ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

加治丘陵の麓にある寺

2014-11-28 22:28:41 | 歴史

加治丘陵の麓にある寺
 ・・・ 砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子


その寺は、加治丘陵の麓にあった。
加治丘陵の縁に沿って、入間川が流れる。
あの丘陵の向こう側に、多摩川が流れているのは、地図で確認出来ても、距離感が掴めず不思議な気持ちである。

その寺の名前は、”高正寺”。砂鉄の寺であるとも言われる。
むかし、加治丘陵から豊富な砂鉄が流れ出し、この砂鉄を”たたら”で鉄を作る一族がいたという。
武蔵七党の村山党の一支族・金子党というらしい。
金子党は、”たたら”を生業にしながら、武士としての体裁も持っていた。
この武士の集団が、砂鉄の鉱床を発見してここに移り住んだ。
この武士の集団の居るところは、最初”武士所”と呼ばれ、”武士”に変わり、やがて”仏子”となった。
近在に、鉄の加工をするところが出来、そこが”鍛冶”と呼ばれ、やがて”加治”になった。
 ・・・ 以上が、大まかなこの地の地名の経過である。

加治丘陵 ・・・


・・「加治丘陵は入間川のつくった台地と多摩川がつくった台地の間に半島状に突き出したもので、その地質は下位よりの更新世の浅海にたまった飯能れき層、仏子粘土層そして河川堆積物の金子礫層とローム層から出来ています」
 「仏子層 野田地区 ・・凝灰岩の層が広がっています。 ・・この層には、アケボノゾウの足跡が発見され ・・仏子層からは、アケボノゾウ、植物の化石が産出しています」
 「全体的におだやかで親しみやすい景観をもつ加治丘陵ですが、... 加治丘陵の入間川沿いに見られる仏子層という地層の中には樹木化石が密集している「亜炭層」が所々に挟まれています」 ・・・この樹木化石は、主にメタセコイヤだと言われている。
 ・・・この樹木化石は、亜炭となって存在している地層もあり、採掘も行われています。
 「窪田蔵郎氏は、入間川上流の加治丘陵を形成する豊岡礫層に良質の砂鉄あり、その総鉄量は鎌倉砂鉄の約二倍あると発表しています。豊岡礫層は、第四紀白亜期の地層 ・・・」

高校時代、地学を学ばなかったので、門外漢であるが ・・・
 ・・ 加治丘陵は、関東ローム層(火山灰・粘土層)を上部に、第三紀・樹木化石を含む地層があり、第四紀・礫層は砂鉄の含有が多いと言うことが調査の結果判明しているようです。

どちらにしても、加治丘陵の地下の地層のことで、浸食によって地表に顕れたと言うことでしょうか。
仏子の高正寺が、金子氏の菩提寺であり、金子氏が「たたら」であったという伝承はこの地に残り、僅かに墓石に記された法名(=戒名)によって証左とされている事実が残っています。

 


 ・・・豪族金子余市近範 ・戒名を「高正寺殿関叟常鉄大居士」の中の”鉄”の文字は、金子氏が”たたら”であったことの象徴のようです。
今となっては想像しかできないが、かっての仏子付近の加治丘陵は、入間川の近くまで迫り出しており、入間川によって地層の表層部分がはぎ取られて、砂鉄の地層・豊岡礫層を露頭したのか、あるいは高正寺脇を流れる霞沢が地層を削って谷を作り、砂鉄を流し出したのか、果たしてどちらか分かりません。

 

 

仏子の隣は、飯能の阿須ですが、阿須運動公園の所の加治丘陵は、崖状の部分があり、地層が露頭しています。
阿須は、「雨などで. ぬかるみ崩れやすい 崩 (あず) り原」とあるように、” 崩 (あず)”の事ではないかとも思っています。
 ・・・ ここの阿須(=崩)は、雨などではなく、入間川の水流によって崩落したと考える方が合理的な説明のように思います。
 ・・・ ここでは、亜炭が、現在も採掘されているが、砂鉄も採掘できたのではないか。採掘している会社は、駿河台大学の隣に位置する日豊鉱業(株)です。

 

阿須の、最寄り駅は、西武線の”元加治駅”です。
”元加治駅”は、かつて、運搬用の引き込み線が入間川原まで延びていたと言われています。西武線の貨物列車は、今となっては馴染みがないが、”河原の砂利”と名栗川から流れてきた筏の貯木場の木材の運搬用という機能だったようです。
これも想像ですが、その昔から、元加治は筏の”貯木場”で、名栗から運んだ材木と炭をここで一旦貯め置いたのではないでしょうか。そして、”卸”もやっていた。その主宰者は、飯能の材木問屋 ・・・
 ・・・そう考えると、加治(鍛冶)の名前の地名と職業と繋がってきます。
 ・・・しかし、やがて、高技術を持った川口の金山衆(河越一族)に”たたら”と”鍛冶”は集約されていき、入間・飯能の鍛冶文化は終息していった、と見るのは無理な筋読みでしょうか。

次回は、”川口市金山と砂鉄 ・・鋳物の街の源流”を予定します。


ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

2014-11-27 18:53:48 | 名勝

ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

Metasequoia ・・メタセコイヤ(和名:あけぼの杉)
見れば、針葉樹である。
葉はモミに似て線のように細長く、短い。
秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。
樹高は高く、並木になると壮大である。

あけぼの杉が”生きている化石”であるという謂われは、
 ・・・メタセコイアの化石は、日本各地の新生代第三紀層の化石に見られ、
世界的には、カナダ北部など北半球の北極周辺に広く分布している。
日本では、 1939年に関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。


場所は、ムーミン谷 ・・・
Tove Marika Jansson の童話『ムーミン』の世界観を表現した「子供公園」
 ・・・ 『あけぼのこどもの森公園』 ・・・ まるで”メルヘン”の世界だ ・・・

メタセコイヤの紅葉に包まれた『ムーミン谷』の風景


生きている化石の木が、加治丘陵にあることが、何故か謎めいて、意味深? ・・・

次回は、砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子


追跡 ・・・その後の○○

2014-11-22 13:59:52 | ひとりごと

追跡 ・・・その後の○○

1:坂戸市・「島田橋」が復旧の目途

越辺川は、度々氾濫するのだろう。荒ぶる「水神」を鎮撫するための石碑なのだろう ・・・。

類する石碑の中に、庚申塔の碑は存在しない。この地方の、かっての最大の関心事は水害であったようだ。

 

6月の流失以来、冠水橋(=沈下橋)の残骸は、今日も骨組みだけを晒していた。

 

  ・・・ 2014/9/13 日本経済新聞Web刊より抜粋
 「地元の人々の尽力で以前と同様の姿に決まり、関係者は『風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋。スクリーンで再び輝いてほしい』と期待している。 ・・・ 再建費は約6800万円。年内に着工し、来春完成の予定。再び流されないようワイヤを通して強化するなどの対策も検討されているという」

これを読むと、一番の渇水期の12月に工事を始めて、来年の2,3月頃完成の予定と読み取ることが出来る。

橋の姿は、”以前と同様で、風景に溶け込み、江戸の趣を伝える橋”と言うことになっているらしい。


2:”たたら”の痕跡 ・・・砂鉄はあるのか

砂鉄の存在 
  ・・・ 越辺川と原市沼川の場合

越辺川沿いに、坂戸市赤尾という場所があり、赤尾に金山彦神社がある。以前からこの場所は、”砂鉄”の採取場ではなかろうか、という仮説を立てていた。
伊奈町・小室の県立がんセンターの敷地内に”大山遺跡”があり、ここで県内最大の”たたら”が発見された。”たたら”は、昔の「製鉄所」であり、たたらの近くに砂鉄の河床があったのではないかと仮説を立てた。もっと大規模に、鉄の鉱床かも知れないと・・・。大山遺跡の近くの川は、原市沼川である。

そこで、機会があれば、この二つの川から、砂鉄が採取できるかどうかである。
砂鉄の採取には、簡単には磁石にくっつけてとる方法がある。

方法:
1:磁石を用意する。
2:磁石に、直に砂鉄が付かないように工夫する。
3:磁石に、ビニール袋を2重に用意して、
4:河原の砂場(なければ砂利場)を地面に付けて引きずる。
5:この際、やり過ぎは袋を擦り切り破れるので、10mぐらいか、引きずってみる。
6:採取した砂鉄を、袋を裏返して収納する。


この方法で採取した砂鉄?
A:越辺川・赤尾付近
B:原市沼川・大山遺跡付近

越辺川の場合:-----------------------------------

 

金山彦神社 周辺 ・・・

越辺川

砂鉄?

原市沼川の場合:-----------------------------------

 

遠くに新幹線が見える。 原市沼川

砂鉄?

磁石に付くのだから、鉄成分であることは確かだが、砂鉄なんだろうか。
鉄鉱石の砕粉瓦礫のような ・・・

これを、”砂鉄”の採取場とか”たたら”と結びつけるには、コストパフォーマンスの問題を解決しなければならない。
水流比重選別法 ・・・鉄の重さで、より上流に鉄は沈殿し、それより軽いごみや岩石などは下流に流れる。
これが、自然の川では、砂鉄の河床として積み上がり、純度90%の砂鉄鉱床となる。
出雲・斐伊川では、白茶けた河原と黒ずんだ砂鉄鉱床は、一目瞭然であることを写真で見たことがある。
水流比重選別法を使えば、越辺川と原市沼川はどの程度鉄分が取れるのだろうか。興味はあるが、そこまでの実験はしない。

 


残柿

2014-11-21 17:34:50 | 写真と詩歌

残柿


4

柿の木に纏わる古老の話 ・・・
 ・・「昔は嫁ぐに当たって柿の苗木は嫁入り道具。その嫁が一生を終えると、大木になったその柿の枝が切られ、火葬の薪やお骨を拾う箸(はし)にされた。 ・・・
古い農家など大きな柿の木は、そんなふうにして代々の女たちが残したもの ・・・」
さらに、「柿の木問答」というものもある.. 柿の木問答の説明は割愛。この民話に興味ある方は、各々調べよ

こんな話を、脳裏に焼き付けてから読むと、


   ○渋かろか 知らねど 柿の初ちぎり  ・・千代女
なんとまあ、艶めかしいが、その実は”ずしり”と重くて味わいがある。
  
   ○里古りて 柿の木持たぬ 家もなし  ・・芭蕉

先日訪問した郡山のある福島県は”あんぽ柿”の産地。値段は、なんと1個¥500前後。
しかし、いまだに残留放射能で出荷停止だそうだ。
そこで、一度確立したブランドを維持継続するために、県外から”蜂谷柿”を導入して作り続けているという。

かつて、全国有数の養蚕地帯であった山間農家は、生糸市場の衰退とともに疲弊化して行ったが、養蚕に代わる新しい農産物の模索は、”あんぽ柿”を見いだした。さらに模索を続け、林檎や梨やブドウや桃の果樹中心の農業経営に、活路を見いだした。

干し柿 ・・・乾した柿は、それぞれの地方で特色がある。代表的なのは、”市田柿”で乾燥で糖度を増し、表面に白い粉を吹く。”あんぽ柿”は比較的大きめで、糖度を増すが柔らかく、飴色を特徴とする。”ころ柿”は、甘さはあるが黒ずんでいる。違いが出るのは、風土の地理的条件で、寒暖の差が激しいところほど糖度が高い。色の違いは、恐らく乾燥させている期間の湿度に関係するのではないかと思われる。


紅葉の名勝・能仁寺

2014-11-20 19:22:51 | 草・木・花 風に吹かれて

紅葉の名勝・能仁寺


 

 

 

 

 

 

能仁寺 ・・・ノウニンジ in 飯能市

天覧山から俯瞰 ・・・飯能市街


 

飯能・能仁寺 ・・・

 

大正十一年(1922)埼玉県初の名勝指定。天覧山を背後に、山道の下に名栗川の清流。
禅寺・・曹洞宗 枯山水の庭園は324坪 池泉鑑賞蓬莱庭園として東日本の代表的な名園
新しい歴史としては、戊辰戦争の時、飯能戦争の拠点になって、戦火にあった。
古くは、武蔵七党の”丹党”の本拠地に、丹党の”中山氏”の菩提寺として創建された。

 


天覧山の名前の変遷 ・・・

 

元は、愛宕権現が祀ってあったので愛宕山と呼ばれ、
江戸時代に、五代将軍・綱吉の生母が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれ、
明治に、山麓で行われた近衛兵演習を明治天皇が山頂から統監して、天覧山と呼ばれた。

 

能仁寺・天覧山、飯能河原、多峰主山、宮沢湖、巾着田などはビューポイント。
これを繋ぐハイキングコースは、かなり人気が高いときく。



白鳥 渡来!

2014-11-19 20:46:53 | 草・木・花 風に吹かれて

今年も 白鳥 渡来!

今年も、越辺川に白鳥が来ました


 

白鳥の好む水深は、白鳥の首の長さ以下、かも知れません ・・・??最適・水深30 Cm 

10羽を確認しました ・・・

今年は、重機が入って川底を浚ったという・情報はありませんでしたので、白鳥の餌は豊富かも知れません!

 


郡山・「うすい」

2014-11-18 14:13:27 | 街 探求!

郡山・「うすい」

秋の日、旧友の集いで郡山へ行きました。
郡山は地名に馴染みはあるのですが、通過駅で、街自体を歩いたことがありません。
会津とか猪苗代とかには、足を運んだことがあり、また一度、白河用事の時、水郡線で水戸までいって、大回りして帰った事もあります。

その当時でも、気になっていたことがありました。関東以北の地方百貨店の雄、「うすい」の存在です。GMS(ゼネラルマーチャンダイズストア・総合スーパー)全盛の時代・・・ダイエーとかイトーヨーカ堂などのこと、GMSの思想と”真逆思想”の強力な地方百貨店の存在は、かなり興味の対象でした。その百貨店は、川越の「丸広」、熊谷の「八木橋」、そしてこの郡山の「うすい」でした。

GMSの思想の骨格は、「地縁、人縁、血縁という煩わしい人間関係から解放された商業空間」と言うことになります。従って、物を買わずに帰ってきても、気を煩うことがありません。このコンセプトは、若者中心に支持を受けて、GMSは爆発的に発展します。
地方百貨店は、この「地縁、人縁、血縁の関係性を、フルに活用しながら、信用というブランドを構築していきます。そのため、地方の良家の子息たちを積極的に雇用します。そして「おらが街の百貨店」という信用を構築していきます。・・・銀行の信用構築に似ているようです。
この信用構築のサイクルが何世代も続くと、その地方の有力者に染みこんでいき、その牙城は強固になっていきます。その極めつきが、「うすい」であったり、「丸広」や「八木橋」だったりするわけです。

今となっては、その創業者一族は、時代に迎合できなくなり退場して、資本と商品の仕入れを都市百貨店にゆだねるようになってしまったようですが ・・・

そんな「うすい」の建物とか売り場をみても、”コンセプト”とか”ノウハウ”は、分かるはずもありません。だって ・・・信用構築というやつは、地道な”種まき作業”の上に咲く花だからです。 ・・・と、分かっていても、集合時間少し前に来て、眺めています。

友人たちと集合して、昼食の時間と言うことで、ここの地元の友人が、郊外の住宅街の中にある、「天ぷら・佐久間」という店に連れて行ってくれました。


ここは、超繁盛店で、福島県内全域から客が訪れると言うことです。
駐車場に車ぎっしり、店内は席待ちで溢れています。待つこと20分ぐらい ・・・


席に着くと、天ぷらコース料理、四回に分けて天ぷらが運ばれてきます。
みんな美味しかったが、特に最後の”エビと小柱のかき揚げ天丼”が美味しかった。


さて、郡山の歴史だが ・・・

中世のこの地方をみると、坂東平氏の平良文の支流がこの地方に居着いたようです。彼等は、石川一族とか薄井一族と呼ばれた同祖分流の同族の小豪族であったようで、やがて戦国期に、伊達政宗の伊達家の配下に組み込まれていったようです。この薄井家は、秀吉の小田原征伐に出征しないで、お咎めで没落して野に下る運命になった。この時、豪農になった薄井家が、郡山・うすい百貨店の創業者に繋がるのかどうかは定かではないが、否定する要素もないので、勝手に郡山・うすい百貨店の創業者一族は、戦国豪族・薄井氏であろうと想像しています ・・・根拠はありません。

江戸時代の幕藩体制下の頃は、郡山周辺は、深い原野であったという記録が残っています。藩領としては、三春藩の方ではなく、二本松藩の方で、二本松藩の代官所が郡山に設置されていたそうです。二本松藩は、維新の時、会津藩を中核とした奥羽越列藩同盟に加わっており、同じ奥羽越列藩同盟の三春藩が、早くに脱落したため、板垣退助の維新軍の攻撃をもろの受け、会津白虎隊と同様の少年隊を組織していた二本松藩は、その少年隊の悲話を残し、語り継いでいます。

郡山の商業都市としての発展は意外と若く、郡山が磐越線の東西線、水郡線の発着駅として機能し始めた頃からと見ていいようです。若い都市としての急激な発展は、急増する土地成金を生みだし、高騰する不動産へ利権が蠢き、治安が悪化していったようで、高度成長期によく聞いた話です。それへの対応策として、文化事業への取り組みに力を注ぎ、今では音楽の分野で一定の成果を上げ、ここの地方の「コーラス」は全国レベルまで上がっているという。・・・いまでは”落ち着いた”地方都市になったようです


大宮氷川神社参道の紅葉

2014-11-17 10:49:04 | 草・木・花 風に吹かれて

大宮氷川神社参道の紅葉

一の鳥居から「是より宮まで十八丁」(・十八丁=2Km)


中山道から延びる参道の長さは約2kmあります。現在はケヤキが主で三十七種、およそ650本が立ち並んでおりますが、昭和初期には鬱蒼とした杉並木で「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われており、さらにさかのぼると松並木の時代もありました。

江戸時代初期まで、氷川神社の参道と中山道は同じでした。街道の旅人と参詣客が入り乱れて、大分混乱したようです。門前町なのに治安も悪化したのでしょう。そこで参道と中山道を区分して、新たな中山道を作ろうと言うことになったようです。中山道の”バイパス化”です。一の鳥居から三の鳥居の手前の参道を通らない中山道の区割りは、伊奈忠次備前守が行こないました。新道にあった農家を移転させ、旅籠や店を設置する事業です。この事業のおかげで、大宮は、門前町と宿場町の二つの顔が出来、大きな商業都市へ発展する基礎が出来ました。

大宮は、門前町です。門前町は、例外なく商業都市です。
この商業都市になった門前町の代表格は、武蔵一宮の大宮は勿論ですが、善光寺がある長野も、それに当たります。

まだ、商業が発展してなかった中世に、貨幣経済の芽生えとともに、”市”が立ちました。
この市が立った場所は、神社の参道や境内、仏閣の参道や境内でした。
参道や境内は、もともと人の集まる場所で、時の権力者や神官や僧侶も、市を積極的に認めていた伏があります。現代に繋がっている、祭りの屋台は、その名残かも知れません。

神社の参道や境内に立った市から、商都・門前町は発展していきます。この大宮は、その典型的な例です。
一方、仏閣の市については、二つの方向があるようです。ひとつは、長野善光寺の門前町のように商都に発展系をみます。もう一つは、寺院の境内を商業基盤とする、寺院城塞化の方向です。浄土真宗(一向宗)が、経済基盤に”市”を積極的に活用しながら、強兵化した、仏閣城塞化の吉崎や岡崎の一向一揆の例です。

”市”を積極的に、政治利用したには「蓮如」でしたが、一向一揆の後、武家の棟梁が、市を積極的に取り込んでいったのが、織田信長であり、秀吉、家康と続く天下統一の武将たちでした。
蓮如と信長は、経済的なセンスの持ち主でもあったようです。


天空に浮かぶビル群 ・・・ 新都心 朝 放射霧発生

2014-11-13 20:18:20 | 草・木・花 風に吹かれて

天空に浮かぶビル群 ・・・

新都心 朝 放射霧発生 ・・・  東北道、圏央道 通行禁止

ニュースより転載 2014/11/13 朝 

交通網は混乱するが、こうゆう自然現象は、なんか いい 感じ ・・・


皇帝ダリア

2014-11-08 02:05:53 | 草・木・花 風に吹かれて

秋空に、気品の花が聳える ・・・皇帝ダリア


皇帝ダリア(秋明菊の変種と見間違えた)。

別名:木立ダリア 

3~4mに背丈を伸ばす。故に皇帝と名付く。
花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花が茎の頂上につけます。

晩秋の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻。  訂正11/09

夏頃から、近くの花壇に育ち、すくすくと背丈を伸ばしていくが、一向に花が咲かない。
背丈は、およそ2.5m~3.0mになった。
下葉の方が、朽ちて色を変え、落葉を始める今日この頃、漸く花を咲かせた。