ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

夜光貝

2015-08-31 13:10:46 | 日記

夜光貝

「つれあい」の知人が数年前奄美大島に居住し民宿を営んでいる。
その知人から届いのがこの「夜光貝」。数ヶ月前は、きれいな貝殻だった。


にわか知識の受け売りです。
「夜光貝」は、昔は「やくがい」と言ったらしい。
「やくがい」は、「やくじま」周辺の島で採れて、本来は食用だった。
「やくじま」は、やがて「屋久島」の漢字が宛がわれた。
「夜光貝」の生息地の散見は、
「屋久島」よりもっと西南?の奄美諸島、石垣島付近の珊瑚礁の域。
もともと砂浜を好まない貝らしい。
「やくがい」が「夜光貝」になった経緯は詳しくはない。
「やくがい」は食用の後、大きさから容器として扱われていたが、
内側には”真珠層”があり、奈良時代頃から装飾品に使われ始めた。
これが、”螺鈿”の始まりである。
 ・・・ とまあ、これが”にわか知識である。

さて、”螺鈿”だが、こちらの方は、やや昔から知っている。
”螺鈿”の本物の初見は刀の鞘であった。
それまでの”螺鈿‘については、本の中の写真でしか知らなかった。
教科書に載っている尾形光琳の”蒔絵‘の写真である。
”螺鈿”の本物を見たとき、どのように作られるか、興味を持った。
・まず、夜光貝の真珠層部分を表現する形に切り落とす。
・埋め込む木製部分に、形に添った窪みを、小刀で彫る。
・漆の接着力で、木の窪みへ、夜光貝の真珠層片を貼り付ける。
・”螺鈿”の”螺”は貝殻を意味し、”鈿”は散りばめるを意味する。
・漆の保護膜を、真珠層を貼り付けた容器に、何層も塗り重ねる。
・漆が乾いた後、厚くなった”漆層”を炭(木炭)で、艶が出るまで磨く。
という工程だった記憶がある。・・・どこかに記憶違いがあるかも知れないが・
・炭で光沢が出るまで磨くという作業は”さすがの匠”と思って感激したものだ。
自然の異質物のコントラストの妙・・は、確かに美しく芸術だと思った。

・螺鈿技術の発展は、南蛮貿易によってもたらされた。
・従って、室町時代の後半以降に、螺鈿文化は発展進化し、江戸時代の鎖国をもって終熄した。
・鎖国以降は、需要も減退し、国内向けに”デザイン意匠”も変化している。
・大量に西欧に渡った、漆器、螺鈿、蒔絵などの日本の漆文化は、当時の西欧の上流階級のステイタスシンボルとして重用されて人気であったらしい。
・教科書では、浮世絵のみが紹介されているが、一般的には漆・芸術の方も目を奪った存在だったらしい。
・大量に西欧に渡った漆・芸術は、現存は博物館などに僅かに残っているだけとなっている。
・日本と西欧の気候風土の違い、空気の乾燥の度合いが、西欧での漆・芸術を危うくして、ほとんどをゴミと化した。乾燥によって漆が剥げてしまったのである。

古来中国の随・唐の時代に日本に伝来した漆、螺鈿、蒔絵の伝来は、本場の方では絶えているらしく、伝わった日本で脈々と”生き続け”ている。
歴史は皮相である。

夜光貝の蓋は、石灰石化して”ズシッ”と重い。


「セブンイレブン」の”ドーナツ”

2015-08-27 22:37:35 | グルメ

「セブンイレブン」の”ドーナツ”


去年の11月頃噂に聞いていたのだが・・・・
ようやく近所の「セブンイレブン」に”ドーナツ”が登場した。
「セブンイレブン」に「セブンカフェ」が登場してはや○○年!
「セブンカフェ」によって街の喫茶店が廃業に追い込まれたって話は聞いたことがない。
・・・、ってことは、「セブンカフェ」は外コーヒーの需要を掘り起こした、ってことか!
ネクストステージが「セブンドーナツ」?!
「ドーナツ」は「セブンカフェ」との“相性”がいい??
「コーヒー+ドーナツ」という新たな市場の創出を企んでいるのかも知れない。


○ふんわりリングドーナッツ: シュガーコーティングが好評
お砂糖のサクサク感が好評な一方で、少しくどいかも?というご意見も。
○きなこドーナツ(豆乳入り):和風・・・いけるような気もするが微妙。
○ホイップドーナツ:これが一番口に合うのかも知れない。ホイップクリーム・美味!


頭の体操をかねて

2015-08-27 21:58:17 | ひとりごと

頭の体操をかねて

ここしばらく、「ときどりの鳴く喫茶店」は休業ぎみ。
マスターは、惰眠をむさぼって、遊びほうけているなどと噂もちらほら・・・
だが実は、マスターは”頭の体操”で大忙しです。

それは、”頭の体操”をかねて開発を続けているStrategyなるものが、完成に近づいているからです。
それはもう、努力を重ね、血と汗と涙はさすがに流しませんが、慎重に注意力を研ぎ澄ましながらの発想と検証の積み重ねなのです。この年になると、アイデアは、泉のようには湧いてきません。脳が、さすがに硬くなっているのでしょう。そんな老化を始めた頭脳を叱咤激励しながらのStrategyの開発だった訳です。

さて、ここで普段の日常会話には登場しないStrategyって一体何だろうと訝しげる人も多いと思います。もともとStrategyは軍事上の戦術とか戦略とかに訳される言葉で、ビジネスとか経営の方針立案の時に、経済的な用語としても使われ始めました。意味は、当初と同じで、経済競争上の”戦略”、”戦術”であります。更に、2002年頃から、金融相場の世界で「システムトレード」というプログラムが開発・発表されました。それから以後に、株、FX、金、商品、為替などの相場に導入されて、今では、Strategyは、株やFXの世界では、当たり前の言葉となりました。

8/21日前後の日経平均のグラフ

ここで、昨今に戻ると、8月20日から8月25日までの株の暴落は凄まじいものがありました。
株を所有している人は気が気ではなかったかと思います。僅か数日で自分の財産が15~20%ぐらい無くなってしまうのですから、ある種の恐怖です。それも底なし沼に落ちるような恐怖です。

コーヒーブレイク

こんな状況下でも、ごく一部の人はこの状況を喜んで・・というと語弊がありますが、チャンスと待っているのも確かです。
このごく一部の人は、逆張りのStrategyを持っているのです。
その「逆張りのStrategy」とは、こんな内容です。
 ----------------------
 買いルール And
  ・終値と25日平均線の乖離率が-25.00%以下
  ・終値と5日平均線の乖離率が-10.00%以下
  ・***
  ・***
  ・***
 売りルール Or
  ・含み益が10.00%以上
  ・エントリーしてから15日以上経過
 ----------------------
このStrategyが使い物になるかどうかは、その「システムトレード」によって検証されています。検証のことを”バックテスト”とも言います。
「システムトレード」で使える過去の株価データは、1990年3月1日から準備されています。これだけの暴落は、一年か二年に一度あるかないかの出来事だそうです。
上のStrategyをバックテストすると、8割の勝利と出てきます。かなりいい勝率です。2割の負け方も見えてきます。
この場合、勝ちより負けの方が大きい金額が普通なので(これも検証結果)、投資の時銘柄を絞ることは危険で、分散型に分配して勝率8割に近づけることが肝心です。
あるいは、もう少しだけ株価が下がる場合がありますが、底値付近ですから直ぐにリバウンドしています(過去の例)。
勝ち方と負け方が分かるということは、底なし沼の恐怖ともおさらばです。
この売買ルール(Strategy)は再現性が確認されており、今回も同じになると信じることが科学的思考法です。

お酒ブレイク

こんな説明で、Strategyがどんなものかお分かり戴けたでしょうか。
「システムトレード」のStrategyは、指標を使って売買ルールを作り、買いと売りが完結する形で優位性が機能する戦略である。この優位性は、株相場の如何なる状況下でも担保されなければならない。ある状況下、ある期間だけ優位性を発揮することを”カーブフィッティング”という。ある変数にだけ異常に反応することを”オーバーフィッティング”という。この両方を回避できたとき、実用に耐えるStrategyとなる。

・・とまあ、こんな訳で、Strategy開発は終局に到達しており、忙しかったわけである。
普段使い慣れない脳みそも酷使して、体は疲れていないが頭は疲れたようである。
それで出来たのが、「強力:3点チャージ」と「BB-out:MM500」の2本のStrategy。
どうも自分は、株取引よりも、Strategy開発の方が楽しいようです。
それで、脳は若返ったでしょうか?少々疑問です。

この2本は、この分野の業界大手「テラス」の厳格な審査に合格し、「テラス」で販売中です。

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ご褒美


夏の花 夾竹桃

2015-08-09 13:29:08 | 草・木・花 風に吹かれて

夏の花 夾竹桃

夏の花は、総じて開花期間が長いようだ。
 ・・・と、サルスベリとキョウチクトウを見て思っている。
(調べて確かめた訳ではないので、信じるに足る情報ではない)

それにしても、暑い日が続きます。

○さてもさて 蝉が殻する 暑さかな  ・・庄

公園に続く道に空蝉が・・・、
 気がつくと周りには蝉の声が輪唱で聞こえる。
  最初は”蝉の殻散る”夏の風景と思ったが静止画像で面白くない。
   蝉は脱皮して、暑さを愉しみ、「歓喜の歌」を唱いながら飛び回っているのだ。


郷御前の運命と父・重頼の立場

2015-08-05 01:13:26 | 歴史

郷御前の運命と父・重頼の立場
                      ・・・ 凄まじいほどに残酷な流転。

承前「河越館」
「河越館」のことを書いてから一週間。何とはなしに「郷御前」のことが気になります。それで、あらためて「引用文」を再度読みかえしています。

川越重頼のこと・・
「河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。
しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、河越氏は、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。・・・・・それより前 ・・・河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿二年(1155)8月16日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる。本拠大蔵は奪われたものの、総検校職は重頼に継承された。」

この、そんなに長くない「河越氏」の説明文はかなり秀逸です。当時の河越氏の置かれた立場や背景が、ものすごく的確に浮かび上がってきます。武蔵野の平安末期から鎌倉初期の歴史的な背景も勢力図も迫ってきます。これだけ凝縮していると、名文とさえ思ってしまいます。

まず、武蔵国はどこまでが範囲なんだろうか。
中世の武蔵国の、鎮撫や知行の範囲を読んでいると朧気ながら浮かんできます。西は、恐らく相模川が界だろうと想像が付きます。武蔵七党の渋谷氏などは秩父近辺から移動しています。しかし頼朝に、川越重頼は”相模国”守護に命じられます。そこは鎌倉のある本拠地です。この時点で川越重頼が如何に頼朝に信頼されていたかが見えてきます。ここらへんから一地方名だった相模は”相模国”として文献に頻繁に登場するようになります。相模国が出来ると武蔵国は多摩川あたりまで後退したのでしょう。東は、荒川でも利根川でもなく、恐らく渡良瀬の川筋で渡良瀬川は下流を太日川といい、ほぼ現在の江戸川まででしょう。しかし、証拠があるわけではありません。山や川を国の境にしたのは、昔の習いです。当然江戸も範疇でしょうが、その頃名前も不確かな河原と原野であったのでしょう。古河や結城は、下総に位置づけられているが、地理的便宜性で武蔵国の範疇に含まれていたことが、豪族の知行の範囲を見るとうかがい知ることが出来ます。

つぎに、検校という職務ですが、まず武蔵国を、今で言う県に置き換えると、県庁所在地が国衙で、県知事が国司と言うことになります。国司は、朝廷の任命で派遣されるわけですが、平安末期には完全に名誉職で、現地に赴くことはまずありません。そこで、家臣を代理にする場合もありますが、現地の豪族を代理にする場合もあります。この現地に赴かないで代理を置くことを”遙任”といい、現地の豪族が”国司”を代行することを”検校”と呼んでいたようです。

武蔵国は、先述の地理案内で確認したように、埼玉の秩父を除く全域と、東京都、相模川以東の神奈川と江戸川以西の千葉と茨城の一部を加えて相当広い領域になります。この領域の”総検校職”は、武蔵国の顔役です。抜きんでた勢力があったかどうかは分かりませんが、相対的には一番の実力者であったのでしょう。この総検校職が、秩父重隆という人物で平良文の末裔に当たります。秩父の名前から、秩父平氏の嫡流と見てよさそうです。秩父重隆の居館にした場所が”大蔵”ですから、ここが、当初の国衙、つまり県庁所在地であったことが分かります。秩父重隆以降は、二流派に分かれて、一人は嫡流の”川越重頼”、今一人は兄・重弘の子・”畠山重能”が覇権を争うようになります。
この時点では、河越重頼は、河越はまだ名乗っておらず、”大蔵”か”秩父”の名前だったとする方が合理的です。

この秩父平氏同士の覇権争いは、源氏の覇権争いを複合し、周辺の豪族も巻き込みます。源義賢と源義朝・義平親子の争いです。周辺の豪族は、新田氏、藤姓足利氏です。ここで面白いのは、源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君」として迎えていること。つまり名族を棟梁に奉って、権威を高める方策をとっていると言うことです。平良文流平氏の家格と源の家格とでは、源の方が上のようです。ちなみに、源義賢の子である‘木曾義仲‘は、河越重頼の娘の子ではありません。

この”大蔵合戦”と呼ばれる争いは、畠山・源義平連合の勝利で、河越重頼・源義賢連合は敗北します。敗北した河越重頼は、大蔵を追われ川越に流れます。
川越に流れた河越重頼が居館として住んだのが”河越館”というわけです。住んだ場所は、入間川と小畦川の狭地。いわば氾濫原ですが、新田開拓には最適地だったらしく、短期間に開拓して水田を作って、河越氏は急速に富を蓄積し、勢力を復元・拡大し、武蔵国の検校職も継続していきます。勝った畠山氏は、大蔵を領分したものの検校職は奪取できなかったようです。ここで、県庁所在地(=国衙)は川越に移ります。

こうして、河越氏が、川越で地盤を強化してから間もなく、頼朝が、平氏打倒のため蜂起します。当初平氏側だった河越氏は、頼朝の軍に参加していきます。ここらの経緯は詳しくないのですが、川越重頼の正妻は、頼朝の乳母の”比企尼”の娘だったというので、そこら辺が関係しているのかも知れません。頼朝の軍に参加してからの河越氏は、直ぐに側近で親族的重臣になっていったようです。やはり、”比企尼”との関係からとしか思えません。そして、頼朝から、川越重頼の娘(郷御前)が、義経の正妻に選ばれます。

郷御前は、やはり・さとごぜん・と読むのでしょうか。
郷御前のことを調べると、・・・義経の正妻、河越重頼の娘のことは ・・・
・吾妻鏡と源平盛衰記に載っているようです。
・「吾妻鏡」では、「河越重頼の娘」「義経の室」となっている。
・「源平盛衰記」では「郷御前」となっているため、郷御前が通称になった、とか。
・「義経千本桜」での義経正妻は、平時忠の養女で川越太郎の実の娘「卿の君」。
・河越(川越市)では、京へ嫁いだ姫である事から「京姫」。
・平泉では貴人の妻の敬称である「北の方」と呼ばれている。
・・・「源平盛衰記」は、後世に作られた娯楽本なので、名前の信憑性はうすく創作の可能性があります。
この様に見ると、実際の名前は”不詳‘とするのが適当のように思えます。

義経が、頼朝から追討され、京から逃げ、北陸道の逃避行、平泉での自害に、最初から最後まで同行した”郷御前”は純愛を貫いたのでしょうか。彼女の心中には興味を覚えます。

さて、河越重頼は義経の外戚と言うことで誅されます。経緯は、理不尽なように思われますが、こうして一時河越氏が没落すると、ようやく武蔵国の検校職は畠山重忠に廻ってきました。
その畠山氏も、政変で没落すると、検校職は”河越重頼のひ孫”に戻ります。”河越重頼のひ孫”は河越径重のことで、川越・養寿院の開祖になります。義経に関係した家柄なので、径重は・つねしげ・と読むのでしょうか。普通は・みちしげ・と呼びそうですが。

・・・なんか、凄まじいほどに残酷な流転を見るようです。