ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

モネの青い睡蓮の謎!

2016-05-16 22:43:06 | 美観・芸術


睡蓮の季節 ・・・


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

モネの青い睡蓮の謎!

モネが描いた睡蓮の絵画に、”青い睡蓮”があるが、
   その頃、現実には”青い睡蓮”なんてこの世に存在しなかった。
      この謎を解くには、モネの生涯の”ストーリー”を知る必要がある。

 

・・・ 1872年(32歳)、後にモネの代表作となる『印象 -日の出-』を制作し、第一回印象派展にこの作品を出展。この作品は一定の賛美と非難を浴びる。このころ主義主張の違う会派を、ルノアールとともに離脱したモネは、作品を発表する場所を失い、さらにスポンサーであった百貨店が倒産し、社主は逃亡してしまいます。


恋愛結婚した妻カミーユに子供が生まれ、パトロンが経営していた百貨店が潰れ、そのパトロンの子供まで面倒を見ることになったモネは、経済的に困窮しセーヌ川に身を投げ自殺するも死に切れません。1879年、妻カミーユが死去。1880年代には展示会が大成功するなど経済的に豊かになります。


  1890年(50歳)、7年前に転居したジュヴェルニーで、舘と土地を買い取って自宅兼アトリエとする。ここに庭園があり池があった。この池の睡蓮を、絵画の対象にして連作し、評判になります。


  
 ~~ 1899年の夏から1900年にかけて『睡蓮』第一連作に取り組み、それをデュラン・リュエル画廊で発表し、大きな成功を収める。~~
 ~~ 1903、睡蓮』連作48点による個展を開き、大好評を得る。~~
  
  この頃から、白内障を患い視力の悪化のため、作品制作の意欲が衰え、制作中断。白内障の手術を受け視力を回復すると、制作を再開します。


  しかし、視力悪化のためか、青を中心の色になっていく。 ・・・”青の睡蓮”はこの頃の作品。
  モネは、夢か幻か、”青い睡蓮”に強烈に焦がれいく。 ・・・おそらく白内障が原因と思われます。


  晩年は、視力の衰えからか、印象派の作品のイメージから遠い、抽象的作風になっていく。

  1926年(86歳) 『睡蓮』大装飾画に最後の手を入れ、ジュヴェルニーの自宅兼アトリエで死去。享年86歳。 ・・・

ジュヴェルニーのモネの館 ・現在は”印象派美術館”になっている・


へうげもの

2016-03-15 13:19:20 | 美観・芸術

へうげもの

「Hyouge-mono」はラテン文字表記

「 Art Nouveau」
 ・・フランス語で「新しい芸術」という意味。
 
アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味します。
自然のモチーフや曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、当時の新素材の利用などが特徴。やがて、第一次世界大戦を境に、「アール・デコ」へ。

このアール・ヌーボーに多大な影響を与えたといわれる「ジャポニズム」とは一体なんであったのであろうか?
この「ジャポニズム」の研究では、とりわけ葛飾北斎の版画絵が有名だが、フランスを中心とした西欧の上流階級は、漆器・陶器などの日本美術を「ステータス」として好んだことがとりあげられてています。
ヨーロッパを席巻したジャポニスムはその有機的なフォルム、自然界の参照、当時支配的だった趣味とは対照的なすっきりしたデザインなどで多くの芸術家に大きな影響を与えました。ガレやホイッスラーといった芸術家が直接取り入れたのみならず、日本に着想を得た芸術やデザインはビングやリバティといった商人たちの店によって後押しされました。ビングはアール・ヌーヴォーの店を開く前は日本美術の専門店を経営しており、『芸術的日本』(La Japon Artistique)誌を発行してジャポニスムを広めた、といわれています。

その「有機的なフォルム、自然界の参照」とは、一体何を指すのだろうか、という疑問が?ここをもう少し詳しく見ると・・

アール・ヌーボー」の強い特色に一つは、左右非対称の調和されたフォルムといわれています。この特色が強く出た作品が世に出ると、西欧の美術界は”強烈”な衝撃を受けたようです。それもその筈、それまでの西欧の美術界は、「ゴチック建築様式」という直線を主体とした様式と絵といえば宗教絵画のみが蔓延しており、それが長い間伝統として君臨してきたわけですから、この異質なモチーフは相当衝撃的であったわけです。”ゴチック”とはまるで正反対なわけです。

「アール・ヌーボー」の時代から遡ること、200~300年前、日本は「安土・桃山時代」あるいは「織・豊時代」とも呼ばれる戦国の末期・でした・・、、、
優れた美術・工芸品を愛した信長を引き継いだ秀吉も、美術工芸品を保護し、振興しました。ただし、秀吉は、「人間の統治の行動原理は、褒賞と恐怖で従順と服従する」と思い込んでいましたが、戦国末期には、戦争も少なくなり、戦勝しても与える領土も限界に達していました。そこで秀吉は、優れた美術工芸品を、褒美にする手法を思いつきます。

秀吉の、邪な発想はともかくとして、この時代は、美術工芸品の作者たちは保護されて、多いに活気づき発展します。自らも優れた芸術家であった千利休は、茶道と芸術を一体化し、その審美眼も鋭いもにがありました。その一番弟子が古田織部です。

・・・「織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、それを一つの流派に育て上げた。職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、優れた作品を作らせた。それとともに人材の育成にも力を注ぎ、小堀遠州、上田宗箇、徳川秀忠、金森可重、本阿弥光悦、毛利秀元らを育てている。
・・・ 博多の豪商、神谷宗湛は、織部の茶碗を見た時、その斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウゲモノ也」と、『宗湛日記』に書いている。なお、織部が用いた「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟」がある。・・・織部についての評に「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」がある。司馬遼太郎は「おそらく世界の造形芸術史のなかで、こんにちでいう前衛精神をもった最初の人物ではないかとおもう」とその芸術志向を評している。・・・

こんな「織部の美学」が海を渡って、引き継がれている痕跡を見ると、まして「愛されていた」ことを確認すると驚きです。

「ヘウゲモノ」は、ここから生まれたマイナーな用語です。あまり一般的ではありません。
意味を勝手に解釈すれば、破調の美、左右不均衡の調和、歪の美学とでも理解すればいいのかもしれません。
利休が好んだのは、黒や茶の色相。調和されたフォルム。それに対して、織部は、緑がかった色相と不均衡なフォルムに「美の極み」を見つけます。大名としては一流になれなかった織部は、”ゆがみの世界”に、現世の欲に絶望した挫折感と未練が、意外と生々しく残っているようで、人間的で僕は好きです。

『へうげもの』(読みはひょうげもの)、山田芳裕による日本の漫画作品、アニメ。
・第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、
・第14回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作
漫画なのかと侮るなかれ!どうしてどうして・「鋭くて深い」。

友人からの質問に答えて・・・

昔、大学生になったばかりの頃・・・
高校ではまったく読まなかった「漫画」を夢中で読みました。
まあ!小説や詩集、評論や哲学書など手当たりしだいに読みまくりました。
頭でっかちで観念的で付け焼刃の「言葉」を使ってよく議論したものです。
観念的で付け焼刃の証拠に今はほとんどの語彙を忘れています。
覚えているのは、いくつかの音楽と漫画(アニメ)だけ、、
でも時折、なんかのきっかけで思い出すこともあります。


棟方志功 木の精霊への旅路

2015-02-12 02:37:03 | 美観・芸術

棟方志功 木の精霊への旅路


「わだばゴッホになる」 草野心平

鍛冶屋の息子は。
相槌の火花を散らしながら。
わだばゴッホになる。
裁判所の給仕をやり。
貉(むじな)の仲間と徒党を組んで。
わだばゴッホになる。
とわめいた。
ゴッホにならうとして上京した貧乏青年はしかし。
ゴッホにはならずに。
世界の。
Munakataになった。
古稀の彼は。
つないだ和紙で鉢巻きをし。
板にすれすれ獨眼の。
そして近視の眼鏡をぎらつかせ。
彫る。
棟方志昴を彫りつける。
※原文のまま


埼玉新聞10月15日(土)版には以下のようにありました(2011)。
「・・・・市内の寺を見て歩いた時に、簡素な鉈(なた)彫りの仏像や神像が散在することに気付いた。円空作ではないかと考えた秋山さんは、9月に、円空仏に造詣の深い棟方に、仏像などの写真と手紙を送って鑑定を求めた。・・・棟方は約束通り同市を訪れ、秋山さんの案内で、同市南中野の正法院の薬師如来立像・十二神将像などを見て歩いた。棟方は「円空様デシ。間違いなく円空様でゴザイマショ」と、円空作であることに太鼓判を押してくれたという。これが円空仏発見の端緒となった。・・・」
円空さんの彫ったもの抱いて、満面の笑みですね。最高の笑顔です。
棟方さんは円空さんを見て、「オオ。・・オヤジ・・・」って言ったと。


 
**(注)記事中の秋山喜久雄氏は大宮市の円空仏の発見者であると同時に「大宮雑記帳」の著者でもあります。**世界的な版画家で文化勲章受章者の棟方志功と交流のあった旧大宮市市史編さん室長の故秋山喜久夫さん…2011/10/15 00:00 【埼玉新聞】
・・・上記は、大宮の円空仏発見に関わる、棟方志功と秋山さんの逸話であります。大宮・南中野の正法院の奥さんの話とも繋がりました

大宮の円空仏の発見は、秋山喜久雄であり、その確認が棟方志功であること上記の文から、そして発見の時期は1962年(昭和36年)で、埼玉県立博物館の正法院円空仏・説明パンフから確認出来ます。

参考・・

・・県有形文化財(彫刻)指定H6(1994).3.16

円空学会編『円空研究 Ⅱ 特集関東・東北・北海道』
  1973.6.30 人間の科学社
   ・・秋山喜久夫「随筆/円空さまの祟りとご利益」 113p~119p・・


○嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値
『毎日新聞』1982年(昭和57)9月8日
○おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見
『読売新聞』1982年(昭和57)9月8日
『埼玉新聞』1982年(昭和57)9月9日



さて、ここからは感性の世界。木に宿る”仏”は何を語るのか!


粗々しき風貌と優しきまなざし!
女体菩薩は、母性菩薩なのか!
円空と棟方志功は、”円空仏”をとうしてなにを語らったのか?


棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子


棟方志功「三尊仏の柵


棟方志功「半跏趺坐菩薩の柵


棟方志功「不動明王


既成の秩序からかけ離れた意匠は、怠惰をむさぼっていた美意識をずたずたに切り裂きます。
これでもか・・・・・   これでもか・・・・・・、 と。


追記: ・・・ 円空仏 驚異の作仏数の疑問?

2015-02-10 18:20:49 | 美観・芸術

追記:円空仏 驚異の作仏数の疑問?

さすがの権威ある国立博物館や県立博物館の「円空仏展」の案内にも時々記載があるが、”円空の仏像制作数は十二万体”の文字が、至る所で見受けられる。

”本当だろうか?”、”十二万体の仏像制作は可能だろうか?”・・・きわめて、素直な疑問が頭に浮かびます。

春日部市小渕の「小淵山観音院」の円空仏群は七体の円空仏があり、中でも聖観音像は高さ196cmと、円空仏の中でも大型です。到底一日では彫りきれないだろうと思います。大宮南中野の正法院の円空仏は、およそ70cmぐらい、これなら1~2日で一体は可能かも知れません。中には50cm以下の小枝に彫ったものもあるようです。仏像を彫る木材を準備していて、朝早くから夜遅くまで彫れば、”小さき仏像”は三十体ぐらい可能かも知れません。よく旅をした円空は、どう考えても”旅の貧乏僧”で、修験の托鉢は、つまり”乞食”です。旅の一宿一飯がかなり難儀で、手配にかなり時間がとられます。さすがの円空でも歩きながらの”作仏”は無理だとすれば、一日一体の”作仏”が、そこそこ無理をした数字か、せいぜいの限度だろうと想像できます。

円空の生涯を調べると、1632年美濃・羽島で生まれ、七歳の時長良川の氾濫で母を失い、父のいる美濃・郡上の星宮神社に引き取られたとあります。そこから、星宮神社の別当寺・粥川寺に出入りして、木地師(母親の出自)や山伏の修験に馴染んだとされ、三十四歳まで過ごし、木地師の木の扱い、鑿や斧の使い方を習得したようです。この時、練習作として仏像も彫ったものと考えてよさそうです。自身の納得がいくものも何体かあったと見ていいと思います。そしていよいよ旅に出るわけですが、その時期は1666年頃と思われます。
それから25年間、漂泊の仏師・円空の”作仏”の旅は、飛騨・高山の千光寺で終わりを告げます。この時、齢60歳前後、以後遠出の旅の記録は残っていません。没年は、1695年となっていますから、余生を郡上近くの若きときに育った所で過ごしたのでしょう。ここまで来ると、創作活動もかなり衰えていたと思われます。

そうしてみると、一日一体で年間365体、25年間で9125体の仏像を彫ったという計算になります。若きときの習作と、余生の時の作仏を合わせて、およそ一万体という計算が出てきます。一万体でも、驚くべき数字です

では、いったいどこから円空が12万体の仏像を彫ったという、とてつもない話が出てきたのでしょうか。全てではないが一部の県博物館では、”円空仏展”の解説文に、堂々と”12万体”をうたって、説明しています。県博物館は、専門の学芸員が存在して居るはずです。どうして、学芸員の知識の穴をすり抜けてしまったのか気になります。

どうも、円空の生涯の”作仏”数が12万体の根拠は、二つあるようです。

 

ひとつは、飛騨・高山の桂峯寺の十一面観音・善女竜王・今上皇帝像の三尊のうち、今上皇帝像の背面に、墨書で銘文があり、擦れて判読不能の部分もあるが、赤外線写真を拡大すると、ある程度読めるそうです。そこには ・・・

 ・・・・・ 元禄三庚午九月廿六日
 ・・・・・ 今上皇帝 当国万仏
 ・・・・・ □□仏作已」

と判読できるようです。
・元禄三年(1690)9.26、この像の現所在地(高山市上宝町金木戸)で円空がこの仏像を彫ったのは確実です。
・当国万仏・の「当国」は、日本の各地で一万体の仏像を造ったと読むことができます。「当国」を飛騨国と読み替えることは可能だが、少し無理があるように思えます。
・次の行一文字目を「十」とも「千」とも読めるがかなり擦れています。次の文字はマに似た形とみて、これが「万」と読む説と「部」のこざと扁(=”阝”)とみる説があります。
・・「万」と読む説は、「当国」を飛騨とみて、飛騨国で一万、全国合わせると十万体を造り終えたと解釈するようです。・・・これが十二万体説の根拠。
・・「部」と読む説は十部仏、あるいは千部仏、つまりたくさんの種類の仏を造ったという意味に解釈します。

文字の解析はさておき、先述の”作仏”が一日一体がせいぜい、を現実的とすれば、十万という大量の造像を伝説にすぎず、「当国」は日本とし、元禄三年までに一万体、あるいはその前後の数で、沢山作ったという円空の感慨の吐露したというのが、説得力があるように思えます。

いまひとつは、円空が大量の仏像を残した荒子観音寺(名古屋市)に残る『浄海雑記』の「円空上人小伝」に
 ・・「自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スルノ大願ヲ発シ」とあるのを根拠にしています。
 ・・既に十八世紀末の資料に十二万造仏の記事が見られる。しかし、”大願ヲ発シ”は願望であって、実際の仏像制作の完了のことではないと思えます。
 ・・・「浄海雑記」全栄(荒子観音寺第17世住職)天保十五年(1844)
 ・・・書かれたのが、円空没後149年後で、伝聞によると思われ、それも高山の桂峯寺の今上皇帝像の背面文字が根拠の可能性があります。

円空の仏像は、飛騨・高山のように背面に墨書があるものもたまにあるが、ほとんどに銘はなく、その彫りの仕様などから円空作と比定されるようです。従って正確ではなく、また簡易な彫りも多く見受けられ、子供の遊び玩具にされたものも多かったようです。その為か、恐らく散逸や破損で、かなり多くが失われたと思われます。
評価は、稚拙をもって評価するのではなく、その作者の傑作をもって評価すべきであり、稚拙が存在しようとも、いささかに円空仏を貶めるものではありません。




参考:背面文字解読の諸説 ・・著作者のみを記します・
①長谷川公茂氏(2012『円空微笑みの謎』)
②池田勇次氏(2003『円空の原像』)
③浅見龍介氏(2013「飛騨の円空展」図録作品解説)
④池之端甚衛氏(共著「円空心のありか」(2008)
⑤小島梯次氏(2009「円空木喰展」図録作品解説より)
⑥梅原猛氏(2006『歓喜する円空』)
⑦伊藤治雄氏(2010『円空の隠し文』)
・・・背銘についても新解釈を提起しておられるので紹介します。


伊藤氏は赤外線写真を拡大して検討した結果以下のように読めると提起しておられます。
「當国万佛 千面佛作已」  ・・とうこくまんぶつ せんめんぶつ つくりおわんぬ(おわりぬ)。 
その部分をA4に拡大した赤外線写真を見ると、伊藤氏の読み方が正しいように思えます。
これが正しいとすれば、十二万体は否定され、漸く”とてつもない数の伝説”がやはり伝説にすぎず、結論は合理的なところへ収まる様に思えます。


円空の生涯:年譜

和暦、西暦:できごと
寛永9年、1632:美濃国(現在の岐阜県)に生まれる
寛文3年、1663:岐阜県郡上市美並町 神明神社の神像3体を造像
寛文6年6月、1666:北海道に渡り、仏像を作る
寛文7年夏、1667:青森に滞在
寛文9年秋、1669:名古屋市の鉈薬師で造像
寛文11年7月、1671:奈良県法隆寺で学ぶ
延宝3年、1675:奈良県吉野の大峯山で修行
延宝7年7月、1679:滋賀県園城寺で学ぶ
天和2年、1682:栃木県日光で高岳法師から法を授かる
貞享元年、1684:名古屋市荒子観音寺で学ぶ
元禄2年3月、1689:滋賀県伊吹の観音堂の十一面観音像を作る
元禄2年6月、1689:再び日光山に登る
元禄2年、1689:園城寺で秘法を授かる
元禄3年9月、1690:岐阜県高山市上宝の桂峯寺今上皇帝像を作る
元禄5年、1692:岐阜県関市洞戸の高賀神社で雨乞い、歌集制作
元禄8年7月、1695:関市の弥勒寺で歿する

両面宿儺像

円空仏の傑作・晩年の仏像の微笑み

円空・荒神像  ・・いいね-! これ好き!

・・了


円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師

2015-02-08 17:07:07 | 美観・芸術

円空の木仏 ・・漂泊の木彫りの仏師


十二神立像・円空・正法院・県立博物館寄託蔵

円空の生きた時代は、江戸時代初期と言われる。
・・「円空は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。 円空は生涯に約十二万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5350体発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。」・・Wikipedia

円空仏像・一本彫り・市立博物館

今でこそ、円空の木彫り仏像は有名で人気が高いが、実は昭和30年頃まで、ほとんど無名に近かった。円空人気の火付け役は劇作家飯沢匡で、昭和30年代に飯沢匡氏が円空をモデルとしたドラマを作成し、それがヒットした時らしい。 それまでは知る人ぞ知るというマイナー仏師であった円空がこの全国放送にのったドラマにより日本中に有名となり、それ以後円空は仏像に興味持つ人を魅了する存在の座を保っているという。
さらに輪をかけたのが「歓喜する円空」の写真付き著作を出版した梅原猛であった。
この二人は円空の人物像に隔たりがあり論争しているが、そこには立ち入らない。

円空は、仏像を彫るとき”一本彫り”という技法を使う。この技法は、それまでの木製仏像制作の方法と顕かに違う。京都・奈良の寺院にある仏像は、寄せ木造りで、大勢の職人が手分けして部分パーツを作り、合体させて磨き上げ、漆を塗って装飾して完成させる。形状は、銅などで作った伝来の仏像とほぼ同じだ。これには教科書があったようだ。
円空の仏像は、一本の丸木を縦に割り、鑿を使って彫り上げる。それは、見た目の通り、荒削りな仏像だが、表情が優しい。

茨城県笠間市にある月崇寺の観音菩薩像の銘には、「御木地土作・大明神」という円空の自署がある。木地土は木地師であり、大明神は木地師の守護神である雄鶴大明神をさしているようだ。どうも、伝来の仏像制作の”仏師”から技法を学んだわけでもなさそうだ。

そうだとすると、木を扱う技術の習得が気に掛かる。
出自を調べると、・・・円空は1632年美濃国(岐阜羽島)で生まれています。母は郡上美並の木地師の娘、とあります。父は、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。何か問題があったのか、父親の神社の宮司は、母子を羽島に遠ざけて面倒を見たようです。ところが円空七歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。そこで、円空は西神頭家の庇護を受けに郡上に引き取られます。・・・

郡上市美並の伝承 ・・・円空は寛永九年(1632)美濃国郡上郡の南部、瓢ヶ岳山麓(美並村)で木地師の子として生まれたと推定されています。・・少年時代から山野を歩きまわると共に星宮神社の別当寺である粥川寺に出入りし、雑役のかたわら経文や手習いを教えられ、その間に周辺の山々や伊吹山・白山などに登り、山伏修験との交流があったと考えられています ・・・どうも幼少の時、周りは木地師で、木地師は浮遊の民であり、そのような環境であることが見て取れます。後の放浪の仏師・円空の素地はここにあります。
円空の彫刻の技法、山伏の修験、仏法知識は、七歳から三十四歳まで過ごした瓢が岳山麓や伊吹山山中で醸成されたと見るのが合理的です。

それから、二十五年間、たまに戻りますが、北海道から東北・関東・飛騨などへ仏像を作りながらの旅が延々と続くわけです。

円空の仏像は、かなり広範囲に発見されていますが、やはり生まれ故郷の岐阜県が一番多く、続いて愛知県、三番目になんと埼玉県がランクしています。円空は、生涯で十二万体の仏像を彫り、そのうち四千五百体が確認されています。埼玉県内の円空仏は151体。これらの多くは大宮、岩槻、蓮田など、日光御成街道沿 いの地域に集中しており、文献には埼玉で仏像を彫った事歴は見つけられないが、北海道・東北や日光や富岡へ行く道すがら、日光街道沿いで仏像を彫ったようです。特に日光へ行ったときは、四年間関東に滞在したらしく、このときの仏像が、大宮、蓮田、岩槻に存在するようです。

 十二神将像、薬師如来像、 正法院 見沼区南中野

  

 阿弥陀像・、・・・・・、 満蔵寺 見沼区膝子


 十二神将立像、・・・・・、 薬王寺 見沼区島町


 龍頭観音像、他三体・・、 観音堂 見沼区宮ケ塔
 など

数日前、正法院、満蔵寺、薬王寺を訪ねてみました。観音堂は場所不明で届かず。しかし、案内板はあるものの、写真のみ ・・円空の仏像は、県立博物館へ寄託とのことです。
 *寄託 ・・所有権は移動せず、火事・盗難から守るため、さらに公開するために、管理を県立博物館に任せたようです。
 *上記の理由で、県立博物館は、蓮田の矢島家の”円空仏群”を始めとする、市内近郊の円空仏が保管展示されています。


*仏像の写真は、Gケース(ガラス)越しになり、見にくい光の影が出てしまったものもあります。


棟方志功の話

見沼区南中野の正法院へ行った時、住職は留守で、奥様とお話しする機会を得ました。

・・「埼玉で、”円空仏”が発見されたのは正法院が最初だそうです。・・発見から暫くして、棟方志功が正法院を訪ねてきたそうです。・・棟方志功は、”円空仏”を見つけると、両手に抱きかかえ、”円空さんだ・・円空さんだ・・”と円空の名前を呼び続け、感激で泣き始めたと言うことです。・・棟方志功は、円空が好きだったんですね-」

 ・・正法院の奥さんの話はこれだけでしたが、僕には「棟方志功と円空」という命題が、どうも出来たようです。そいうえば、棟方志功の版画絵と円空の木彫り仏の力強さは共通しているように思えます。美術の専門家ではないのでうまく言えないが、内面には共通項があり、表現の媒体(版画と仏像)が違うだけではないか、なんて、二人の作ったものを見比べると、そう思えてなりません。

 

   ○ 円空の 怒髪 天を衝き 雁が飛ぶ        

 

参考:梅原猛(哲学者)『歓喜する円空』
参考:棟方志功『板極道』、『板散華』。棟方は版画と言わず板画という



漆器 日本的なるもの

2015-02-06 20:56:47 | 美観・芸術

漆器 日本的なるもの

轆轤・漆器皿 in 市立博物館

この色の漆器は珍しい。
絵は松と思われるが、独特な朱の上に描き、透明な漆の膜で、絵を保護しているのか!

食器としての漆器
木の椀は汁を入れると水気が木に染みてしまった。木の椀は、材料が豊富で、軽くて加工しやすい。誰かが、水漏れではないが染みるのを防げれば、実用に耐えるのではないかと思った。・・・古代中国の着想と工夫である。
漆の木に傷を付け、漆の樹液を取り出して椀に塗ってみた。塗っては乾かし、塗り重ねてみたら、漆の膜は水染み、水漏れを防いだ。・・・これが漆の機能である。
そして、この技術が中国から日本へやって来た。時代は、農耕文化や仏教の伝来とほぼ同時期と言われる。正倉院に、漆器が宝物として存在するからだが・・。

紐で軸棒を回転させている絵がある。これが轆轤(ロクロ)。


平安時代に、「木地師」といわれる浮遊の民が生まれた。轆轤を使って、椀や盆などの円形の食器を作る職業集団である。山岳に良木を求めて渡り歩くので、浮遊の民と呼ばれた。集団は大規模ではなく、おそらく5から20の家族の単位であったらしい。
浮遊の民は、浮遊の旅が保証されていたようだ。これは、・・・山中の木を切り,漆その他の塗料を加飾しない木地のままの食器類を作ることを生業とした職人。木地師・木地挽ともよばれ,ろくろを用いることから轆轤師ともいう。
近江国小椋谷の蛭谷・君ヶ畑を本貫地とし,惟喬親王を祖神とするという伝説をもつ集団で、十六花弁の菊紋を付けた通行証を持っていたため、良木を求める旅が可能であったとされる。
惟喬親王を支えた藤原氏家系の二人の兄弟は、小椋、大蔵を名乗った。木地師の多くは、小椋、大蔵、小倉を苗字に持つと言われるのは、その末裔とされるからだ。

木地師の作業風景

芸術としての漆器
やがて時が経つと、権力者たちは、実用の椀に装飾を求めるようになっていった。京の近くや、朝倉氏や、江戸時代には加賀藩や会津藩などが、椀つくりの職人を保護するようになった。この時代になると、木地師の中から漆塗りの職人は分化して、京や庇護者の近くで定住するものが現れる。木地師は、食器に適する良木を伐採し尽くすので、次を求めねばならないが、漆塗り師の必要な漆の木は、幹に傷を付けるだけで伐採をしないので移動の必要はない。

漆塗り師は、定住することにより、漆塗りの技術を飛躍的に発展させた。
まず色であるが、鉄粉を混ぜることにより黒漆が発明された。”漆黒”の誕生である。そのあと顔料を漆に混ぜることにより次々と漆の色が開発された。朱の色は辰砂が原料である。丹党とか丹生とかの名は辰砂の生産地に関係していると言われる。辰砂の朱は、濃淡様々の色合いを出すと言われる。今では白漆と言われるのも開発されています。

さらに発展形は、蒔絵と呼ばれるもの。ここまでくると、漆器は食器を離れる。蒔絵は文箱や刀の鞘などに適用される。
蒔絵 ・・蒔絵(まきえ)は、漆工芸技法の一つである。
漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法である。金銀の薄板を定着させる「平文または、平脱」や漆器表面に溝を彫って金銀箔を埋め込む「沈金」、夜光貝、アワビ貝などを文様の形に切り透かしたものを貼ったり埋め込んだりする「螺鈿」などとともに、漆器の代表的加飾技法の一つ。
蒔絵、平文/平脱、沈金、螺鈿などはもはや芸術の極みの領域である。

明治維新になると、日本の漆器に西洋人たちは魅せられて、かなり多くのものが海外に渡った。漆黒の黒や朱椀の朱は西洋にはなかった色で、その深みの色相は魅惑的であった。海外に渡った多くの漆器類は、今は無いという。日本と湿度の違う西洋では、その当時漆器を保全できず、多くの漆器の漆の膜は乾燥で剥がれ、ゴミと化したのだ。無残である。

・・次回は、木地師でもあった”円空”の木彫りの仏像 ・・


弥生の風景 馬形埴輪

2015-02-02 18:07:42 | 美観・芸術

弥生の風景 馬形埴輪

市立博物館の展示場を徘徊していたら、馬が目に止まり、暫く釘付けになった。
かなり、体裁がいい・・・

人を乗せる鞍があるから農耕用ではなさそうだ。よく見ると、鐙(アブミ)もあるし轡(ハミ)もある。

「人と馬の関係・・・その起源は西アジアのイラン地方で始まったとされ、次第に人間が乗る「鞍」と馬をコントロールする「手綱や轡」が整備された。・・その例は、紀元前1000年頃から西アジアのアッシリアの浮彫などに見られます。・・やがて、中央アジアのスキタイ民族(B.C. 6~3世紀)などの影響で広くユーラシア大陸に拡がり、紀元前5世紀頃にはローマ軍でも重装歩兵と騎兵が一般的な存在となっていました。これが中国に伝わります。・・中国では、殷代後期に二輪車の戦車の使用が始まり、西周末期の紀元前八世紀頃から青銅や鉄製の轡がみられます。・・やがて春秋・戦国時代末期の紀元前四世紀頃から、騎馬戦法を駆使する北方遊牧民族の匈奴が中原にしばしば侵入するようになり、紀元前三世紀以降、漢代には中国の農耕民族と激しく対立していました。・・紀元後の後漢代になると、農耕民族が乗降り用の鐙を発明して、現在の馬具の形が完成された・・東アジアの乗馬の風習と馬具の源流はここに起源が求められ、4~5世紀には中国東北地方や朝鮮半島に馬の飼育を伴って拡大し、やがて日本列島にも伝えられた」とあります。

 


弥生の古墳に埋葬されていたと言うことは、弥生人にとって馬は宝物であったと言うこと。
見れば、なるほど”愛くるしい”。


再び・・牡丹の寺へ

2014-04-29 14:10:03 | 美観・芸術

                                  ようやく・八割の牡丹が開花しました・・・

                     

                     

                                        

                                        ↑ クイックすると拡大します

 

                                      藤棚の藤も咲き出しました

                     

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                                            蕪村の画

                                   蕪村論・・的な一文

                               ○牡丹散て うちかさなりぬ ニ三片

                    蕪村論なんて、そんな”恐れ多い”ことを、もとから書くつもりはないが、
                          句を読んでいると極めて特徴的なことに気付く。
                  切り取った絵画的な空間の中に、いとも簡単に、時間を表現しているようだ。
                        簡単と見えるのは、実はそうでもないのかも知れない。
                            それにしても、牡丹が題材の句は多い。


                             ○牡丹散てうちかさなりぬニ三片
                             ○閻王の口や牡丹を吐んとす
                             ○山中の相雪中のぼたん哉
                             ○虹を吐てひらかんとする牡丹かな

                


                   代表作○牡丹散てうちかさなりぬニ三片 は、読み方に異説があることを知る。
        ・・散てを・・散って、と読むか、散りて、と読むか・・は蕪村が知人に宛てた手紙で、散りて、であることが顕かにされている。
                   ニ三片を・・ふたみひらと読むか、にさんぺん、と読むかも、議論のあるところ。
                          ここは、自然の流れで、にさんぺん、を支持したい。
        この句の要は、”ぬ”の完了形がきいていて、牡丹の絵画的なるものが、時の流れを醸しだし、三次元的になっているのだろう。
                            ”うちかさなりぬ”は、すごい、と思う。

                     さらに、絵画的空間は次の様に時間を共有する。


                            ○菜の花や月は東に日は西に
                            ○歩き歩き物おもふ春のゆくへかな
                            ○春の海終日のたりのたり哉


                  菜の花畑は、恐らく広大な菜の花で埋め尽くされた畑だろうし、
           歩き歩きの字余りは、それはそれで悠長な時の流れだろうし、 蕪村は”字余り”をよく使う。
                他の句は説明を必要としない、 ゆっくりとした時の流れを感じさせる。
                          
                  ○春の海終日のたりのたり哉 は丹後の天橋立近くで作られたらしいが、
                     この地方は"与謝”と呼ばれ、のちに蕪村の号になった、という。


                蕪村は、画家としては有名であったが、俳人としての評価は、後のことである。
           絵画的で光に満ちた俳句を数多く書き残し、鮮明なイメージを言葉で喚起することに成功した。
                    蕪村の発句は芭蕉と異なり、思想性が表面に出ることはない。
       しかしその言葉遣いは他に例を見ないほど洗練されており、彼は穏やかな情景をわずかに描写するだけで、
              景色の背後に広がる永遠の時間を感じさせるという、天才的な言語感覚を発揮した。

                後世に、蕪村の評価を定着させた人・・正岡子規、萩原朔太郎、安東次男。

                 

                                        蕪村の蟹の画

                        参考:子規の蕪村論 正岡子規 俳人蕪村 - 青空文庫

                                  クイックすると子規の「蕪村論」へ飛びます