ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

川の記憶 ・・・砂鉄の痕跡を求めて ( 続き)

2014-09-29 23:09:38 | 歴史

承前
「2014-09-25 20:47:19 | 歴史 赤尾(・坂戸市) ・・・地名の裏を覗くと ・・
越辺川の”曼珠沙華”を見に来て、”赤尾"の地名が気にかかった。
天神橋を渡ると、坂戸市赤尾になる、その”赤尾”のことである。天神橋から越辺川のやや上流の坂戸側に、「金山彦神社」がある。 ・・・
 ・・・坂戸市の市内循環のバス停に「赤尾金山」とある。「金山彦神社」がある地域だ。「赤尾金山」と「金山彦神社」と「赤尾」と重なると、砂鉄と「たたら」の影を追いかけたくなる。」

第二章 :川の記憶 ・・砂鉄の痕跡を求めて

・一旦、高麗川を離れて、入間川 ・・・


写真・入間川風景


写真・川口金山神社


入間川は、中世まで、越辺川を合流し、市野川を合流して、今の大宮・片柳、そして浦和・三室まで剔って流れ、川口・金山を経て荒川と合流していたという記録が残る。この川口・金山は、良質の砂鉄の集積河床を持ち、秩父平氏の支族の古族・河越氏が集団で移住した地域であるという伝承が残るという。いまでも、古族・河越氏たちが崇めた金山神社は、移転・合祀されて、”川口神社”に鎮座していて、川口鋳物師達の”拠り所”となっているらしい。勿論、金山神社の祭神は、"金山彦”です。

さて、入間川だが、上流を名栗川という。同じ川だが、上流と下流が名前を違えるという。
この例は、県境で名前が変わる、信濃川と千曲川という例があるが、そんなに多くの類似を見るわけではない。現在では、入間川と名栗川の名称変化の地点は、飯能市内の飯能河原の先、岩根橋であると言われるが、古来はもっと下流の、加治の阿須の落合辺りであったらしい。しかし、入間川については、名称の境界点がいい加減に扱われていて、地図上でも、岩根橋上流も、入間川と表記されている事例がかなり多い。
阿須は飯能市阿須の地籍になるが、なにやら鉱山と関係が深い。いまでも、現役の炭鉱が稼働している珍しい地域である。このことは意外に知られていない。入間川沿岸部、阿須に「あけぼの子どもの森公園」があるが、隣接して、亜炭の炭鉱・”日豊鉱業武蔵野炭鉱”がそこにある。そして、現役で石炭を生産しているそうです。


写真・入間川・割岩橋


 

写真・入間川・阿須・「子どもの森公園」

さて、砂鉄ですが、鉄の権威といわれる窪田蔵郎氏は、入間川上流の加治丘陵を形成する豊岡礫(れき)層に良質の砂鉄あり、その総鉄量は鎌倉砂鉄の約二倍あると発表しています。豊岡礫層は、第四紀白亜期の地層であり、通常は地中深くに埋蔵されています。河川の流水に削られなければ、地表に現れることもないのですが、入間川が谷を作りながら沿岸を削ります。どうも、入間川が、砂鉄の川と言われるのは、ここの砂鉄が主要因のようです。
また、加治丘陵の西側を小畔川が流れます。この川の水源は、一つは日高・宮沢湖で、もう一つは加治丘陵です。そうであるなら、小畔川もまた砂鉄の川の可能性が高い。小畦川が、第四紀地層まで堀り起こして流したかどうかは、定かではないが ・・・。


写真・小畦川

中世飯能地区を収めた領主は、武蔵七党の一つ、丹党の氏族と言われています。丹党は、秩父平氏の末裔で、小豪族まで含めると45の氏族、主なところでも、丹氏、新里氏、榛沢氏、安保氏、長浜氏、勅使河原氏、中村氏、中山氏、大関氏、加治氏、横瀬氏、薄氏、小鹿野氏、大河原氏などがあります。その中で、飯能に、事跡を残しているのは、中山氏と加治氏が明らかで、飯能の各所に履歴の残し、源平合戦の折には、当初平家側に属しながら、すぐに頼朝に靡き、鎌倉御家人になっています。その政治的な身の振り方は、任せるとして ・・・。
丹党は、その名の通り、”丹”の採取を目的とする、鉱山主一族です。"丹”は”辰砂"(=水銀)のことで、”武”族となった後は、”丹”採鉱の修験者たちの頭目、元締めであったようです。”丹"の利用は、水銀としてよりも、顔料であったらしい。このことは、他の鉱物、鉄や金の鉱床の見分け方や採掘の方法、選鉱の方法、錬金、たたらの方法などを熟知していた可能性は高いと思われます。

 

写真・中山氏・能仁寺

 

写真・加治氏・円照寺

加治氏や中山氏や同族と思われる名栗氏が勢力としていた名栗地方には、赤工(アカタクミ)、赤沢など鉄に関係したような地名があります。神社や寺も、金錫寺、星宮神社(妙見信仰)、白髭神社、金亀館、八坂神社、金蔵寺などなど。特に有馬山に「たたらの頭」という峰があります。この”たたら"の言葉は、製鉄以外に見いだせないので、鉄製造の言葉として意味を持ちます。
さらに、名栗地方には、鉱山の採掘跡と思われる”穴”が各所で見つけられます。
有馬山は森林の山で、恐らくたたらに使ったであろう炭のための伐採で、禿げ山になったという伝承が残ります。
しかし、何れの痕跡も、"砂鉄”の痕跡を示しません。状況証拠ばかりです。鉱山跡の採掘の穴も、銅や金や、あるいは辰砂(=水銀)の採掘跡かも知れません。金や銅の精製にも、火が必要であります。

たたらの炉は何故か、発見が難しいようです。

”たたら”の遺跡については、伊奈町小室の「がんセンター」敷地内から発見された「大山遺跡」を見る機会がありました。現在は、発掘の跡、埋め直されて標識すらありません。しかし、大宮氷川神社内の「県立歴史博物館」に模型が展示されています。
実際見ての感想は、”たたら”は”意外と小さいものなのだ”ということです。製鉄炉は、内径66cmとあります。外形でも1m平方ぐらい。鍛冶工房は、製鉄炉の2~3倍ぐらいでしょうか。県内一の規模というのは、その炉が十数炉かたまってある、数の多さからです。燃料は、主として”サイカチ”という木を薪炭用として用いたとされています。


 ・・・ 参考:大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

 


  参考:01/18/14--08:26: 大山遺跡 ・・・昔の製鉄所跡 in伊奈町 背後の建物は「上尾・がんセンター」

あの時の結論は、大山遺跡の脇を流れる「原市沼」/「原市川」が優良な砂鉄河床を持っていたのではないか、という推論でした。この付近に綾瀬川が流れており、綾瀬川の乱流・支流が原市川であった、と納得していました。歴史好きの人は既知のことですが、綾瀬川は、元荒川の分流の川です。

「たたらの炉は何故か、発見が難しい」 ・・・の理由が分かったような気がします。


写真・たたら製鉄炉


写真・鍛冶工房

たたらの炉は、粘土質で作られます。そして、製鉄炉自体は大きくない。鍛冶工房も、それほど大きくない。従って、玉鋼で作る刀鍛冶でなく、農具を作る農具鍛冶は、炉の温度を1400°Cまで高温にする必要が無い。そうすると、「たたら」は、大規模な製鉄施設を必要としなかった可能性があります。 ・・・大規模農家の敷地内に、「たたら」を設置して炭を焚いて農具を作る、という日常的な風景が仮設されます。
どうも、思い込みで、「たたら」の規模を過大化していたのではないかと ・・・。
従って、たたらの必要性が無くなれば、無用となった「たたら」は、崩されて、一般の農家の庭に戻ります。これで、小規模の”たたら”の発見は困難になりました。


写真・たたら模型 in 県立歴史博物館

ここで、高麗川に戻ります。
高麗川の下流部は、入間川、小畦川とほぼ並行に流れます。加治(鍛冶)丘陵という、地下に第四紀の豊岡地層と隣接の地帯を流れます。その地層から、、砂鉄を削り採って下流に流しているかどうかは、定かではありません。上流は、名栗川と平行に流れます。
名栗川の赤沢や赤工のある山の反対側を、高麗川が流れているのです。同じ山ですから、、山の岩石の組成は、ほぼ同じと見ていいでしょう。

 

写真・多峯主山

 

写真・日和田山


多峯主山(トウノスヤマ)にも鉱山があるそうです。日和田山にも、大宮鉱山がありました。
武蔵丘陵の最高峰・伊豆ケ岳の岩盤チャートは茶褐色で、鉄鉱石であることが確認されています。

 

 
写真・伊豆ケ岳・岩石チャート


写真・鉄のわらじ in天龍寺(子の権現)


面白いことに、伊豆ケ岳から近い”子の権現”に、「二トンもある世界一の鉄のわらじ」があります。 ・・・これは、鉄鉱山と関係ないのかも知れません。

飯能地区を中心に、現役鉱山は ・・・
○亜炭鉱山、○石灰鉱山、○マンガン鉱山だそうです。
砂鉄、並びに鉄鉱石は、採算が合わないので、採掘しないそうです。
同様に、金や銅も、あることは確認出来るが、採算上採掘しないそうです。 

坂戸の越辺川の砂鉄の出所は、これでどうにか分かりました。砂鉄は、花崗岩が風化して、組成分解してできるので、量を別にすれば何処にでもありそうです。秩父山系や武蔵丘陵は、色々の鉱物の宝庫でもあるようです。                          

                      ・・・完


赤尾(・坂戸市) ・・・地名の裏を覗くと ・・

2014-09-25 20:47:19 | 歴史

赤尾(・坂戸市) ・・・地名の裏を覗くと ・・

越辺川の”曼珠沙華”を見に来て、”赤尾"の地名が気にかかった。
天神橋を渡ると、坂戸市赤尾になる、その”赤尾”のことである。天神橋から越辺川のやや上流の坂戸側に、「金山彦神社」がある。

金山彦神社

越辺川・天神橋付近の彼岸花

 

さて、赤尾であるが、”赤”を冠に持つ地名や川や沼は、古来砂鉄に関連しているという。恐らく、鉄が酸化すると酸化鉄として赤くなることに由来すると言う。所謂”赤さび”のことだ。この地名の付近から、実際「たたら」が発見されることは希だが、古来から砂鉄に関する伝承は多い。

この越辺川・坂戸市側は、赤尾、島田地区と呼ばれる。交通網は、少し不便で、川越、東松山、若葉へのバスのアクセスルートを持つ。その中で東武線・若葉駅が最も短距離のようだ。バスは、天神橋を渡って、川島・八幡団地と東武線・若葉駅を繋いでいるらしい。

坂戸市の市内循環のバス停に「赤尾金山」とある。「金山彦神社」がある地域だ。「赤尾金山」と「金山彦神社」と「赤尾」と重なると、砂鉄と「たたら」の影を追いかけたくなる。

バス停・「赤尾金山」


 
「金山彦神社」の祭神は、勿論”金山彦”だが、さらに”天目一箇命”もある。

”天目一箇命” の碑


谷川健一氏の「青銅の神の足跡」では、 ・・・天目一箇命は、製鉄・青銅に従事している人が信仰する神だと説明されている。製鉄では、溶かした鉄の温度を、湯の色で判断するが、昔はそれを肉眼でやっていたために、目をやられて片目になる人が多かった。そこから、この神が生まれたのではないかと ・・・

 

金山彦神社・額と社

金山彦神社があり、金山彦命は鍛冶、鋳鉄、金属技工の神。それに、バス停「赤尾金山」。

 

付近の寺:成就院        赤尾弾正 て地名?人名?

 

越辺川沿いの 天神社と東蔵寺(=天神社の別当寺)

昔、赤尾落合橋があったが、今は流失して無い ・・・

 

「坂戸風土記15号」添付の古地図に、 ・・・鍛治屋敷、カネ山、カネイ塚の地名がある。赤尾金山の南1kmの地名「別所」で金くそが出たとも。

ここからは推論 ・・・

○「金山彦神社」は、砂鉄の採砂場近くの「貯砂場」ではないのか。その跡地が、神社になった。
○この赤尾地区に、「たたら」は無理ではないだろうか。「たたら」製鉄に必要な燃料の供給源が見えてこないのだ。つまり豊富な木材の有する森林山岳が近くにないのだ。
少し足を運べば、比企丘陵に、有数な「古代窯跡」があるが、瓦や須恵器の焼き物は、基本は「登り窯」で階段状に焼き入れの物を置いて、下から火力を吹き入れる。「たたら」は炭の上に砂鉄を置き、鉄を作る。「たたら」の方が高温を必要として、燃料も莫大に費やす。炉の形も違うが、粘土質であれば、「たたら」用に転用は可能だ。
若干低温だと、玉鋼までは無理として、農具の生産は可能だったのではないだろうか。
 ・・・ しかし、比企丘陵の「古代窯跡」が「たたら」であった痕跡は見つからない。

○砂鉄が豊富な川は、越辺川。越辺川の源流は、越生の背景山岳(=奥武蔵)。 ・・・本当だろうか。 ・・・越辺川は、いくつかの支流を合流している。都幾川や高麗川など ・・・
 ・・・ 砂鉄は、都幾川と越辺川のどちらから来たのでしょうか。赤尾金山から、少し上流に、都幾川と越辺川の合流の落合があります。都幾川上流を辿ってみても、慈光寺辺りまで、砂鉄の痕跡はありません。「金山彦神社」は越辺川西岸に位置しています。かなり薄い根拠で、砂鉄は越辺川上流ではないかと当たりを付けます。しかし、越辺川にも砂鉄の痕跡はありません。怪しいところはあるのですが。 ・・・ すると、高麗川か。
○高麗川は、坂戸市内の坂戸高校辺りで、越辺川と合流します。上流は日高市。高麗神社の脇を貫流します。ここに、鉱山があったはず。
 ・・・ 次回は高麗川の源流の山岳の鉄の鉱石を辿ってみます


曼珠沙華 in 見沼用水路東縁・脇道

2014-09-23 22:38:51 | 名勝


曼珠沙華 in 見沼用水路東縁・脇道


お彼岸の日 <はらみつのみち> を散策 ・・・


Pāramitā road  波羅蜜の道 <はらみつのみち>

ここは見沼用水路・東縁の見沼自然公園からの道路、
<はらみつのみち>は、去年、”勝手に”名付けました。

去年のブログ: 曼珠沙華が道筋を飾る散歩道 ・・・見沼田圃にて


今年は、公園から”風渡野”への”道すがら”です。

   

曼珠沙華とすすき ・・・もう、秋


江戸時代、見沼を開拓した「井沢弥惣兵衛」という人が、
開拓の成功を祈願して、見沼の沼のほとりに、弁財天を七つ作りました。

弁財天


木にのぼる ”にわとり”、 ・・・珍しい

弁財天の脇の木立と鶏


参考: Pāramitā road 波羅蜜の道 <<般若波羅蜜多
 ・・直訳すれば、般若は智恵とか真理で、波羅蜜多は彼岸に至る、あるいは究極の悟りの境地にたどり着く>>

 


 


曼珠沙華 in 越辺川沿い

2014-09-20 15:09:07 | 名勝

曼珠沙華 in 越辺川沿い

彼岸の入り ・・・ 
この季節に、似つかわしい花 ・・・ ”曼珠沙華”

この”曼珠沙華”群落を見つけたのは、去年 ・・
川島町の、”白鳥飛来地”の上流にあたります。

白鳥飛来地の"駐車場”付近の堰堤・

 

白鳥を含めて、越辺川の風景が好きで、時折訪れます。
特に、昔の風景を醸し出す”冠水橋”が連続しています。

冠水橋 ・・・ 八幡橋、落合橋、島田橋 ・・・

 八幡橋 ・・白鳥飛来地付近

 落合橋 ・・川の合流を指す言葉。都幾川が越辺川に合流。橋は落合より上流。

越辺川と都幾川の合流地点・落合


  赤尾落合橋 ・・越辺川を跨ぎます。

おや!橋桁だけ! 赤尾落合橋の残骸 ・・流失・無残


  長楽落合橋 ・・都幾川を跨ぎます。

あれれ! 長楽落合橋 ・・流失して、跡形もありません


   昔、赤尾と長楽は、道続きで繋がっていました。
   
*散歩の人、三人に「落合橋」の所在を尋ねたら、三人同様に、川越街道の落合橋を教えてくれました。
まあ、そちらも越辺川と入間川の合流地点の橋ですが ・・・

 島田橋 ・・TVや映画のロケ地 今年6月の豪雨で流失 ・・
  うれしい知らせ 日本経済新聞  映画の木橋、復旧へ 埼玉の有名ロケ地、大雨で流失 

クイックで、記事の内容が読めます


曼珠沙華の群落地


 ・・・ 八幡橋と落合橋の間 ・・特に天神橋と落合橋の間 ・・水道橋を挟んで の堰堤

水道橋付近 ・・曼珠沙華は、堰堤の両側、水道橋を中心に前後2,3Km ・・・

 


川口自然公園

2014-09-18 22:51:04 | 日記

川口自然公園

野鳥と蝶の保護地区

蝶の保護地区にもなっています。 ・・・蝶は見かけませんでした・・・

公園内の 木の実  ・・・もう秋です


公園内の池 or 沼?

子供が、ザリガニを釣っていたようです 


ここも、見沼用水東縁水路 沿い  曼珠沙華が咲き始めています。

場所は、東浦和駅と東川口駅の中間 ・・・武蔵野線の線路脇  浦和通船堀から1.5Kmぐらい

曼珠沙華が咲くと、季節が変わります ・・・




長田神社 in 長野

2014-09-16 11:42:30 | 建造物

長田神社 in 長野

長田神社・本殿

長田神社・拝殿

 ・・「長田神社の建つ長野市若穂川田地区は、伊勢神宮の御厨の地域となっていたという。
そのため、社殿も伊勢神宮の祭神を祭り、建築様式も神明造を用いている。
地区の集落の中に建ち、参道は川を跨いで約500mほど続く。
参道の両脇は欅並木が続き、参道の長さと、並木の様子から厚く信仰を集め、隆盛を極めた様子が伝えられている。
本殿は、拝殿の背後に建つ覆屋の中に納められた三間社の神明造。
長田神社 覆屋自体も棟持柱、千木などが設けられている。」
 ・・ ”おみやさん.com”より引用。

 

石碑の刻印に 藤原某 が二基

意味不明の石

*御厨 ・・・みくりや。伊勢神宮の台所が本来の意味で、伊勢神宮の荘園のこと。
*祭神 ・・・天照皇大神、豊受大神のこと。農耕の神様と言われる。全国の農村にある神明社も同じ。
*三間社 ・・・神社の建築様式で、桁行(正面)の柱間が3間(柱が4本)であれば三間社流造という。
*神明造 ・・・神社の建築様式で、神明造は奥行きより幅が大きく、高床式倉庫から発展し穀物の代わりに神宝を納めるように変化した。
*棟持柱 ・・・棟木を直接支える柱。
*千木 ・・・ちぎ。千木は屋根の両端で交叉させた部材のこと。屋根の角にも見える。

一の鳥居 ・・・ この一の鳥居の付近を大門という、川田大門。長田神社創建から後に付けられた地名と思われる。

一の鳥居・笠鳥居


ここから本殿までが、約500mの長い参道となる。参道の途中に保科川が流れ、参道橋を渡って参道が続く。
参道の両脇は、ケヤキの古木の大木が並木を作る。その様は、雄大にして荘厳。樹高:25m、目通り幹囲:6.5mが林立。

長田神社の参道 大欅

住所:長野市若穂川田川田1047-2


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信州の御厨 

御厨 

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)
会田御厨(筑摩郡)
*藤長御厨

○芳美御厨(高井郡) ・・ハミミクリヤ
・・・ 平安期に見える御厨名高井郡のうち「中右記」長承元年11月4日条に,饗庭御厨・長田御厨などとともに「芳美御厨事」として「件所無指本券,本領主源家輔負物之代譲而,禰宜常季許之,国司国房為行二代雖奉免,其後久為公卿勤仕国役,仍不可為御厨歟,可停止御厨」と見える「尊卑分脈」によれば,清和源氏頼季流の井上満実の第7子に芳美重光がある。所在地は不明であるが,井上氏が高井郡井上にいたため,現在の須坂市井上近辺とする説が有力である。

・・・ 須坂市井上近辺
・・・ 「芳美御厨事」によれば、この領は源家輔の時に、税の代わりに土地が奉納されて、禰宜・常季許之と国司・国房為行の二代勤仕国役を放免されたが、その後久為が国役を勤仕したので、(御厨の条件を充たさなくなったので)御厨を外した。・・・御厨の期間は短かったと思われる。
・・・ この地の豪族は、清和源氏頼季流の井上氏で、一族の中に、芳美(重光)を名乗った者もいる。
・・・ 勧請した神社に、春日神社らしきものは特定できず。

○保科御厨(高井郡) ・・長田御厨ともいう。
・・・ 長承三年(1134)、長田御厨が定められ、保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。長田御厨の長田は他田に通じるもので、そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。その後、南北朝時代まで長田(保科)御厨の名が、歴史書に散見される。
・・・  星名は保科と書くことが多いが、千曲川支流の保科川流域、『和名抄』の信濃国高井郡穂科郷(現在の長野市東北部の大字若穂保科)、後の保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流。その活動は平安末期頃から見え、『源平盛衰記』に星名党と見えて、井上九郎のもとにあり、『東鑑』に保科太郎、保科次郎、『承久記』に星名次郎と出てきます。
・・・ 長野市若穂保科一帯。
・・・ 平家物語』第六巻によると、1182年9月、朝日将軍といわれた木曾義仲(1154~84)の家臣で、「保科党を率いる井上九郎光盛と、保科(星名党)の三百騎は、義仲に組して参陣し、千曲川西岸の横田河原に陣を構える越後の城四郎長茂以下に挑んで ・・・」 それにしても、当時の三百騎は、保科一族の勢力を誇示しています。さらに、須坂の井上一族との運命共同体的関係も覗わせます。・・・ この後、井上光盛は、木曾義仲の上洛には参加せず、甲斐の一条忠頼(武田信玄の祖の系譜)と謀って、鎌倉幕府に反抗して、頼朝に誅せられたようです。井上光盛と行動を伴にしていた保科太郎も咎められたが、何故か許されて、鎌倉御家人になっています。
・・・ 長田神社 ・住所:長野市若穂川田川田1047-2。長野市の南東部、欅の参道が500mもある長田神社は、900年余の歴史を持ち、伊勢神宮の分神で衣食住守るといわれる豊受大神が祭られている。
・・・ 長田神社は、長田(保科)御厨が伊勢神宮に寄進された後勧請されたと思われるが、それを記す資料を見いだせない。

○布施御厨(更級郡)
長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。
・・・ 11世紀後半に伊勢神宮造営のために役夫工米(やぶくまい)が全国一律に賦課されたが、その負担が払えず土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になる地域が発生した。
・・・ 伊勢神宮の所領となった荘園を御厨といい、川中島一帯に布施御厨・富部(とべ)御厨、井上一帯に芳実(はみ)御厨、綿内・保科一帯に長田御厨、千曲川流域に村上御厨などが設定された。
・・・ 布施御厨皇大神社・小松原伊勢社
・・・ 布施御厨の荘官が、平家側・城四郎長茂に属していたため、木曾義仲と井上九郎の軍勢に攻撃され、以後御厨の機能を果たさなくなったと思われます。・・横田河原の合戦。
・・・ 国道・R18の川中島・御厨交差点付近。近在に、富部御厨もあります。

○富部御厨(更級郡) ・・富部・トベ
長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨の中心地。
・・・ 成立は、布施御厨と同じです。
・・・ 富部御厨一帯は富部氏が領する。富部三郎家俊は、平氏の城資職に属し、横田河原で木曽義仲軍の 武将西広助と一騎打ちのすえ討ち取られている。しかし、戸部(富部)一族は、鎌倉御家人として生き残り、のちに村上一族に合力して、武田に追われた時、村上と伴に上杉へ落ち、さらに上杉とともに米沢へ移っている。
・・・ 戸部伊勢神社 ・川中島町御厨にあります。
・・・ 「おたや」とはお田屋、またはお旅館などと言い、伊勢神宮の御師といわれた神職が地方へ神徳宣布に出た時の拠点とした宿舎のことで、御師は特定の信者と師壇関係を結び大麻札を配布し祈祷を行った。御厨の北にも「おたや」という地名が残っている。

○村上御厨(更級郡)
村上御厨は倭名類聚鈔に記載されている村上郷で、鳥羽天皇の皇后高陽院領の判官代村上氏が、在地領主として本家の衰勢を読み押領し、自侭に支配地を領有するため、支配が甘い伊勢神宮の内宮に自ら寄進し、それが受け入れられたとみる。 ・・・神鳳抄には、敢て『小所』と注記している、その田積のほどが知られる。村上御厨は旧村上、力石、上山田を含む、この地域に散在していたようだ。
・・・ 村上御厨神社 ・・神鳳抄に村上御厨小所とあり、上古伊勢神宮御拝地なれば、神明宮の鎮座も上右なれど書類散逸して鎮座の年月は不詳なり。境内に周圏二丈九尺五条の老槻ありしが寛永年間枯二舎を造築す。その他丈余の老樹ありて鎮座の古きを物語る。
・・・ 御厨としての記録がほとんど無い。村上一族の押領の方便の可能性が高い。

○仁科御厨(安曇郡)
大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。
・・・ ”安曇歴史年表”から「永承五年(1051)頃、仁科御厨成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり、現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
・・・ 『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。
・・・ 仁科神明宮は、大町市大字社字宮本にある神社。杉の古木がうっそうと繁る宮山の南麗に鎮座し、東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に建つ神社である。
・・・ 本殿(国宝)、所在地:大町市大字社宮本1159、主祭神:天照皇太神
・・・ 創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり?

矢原御厨(安曇郡)
安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。
・・・ 『神鳳鈔』・(建久四年)、「内八 矢原御厨 千八百九十一町」とあって伊勢神宮領であることがわかる。
・・・ 矢原神明宮:安曇野の田んぼの中の一集落内に鎮座する。毎年5月7日、伊勢神宮より神宮二名、山葵豊作祈願奉仕。

麻績御厨(筑摩郡)
麻績村は、長野県東筑摩郡の村。文治二年(1186)、吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。
・・・ 麻績城の城主は鎌倉期、麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)とされ、応永七年(1400)に勃発した「大塔合戦」には村上氏の与力として麻績山城を守城した。
・・・ 麻績神明宮 :平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社。 本殿、拝殿を始め五棟の建物が国重要文化財に指定。 境内には樹齢八百年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定。

会田御厨(筑摩郡)
・・・ 会田は松本市(旧四賀村)の地区を指します。
会田御厨については会田、苅屋原、明科、塔原、田沢の五カ条からなり、広く犀川右岸までが領域だったと推定されます ..神社の所領は七十町歩を有した。
・・・ 会田神明宮、信濃国内宮八ヵ御領の一つ。天武天皇の二年に勧請をして、信濃国内宮八カ御領の一として祀られていた。会田四組三十九ヵ村の総社であった。

藤長御厨

「信濃国……藤長御厨〈二宮〉」とあり,供祭物は「内宮方,上分布五十端,長日御幣䉼日別代布二丈,外宮方,同前,件長日御幣代布近年不究済之」とある(皇太神宮建久已下古文書)「神鳳鈔」には同じ内容のほか「三百四十五町」とあって矢原御厨に次いで広く,上分も長田御厨に次いで多かった。木曾義仲の横田河原の合戦の主戦場。
・・・ 場所:千曲川の北岸横田一帯/地域の伝承では長野市篠ノ井横田富士宮。
・・・ 更級横田神社 住所:鎮座地 長野市篠ノ井横田303 祭神:天照大御神 由緒:建立は不詳。御厨神明宮と称されていた。

以上が信州で歴史書に確認出来る御厨です。
歴史書は、「大鏡」、群書類従・「神鳳鈔」。他は調べていません。

御厨の域内に、ほぼ例外が無く、伊勢神社系列の神明系の神社が確認出来ます。

この中で、芳美御厨、布施御厨、富部御厨、村上御厨、*藤長御厨は、御厨であった時期が比較的短かったであろうことが、歴史書に登場する機会で読み取れます。中には、地名すら確認が難しいものもあります。
この御厨から、中世に武士団が発生し、後に豪族と成長したものも現れます。
芳美御厨からは井上一族、保科御厨からは保科一族、富部御厨からは戸部一族、村上御厨からは村上一族、仁科御厨からは仁科一族が武士団として成長しました。
北信濃のこれらの一族は、基本的には、御厨を"押領”しながら成長したので、室町幕府が、鎌倉幕府を倒して、前北条の資産を新政府側にする方針に頑強に抵抗しました。
これが大文字一揆で、大塔合戦とも呼ばれた戦いです。室町幕府の政策と意図に従って、荘園や御厨を幕府側に取り戻そうとする守護・小笠原と押領した荘園と御厨を既成事実として領有したい大文字一揆衆の戦いです。大文字一揆衆の主力・主導者は村上一族と仁科一族です。大文字一揆衆は強固で、結局守護・小笠原長秀は敗北して京都へ逃げ帰ります。
信濃国守護・小笠原家が、甲斐・武田信玄に敗北して、信濃が武田に蹂躙される原因は、小笠原家が、信濃国の守護大名として成長できなかったことにあると言われています。甲斐と信濃では、戦国時代にも、経済的規模は、信濃の方が三倍とも四倍とも大きかった言われています。それなのに何故 ・・・?この答えは、小笠原一族内の内訌・一族内抗争とともに、北信濃と諏訪神党の、既得権益保守の連合豪族を統治できなかったことと言われています。

御厨が散在している所在地を点検していると、一つの特徴が浮かび上がってきます。
布施御厨、富部御厨は川中島、芳美御厨、保科御厨、村上御厨、藤長御厨は千曲川流域、矢原御厨、麻績御厨、会田御厨、仁科御厨は犀川とその支流に位置します。
「神鳳鈔」などで確認すると、伊勢神宮へ奉納する貢ぎ物は、鮭と鮭の子(いくら)、麻の布、馬がほとんどです。ここから確認出来ることは、信濃川の上流・千曲川と犀川には、平安時代から鎌倉・室町時代までは、鮭が遡上していた事実が判明します。それも、恐らく大量な鮭の遡上であったのでしょう。そして、当時の衣服の繊維・麻布は、御厨内に麻の木が植えられ、さらに布にする織機が存在していたことが覗われます。大量の麻布は、伊勢神宮の神官の衣料のみならず、一般人の衣料用に換金されていたことが想像できます。併せて、御厨内に、牧が併設されていてことの裏付けも出来そうです。
日本で定常的に鮭の遡上が認められる南限の河川は、太平洋側は多摩川であり、日本海側は島根県の江の川の支流濁川が確認されています。伊勢までは行っておらず、伊勢神宮としては貴重なものだったのかも知れません。
日本海側の河川で、大量に鮭が捕獲された地域は、新潟県、長野県、富山県だそうです。
この鮭をキーワードにすると、信濃国のもう一つの大河・天竜川流域に、御厨を発見できない理由が判明してきます。
千曲川・犀川流域に、御厨を見る理由は、運搬ルートの関係があるようにも思います。定説には、伊勢宮への貢ぎ物の運搬は、東山道とされてきていますが、量的な運搬は、まず日本海側へ出て、北陸道を京方面へ向、伊勢へ向かったというルートが仮設されます。この場合、舟と馬が、運搬の主役になります。こちらの方が、説明が合理的のような気がしますが。


赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

2014-09-15 02:50:34 | 史跡

赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

 

興禅院と金剛寺を訪ねたら、興禅院から100m、金剛寺から300mの所に赤山城跡があった。
過去に何度も来たところだが、何かの花が咲いていないだろうか、と寄ってみた。

 

 

ここらは、植木の里でもある。

赤山城跡の秋桜 ・・・

夏の終わりの城趾公園は、老夫婦と犬に散歩のご婦人がいた。

近くの梨畑に、梨が色づき、収穫を待つばかり ・・・ 確実に秋が近づいている。


 

赤山陣屋は、東京外環自動車道川口東ICに隣接。
県道越谷鳩ヶ谷線沿いの日枝神社前の交差点に「赤山城址入口」の石柱が建っています。
舌状台地を利用した城のようで、複雑な周辺の地形の湿地帯を巧みに利用した城です。
浸食谷に緩やかに囲まれ、当時は湿地帯で、湿地や浸食谷の天然の要害を利用した城です。

伊奈氏の卓越した土木手腕がみえます。
案内によると、規模は”大阪城”に匹敵するそうです


 

 


金剛寺  ・・・ 川口八景

2014-09-14 21:50:35 | 史跡

金剛寺  ・・・ 川口八景

所在地:川口市大字安行吉岡


曹洞宗・山号・富雙山 ・・・入間郡越生町龍穏寺の末寺。
室町時代・明応五年(1496)に、豪族・中田安斎入道安行の開創。

 ・・・ この人物名・安行・”やすゆき”が「あんぎょう」の地名の由来。


七福神のレリーフ ・・碑

縁起 ・・・当時戦乱の世で中田氏自身も多くの人々を殺傷し、その罪業に苦しみ、
当地を行脚していた禅僧に出会い、吉岡の地に草庵を結び、金剛般若経で供養した、という。
この縁で、この地に伽藍を造営し、その禅僧・龍穏寺庵良を開山とし、
自らは開基となり、寺名は金剛寺として開創した。

 

 


江戸時代に三代将軍家光により御朱印十石を賜り、門派は十数寺に及んだ。

伽羅木

 

萱葺きの四足門

山門は桃山様式の四足門、市内最古の棟門。

墓地には県指定旧跡『安行植木開発の祖 吉田権之丞の墓』がある。
当山十九世海牛禅師開始の灸施療は有名で、現在も『お灸の金剛寺』として有名。



吉田権之丞は、文献等の資料が少ない。

伝聞では、権之丞は、草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めたところ、
土質・風土が適合し、その生育がよかったという。
権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地域で植木業を営んでいる。
 ・・・これが安行植木の始まり・・・

なお、中田安行(安斎入道)と吉田権之丞との関係を示すものは不明。檀家の一つ?


中田安行は、岩槻城・太田家の家臣だったと言われる。
 ・・・ 殿山城・現金剛寺の場所
 ・・・ 『新編武蔵風土記稿』によれば、吉岡将監の居城とされる。
将監は中田安斎入道安行の子で、太田資頼に仕えていたとされる。
吉岡氏のその後は不明である。

 

金剛寺・入口


 

謎の 宝鱜印塔 塔笠が落下

○○居士・姉 ・・とは、墓なのか?!

 

 ・・・ 山門の前の参道の”もみじ”は一見に値するという。11月末から12月始め。


興禅院の曼珠沙華

2014-09-13 19:21:52 | 草・木・花 風に吹かれて

興禅院の曼珠沙華


るさとの森に囲まれた興禅院本殿

 

         

曼珠沙華                             興禅院・山門

例年最盛期は、他の彼岸花に先駆けて、九月始めという ・・・

 ・・・ というわけで、興禅院を訪れた。花の寺院で、季節ごとに花が咲き競うという。

梅、シャクナゲ、花菖蒲、アジサイ、彼岸花、紅葉などが楽しめ毎年楽しみに訪れる市民も多い。
興禅院は安行八景の一つとして名高く、NHKで紹介されたこともある。
周囲は、ふるさとの森に、弁財天や、点在する十三佛もある。

今の季節は白・黄・赤の彼岸花が有名。早咲きの黄色と合わせ、約三万株。

少し早いのだろうか、疎ら ・・・ 遅れているのだろうか。
同じ目的らしい「カメラ持ちの訪問者と立ち話」
・・・ ”最盛期はあと二週間すれば、咲き乱れるだろう”とのこと。

興禅院の曼珠沙華は、寺境内とふるさとの森とに群生しています

 

ふるさとの森 の 曼珠沙華

 

ふるさとの森 の 弁財天

 

この寺は、”興禅院”と名がついています。興禅寺ではありません。
前からの疑問ですが、寺には”寺”を尾に付ける寺と"院”を尾に付ける寺とあります。
違いは、何だろうかと不思議に思っていました。

 ・・・ 禅寺では、分家が「院」だそうです。
寺の高僧が亡き後、弟子たちが寺の敷地や周辺に別の建物を建て、修行を続けたものを
「塔頭」または「塔院」と呼びました。
代表的なのは臨済宗で、妙心寺は敷地内には四十六の塔頭があり「院」と称しています。
○元は寺でなかったのに、後に寺に転じた場合 ・・・平等院
○寺の縁者が、出家し庵を結んで仏門に入った場合 ・・・将軍の妻は将軍の死後、仏門に入る。この時、名を院号にした。

寺は ・・・本来「宗教儀式を執り行うところ」を意味しており、
院は ・・・「(僧侶が)宿泊するところ」を意味していました。
寺院は ・・・堂塔(本来の寺)と僧房(院)を併せ持つところ

 ・・・ 以上、調査結果です。”院”号の寺は、なるほど、禅宗がほとんどのようです。
 ・・・ 浅草の浅草寺・「金龍山伝法院浅草寺」は、伝法院という僧房(院)と浅草寺という・堂塔(本来の寺)を含め持つ寺院と言うことになります。

しかし、、”興禅院”の院の由来は、分からず ・・・

 

ふるさとの森の石仏

    

    

    

石仏は、阿弥陀とか地蔵尊とか薬師とか千手とか、だろうが、特定できず。最後は秋海棠の花。

 

ふるさとの森 散策小径の案内銅板図 

 

よく見ると、伊奈家赤山陣屋跡が100m以内。ふるさとの森の雑木林は地続きのようだ。

伊奈家の重臣・富田氏一族の墓がこの興禅院にあるらしい。たぶん宝筐印塔のところか ・・・

無縁仏?

 

興禅院:住所 川口市安行領家401

電話: 048-296-3640.

場所は、外環の”植物振興センター”交差点、植物振興センターの隣。


広徳寺 保科の里

2014-09-12 01:49:23 | 史跡

広徳寺 保科の里


保科氏館跡
場所は長野市若穂保科。

広徳寺

疑問の幾つか

保科氏発祥の地・円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院。現在の広徳寺のあたりに保科氏の館があったといわれ、永正十年(1513)村上氏との戦いで消失。焼け残った館の裏門が現在の寺の総門となっているという。

 ・・・ 上記が、広徳寺の縁起からの説ですが、公布されている説は違う部分があります。
村上顕国に破れて、保科正利・正則親子が保科の里を追われたのが、延徳元年(1489)であり、その戦火で保科館は焼失したとあります。その焼け跡に、広徳寺が建立されたということだと、保科正利は、村上に隠れて近くに隠棲し、寺を建立する資産をどこかに秘匿していたと言うことになります。正利の没年は1506年ということになっています。この戦役後には、北信濃の川田一帯は村上の勢力下になり、武田の侵攻までは勢力図は変化がなかったと見られるので、上記の説は、すんなりと納得出来ません。

保科正利・正則親子は、村上氏と戦って敗れて保科の里を離れた。正利の子・左近将監は村上に降りて、天文二十二年(1553)村上義清に属し、旗本大将として上田原に出陣した。永禄のはじめころ、武田に従ったあと、織田の家臣森氏、上杉氏に属し、保科を領した。左近将監館跡は、若穂保科町滝崎にあった。

 ・・・ ”左近将監が、天文二十二年(1553)村上義清に属し”の部分も、疑問があります。左近将監は、保科正利が何歳の子で、天文二十二年(1553)には何歳であったのでしょうか。辻褄が合いません。延徳元年(1489)に、正利の子として生まれたとして、天文二十二年には63歳、永禄年間に70歳代、その頃武田や織田の家臣・森やさらに上杉に仕えることは可能だったとは思えません。まして、保科正則が延徳年間には、武将として元服を過ぎていたと考えられ、弟との年齢差が5から10歳とすれば、左近将監はもっと年寄りになります。その後に、正則と左近将監に、交流の後が見られないことから、血流の連続性には疑問が残ります。

 ・・・ 現に、広徳寺は存在し、保科正利・正則も数書の歴史資料から確認されており、左近将監も、同様に確認出来ることから歴史上に確実に存在したとすれば、家系図が作為的、意図的に書き換えられた可能性があります。この場合、保科正利の同族が、正利逃亡の後に保科惣領家の継承を主張して家系を仮冒したという可能性が、最も高いと思われます。 ・・・しかし断定は出来ません。

 

弁在天

 

広徳寺・縁起石碑 全景と刻印文字(正利、正則の名が ・・・)

 

寺の付近の庭・りんご園     不思議な石碑

 

広徳寺の裏山には、霜台城跡があり、かつての城下を静かに見おろしている。

寺の裏山

参考:保科正則の謎 2 正則の生きた時代の背景

 

広徳寺の別の顔 ・・・
京都・南禅寺は”湯豆腐”でも有名ですが、京都の数ある寺院の顔という存在です。修学旅行では、金閣寺や銀閣寺とともに定番的存在。その南禅寺の開基と二代目がこの長野の出身ということです。
南禅寺の開基が大明国師で、「無関普門」の名があり、生誕地が長野市の保科です。
二世住職は南院国師さまであり長野市長池のご出身であります。
この為京都・南禅寺は、保科の地の広徳寺で、徳を偲んで「大明国師顕彰会」を度々開いています。