ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

はすの花・・野坂寺 札所十二番 ・・・ 秩父巡礼

2013-06-30 22:08:26 | 史跡

野坂寺 札所十二番

 寺に「はす」はかなり似合います。白ではなく、クリーム色です。古代はす、ではないようです。時期が早すぎて、いまはこの「はす」だけですが、7月中旬過ぎると、各種咲き乱れて、それは壮観だと、たぶん住職の奥さんが言っていました。

 

            さてさてアングルを変えて・・ こちらは違う場所の・・

 

            お掃除小僧・・         木彫りの牛、背に観音が!

 

             太田・大光院の呑龍さま、との関係は? 

 

           木彫りの像            木彫りの仏像

 

堂内撮影禁止 とあったので、とりあえず庭に鎮座する、石仏と羅漢・・・・・

堂内は、仏像がいろいろと・・・  ここは花と仏の寺 それにしても はす は寺風景に似合います・・

 

場所; 秩父市野坂2-12-2


明智寺・札所九番 ・・・ 秩父巡礼

2013-06-30 18:38:12 | 史跡

明智寺 札所九番

 

明智寺 六角本堂

 

   文塚です。学業成就を祈って、合格祈願などでにんきがあるそうです。

三菱セメントの大きな工場に隣接します。

明智寺 住所;秩父市横瀬町中郷2160


 


平賀源内が  法長寺 札所七番 ・・ 秩父巡礼

2013-06-30 14:37:11 | 史跡

法長寺 札所七番

本堂はW4.4mxD18mを測り、秩父札所随一の大伽藍で、平賀源内の原図によるといわれている。

平賀源内とこの寺との関係は、調べてみたが分かりません。ですが、平賀源内と秩父?の関係は、かなり深そうです。江戸時代、源内は奥秩父の大滝で10年にわたり、鉱山の採掘事業を行いました。奥秩父に眠る金鉱の発見と採掘が目的だったようです。秩父?と書いたのは、戦国期には、大滝の鉱山の場所は武田の支配地で、武田の金山衆が採掘していたようですが、いつ頃に秩父の領内に加わったのか調べてなかったからです。そういえば、三峰神社の正面も、甲斐の甲府に向けてあります。

源内の鉱山開発は、まず目的の金の採掘は採算に合わず失敗し、副産物で石綿の発見をし、火事でも燃えない衣料を作りました。また、この地の経済発展にも熱心で、木材を、中津川や荒川で流す、という殖産の方法も考えたようです。源内は、大滝の辛島家の敷地内に自分設計の住居を建てて、約10年間鉱山の採掘活動をします。その鉱山あとは、採算の合うところのみ、日チツという会社に引き継がれて、現在も採掘の営業を続けています。・・・辛島家には、平賀源内の事跡の資料が残っているそうです。

中津川の源流の奥は分水嶺となって、神流川の上部の源流部分があり、神流川は流れを群馬県側に落としていきます。この神流川は、荒川上流や中津川より、たくさんの砂金の逸話が川沿いに残り、実際に、いまでも砂金の拾えるところと量はは多いようです。・・現代のロマンですが、これから夏休みの計画に、いわなややまめ釣りと砂金取りの川遊びの民宿を考えるのも楽しそうです。上野村の回し者ではないが、上野村に民宿はありそうです。

下に、砂金取りのブログを貼っておきます。

http://home.f01.itscom.net/yaeno/golddust.htm

 

家康が江戸に入封してから、荒地だった江戸は人口が急増します。ともなって、衣食住の「住」のため、大量の木材が必要とされます。この木材は川西材(荒川以西の意味でしょうか)といって、ほとんどが埼玉の山岳地帯から供給されました。調べてみると、荒川は、山岳部分ではかなり急流で、少しだけ「いかだの組み直し」の箇所を散見できるが、主力の木材は、どうも外秩父、武蔵丘陵、比企丘陵の山林のようです。ただ、伊奈代官所、伊奈郡代の業績のなかで「樽木」に関する記述や山林業の記述を見つけることが出来ません。山林の管理政策は、大久保長安(土屋藤十郎)が適任ですが、早くに罷免断罪されていますし・・・そして、木材をいかだで流した川は、入間川、都幾川、越辺川で、川島あたりで荒川に合流し、深川に運ばれたのだろうと想像しています。

むかしの江戸の住民は、住と食の供給を埼玉に頼り、だから埼玉山岳地を「母なる地」と思い、秩父巡礼や三峰神社参詣が流行したのだろうと思っています。

  牛伏せ・・・牛石像、当時この地に牛は貴重であったらしい。

 牛は金持ちの象徴、で住民は牛を持つことに憧れて、牛にまつわる伝承を幾つか生んだ。

 

  木彫りの布袋と恵比寿像 本堂入り口

 なにやら、足跡が・・・仏陀の足跡でしょうか、足裏に紋が・・・

 

 法長寺 山門

 

法長寺 場所;横瀬町大字横瀬1501番地 

 


西善寺の庭園 札所八番 ・・・秩父巡礼  

2013-06-29 00:06:15 | 史跡

秩父巡礼・・・なんて書くと、なんだか敬虔な仏教徒なんて思われるかも知れないが、本人は、いたってまじめな、無神論者であります。歴史が好きで、本来は「三州街道」にのこる伊奈忠次の祖先と保科正之の養父の祖先の事跡を調べていたのですが、たまたま秩父の中世以前にも、興味の湧くことが出来て、妻の秩父巡礼の希望にかこつけ、アッシー君としても行動をともにしている次第であります。

今日は、法長寺;7、西善寺;8、明智寺;9、大慈寺;10、常楽寺;11、野坂寺;12をまわるつもりです。「;7」など・・・は札所の番号です。順序は、西善寺;8、明智寺;9、法長寺;7、大慈寺;10、常楽寺;11、野坂寺;12の計画。ルートは圏央道の狭山日高で降り、高麗で正丸街道(R299)に合流して、秩父まで走ります。前回の定峰峠越えは同乗者にかなり評判が悪かったです。・・・個人的には、このルートはかなり好きなのですが・・

さて、

西善寺 札所八番

 本堂です。それほど大きくない寺です。手入れは行き届いています。

 

この寺のシンボルになっている、大きな紅葉の木。樹齢600年と言われています。県指定の天然記念物に指定。正式な名称は「こみねかえで」と言うのだそうです。下には、秋の紅葉したもみじ。 

ヤマモミジあるいはイロハモミジではないか、という説もあります。 

転用                                          

 

  違う角度から  同、庭園内    違う角度2  樹齢600年の幹

  オビンズル様の銅像;病の部位を擦ると治癒すると言われています。肩や膝が剥げて赤銅色に・・・

紅葉時期の「もみじ狩り」のおすすめに加えてもよさそうです。野火止の平林寺とは違った意味で迫力がありそうです。正丸街道(R299)沿いで、東郷神社と西善寺、そして甲斐秩父往還(R140)脇道で中津峡・・・は絶好の紅葉ルートに思えます。・・それぞれの紅葉時期は調べてありません。


清泰山西善寺 場所;埼玉県秩父郡横瀬町横瀬598

 


四万部寺・札所一番 巡礼の始め ・・・秩父巡礼

2013-06-27 11:59:11 | 史跡

四万部寺 札所一番

四万部供養納経蔵

まず、読み方が分からなかった。そこで縁起板を探し「しまぶじ」と確認します。 ここは札所一番

秩父巡礼は、最初三十三巡礼とされていました。そして、順序も今と違っていたようです。江戸時代、秩父巡礼が人気化し、江戸からの巡礼者が急増すると、彼らのために順序の入れ替えが行われ、江戸からの道順に札番が変更され、併せて寺院の改装や改名までも行われ、さらにひとつ加番されて、三十四巡礼になったそうです。江戸時代の外秩父越えの秩父への峠は粥新田峠(カユニタトウゲ)だそうです。今の定峰峠より少し寄居寄りで、降りてきた取っ付きに札所一番の四万部寺があったのでしょうね。ちなみに四万部寺は二十四番だったそうです。その昔の最初の札番はどんなだったのでしょうか。まさか地元の巡礼順序とは考えぬくいので、どこからの巡礼が多かったのか気になります。

四万部寺の謂われ

「師の遺命により秩父で開山を志した幻通が、京都から十二万部の経文を取り寄せた。だが経文を運んだ一行も山間地ともなるとしだいに重くなり、とても全部の経文を運べなくなってしまった。そこで途中の峠に六万部の経文を埋めて塚を建てた。一行はさらに都幾川に向い、椚村に二万部を埋めて経塚とし、残り四万部を寺に運びこんだ。その後、経文を埋めて開山した寺の名を四万部寺といい、その寺のある場所を四万部山と呼んだという。」

開山は永延2年(988)に天台宗の高僧・性空の遺命によって弟子の幻通が堂宇を建立し、法華経四万部の読経供養を行った

 

門前に旅籠があります。 今でも営業中のようです。

本堂に、彫刻があります。 極楽絵図と地獄絵図です。

 

・・順礼の服装、札所一番の役目・・満願軸、満願巡礼の服装・・・

巡礼の服装は軽装で構わないのですが、気を引き締めて順礼する人のために、順礼の用品や巡礼の服装(おいずり)を整えることが出来ます。札所は、一番と十三番です。団体のかたは、軸、巡礼の服装については、前もって枚数、本数をお申し込み下さい。・・・お申し込みお問い合わせは、札所一番、札所十三番までお願いします。

 四万部寺 札所一番 場所;埼玉県秩父市大字栃谷418


 

 

 


和銅遺跡を守る聖神社と銅の露天掘り跡

2013-06-25 11:13:45 | 史跡

聖神社

聖神社はもとは銅の採掘近くの山復にあったと聞くが、なにせ和銅元年(708)から幾星霜が過ぎ、朽ちたり焼けたりのあと、凶の方角を避けて、今の地に再建されたと聞く。ここでの確認は、御神体が「むかで=百足」と「ニギアカガネ=自然銅」そのものだと言うことと、守り本尊が「金山彦尊」と言うこと、さらに金山彦尊は「銭神様」だということ。

 

 神社までの石段      一に石段  二の石段

 

 左甚五郎の龍頭      左龍頭   右龍頭

 

聖神社 縁起案内板

銭神様は「お金儲けの神様」として知られ、最近どこかの新聞に記事が載り、人気が上昇中とのこと。下世話の話題だが、どこかほほえましい。

 

和銅露天掘り跡   堀跡1 堀跡2

さて、金昌寺のところでも少し書いたが、ある先輩が、秩父地方は「金」に関係する地名や神社仏閣が多いことを指摘され、そのことが脳裏のベースにあるので、ついつい関連の語彙に反応する。そして、立ち止まり深掘りをしてしまう。・・・どこかに鉱脈がないかと探すように。

和同開珎のもと和銅鉱山は、記録に拠れば、新羅からの帰化人「金上无」とあと二人の日本人により発見された。古書に拠れば、和銅発見に関係したといわれる三人の名前が見えます。

日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)、
津島朝臣堅石(つしまのあそんかたしわ)、
金上元(こんじょうがん 金上无こんじょうむ とも)

この三人の内二人の日本人は、金上无の案内人か付き添いのように思われます。

金上无は、新羅から来た鉱山師(エキスパート)を意味するようです。この時期、貨幣経済の導入を政策としていた朝廷政府は、高句麗や新羅などの朝鮮系の鉱山精錬師や鉱脈探索師を招いていたらしい。和銅の採掘には 専門的知識をもって、指導的役割を果たした金上无(こんじょうむ)等、帰化人の活躍するところが大きく、精錬・鍛冶・金工に伴う一連の作業は、半島や大陸から武蔵国に移り住んだ人々の技術なくしては不可能であったとおもわれます。それも、銅の産出から精錬さらに貨幣の鋳造にいたる工程は、熟練の技術者を相当数必要とされます。新羅からの帰化人はこのようにして武蔵国、特に今でも鉱脈が散在する秩父地方に定住したのではないか、と確信を持って想定されます。・・・続日本紀。和銅鉱脈の発見のあと、催寿鋳銭司(さいじゅぜんし)の長官に多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」(わどうかいちん)が発行されます。

和銅の産地は、地質学上「出牛ー黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗掘まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。それにしても、鉱脈のあるところは、黒川とか黒山とか黒谷とかの名前が多いですね。黒は鉄鉱石類の意味が含まれているのでしょうか。

新羅三郎の新羅

新羅三郎の通称の由来となった新羅善神堂ですが、唐で新羅(しらぎ)の人々が信仰していた神といいます。もともと渡来系の神で、智証大師円珍が唐から帰国後、三井寺を整備し、その守護神として新羅善神堂を建てました。この新羅善神堂は、源義光の父・源頼義が前九年の役の戦勝祈願に参拝したお堂です。そんな縁もあってか、新羅出身の製鉄蓮金の技術者が集い、製鉄=武器でもあり、源氏との関係を深めました。「しらぎ」は現地での発音で、それを唐(中国)で「新羅」の文字をあて、、「新羅」は日本語で普通に読めば「しんら」ということになります。

むかで、百足、蜈蚣

むかでは毒虫で形も気味のいいものではありません。しかし、鉱山師達はむかでを神と崇めました。鉱脈は、太い鉱脈に付随して、細い鉱脈がむかでの足のように周りに伸ばしているそうです。

[毘沙門天とムカデ]
毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。・・・(小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載)

[ムカデの持つ不思議な力]
ところで、天皇から下賜されたムカデにはどんな意味があるのだろうか。ムカデには多くの足かあることから「百足(むかで)」とも称されている。そのため朝廷からは聖明神社の鎮座祭に、本来ならば文武百官を派遣すべきところであるが、百足を百官に代えて参列させるという趣旨が込められていると伝えられている。話としてはもっともらしい説である。和銅の採掘には 専門的知識をもって、指導的役割を果たした金上无(こんじょうむ)等、帰化人の活躍するところが大きく、精錬・鍛冶・金工に伴う一連の作業は、半島や大陸から武蔵国に移り住んだ人々の技術なくしては不可能であったろう。
ムカデにまつわる信仰や伝説には、ムカデを神の使いとする白髭(しらひげ)神社や、フイゴ祭りにワラで作ったムカデを祀る風習がある。ムカデには強い毒性があり恐れられているが、かたや昔からムカデの油漬けは火傷の薬として珍重されている。白髭神社は渡来系氏族の氏神、またフイゴ祭りのムカデから鍛冶との関係が連想される。こうした背景からムカデの持つ不思議な力に霊力を感じ神格化して祀る行為は、金属関係に従事する渡来系氏族の間で行われていた祭祀の一つとして、彼らによってもたらされたのであろう。ムカデを神として崇めた古代人(こだいびと)のおおらかな感性が伺えよう。・・・埼玉県立自然史博物館 自然史だより 第18号 1992.8

・・・・・ここに、朝鮮系帰化人の氏神の白髭神社が出てきた。白髭神社があるところに朝鮮系帰化人の痕跡がありそうだ。秩父にその神社はあるのだろうか。

白髪神社 [波久礼/神社]

石碑「白髪神社由来」には、 ≪白髪神社は、・・・猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。・・・ 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。≫・・・ それもそのはず、『新編武蔵風土記稿』「金尾村」の項には、≪白髭社 村の鎮守 例祭九月十九日 傳蔵院持≫とあり、『寄居町史』によれば、大正十三年から社名を白髪に改めた、とある。 祭神にも猿田彦があることをみれば、もとは白髭神社だったのは明らかだろう。にもかかわらず、『埼玉の神社』が、金尾白髪(しらがみ)神社について、 ≪ここは古代高度な技術文化をもった渡来系氏族の入植があった地域である。これは金尾が渡来人「金上无」の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在することからもうかがえる。当社の創建も、恐らく当地に入植した渡来系氏族の関与があったのであろう。≫と記述するのみで、社名変更について、一言も触れていないのはどうしたことか。 では、なぜ白髪神社に改めなければならなかったのか。それは白髭神が蕃神だったからにほかなるまい。大正十三年(1924)といえば、韓国併合はすでに始まっており、しかも、一月に、昭和天皇が結婚し、天皇家に対する期待がいやがうえにも高まったからではなかろうか。わずか「髟(かみかんむり)」の下の字を換えるだけで、神社の性格は一変してしまう。神はおかんむりだ。

「白髪」はもと「白髭」であったらしい。そして白髭神こそは蕃神、つまり渡来人(=帰化人)の氏神と言っている。

 

山伏と酸化鉄

日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。日本の山伏(やまぶし)たちは全国の山々を巡って鉄鉱石や辰砂(丹)を探索する任務があった。鉱山から鉱石を掘り出す専門の技師である。15世紀からは山師という言葉があるが、定住せず全国の鉱山のある土地から土地へ巡って仕事を請け負う。いわゆる「流れ者」「渡り者」の集団である。鉱石が発見されても、彼らがいなければ採掘はできない。このことを踏まえて、山伏たちが定住地をもたない流れ者で、鉱山のあるところには欠かせない存在だった。『史記』巻 貨殖列伝に「而巴寡婦清 其先得丹穴 而擅其利數世」、巴の寡婦清、その先んじて丹を得るも、しかしてその利を擅(ほしいまま)にすること数世とあり、辰砂を発見すると数代に渡って大儲けできた。この山伏たちが辰砂と鉄の純度を見分けることができる鉱山師で、採掘のために鉱山から鉱山へ渡り歩くという集団で、自ずと里人とは違う独特の習俗をもっていた。異様な装束で山を歩き回る彼らは天狗として畏れられた。里人にとって天狗とは山に出没する得体の知れないよそ者だった。・・・なるほど、辰砂(丹)は貴重なもので、発見できれば、子孫数代にわたる財を生み出したのか。辰砂・・しんしゃとよむ。朱の顔料ならびに水銀のこと。辰砂がどのような有効利用があるのか、見当がつかない。丹ともいう。・・・・ここからは、武蔵七党の丹党の関連は見えてきません。たぶん無関係でしょう。

 

秦一族と秩父

大滝は若沢に移り住んできた人々というのは、ずっと以前から新羅の人々が製鉄のために来ていたのである。新羅系の人々、それは多分秦一族だと思われるが、そういう人々によって古代から大滝で製鉄が行われていたことは間違いないと思う。実は、秦一族が大滝に入ってくる以前から大滝には新羅系の人々が製鉄を行っていたと考えているのだが、古代、秩父では、少なくとも秦一族によって製鉄が盛んに行われていたのは間違いないのではないか。・・・秦氏と言えば、中国に秦の始皇帝が有名なのでつい中国の一氏族と思われがちだが、国境を持たない秦族は遊牧民で、しばしば朝鮮半島の新羅に遊牧して同化もしたらしい。従って、日本の帰化人としては、祖先を違いとする別族意識は若干有ったものの、ほぼ同じとしてみてよさそう。双方とも鉱山師の技術をもった渡来人であった。新羅系秦族の氏集団の護り氏神は「八幡神社」という。これを読むのに秦氏のはたから「やはたじんじゃ」と言うのが由来から正しいが、後に、誰かが「はちまん神社」と読み、通称になった。地名に八幡とある場合、やわた、やはたの読みになる。この頃、新羅三郎の源氏は「八幡神社」が守神になった。・・・新羅三郎と繋がる。

 羊太夫の伝説をめぐって

 昨年の秋(平成7年10月24日~12月3日)、埼玉県立博物館で、特別展「古代東国の渡来文化」が催された。ご覧になった方もあろうと思うが、「東国にきた渡米人-移住から定着へ-」のコーナーに、以前この会報で紹介したことのある「多胡碑」(複製)と、吉井町立郷土資料館の「羊太夫伝承関係資料」3点が展示された。
・・・要約・・・ 羊太夫に関して言えば、まさに和銅の地にある私達の最も身近に頻繁に現れる「伝承の人物」なのである。・・・秩父地方でも言えることで、随分いろいろなところに羊太夫にまつわる話が残っている。小鹿野町の「16地区」には羊太夫が住んで写経をしたという伝説が残り、「お塚」と呼ばれる古墳は羊太夫の墓だとする言い伝えもある。・・・ 「羊太夫は、奈良まで(和銅を持って)毎日、天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復した。太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、天皇の怒りをかった羊太夫は討伐されてしまった。」ということになる。・・・ さらには、秩父の伝承の場合は、渡来人の採銅・製銅技術と和銅献上とが羊太夫と深く結び付いて語られている・・・ なお、昨年亡くなられた和銅研究者久下司先生も羊太夫に関する詳細な記述を残されている。例えば、七輿山については、羊太夫が討伐された時、7人の姫君を7つの金の輿に乗せて逃がしたが逃げきれず、家来が姫君達を輿と共に葬って厚く供養したので七輿山と呼ばれるに至ったという話を紹介している。確かに現在七輿山は2基の前方後円墳・・・しかし、久下先生は「羊太夫は金上无か」という文章を掲げて、はっきりと「史上から見ると、実は金上无と羊太夫は何等の関係がなく全くの別人である。・・・

重ね合わせて考えれば・・ 外秩父のこと

以上が和銅黒谷に関係する資料であるが、目に届かぬところに欠落があるやも知れない。いずれにしても、金上无を中心とする新羅系高句麗系の朝鮮氏族がこの秩父に渡来し帰化し、さらに鉱山を開発して、定住したのは紛れもないことと結論する。この地の「金」を冠とする謂われは、金上无と朝鮮系渡来人の帰化に纏わる由来とするところが多とみる。。それにしても秩父の地は水田をあまり見ない。江戸末期から明治にかけて、桑園と蚕を育成し絹産業を生業としたところまで理解が出来るが、それ以前の生活の糧の想像は、あまりにも難しく脳裏に浮かんでこない。それと、人口に比しての寺の多さは、かねてよりの疑問である。

いまひとつ、秩父は下世話なロマン・・本物の金に関係する伝承も幾つか持つ。

それは、武田金山衆の伝承、平賀源内の逸話、そして現在も、荒川に中津川にその支流に確実に拾えるという砂金の事実・・・これは夢の話ではなさそうである。

 

 

 


金昌寺 わらじと石仏群 札所四番 ・・・秩父巡礼

2013-06-21 22:15:20 | 史跡

 金昌寺 札所四番 

 わらじが山門に

                           

 なんで、こんな大きなわらじが飾ってあるのだろうか。少し興味が湧き、訝しがる。寺の管理者は、足と腰の悪い人には、御利益があるから、触っていけという。だが・・

          慈母観音

日本型の聖母マリヤさま。台座の小仏は水子供養でしょうか。

 

・・石仏の数、数、数・・・・ 羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏・・・あわせて、1319体・・・

 

座に小仏を・・ 道両脇に並列 背後に山を・  

 

酒飲み地蔵

 

 頭にかざしているのは杯、手に持っているのは徳利、写真では下部が欠けたが、台座代わりは酒樽。・・・酒呑地蔵・・・とでも呼ぼうか。

逸話が残る・・この地の庄屋が酒を飲み過ぎて失敗し、代官に謝っている姿だという・代官は、滑稽さに許して、度の過ぎ、をたしなめたとも聞く。・・

 

  オビンズル尊。

聞き慣れない名前だが、輸入された仏教が秩父の山岳で日本語に変形されず、原型のまま残ったのだろうか。とにかく・・・薬師尊の原型、頭の痛い人は頭を、目の悪い人は目を、など悪い箇所を、尊像のとこで撫でると治るという。、

この寺院内、石仏の多さに説明があるが、今少し納得に届かず・・・謎のまま。 

 

 

        浮世絵なのか。、木丹下の山額。

逸話が残る。・・・新木の名称は、荒木丹下という悪党が四番・金昌寺のご本尊により改心させられ、仏道に帰依したところから金昌寺は別名新木寺とも呼ばれた・・・とあるが、どうも信じがたい。

金昌寺の近在に和同開珎の郷、和銅の産の黒谷がある。日本の銅鉱山の最初の発見はここで、朝鮮の新羅から来た鉱山師(エキスパート)が見つけたとされる。新羅の鉱山師たちは、時の政府の要請なのか、はたまた勢力争いに敗れて脱国の逃亡の末なのか、知らない。ただ、この鉱山師達は、和銅発見のこの地に住み着いた可能性は大いにある。これを踏まえれば、新羅が新木に変わったという見方も可能ではないか・・・さらにさらに、丹下の丹は、渡来っぽくて、丹党の丹を意味している・・・・なんて、想像の仮説。

この秩父一帯に、金のつく地名や神社仏閣がかなり多い、何故なのだろう、と指摘した先輩への、切り口とならないかと思案している。ちなみに新羅からの渡来人で 鉱業の知識を持った鉱山師を金上旡(こんじょうむ)と呼ぶらしい。・・・今回も、ひょんなことから、金昌寺でひっかかる。先輩はどう読むのだろうか・・・・どうも悪い癖で、全く関係ないのかも知れないが、・・・

*金昌寺・・・名前の由来だが、中国の地誌に詳しい人がいて、古より現在に到るまで、金昌市の産に、白金、銅、ニッケルを多産し、特にニッケルの生産は世界一と聞くが、この命名のものが、中国に詳しい新羅系の渡来人としたら、まことに興味深い。わらじは、鉱山の採鉱の時に使ったむしろの変化系・・・まったくの思いつきではあるが、思慮を棄て去ること・・・難し。

・・・山額の絵 逸話の文、額内で読める。

・・・・・気になるので、いずれ時間をつくり、和銅黒谷に行きます。

 場所;秩父市山田1803

 

 

 

 

 

 

 


秩父のあじさい寺 常泉寺 札所三番 ・・・秩父巡礼

2013-06-21 10:51:40 | 史跡

常泉寺 札所三番 

あじさいの季節になった。期待して、秩父に向かう。ルートは、正丸街道を通らず、寄居バイパスを使わず、あえて定峰峠越え。

途中、山道に山あじさいが点在する。・・・・・そして、常泉寺に到着。

    

寺の規模は小さい。思ったよりあじさいの株数も少ないようだ。

 

少し離れて、高台に本堂がある。

     

 本堂の正面に、透かし彫りの見事な龍が・・・      

   この龍の彫刻の作者は、熊谷、玉井の飯田和泉とある。

 

場所:秩父市山田1392  秩父市横瀬に近い。

なお、あじさい寺としては、熊谷の能護寺もお勧め・あふれるあじさいのトンネルをくぐり、巡ると満喫の気分が味わえる。

 


ゆり in ゆり園(西武)

2013-06-19 13:10:50 | 日記

草原と林間にゆりの花咲く。

 

 

よく見ると、帯のように色彩を分け、白は白、黄は黄、オレンジはオレンジ。

どうも、種類を誇るのではなく、個を主張するのでもなく、帯の色彩を見せたいのだろう。ならば、あえてゆりの種類を確かめずに、みせたいままに、見ることにする。

群生するゆりは見応えがある。絨毯を敷き詰めたような色彩の花は、気分も解放する。緑とのコントラストは鮮明である。

 

                                                                                                

 

                       

 

堪能すればそれでよし。饒舌は邪魔かも知れない。

 

2013年6月17日午後撮影 ;小さな写真もWクイックで大きくなります。

場所、西武ドーム球場正門向に隣接。所沢市上山口2135、

入園料¥1000、駐車代(普)¥1100・・・駐車代はかなり高いか?近所の民間駐車場¥500

庭園内、旧ユネスコ村の建物が残る。

 


蓮の華 に 句が三つ (前回後日談)

2013-06-17 23:41:51 | 日記

蓮は、どうも陽のなかで咲くのが似合う。

前回のブログの後日談。

 写真は睡蓮です。水蓮とは書きません。

前回、「・裕くん、一句、どうですか・」

と、投げてみたら・・応えてくれた。

○羅漢らもおどけてみせる酔芙蓉      裕

○遠き世の命を今に古代蓮          〃


○水音の晴ればれとして大賀蓮       木魂

 

川越の喜多院に五百羅漢がある。・・・そこそこ有名・・・

羅漢とは、修行して悟りを開いた高僧の石像と聞く。そこは500もの羅漢がひしめき、中には、笑ったり、哀しんだり、怒ったり・・・の顔もある。あれー、修行をして悟りを開いた、えらい坊さんでも喜怒哀楽があるんだ、と妙なことに感心し、修行が足りなかったんじゃないかなんて、不遜なことを思い、思わず「くす」っとしたことを思い起こす。

芙蓉(=蓮)が酒を飲んで酔い、顔を赤らめたさまを、羅漢が見ておどけたのでしょうか。この句は、かなり楽しくて好きです。始めはしろく、あとでピンクに染まる・・こんな蓮もあるのだと知りました。池に蓮が浮き、ほとりに羅漢が何体かある風景の画なのでしょうね。

古代蓮は、大賀博士が昭和20年代に、船橋で発見され、その後20年ぐらいたって、行田でも発見されたと聞きます。同じものです。言葉としては、古代蓮の方が、ロマンを感じます。

俳句については、読む力も、作る力も、素養もありません。素人ながら、語彙から風景を思い浮かべ、季節を感じ取り、そこに動くもの、動物や虫や風などで、情況や叙情を感じれば、自分にとっていいものだということになります。言葉の綾なす画とでもいうのか・・・ですから・・・俳画は好きです。改