goo blog サービス終了のお知らせ 

ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

11:むかしの「松本」? :11-2:千鹿頭神社 ・・・

2025-02-24 17:09:55 | ひとりごと

11:むかしの「松本」?

「松本」学、あるいは「松本」考:9

11:むかしの「松本」?

:11-2:千鹿頭神社 ・・・

創建については詳らかではありません。


古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社と言われています。特徴は全てダブル。・・・ 鳥居、参道、神殿、拝殿、社務所などの施設が仲良く二つずつあり、「御柱祭」の行事がダブルで実施されるという二倍の魅力ある神社です。・・・ ダブルとなった理由は、元和4年(1618年)千鹿頭山の稜線を境として西側の東五千石が高島藩領(神田)となり、東側が松本藩領(林・大嵩崎)に分割されたことから二社分離となりました。今でも「御柱祭」は同日に双方の氏子により盛大に行われます。


千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)は長野県を初め、東日本(甲信・北関東・南東北地方)の民間信仰の神。

千鹿頭神社 ・・『守矢氏系譜』における守矢氏の最初の五代 (洩矢神から八櫛神まで)
諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)においては洩矢神の御子神、孫神、あるいはその異名とされる。建御名方神の御子神の内県神と同視されることもある。
明治初期に成立した『神長守矢氏系譜』によれば、守宅神(洩矢神の息子)の子であり、祭政を受け継ぐ守矢氏の3代目に数えられる。名前は守宅神が鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことから由来するといわれている。

--- 守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。(中略)--- 古代神楽歌


千鹿頭神社


神社の名前「千鹿頭・・・チカトウ」からして「妙」である。


諏訪地方の言伝えによれば、守屋氏(諏訪神社の神長官)の何代目かが、狩りをして、千頭の鹿を捕獲して、その守屋氏が「千鹿頭神」になったという。
してみると、守屋氏は、狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か、ーーということになる。
守屋氏は、記憶を辿ると、高校時代の教科書で、蘇我馬子とともに思い起こす。


・・・ 欽明天皇の時に百済から伝わった仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、古来の神々を重んじて外国の宗教導入に反対する物部氏(もののべし)との間に激しい対立がおこった。それは朝廷の両雄、蘇我氏と物部氏の覇権争いでもあった。
 蘇我馬子は父の代から続く対立に決着をつけるため、聖徳太子や他の豪族らと挙兵し、物部守屋(もののべのもりや)をついに攻め滅ぼした。そして飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺)を建立(こんりゅう)し、仏教興隆を促進する。・・・


つまり、神社派の棟梁的な「守屋氏」は、中央を追われて「諏訪」に来たという筋書きである。


だが、これは、おかしいと思う。


千鹿頭」の守屋は、時代背景として、「狩猟民族の末裔か、縄文時代の残滓か」であるから、飛鳥時代から、そこそこ古い時代を想定させる。その時代の、すでに、諏訪地方に、守屋氏はあったのだと・・そう考えると、諏訪の守屋氏と物部守屋氏は、時代背景が逆説的におかしいことになる。
諏訪大社と神長官「守屋氏」の関係は、武蔵国・氷川神社と「門客人神社(てアラハバキ神を祀る荒脛巾神社)の関係に似ている。


そして、「古来の神々」は、純国産であるという教科書的記述も矛盾が生じてくる。

・・・そもそも、「千鹿頭神」の「鹿を生贄の供物」に供するという儀式は、大陸・中東高原民族の「羊・放牧」に関わる儀式ではないのか・・・「羊」を「鹿」に置き換えて・・・

・・・「scapegoat」の ”goat”は「山羊」なんですが・・


神社の祭神の多くは、「スサノウの命」とされ、スサノウは、「牛頭天王」と同一人物とされている。スサノウは朝鮮北部の「牛頭山」の生まれで、日本に来たとされる。・・・この伝承が正しいとすれば、、「古来の神々」も、外来である」という推論が成り立つ。しかも、こう考える方が合理的である。


 

御社宮司(ミサグジ)と御射山とキリスト教の「ミサ」と関係があるかどうかわかりません。思わせぶりな「語彙」の共通に興味はありありですが・・・

この「解」を求めてみても、「せんなきこと」かもしれません。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11:むかしの「松本」? :11-1:茶屋明延?

2025-02-09 20:09:29 | ひとりごと

11:むかしの「松本」?

「松本」学、あるいは「松本」考:9

11:むかしの「松本」?

:11-1:茶屋明延?  ・・・

没年:天正19.5.25(1591.7.15)   生年:生年不詳

 

戦国時代の武士,豪商。信濃守護小笠原長時の家臣中島宗延の子。通称は四郎左衛門尉。明延もはじめ武士で小笠原長時に仕えていたが負傷して武士をやめ,天文(1532~55)末年ごろから京都に住んで商人になった。茶屋は屋号。ただし茶を商っていたわけではなく,呉服商であった。茶屋を称するようになった由来は,旧主小笠原長時が武田信玄に信濃を逐われ,一時,上杉謙信の保護を受けたあと,三好長慶を頼って京都に逃れ,将軍足利義輝の弓馬の師範となったことと密接に関係する。そのころ,明延は自分の屋敷に茶屋を作り,茶の湯三昧の生活を楽しんでいたが,長時に伴われた義輝がしばしば茶を飲みに立ち寄ったところから,いつしか「茶屋」と呼ばれるようになったという。明延の子清延が四郎次郎を名乗って,徳川家康の御用商人(呉服商,朱印船貿易家)となり,以後代々四郎次郎を称して発展する。
(小和田哲男)・・ 出典 朝日日本歴史人物事典


・・ カラー文字(アンダーライン)の部分は、間違いである。小笠原長時が、父・小笠原長棟から家督を継いだのが、天文10年(1541年)のことであり、長棟が退役した時に、同時に、臣下を辞した」とする方が合理的である。また、明延は、豪商ではなく、子息・清延以降から、呉服屋を営み、「茶屋四郎次郎」を屋号としたようである。明延が京へ上る際、三河の「伴野小笠原」を出自とする小笠原家に世話になり、その頃既に、家康の家臣になっていたも三河・小笠原家の関係で、茶屋四郎家は、「徳川家」の御用商人となったのだろう。茶屋家」から時々「家康」への武家家臣が出ているし、茶屋家」が、後継ぎ問題が発生した時、家康から、「中島某」が武士から商人へ戻ることを要請された」とある。


さて、「中島明延」は松本・松本周辺に出自の爪痕はあるのか?
といっても、調べる術を知らない。術を知らないまま、「中島」姓の旧家・豪農辺りがあるのかどうか調べる。


ここからは、多分に、推論が入る。


歴史、とりわけ日本史の場合、実証的検証の積み重ねの歴史事実確認が、つまりーー帰納的論理方法が主流であり、そのため、時間経過が過ぎればすぎるほど、古くなるほど、資料は散逸し、時には焼失し、時には流失し、時には盗難し、辿ることが不可能になる。こんな時に「有効」な方法が、推論が先にあり、あとで証左を探るという方法・・歴史のダイナミズムな「ストーリー性」は、こちらの方の方法論からのようで、司馬遼太郎の史学は、これに近い。


松本で、中島」という姓には、「中島 治康(なかじま はるやす)」を思いつく。
・・・
<写真>


中島 治康(なかじま はるやす、1909年〈明治42年〉6月28日 - 1987年〈昭和62年〉4月21日)は、長野県東筑摩郡中山村(現:松本市)出身のプロ野球選手(外野手)・監督、スポーツライター。
来歴 ・・松本商業(現:松商学園高)でエース・4番、1928年の夏の甲子園で優勝]。早稲田大学で野手に転向。藤倉電線を経て1934年に大日本東京野球倶楽部に入団。そのまま巨人軍結成に参加。 1935年に一度退団するが、翌1936年より春季リーグから右翼手のレギュラーとしてクリーンナップを打ち、7月15日には球団第1号の本塁打を放っている。秋季リーグからは主に4番打者を務め、この年の春・夏・秋通算でチームトップの打率.267を記録。1937年春は本塁打王(4本)、秋は打点王(37打点)[5]、1938年春は首位打者(打率.345)と次々と打撃タイトルを獲得。NPB史上初の三冠王となり、最高殊勲選手にも選ばれた。その後も、1940年まで四番打者を1941年以降は川上哲治に続く五番打者を務める傍ら、1940年(67打点)・1942年(60打点)と二度の打点王を獲得するなど、1939年から1943年までの巨人の第一次黄金時代に主軸打者として大きく貢献。(1943年)に監督を辞任した藤本定義に替わって、1943年には選手兼任監督を務めて54勝27敗(勝率.667)で五連覇を達成。1963年に野球殿堂入り。


中島」姓を名乗る家が、「中島 治康」出生地近辺に、複数あることが確認できた。そのうち数軒は、旧家でそこそこ古いことも確認できたが・・・

こんな記事も見つけました。・・・内田のカキ  今もたわわに実をつける老木  内田地区中村の中島家の庭に成育しています。市内最大のカキで、幹囲は根元で2.9m、目通り2.3m、太さは70cm程度で、高さは15mを測ります。富山という品種の渋柿の老木で、現在も実をつけています。-----なお、中島家の母屋は安永7年(1778年)に火災のため焼失し、・・・・・


それが・・どうした! ともいえます。


馬場家住宅
<写真>

馬場家住宅は、松本市郊外内田の鉢伏山の西麓にある本棟造り(ほんむねづくり)の住宅です。馬場家の伝承によれば、先祖は武田信玄の家臣・馬場美濃守信春の縁者とされ、天正10年(1582年)頃、武田氏の滅亡を機に、内田のこの地を開発し、この住宅の原初を築造したとされています。

馬場美濃守信春 ・・・馬場 信春 / 馬場 信房(ばば のぶはる / ばば のぶふさ)は、戦国時代の武将。後代には武田四天王の一人に数えられる。文献によっては房信とも。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた歴戦の重臣だったが、長篠の戦いで討ち死にした。
・・・

馬場美濃守信春」と松本との関係は、信玄が小笠原長時を信濃府中から追放して、深志・信濃府中を武田家の支配下に置いた時の「深志城」城代で、築城と河川工事を行ったと知られる。さらに嫡子・民部少輔は、織田の軍勢が武田攻めで侵攻した時に、織田方へ深志城を明け渡した」と文献にある。

ここからが、想像・構想であるが・・・

まず、内田・中山の関係は・・・謂わば、隣接又は大字小字の関係で、ほぼ同地区と思ってよい。かって古代は、この地区の近くに「植原牧」という官制牧場があった。また付近には、馬具や土器の産出する古墳も複数存在する歴史に深い地帯である。

もし、中島明延が、この地の出身で、「小笠原家」を辞して京に上るとき、明延の居館・住居と領地が空いていたとすれば、その後どうなったのであろうか?・・・

ここに、甲斐・教来石(北杜市)から「馬場家」が移り住んだという経緯が詳らかになれば、・・・

時間的、空間(地理)的条件は、暗示をするのだが?!

信濃府中・小笠原時代は植原城が置かれてこの城の管轄内で、小笠原の臣・村井氏が治めていたようだ。小笠原長時追放後は、この地の領土、内田・中山は、松本藩から分割されて、諏訪・高島藩に譲られて、馬場家」が、松本藩とトラブルルを避けるために「諏訪・高島藩」をひたすら頼ったとすれば、・・・

「小笠原貞慶」が松本城に復帰した時も、報復の危機を回避できたのではないか!・・・

この移住の経緯を暗示させるのは、馬場家と内田の大柿(中島家)は道を挟んだ隣という位置。

中島家の痕跡が辿れるとしたら、近在の寺にある「過去帳」か、係累の「中島家」に残っている(かもしれない)系図か、墓が残って居れば、墓石の刻印の生没年と戒名・本名か」、あるいは、馬場家に、移住の経緯を記した古文書がないのか?

・・だが、手足が多少不自由になった自分には、調査は無理かもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする