ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

釜山神社と風布とかえるの神社

2013-05-31 01:38:53 | 史跡

釜山神社と風布、と かえるの神社

釜山神社

             寄居町風布

狼が、なぜ神社を守るのだろうか。

            

            
こんな単純な疑問が頭から離れない。秩父の山奥の三峰神社にも、狼の石像が周りを囲み、この奥武蔵の丘陵(外秩父山系とも)の釜伏山の釜山神社も狼の石像が散在する。
奥秩父も、秩父も、外秩父も、いずれも山岳信仰の地であり、人口に比して、これほど寺の多い地区は見たことがない。かつて山岳で修行する人達を修験者と呼んだが、またの名を山伏とも言う。山伏は、山の武士なのか、それとも犬(狼)を連れた杣人なのか。伏の字は、人に犬と書く。関係はあるのだろうか。

この神社には、写真のほか、まだまだ狼狛犬がある。中にはかっぱの様な顔の狼(山犬)もあるし、きつねと覚しき動物像もある。狼と山犬と狛犬ときつねの同居もめずらしい。

                

 

釜山神社の脇の細道があり、日本水の源泉地への道の案内がある。今は岩盤崩落の危険から立ち入りが禁止されている。日本水には伝説がある。
その昔、日本武尊が東征の折、戦勝を祈願して釜伏山中腹の「百畳敷岩」と呼ばれる大岩壁に剣を突き刺したところ、たちまち湧き出したという。
岩盤は、蛇の模様の蛇紋岩で出来ていて、風布川の河原の石も同様である。湧き出す水の量は多く、干ばつの時でも水量を変えないところから、伏流水ではなく地下水と見られているが、何故山頂付近から地下水が湧くのか、不思議な話である。
ちなみに、日本水はやまとみずと読むのだそうだ。

林道を下ると、日本水の水くみ場があり、車が3台道脇に駐車し、ポリタンクを二三十個並べて詰めている。谷川を挟んで反対山からの湧き水なので、どうも日本水(やまとみず)とは違いそうだが・・・、水質は、ほぼ同じなのだろう。

風布に降りる。
風布・・ふうぶ、と読むのが正しいのだと聞く。どうも、この地名を覚えた時から、ふっぷ、と呼んでしまう。この地の古老で、ふっぷ、と呼ぶ人もいるらしいので、ふっぷで許して貰おう。
はじめて風布の地名を記憶したのは、かれこれ20年前ぐらい。花園インター手前のサービスエリアで、みかん園の案内を目にして、埼玉でみかんに驚き、12月始めにみかん園にみかん狩り行ったのが始まりです。風布の名前にも惹かれる物がありましたが、荒川の川辺より高台の風布の方が気温が高い不思議にも、印象を深くしました。

                   転記

風布に姥宮神社があります。とめみや神社、と読むのだそうです・

ここには狼ならぬ、かえる、が鎮座しています。

なんともユーモラスで愛らしい。所以は調べないで、想像だけしときましょう。この神社は、かなり好きです。

        子のせの、親子がえる。

        

 かえる石でしょうか。

                            

 

・・・恋人かえる、父かえる、母かえる、故郷へかえる、・・・なぜか懐かしい。

 

不思議、いっぱいの風布。

 風布館          寄居町風布74

風布のみかんの謂われだけ、書いておきます。
昔、小田原に北条家があり、川越に扇谷上杉家があった戦国期の始め、北条が上杉を川越に攻め、一夜にして北条が勝ち、上杉が敗れたという戦いがありました。勝った北条は、川越を関東支配の拠点として治め、外敵に対する防御の城を幾つか造りました。その一つが、寄居の鉢形城です。そして城主には、小田原北条の重臣がなり、上野国(群馬)の支配と強敵武田信玄の侵攻の防御を兼ねました。信玄の侵攻の先行部隊は真田軍団でしたが、真田に秩父の町と寺は八割ほど焼き払われたそうです。
北条氏邦は出身が小田原近くの伊豆の多賀城でした。北条氏邦は自分の城の近くの風布が温暖で、地形も故郷に似ているので、みかんを故郷から取り寄せ、栽培させました。
これが、風布のみかん園の始まりだそうです。
多賀城(熱海市)は、伊豆宇佐美と熱海の中間あたりの、平地の少ないところです。

江戸時代、寄居とこの地区は、関東郡代の伊奈家の支配地で、伊奈家の代官の大河内金兵衛が支配しておりました。大河内家は、後に名老中といわれた、知恵伊豆の松平信綱の生家です。寄居には金兵衛の陣屋もありました。伊奈家の支配地の税率は四公六民だと言われています。六公四民が普通の時代、どう見ても生産力の乏しいこの地は、それでやっていけたのでしょう。あるいは、米に変わる税の樽木などが安かったのでしょうか。明治時代になり、税の公平化で、特例がなくなり、この地は急速に困窮します。それが原因かどうかは分かりませんが、農民の乱が起こります。

風布を、すこし違った角度から紹介しているブログがあります。
下記に、貼り付けますので、見て下さい。

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/0a25e1bd26e17d9fc853a5a9e3ecaff9?fm=entry_awc 

http://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/676922564049427625634e1c4397a746

 

後日談 姥宮神社(かえるの神社)で、屋根に興味深いものを、見つけました。

つぎに、少し調べてから、調査結果を書きます。風布は不思議の多いところです。

 


三保の松原 白砂青松と富士

2013-05-27 19:32:20 | 名勝

三保の松原から見た富士山です。絶景ですね。

 ウィキペディアから転載

ですが、テトラポットが浮かんでいます。沿岸はコンクリートで固めたようです。

安藤広重や葛飾北斎の描いた海ではなさそうです。

・・Wikipedia・・1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したこと、安部川での砂防ダムや護岸工事など、川から供給される砂や礫の減少により、波や沿岸流で供給される ...

三保の松原の砂浜の白砂は安倍川から供給される土砂が実はつくりだしたものです。その白砂がなくなっている・・・

富士川の上流部の釜無川の川沿いに北杜市があり、そこにも白砂青松の名がつくところがあります。この釜無川と安倍川の源流付近の山は、どうも隣接しているようです。地図で確認すれば、赤石山脈の北部の鳳凰三山あたりの前衛山の山が源流。想像ですが、すると山を組成する成分は、ほぼ同じ・・・。

浜辺の白砂の成分は主として石英と聞きます。比重は重い方で、流れに逆らって近くに沈殿します。流れぬくい石英が海岸縁に集積して白砂をつくる・・・このような経緯だと理解しています。この石英は、比較的花崗岩の中に存在し、また花崗岩は膨張率の異なる成分から構成され、長い年月で酸性雨などで分解します。土石流の元です。歴史に、釜無川の洪水を幾つも見ますが、安倍川の方は知りません。釜無川という奇妙な名付けも、比重の重い石英の沈殿による川床の底上げが連想されます。・・訳知り顔の解説ですが、このことは全くの門外漢で、地質学を学んだ友人の受け売りです。

その、安倍川を荒らせばどうなるか、容易に結論が出そうです。近代化も民主主義も否定するわけではないが、この三保の松原の、一部コンクリート風景は、結局みんなで選んだ結果であり、やはり世界遺産への登録は無理があるのでしょう。

富士山の世界遺産への登録は、三保の松原とセットで申請された、と報道されました。5月29日追記 

 

 

 


高原に、天空のポピー 繚乱 in 秩父高原牧場

2013-05-25 19:43:50 | 名勝

5月25日 AM9:31 曇り やや肌寒し

みわたすかぎりの ポピー繚乱。高原にて、

                         

 

                          

                          埼玉県秩父郡東秩父村大字坂本2951(秩父高原牧場)


           咲き満ちて眩しポピーの大野原     三村かよこ

     ・・・友人が、ブログを見て、送ってくれた句です 、作者と面識はありません。


小川町から定峰峠への道を途中で右折し、急坂を登り切ると、突然に視界が開ける。斜面は多いが、草原が左右に広がり、普段は放牧の牛がそこかしこだが、今日は二匹だけ視野に入る。しばらく行って牧舎の方に行かずに、左折して下ると直ぐ、ポピー畑だ。

そこは、天空のポピー畑。すごい広さの丘陵ににポピーが満載。今が盛りと開花。
緑の稜線と赤いポピーと青い空を期待したが、今日は曇り、やや残念。

実は、このポピー畑へは、七年前から来ている。最初の頃は、開花情報が少なく、早すぎ一回、遅すぎ一回のミスマッチ。あの頃と比べて、朝早くから訪問客はかなり増えて・

ここ秩父高原牧場は、奥武蔵丘陵のやや端に位置し、奥武蔵には舗装された林道が、峠と峠を繋いで走っている。この峠と峠をつなぐ林道は、通称「グリーンライン」とよばれ、所々に関東平野を見下ろすビューポイントを持っている。関八州の見張り台もこのライン上に存在する。牧場への道はグリーンラインの仲間には入れてもらえてないようだが・・。

          グリーンラインの地図

            

 

この林道の道巾はやや狭く、車の行き違いに難あり。一部の人に絶大な人気を誇る、グリーンラインからの関東平野を見下ろす夜景は、夜の林道のドライブなど怖くてできないが、憧憬ではある・・。

むしろ、高原の風を浴びて、自転車の散歩が似合いそう。
グリーンラインに上がるまでがひと苦労だが、そこから峠から峠への縦走は、天空の散歩を楽しむのは絶好のサイクリング。今日も20人ぐらいのサイクリストを見かける。
・・・ 気をつけて、行ってらっしゃい!


           


          

 

          


          


  彩の国ふれあい牧場(秩父高原牧場)   牧場のサイロ

 


浦和 美園周辺 スタジアム2002

2013-05-22 18:03:04 | 建造物

この風景に、一累の感慨を持って眺めている。

走っている道路は、東北自動車道。脇を今や物流の大動脈となった、三桁ながら国道122号線、奥に光る丸屋根の建物は日本のサッカーの聖地、埼玉スタジアム2002、そして周辺は延々と続く整地中の土地・・・。いずれ、5年先10年先に、この河原は高層マンションが建ち並び、新興住宅が犇めく地に変わっているのだろうか。その準備にか、大型ダンプが大量の土砂を満載に積み、ひっきりなしに行き交う。たぶん土砂は河原湿地帯の底上げや地固め用なのだろう。・・・今、浦和美園駅・埼玉スタジアム2002の周辺は、大造成工事が進行中です。


昔、荒川が岩槻辺りを流れていた頃、洪水で乱流した流れは、見沼の湿地帯と綾瀬川の川筋を分けて流れていたらしい。その間に野田から安行に続く台地があった。また更に昔は江戸湾(東京湾)がせり上がり、この近辺まで海であったらしい。浦和はその名残りでもある。
江戸時代、幕府の名官僚の伊奈忠次とその一族は、荒川を瀬替えをし、熊谷から入間川に流れを変えた。洪水の危険が去ったこの地は、井沢弥惣兵衛為永が伊奈流の土木工事と違ったやり方で耕作地に替えた。
伊奈家の官僚内容は今の農林大臣、建設大事、大蔵大臣、警察を併せ持った職務のようだ。また、井沢弥惣兵衛為永は紀伊(和歌山県)の治水灌漑のエキスパートであるそうな。

この見沼田んぼの風景は、急激に変わろうとしている。

先に、一累の感慨といったのは、四季の美しい見沼田んぼを懐かしがっての感慨というのでもない。

一累の下にぶら下がる思いの累累だが・・・
3.11の大災害が起こり、福島の原発がやられた時、みんなが、そして自分も、こんな危険な原発など要らない、と思った。今でもそう思うが、安全で安価で、きれいな代替え発電が直ぐ不可能だと分かった時、今まで通り空気を汚す石油でいいのか、当然予想される電気料金の値上げに我慢できるのか、電車は間引きで不便になり、頻繁に起こるだろう停電にも耐えられるのか等々、突きつけられる課題に、ついつい日常性回帰の方を選択してしまう自分に、いらだちを覚えてしまう。
こんな感慨の根っこの部分は、変わりゆくこの写真の風景を見ての思いと共通している。なれてしまった便利性に拒否ができない自分に。

野田から安行に続く台地は代山とか寺山とか山のつく地名が多い。この低い台地も湿地帯から見れば山なのだろう。

撮影は、寺山陸橋の付近から撮影。

追伸、拙い一文、技量のない写真も、多少楽しんでくれる人確認し、励みになります。


伊奈 バラ園

2013-05-10 01:02:21 | 名勝

5月9日 夏日に近く

30分かけて、伊奈町のバラ公園へ行く。バラでいいにか、薔薇がいいのか。
埼玉県一番のバラ公園と聞いていたが。バラの株の本数なのか、園の広さなのか、定かではないが、両方でありそう。

場所 埼玉県北足立郡伊奈町大字小針内宿732-1



歴史としては、新しそうで、町制記念公園の別称もある。新しい園なので、薔薇も若く何年かしたら、相当に迫力ある薔薇園になりそうである。薔薇が咲き誇る今の時期に、当初町制を記念して「バラの集い」としていたが、格上げして「バラ祭り」となった。そして入場料は¥200だそうである。だそうである、といったのは、バラ祭りの期間のことで今日は9日、祭りまで2日前、で無料・・・ありがとう。

伊奈 バラ祭り 5月11日~ 開園

入場料のことで思い出す。
正丸街道とでも呼んでいるのか、秩父への道の途中にあった紅葉の名所は、管理のため、浄財の寄付を御願いしますと書いてあったのを思い出す。もちろん、喜んで受け口に入れて、清々しかったし、紅葉もきれいだった。
東郷公園
東郷平八郎元帥の功績を記念した公園。約1万5千坪におよぶ敷地は、紅葉の季節にはあたり一面が赤い葉で覆われます。

 

      

 

薔薇園だけの見学が寂しければ、伊奈町の名前の由来の伊奈忠次の屋敷跡に寄るのも、いいかも。江戸時代、関東代官頭伊奈忠次は大名格の民政官僚であった。有名な事業は、それまで関東平野に氾濫を繰り返して東京湾に流れ込んでいた利根川を、銚子へ流れを変えさせた(東遷)ことで、立案と実行の名代官の屋敷は伊奈小室丸山にある。
また、シャトル利用者の鉄道好きは、バラ園と鉄道博物館をセットするも良い。


古都鎌倉のこと

2013-05-04 05:21:45 | 時事ニュース

古都鎌倉のこと

2日前に、新聞やTVでかなり話題に上っていた。世界遺産の登録で、富士山が登録で、鎌倉が落選というニュースのことだ。
このニュースが流れる前に、この二つが申請されていたこと自体知らなかった。この二つが、世界遺産にふさわしいのかどうかも、考えたこともなかった。

鎌倉

古都鎌倉だが、平安末期に源頼朝が平家を破って、鎌倉幕府を打ち立てたことに始まる。
その年代は、1192年ではなさそうだ、と最近言われ始めている。
朝廷から政権の実務の認可が1185年に宣下され、ここが鎌倉幕府の始まりだとされる説だ。
頼朝が征夷大将軍に任命された1192年か、実際に年貢などの徴収権を得た1185年か、学者の論議に口を挟をむつもりはない。
鎌倉幕府での源氏の嫡流は頼朝から始まって三代で終わり、この後北条時政、政子が実権を握る。以来北条家の時代は続くのであるが、将軍は傀儡として、最初はやや頼朝に血筋で近い藤原家から二代選ばれ、続いて他の公家から選ばれるようになる。だが背後には、実際の実権をにぎった北条家が、執権となって権力を振るっていた。
・・・と、これが教科書的説明になるわけだが。
地方豪族、とりわけ東国の豪族側から見たら、どうなるのか。
地方豪族の成り立ちは、その多くを荘園や牧の管理者として発生し、租や馬や兵の供給者であり、その貢ぎ先は、朝廷や公家であった。やがて彼らが自立し始めると、一族郎党を護り繁栄させることが任務になり始め、領土の境界線が争いの種になり始める。その理屈を分かりうるものだけが、武士を納得させ、武士(=豪族)の統領になり得る資格を得る訳だ。そして、源三代は亡び、豪族の領土問題を理解し調整できるもの(北条)が、実際に実権を握ったわけである。おそらく、源三代は、お坊ちゃま育ちで、豪族の領土へのこだわりを、あまり深く理解していなかったのだろう。味方するものの数と真剣さが、北条家に劣るのが、その証拠と思える。そして、北条家に味方するものは増えていく。
北条家に早くから味方するものの中に、諏訪一族がいた。諏訪大社に縁を持つ神官の一族である。諏訪一族のものは、武家同士の争いを調停しルールを作っていった。彼らは北条家から信頼されて政務の一部を任されるようになり、やがて御身内(おみうち)となった。字のごとく北条一族と同じに、身内であると認められた存在である。まえに神社も生臭いと書いたことがあるが、諏訪一族も神官でありながら武装化していく。世に、彼らを諏訪神党という。

その後の北条の歴史。
建武のころ。
後醍醐天皇に征伐を命じられた足利尊氏と新田義貞が北条を滅ぼす時、最後の執権北条高時は遺子を諏訪家に頼んだ。その遺子は相模次郎といい、北条時行のことである。北条時行は諏訪家の領域で潜んで成人し、北条家の復権を目指して諏訪神党を率いて中先代の乱を起こして、いったんは勝利したが、やがて追われることとなる。
後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月は短期間で終わり、反目するようになり、尊氏が傀儡の北朝を作ると、後醍醐天皇は吉野に南朝を建てる。新田義貞と尊氏の弟の足利直義は南朝につき、そして北条時行も南朝側に合流する。
建武の新政から南北朝時代は、なんともはや激変で混沌・・・
呉越同舟・・・同じ船に乗りながら、違う夢を見ている
敵の敵は味方・・・なんとまあ、節操のない
この時代のことを司馬遼太郎は「泥沼にはまるようで・」と評して一切小説に書かなかったという。

鎌倉は、確かになぜか懐かしい。そして四季にそれぞれうつくしい。
だが、だれがだれに、何を誇るのだろうか。

蛇足ながら、同じ北条を名乗る一族が、後に発生した。北条早雲を祖とする小田原北条家のことである。紛らわしいので、後の歴史家は、鎌倉幕府の執権の北条家を前北条とか北条得宗家と呼び、後に小田原を拠点とした北条家を後北条とか小田原北条家と呼んで区分けした。

ついでながら・・
東男と京女、と言う言葉がある。東武士は、外に対しては荒ぶる心を持ち、内に対しては一族郎党を護ると言う心構えを持っていたのだろう。東武士は、一族の内部に優しく頼もしく見えたのだろう。当時、王番といって京都や鎌倉の警護をする奉公が、輪番で課せられていたという。京に来た東男は、在来の京男に比べ、いったん仲良くなれば、外見が無骨だが優しかったのだろう。
ついでだが、内に優しく外に荒ぶる東武士の中で、際だったのが、やがて滅ぼされた平将門である。彼は、京への租税や馬や兵の供給までもを拒み、中央からは睨まれた。だが地元では人気があり、英雄であった。
外見は荒ぶれて無骨だけれど内面の家族や一族への優しさへの心意気の質は、個人的に好きである。
だが、
歴史は常に勝者のものである。


コーヒーブレイク

2013-05-03 19:05:15 | 日記

コーヒーブレイク・・・・・


なにかやってて、ちょっとひとやすみ。
そこで、コーヒー

実は、紅茶でも緑茶でもいいのだが、なぜか コーヒー

思い出のなかで、・・まりものこと
松本駅から少しだけ離れて、女鳥羽川沿いにあった気がする。
民芸(調)の家具が店内を飾り、落ち着いた、時間を忘れてしまうような雰囲気が好きだった。
当時、いろりもあったような気がする。
あるとき、「アンアン」か「ノンノン」に、まりもの記事が載った。
それからしばらく喧噪になり、足が遠のいた。
遠のいてから、もう45年ぐらい。

・・ブラームスのこと
お城の脇を平行する道の2,3列目に、細い道にあり、そこにあった。
あまり大きくない喫茶店で、ブラームスばかりの曲がかかっていた。
というのは、思い違いで、ブラームスばかりではなかったかも。
とにかく、居心地が良く、ここでかなり本を読んだ。吉本隆明も此処で読んだ。
彼の本は難解で、未だにほぼ理解していない。
医学部の先輩に会い、連れられて酒場に行き、ウォッカとテキーラを始めて飲んだ記憶がある。
無臭なので水のように飲み、一気に朦朧となった。その頃は酒が全く駄目であった。
友人達は、アミでジャズを聞いていた。

先日、完君に確認したら、ブラームスはすでにない、という。

こんな感じの喫茶店が復活し始めた、らしい。
昔の喫茶店の郷愁派が、少し時間が出来てきて、支持をしているのかもしれない。
僕も、喫茶店復活に、賛成の一票。




藤の牛島

2013-05-01 23:55:25 | 名勝

5月1日 晴れてて、なお寒し

藤の牛島 春日部市牛島783
     
                                         

          

                                     

 


藤シャワー。
どこまで垂れるか。
しかし、入場料は苦い。

口直しに、庄和町の道の駅へ。
買い物、産直野菜 少々。


大宮 氷川神社 &参道

2013-05-01 19:12:31 | 史跡

4月30日 午後

大宮氷川神社の参道に、大鳥居が三つある。

第一の鳥居


             武蔵国一宮、吉敷町これより18町で宮。
         1町が110m(約)だから、約2Kmの距離。30分ぐらいかかる。

      神社までに、町区割りで4・・吉敷町、東町、浅間町、そして神社のある高鼻町。
    やれやれ、大きな神社だこと。

 

第二の鳥居


大宮駅からの参詣者は、この鳥居から入る。祭りの時、出店はここから宮までが主で、補助で大宮公園駅とナックファイブスタジアムのルートにも出店は出る。

 

第三の鳥居。

神社の目前に位置する。この鳥居には屋根がある。



     赤い欄干を渡れば、そこは氷川神社の門。

 

 楼門 

 

 本殿

でも、みんなは、本殿に、御神体がないのは 知っているのだろうか。本殿というのは拝殿のことである。

御神体のあるのは、奥の院と呼ばれる。

縁起を辿れば、日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教えに従って当社へ詣でたところ、立てるようになったという伝説が残されている。このことから本地域を「足立」と称するようになったとされる。大宮が足立であるとは、すぐに納得がいく話ではないが、とにかく古くからあるらしい。世に数多く存在する足立神社はみな此処に由来するらしい。足立神社は安達、足達、安立とも書き、同じものらしい。この話は、永六輔のラジオでの話を記憶していて書いている。ちなみに、永六輔は神主の子であるそうだ。その他の氷川神社の縁起はネットを調べれて参照すればいい。


祭りの時の参道の出店は、両側に並び、それは賑やかだ。出店は屋台ともいう。
それで、出店の歴史を振り返ってみようと思う。

中世の出店の原型

中世は、自給自足が経済の基本であった。その頃は、今の町並みはほとんど無く、街の集積は、秀吉の刀狩りで兵農が分離され、城下に兵が集められ、貨幣経済の発展とともに商業集積が始まり、やがて町として形成されていった。それまでの地方豪族は、おもに山城に住み、その家臣は、通常は農民で事あらば武装して侍になり、豪族の周辺に散在して住み、経済の基本は自給自足であった。だが、日常食料以外の調達は、どのようにしていたのだろうか。小型で軽量の物は、おそらくは行商がいて、それに頼っていたのだろう。しかし、大型で重い物や使用頻度の少ないものは、生産所に直接行っていたのだろうか。農機具や鍋釜や食器やもろもろ、それでは、効率が悪くてしょうがない。
それで、やがて市が立つ。
市が立った場所を想定すれば、人が集まりやすい公共の場になり、神社仏閣の境内や参道が思いつき、そして定着する。。境内と参道を比べれば、参道の方がどうも敷居が低そうだ。この敷居の低い参道の出店は、最初、市として生活必需品からから始まり、街が形成されていき、店(たな)が増えるに従い、扱い品目が替わり、やがてテキ屋の取り仕切るところとなって、現在に繋がる。
こうしてみると、寺の境内に積極的に市を立てて大変に賑わい、経済的にも巨大化して、武士に対抗しうる勢力の成長を、戦国時代の中に例を見る。一向宗である。一向一揆でもある。
一向一揆を解説する文のほとんどが、その宗教的側面と対立する戦国大名との武力的ところのみが強調されてきて、一向宗の目指すところと経済的な基盤に言及したものは意外と少ない。しかし拠点の立地を見てみると、三河にしても、伊勢長島にしても、加賀吉崎にしても、船の物資物流に適する入江をもち、その入江を保護する真宗の寺院が中核になり、その寺院の境内で、領主の侵害を阻止する不入特権に守られた市があった。一向宗の宗徒に水運に携わるものと漁業に携わるものの多さは、特色である。また一向一揆が起こったところの共通項でもあるという。
また、この賑わいに目を付けて、取り入れた戦国武将がいた。市を寺院の境内から解放した、信長の楽市楽座である。そんな訳で、どうも城下町よりも門前街のほうが、商経済の成立の時代は早そうである。

それは、場所の使用権の特権とも結びつく。里山は誰のものかの入り会いと不入の権利と重なり、同様に、神社仏閣と境内や参道は誰のものかの、私有と公共の問題にもつながる。昔・・神社も寺もみんなのものであったようだ。

いまも祭りの出店は、神社仏閣のものでなく、みんなのもので、楽しい。