ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

半化粧 ・・葉が半分白くなって

2014-06-29 10:14:44 | 草・木・花 風に吹かれて

半化粧

半夏生とも、片白草ともいう。ドクダミ科、半多年性落葉。・・・・・・絶滅が懸念されている。

半化粧の群生

半化粧 クローズアップ

花弁が目立たないので、葉を白くして受粉の補助?涙ぐましい自然界の知恵!?

○往きすぎて ふと振り返り 半夏生    ・・庄


 

公園に、ひまわりが 咲き始め です


圏央道 相模原愛川IC~高尾山IC開通

2014-06-28 19:55:28 | 時事ニュース

6月28日(土)15時
圏央道 相模原愛川IC~高尾山IC開通

そして、上尾道路は?

圏央道の上記部分が開通すると、どこに行くのが便利になるのでしょうか。
愛川・高尾山間は、相模原と八王子の間です。

 桶川・北本IC

 高尾山IC

  愛川IC

東名には、海老名JCで繋がります。
億劫な首都高は通過せずに、湘南・伊豆・静岡・愛知へ行けそうです。
湘南へは、まだ多少めんどくさそうです。
厚木経由西湘バイパスで小田原や伊東へは便利になります。


では、大宮から圏央道はどうでしょうか。

上尾道路--

計画は、R17のバイパスで、大宮バイパスの宮前JCTを、上尾道路に分岐して、
桶川・北本ICを通過して、鴻巣の箕田を終点として、R17に合流する道路です。
合流という表現は正しくない。R17とクロスして熊谷バイパスに繋がるという。
機能は、高規格道路。地域高規格道路は2車線以上の車線を確保し、
自動車専用道路の高い規格を有し60km/h以上の高速サービスを提供できる道路として整備される。

現状は、宮前ICから上尾・小敷谷までが、片側一車線・両側二車線で半端に開通しており、
いまだ高規格道路の体裁は無い。

しかし、今日通過してみたら、きれいに草刈りがされ、
道路工事用の車があちこちになにか調べている。
これは、両面四車線化の始まり・・・・・・とみたが・・・
小敷谷から桶川・川田谷まではどうなっているのだろうと思ってみたら、
既に整地は済んでいるようだ。



 

若干遅れた原因は、
桶川・川田谷間に、絶滅危機の鳥類に指定されているオオタカの巣が発見された。
オオタカの営巣地は道路予定地から800mほど離れているものの、
捕食活動などの生活圏が予定地と重なっており、対策に手間取った模様。
どにような対策がなされたかは、、調べても分からず・・・誰か教えて欲しい。

 

それで、結論は、2015年春開通予定。--上尾道路

圏央道 桶川・東北道間までは、2016年完成か?!土地の買収の目途は立ったというが・・・・・・

 


岩槻・久伊豆神社

2014-06-23 16:30:35 | 史跡

岩槻・久伊豆神社


 

手鞠の狛犬   子と親の狛犬

 

拝殿・本殿 改造中なり ・・・ 上部のみ

 

奉納の孔雀 三羽いるのだが ・・・とりあえず二羽

 

枯山水の庭園  ・・神苑

 

鳥居 と 中鳥居・・・ 長い参道を歩くと、たどり着く

社叢は古木がいっぱい・・・ 歴史の重み  岩槻・総鎮守

 

由来の所に、太田道灌の勧請とあります。
元々の神社に、「久伊豆」を勧請したようです。
「久伊豆神社」は当社のほかに岩槻区内に八社あるそうです。

久伊豆神社は、元荒川流域を中心に分布する神社だそうです。祭神は大己貴命。
久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団であるの野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しています。
総本社は加須の玉敷神社・・かっては久伊豆神社の名前であったそうです。

私市党の読み方は、私市・・”きさい”だそうで、
加須と騎西は同地区・・・なにやら、昔の勢力図が目に浮かぶようです。
ちなみに、道灌の太田氏は猪俣党の流れ・・・・・あくまで想像です。

この神社は、名前が「くいず」とも読めることから「クイズ神社」とも呼ばれ、
岩槻久伊豆神社が「史上最大!第11回アメリカ横断ウルトラクイズ」(1987年)の国内第二次予選会場として選ばれ・・・以後、
TVのクイズ番組のプロデューサーは、番組の制作時にお参りをするそうです。

場所は、現在は道路を挟んで隣接していますが、
かっては岩槻城内の一角に位置していたようです。・・・岩槻区宮町

 


ねむの木の花

2014-06-21 11:34:56 | 草・木・花 風に吹かれて

合歓の木の花

・開花時期は、 6/15 ~ 9/ 5頃。7月後半頃は花が途絶えるが、8月になると再び咲き始める。
・日当たりのよいところに生える。夏の夕方に、かわった紅の花を咲かせる。
 花は化粧用の刷毛(はけ)に似ている。 

ネムノキの葉は触っただけでは閉じない。夜になるとゆっくりと自分で閉じる。
それがまるで眠るようなので「眠りの木」、そしてしだいに「ねむの木」に変化していった。
「七夕」の「ネム流し」・・合歓の木の枝と大豆の葉を川の流れに流して邪気をはらう。

別名 ねんねの木、眠りの木、日暮らしの木・・眠りを意味するものがほとんど。

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ ・・万葉集 

*戯奴・・わけ;我、自分 

与謝野晶子風・相聞歌・紀小鹿
夜、合歓の葉が閉じるのを見て、恋心を抱いて寝るのか、添い寝の様子か、は不明だが、かなり奔放な女性みたい

○合歓咲く 七つ下りの 茶菓子売り ・・小林一茶
       
○象潟や 雨に西施が ねぶの花  ・・ 松尾芭蕉 (奥の細道)
*象潟・・きさかた、西施・・せいし・、中国の春秋時代の傾国の美女のこと

 

 


ゆりの花 in 近くの公園

2014-06-21 00:28:41 | 草・木・花 風に吹かれて


ゆりの花


 

ゆりと紫陽花

 

○しさりたり 寄ても見たり ゆりの花  ・・千代女

”しさりたり”は色が褪せることではなく、後ずさる・・ということを教えて貰いました。
”り”の三連のリフレイン・音韻は心地よい音楽性・・・

加賀千代女 は千代尼とも呼ばれ出家されていた?加賀は出身地、白山市。
意外と面白いのは、千代女作と噂の伝承の句・・・味があるというか・・・
○蜻蛉釣り今日は何処まで行ったやら
○起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな


これは本人作と確定している
○しぶかろかしらねど柿の初ちぎり
・・・結婚したての初夜のことらしいけど、かなり面白いですね・・・


○ひとかかえあれど柳は柳かな
・・・本人は太っていたのかも・・ウイットに効いた皮肉屋さん



 

 


真田家 六文銭の旗印

2014-06-17 20:08:50 | 歴史

真田家 六文銭の旗印

真田幸綱は、信玄の軍団の中で、信濃先方衆の頭領的存在であった。
戦国時代にあらわれた幸綱は、武田氏の麾下に属し家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。武田の部将となった幸綱は、地獄・餓鬼・畜生・修羅…のどこの世界へいつでも堕ちる覚悟を決めて「六連銭」を真田氏の家紋としたというのである。

真田家は海野一族で、海野一族は六文銭を家紋にしていた。
海野氏は、滋野氏から分かれたとされる。海野氏、望月氏、祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「九曜」であったと伝えられている。幡の紋とは旗の紋すなわち軍旗に記された紋。

滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であった。「月天七九曜の旗をもって家の旗とした」とする。

戦国時代にあらわれた幸綱は、武田氏の麾下に属し家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。それによれば、武田の部将となった幸綱は、地獄・餓鬼・畜生・修羅…のどこの世界へいつでも堕ちる覚悟を決めて「六連銭」を真田氏の家紋としたというのである。しかし、この由来自体は疑わしい。もっと早くから使われていたことが記録に残る。

滋野氏から受け継いだとされる海野氏の「月輪七九曜」紋は、「星(曜)」と「月」で構成されたものである。海野一族である望月氏の根拠地の中心地は望月であり、望月とは十五夜であり満月を意味した。月を象った円形を七つの組み合わせ、九つの組み合わせにして望月氏を代表する家紋としたのである。

日月紋は、妙見菩薩信仰、三日月待、二十三夜待、二十六夜待などの月祭の信仰ともつながっていたと考えられる。そして、七曜・九曜・十曜などの星紋は、妙見菩薩の信仰から生まれた紋といわれている。

海野氏の場合、「洲浜」「雁金」も家紋として用いた。洲浜は河口にできる砂州からきたが、昔は」鳳来島に凝らせられ目出たい印とされた。洲浜は海野氏一族の氏神である白鳥神社の神紋でもある。また、雁は幸福を運ぶ鳥として用いられ、北信濃に多くみられる家紋である。
・・・白鳥信仰については、谷川健一の白鳥信仰に詳しい。興味深い記述が多いので、許せば、そちらを参考にして欲しい。

”九曜の紋”などの”曜”は星を意味する。妙見信仰は、北斗の星の信仰でもある。
太古の時代から、星は”道しるべ”であった。主に、大陸の遊牧民族の”道標”であった星への信仰は、渡来人によって日本に運ばれてきた。
山野に闊歩する、日本の狩猟族は、素直にこの信仰を受け入れて、道案内に利用してきた。
菅平や志賀高原に、狩猟を生業とする一族は、星を信仰とした。真田氏や海野氏は、菅平の山麓を拠点としていた。六文銭も又、曜の変化形であり、星を意味した。

それにしても、北信濃は、星の家紋の一族が多い。

 

こぼれ話・・・
『真田丸』は、2016年1月より放送される予定の、NHK大河ドラマ第55作]。決定
この話は、松代の観光所・・市内観光の武家屋敷の休憩所の、ボランティアの説明員のおじさんと、真田町の神社近くの農作業していたおじさんから、聞きました。
真田街道の関連11市町村が、「NHK大河ドラマ」へ取り上げて貰うよう運動していたようです。同様の運動は「保科正之公」に関しても、伊那市・長野市・会津若松市が連動して行っているようですが、保科を押さえて、三谷幸喜の「真田丸」に決まったようです。
主役の真田信繁役に堺雅人の起用が、つい先日決まりました。
「保科一族」に関心がある自分としては複雑ですが、再来年は、真田街道は注目されて、混雑するようになるのでしょうね・・・。
それにしても、地元の真田愛、真田ファンは、半端じゃないですね・・・。


 


真田道 ・・松代・真田町・上田

2014-06-16 17:24:13 | 日記

真田道


真田町~地蔵峠~松代の道
この道は、真田信之が徳川二代将軍・秀忠から恐れられて,幹線・中山道の要所から外れた松代へ移封された時の、信之以下の真田主従が松代へ移動した道とされています。

ほとんどが山中で、信号はありません。上田・菅平ICで降りて、このルートで松代へ抜けても、ほぼ高速道路と掛かる時間と差異は出ないそうで、地元の抜け道だそうです。ワインディングロードの苦手な方と冬期凍結の危険があるので、注意を・・・      <途中に、水素水の看板がありました。>

この真田街道(=真田道)は、真田家発祥の真田町へ通じます。

真田町の、真田家の旧跡・・・

目的が、真田家旧跡を尋ねる・・・ではない、所謂帰路のルートなので、「信綱寺」のみに寄ってみます。

信綱寺・山門

信綱寺・本堂

信綱の墓を中央に、左信綱夫人、右弟・昌輝

真田信綱は、真田家当主の時、武田勝頼の長篠の合戦に従軍して、弟とともに戦死。家臣が、信綱の首級等を陣羽織に来るんで持ち帰り、埋葬したとのことです。この寺には、その時の、血染めの陣羽織も保存されているようです。信綱は、武田軍団の中でも豪将として名高く、信濃先方衆の筆頭だったといわれています。信綱亡き後の真田家の跡目は、信綱の子息ではなく、勝頼の命で、弟の昌幸が継ぎました。

戦国時代真田家は、勢力の拡大を本拠地真田と菅平周辺から、上州沼田へ求めました。それは、千曲川沿いに、東北信濃の雄、村上一族がおり、村上一族はなかなかの強敵で、進出を拒まれたのだろうと思います。世に名高い”川中島の合戦”は、実は真田と村上の代理戦争で、真田の盟主・武田信玄と村上の盟主・上杉謙信が戦ったのだそうです。

真田家の第二の拠点・沼田と真田町を繋ぐ道路を、通常真田道(=真田街道)と呼ぶようになったといわれています。この街道は、いまではドライブとして人気の高い”日本ロマンティック街道”とほぼ重なっております。

真田道A
真田町~上田
真田家は、戦国の時代まで、真田町を本拠にして、中心は松尾古城でした。長篠の合戦で、兄・信綱が戦死して跡を継いだ真田昌幸は、千曲川沿いの上田へ進出します。真田家が、上田城主であった時代は、従って昌幸が関ヶ原の合戦時に西軍に属した時代と信之が昌幸を継いで、松代へ移封されるまでの間、です。そんなに長くないのに何故か上田は、真田家の町として現代に続いています。

真田道B
真田町~鳥居峠~万騎峠~

真田道C
岩櫃城~中之条~
中之条の先から、渋川へ抜ける道と沼田へ抜ける道が分岐します
真田道は、当然沼田方面への道。

真田道D
~赤根峠~沼田
沼田は、真田家の分領・飛び地があり、城は沼田城です。
沼田支城に名胡桃城(なぐるみじょう)があります。
この二つの城と小田原北条家と真田家の確執は、やがて秀吉の小田原征伐の役へ発展します。

自分の今回の帰路は、松代からの真田道で真田町へ、真田町で、R144(=上田・菅平街道)に通り、上田・菅平ICで高速に入ります。・・・時間が許す時は、浅間山麓を走る、浅間サンルートは、信号の少ない風光明媚な、快適な広域農業道路で、軽井沢追分の堀辰雄記念館の手前で、R18(=旧道)に合流して、軽井沢に行きます


真田氏の町 ・・・松代

2014-06-15 18:39:34 | 日記

真田氏の町 ・・・松代

松代城

城門

城内庭園

裏門建物

真田氏の住居

真田家・宝物殿の裏側

 

真田家家臣の屋敷

 

鬼瓦の六文銭

 

松代 ・・こぼれ話

真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は譜代大名待遇であった。理由として、八代藩主真田幸貫が八代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女・・本多忠勝の実娘・・であること等の理由による。
*信之の父・昌幸と弟・幸村は、反徳川として有名。関ヶ原の戦いの時、真田昌幸は、どちらが勝っても、家系が存続するように、兄弟を徳川方と豊臣方に分けたという。
*松代は、今でこそ千曲川の氾濫はないが、真田家統治時代には、度々氾濫で藩財政が困窮したといわれる。真田藩の財政再建を託された、恩田木工の手法は、現在研究されて、評価が高い。恩田に登用された佐久間象山は、改革があまりに急進的すぎて京都で暗殺される。象山の名は、象山の生家の背後の山の象山から付けた号で、この山に”地震研究所”がある。

参考:『日暮硯』

『日暮硯』は、真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親の業績を記したものである。

江戸時代、『日暮硯』は、改革の成功物語とし写本が流布し、武士や庶民に愛読された。
まさに、藩政改革のマニュアルと呼べるものなのである。

 恩田家は、松代藩の家老の家柄。木工も宝暦四年(1754)、三十代後半の若さで家老職に。この時期の松代藩は、課役や水害など天災で莫大な出費があり、土地も荒廃していた。

このため藩主・真田信安は、藩政改革を断行しょうとしたが、領民や足軽たちの強い抵抗を受けて失脚、改革は無残な失敗に。結果、幕府に莫大な借金をして、松代藩は完全に破産状態に陥った。そこで、藩主・幸弘は、恩田木工を抜擢し、彼に藩政改革を命じる。

木工はまず、大きな2つの決断を下した。

・・「ウソをつかないこと」「いったん命じたことは、決して撤回しないこと」。この2つを貫徹するために命を捨てる覚悟を決め、改革の足手まといの家族や家来を義絶しようとした。
改革にあたって木工は、諸役人と領民すべてに自分の政策を事細かに説明し、彼らの同意を取りつけている。木工が大切にしたのは「信」であった。自分に対する信頼がなければ、人々はついてこないと考えたのだ。同時に自分は粗食に甘んじ、その身を強く律したのだった。
木工の改革は異例であった。一切増税はせず、逆に農民への諸役を廃止し、「今後は年貢の先約や上納金は求めない」と約束、「役人に対する不満を書面にしたためて差し出せ」と申し渡したのである。農民たちは狂喜し、瞬時に改革に協力させる体制をつくり上げることに成功したのだった。
さらに驚くべきは、不正を告発され戦々恐々の悪徳役人たちを自分の同志とした。罪を許されて感謝した彼らは、以後、木工の忠実な手足になり改革に尽力していくことになる。

 ・・いかにすれば部下は動き、仕事が成功するのか――。江戸時代記録でありながら、この本はそうした教訓が数多く含まれている。日暮硯は木工の説話・事跡集。

蛇足・・日暮硯は奈良本辰也の解説が一番読みやすい。


 


小布施&岩松院

2014-06-15 18:16:40 | 日記

長野道のPA・小布施に入り、下ると「道の駅・オアシスおぶせ」に合流する。ETC車は、ここから出入りできる。

この道の駅は、レストランや美術館を併設していて、かなり美観に気を遣い、公園化している。

 

道の駅・オアシスおぶせ の園内の様子

もう、花の時期が終わっている”山法師”や”さつき”は満開状態・・・、北信濃はまだ夏日には届かないのか・・・

気温の差が、確実に認識できる。

 

公園を散策したあと、岩松院へ

ここでは、戦国武将”福島正則”の墓と一茶の”かえる池”を見る。

正則の廟所

かえる池

かえる合戦
 ○ 痩せガエル 負けるな 一茶ここにあり  ・・一茶

 

小布施は「栗と北斎と花のまち」と言われ、町内には北斎館を中心に美術館や博物館、岩松院等の見所、

栗の方は・・・

栗の和菓子屋・竹風堂、洋菓子では桜井甘精堂・・紅茶とケーキなど、とか”甘党”には垂涎の絶品が・・・栗は”マロン**”とか!。

 

美術館の方は・・・

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○北斎館・・・小布施で描かれた肉筆画、画稿、書簡などを展示しています。----------------
○おぶせミュージアム・中島千波館・・・小布施出身の日本画家、中島千波の作品展示。------

○高井鴻山記念館・・・北斎を小布施に招いた高井鴻山にまつわる資料、作品群が集積。-----
○日本のあかり博物館・・・あかりの歴史。日本のあかりの始まりから電灯が灯るまで。--------
○急須コレクション茶俚庵・・・土蔵を改造して、約150点ほどの急須コレクションが展示。-----
----人間国宝の三代山田常山や、幕末の青木木米の南蛮写しの急須なども!------------
○古陶磁コレクション「了庵」・・・中原了さんが収集した古伊万里や古陶磁が展示。----------
----挽きたてのコーヒーのいただける喫茶室もあり。----------------------------------
○小さな栗の木美術館・・・洲之内徹氏との親交から生まれた個性派コレクション------------
----秀逸の絵画が心に残る美術館。-----------------------------------------------
○おぶせ藤岡牧夫美術館・グレイスフル芸術館・・・雁田山の麓にたたずむ美術館。---------
----北信濃の風景・・ 心がほっとする、どこか懐かしい絵画に包まれます。----------------
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今日は忙しいので割愛・・・

菓子と北斎の天井画と下の二つの美術館は心残り・・・