんの本物の「切り絵」を買うのはちと高いが、「カレンダー」なら手が出る。・・ My Favorite Things ・・
新緑の候 白き花
山塊は遠くに青垣ををつくり、
青垣は、遠近に八重垣を写して、前を濃くし後ろをうすくする ・・・
万葉の頃の、”やまなみ=山脈”を垣根に見立てた「言い回し」である。
近づいて山林を見やれば、新緑の候、時折に白を配色し、
そう、新緑の候の”白”の花は清々しい ・・・
「ハンカチ」の木 ・・白き花に似て
○ハンカチの小枝ゆらして風薫る ・・庄
小手毬の花 ・・派手な大手鞠の脇に負けじと ・・・
山法師 ・・比叡山の僧兵は白装束だったのか!
2014撮影:再掲
白雲木 ・・白き雲に似て
2014撮影:再掲
芝桜と大手鞠の咲く農家 ・・
○ すずかけの小径に誇る花手鞠 ・・庄
芝桜
○ 芝桜 山辺の道を狭くして ・・庄
農家の小径
つつじ の咲く小径