ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

武蔵一之宮 二章・氷川神社は、本来は「ニ社」・・

2020-06-30 23:33:42 | 神社・仏閣

武蔵一之宮 二章・氷川神社は、本来は「ニ社」・・


毎朝の日課で、約Ⅰ時間10分、10000歩の散歩を課している。まあ・、ほぼ達成しているわけだが、時に気分で、コースを変えることもある。


 
普段は、近くに公園を四周強すれば達成できる目標だが、、今日は、街の方へ歩き、参道へ出て、「二の鳥居」を潜って、参道から「氷川神社」に入った。
「氷川神社」は、「武蔵一之宮」として知られる。
この形になったのは、明治維新以降・・、それまでの「氷川神社」については、案外知られていない。知られていても、かなり断片的だったりするようで・・・
それまで・・「神社の歴史」などに興味を持つものなどかなり「マイナー」で少数派だと思っていたのだが、ある時の問わられ語りに、案外食いついてくれた人がいたりして、それでは、、と書く気になった」という訳である。
とはいえ、この分野について、それほど物知りでもなければ専門家でもない。それどころか、連れ合いが大病し、「何か思うところ」があって、秩父札所回り(三十四巡礼)に行きたいと言い出し、暇を見つけて、秩父の寺を回り、合間に神社も参詣した時に、「アッシー」君の役割を担ったまでは、「神社の社叢の森」はひたすら薄暗く、なるべく近寄ることを避けていたぐらいであったのだが・・。
、「アッシー」君は、「アッシー」の役割だけでは暇を持て余し、行く先々の「神社仏閣」の由緒を眺めている内に、少しずつ知識が集積し、分からなかったことは、帰宅してから調べるようにもなり、いつの間にか蘊蓄が深くなっていったようである。

”武蔵一之宮:大宮氷川神社”は、創設当初は「二社」であった。

由来書・・


 
氷川神社の創設は、生没年 紀元前506~前393とり、孝昭天皇の時代とされるが、孝昭天皇の存在自体があやしいそうで不確か?紀元前の表記は、弥生時代を指すと思われる。景行天皇の御代、「氷川神社」で、日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっており、成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって当社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります。

 

男体:氷川神社と女体:氷川神社


氷川神社の存立する地名は、高鼻町といい、大宮台地に、鼻が突き出るような土地を示し名付けられました。この大宮台地に挟まれるように大きな沼があり、その岸辺に、間をおいて、「二社」の氷川神社があったということです。沼の名は、「御沼(みぬま)」、もう一つの「氷川神社」のある地名は「御室(みむろ)」と言いました。「御室」は今では「三室」と名を変えています。昔々の豪族の墓を意味します。、「御沼」も名前を変えて「見沼」になっています。。「御室」の方の「氷川神社」は女体社、高鼻の方は男体社と読んだようです。

この二社配置の在り様の”様”は、ほぼ「諏訪大社」の湖のほとりの「上社」と「下社」に似ており、「男体社」や「上社」が”‎須佐之男命‎”を、「女大社」や「下社」が”稲田姫命”を主祭神として祀っています。


この位置関係は、「太陽は夏至に西北西の氷川男体神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な配置となっている」そうで、大陸の遊牧民族の、道しるべやコンパスの、科学的方法論のようでもあり、出雲族や須佐之男の出自を覗わせるものとして興味深い伝承でもあります。


武蔵一之宮 一章・茅の輪潜り・・

2020-06-29 00:41:49 | 神社・仏閣

武蔵一之宮 一章・茅の輪潜り・・

6月28日は、6月30日より少し前だが、氷川神社の「茅の輪・神事」に行くことにした。
6/30:は病院に行かねばならないので、一足先に」ということである。
実のところ、「茅の輪・神事」のことは、数年前に飯能の「竹寺」(=医王山薬寿院 八王寺)に行くまでは、詳しく知らなかった。「スサノウ」と「牛頭天王」がどうやら同一人物らしい」とも知らなかった。「牛頭天王」はどうやらインド仏教に由来するようだ。つまり、大陸の習俗らしいということが分かった。
「茅の輪・神事」は「蘇民将来」という逸話から、「厄・回避」の風習らしい。「素戔嗚尊=スサノウ/牛頭大王」は疫病をもたらす神であると同時に、疫病を防ぐ力も持っている、ということらしい。「茅の輪・神事」は、お祓いの儀式である「夏越の祓」ともいい、天皇家の「神事」でもあるわけで、「茅の輪くぐり」とは別の儀式だという説もある。
6/30は梅雨の時期で、食物が腐り易い「高温多湿の時期」で、食中毒は、昔は、「厄」の代表格であった。この時期的な背景は、「厄・回避」の儀式があるということは辻褄が合う。「理に適う」ということだ。
それに、今年は「新型コロナウィルス」の流行り・・、
で、初めての、「茅の輪・神事」という訳である。

 


氷川神社・三の鳥居の近くの太鼓橋に「茅の輪」があります。


 
本来は、「茅の輪」を8の字に潜るのですが、今年は、「三密」を防ぐということで、勝手が違うようです。



茅の輪を潜って、桜門を入ります。
左手に、紙人形があり、自分の名前を書き、紙人形に息を吹くかけ、
「人形収め」に奉納します。
息を吹きかけるのは、自分の「厄」を紙人形」に移して、
身代わりになってもらうのだそうです。

拝殿で、参詣してから、「東門」から出ます。
「車のお祓い所」の方へ戻るところに、二つ目の「茅の輪」があります。
 

 

8/29:記


かなり遅れた「初詣」・・

2020-01-25 04:56:42 | 神社・仏閣

かなり遅れた「初詣」・・

 

「令和」

 写真  in 氷川神社
ここは「能の舞台」です・・

遅れた理由は、たんに「雑踏」を避けたからです・・

 

山田衛居筆「氷川神社行幸絵巻」部分 :山田衛居・川越氷川神社宮司ときく
(武蔵一宮氷川神社蔵)

「明治天皇」の行幸
京を発って江戸城に入城した明治天皇は、大宮氷川神社を武蔵国の鎮守、 
勅祭の社と定め行幸しました。

その時の、行列・・

武蔵一之宮・氷川神社の主祭神は、「スサノウ」、、出雲系。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇家の皇祖神は、「天照大神」で伊勢神宮です。---・少し意味が分かりません

行列のそれぞれの衣装を見ると面白い・・衣冠束帯あり、洋服あり、侍姿あり・・で混沌の時代を映し出している。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「門客人神社」写真
・・:カドマロウド 神社

--------------------------------------------------
祭紳 
 1:足摩乳命(あしなづちのみこと) 
 2:手摩乳命(てなづちのみこと) ・
    稲田姫命の両親。稲田姫は「スサノウ」の妻女 ・・八岐大蛇:神話
--------------------------------------------------

--・「門客人神社」は江戸時代以降の名前のようです。それ以前は「荒脛巾」神社と呼ばれていたようで・・

・この「門客人神社」/「荒脛巾」神社 が面白い・・多分「神話」の世界でしょうが、・・・

「スサノウ」


・「スサノウ」は「須佐之男」と書くことが多いが、どうも「荒王(/皇)」(:荒(あら)ぶる/荒(すさ)ぶ)、と書くほうが理屈に合う。
・古事記や日本書紀の〇〇神/命への宛名字は、「音」のみ呈してほぼ意味を持たない。従って前後のつなぎから、渡来人と断定し、「カタカナ表記」が最も合理的のように思う---・これは独断と偏見の私見です。でも本音!

・・『古事記』では建速須佐之男命、速須佐之男命、須佐之男命、
・・『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、

*:時間が許せば、「スサノウ」をさらに突っ込みます。

 


岩殿観音の銀杏 ・・そして薬師

2019-12-07 23:27:58 | 神社・仏閣

岩殿観音の銀杏 ・・そして薬師

 

岩殿山・正法寺 銀杏と観音堂

 

もみじといちょうの紅葉・・・

 

 

薬師如来・


薬師」は、どうやら密教と関係が深いらしい。
それかどうかは、詳しくは知らないが、薬師如来の寺は天台宗や真言宗に多いとも聞く。
最澄や空海が「唐」から帰国した時、、朝廷が「仏教の布教」を許さなかった事実は、歴史の教科書では、あまり多くを教えてこなかった。要するに、朝廷は、宗教が政治に関わることを極端に恐れたのだと思う。
そこで取った最澄や空海の活動は、全国に訪れ、道路や灌漑用水作り、薬草栽培と薬草院の設立、布施(街道の難所の宿泊施設)と簡易療養所の設立、天文学、鉱山の開発などであった。この知識の源流は、密教であった。そして、遣唐使の時培った新羅との交流で、多くの渡来人が朝鮮半島から渡り、最長と空海をサポートしたようだ。
最澄の弟子で、天台宗派の最大の全国の土木工事の実行者は、「円仁(=慈覚大師)」で、後に三代目の天台宗の座主になった。
「薬師瑠璃光如来消災除難念誦儀軌」「薬師七仏供養儀軌如意王経」は、密教の経典の中の一説である。瑠璃がインド山岳の方の産出で、それ以外から見つからないことからも、そもそも密教は、インドから発生した宗教的教義であることが考察されるし、かなり古く、インド的錬金術も伴っていそうである。

12/6:天気:晴れ
放射線の投射は約15分である。AM10:20の予約だと約AM9:20に家を出れば、20分前頃病院には到着する。受付や待ち時間や、そのあとに診察があるときもあり、長くて1時間かかるときもある。そして・・・【complete】まで、あと7回のところまで漕ぎ着けた訳で、・・・。で、化学療法の方は、12/11:に三回目の最後の入院が決まった。
その日の治療が終わった後、ちょうど銀杏落葉敷の季節だと思い出し、「岩殿山正法寺」へ行きたくなった、確か樹齢700年?と聞く銀杏の古木の生命力に感動し、落葉と落葉敷きに魅了され、毎年の恒例の訪問となっていた。
銀杏の木の生命力に触れるのもよし、ほか・・薬師堂の「薬師如来の参詣」。
そして【complete】まであと少し・・


匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4)

2019-08-19 08:11:24 | 神社・仏閣

匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4)


「正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう」---・実は、この文章に惑わされた。

匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?
実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。
問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。


さらに深堀する・・
寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。
この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。


しかして、開基であるが、・・・
ここで、多胡時代の「保科家」の履歴を時系列に羅列してみる・


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・1590年(天正18年):徳川家康の関東入封に従い、信濃:高遠城主保科正直が下総国多胡へ1万石で移籍。
・1591年(天正19年):正直、九戸政実の乱鎮圧に出兵・
          :(保科正則(天正19年9月3日)死去
・1592年(天正20年:文禄元年):正直、正光、秀吉の朝鮮出兵の後詰として肥後名護屋城へ出陣(--・文禄の役)。
・同年、正直病気のため「正光」へ相続。保科正光が保科家の当主となる。
・1593年(文禄2年):朝鮮出兵・休戦
          :京極高知信濃飯田城城主・箕輪(高遠城管理)
          :保科正俊( 文禄2年8月6日(1593年9月1日))死去
・1595年(文禄4年):豊臣秀次切腹事件・
          :木曽義昌が下総網戸において死去・
          :小笠原貞慶が下総古河において死去・
・1597年(慶長2年):再び朝鮮出兵が開始(慶長の役)・
・1598年(慶長3年):豊臣秀吉死去・
          :慶長の役終結・
・1600年(慶長5年):家康・上杉景勝の会津征伐へ進軍・正光も参加
          :関ケ原の合戦」へと続く・
          :保科正光 関ケ原の戦いの時、遠江浜松城を守備・
          :保科正光 越前北之庄城に城番・
          :保科正光 高遠城に復帰(2万5千石
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

香取:樹林寺


さて、保科の多胡藩時代の城主は天正18年から数年「正直」であったが、相続以後の多胡藩はほとんど「正光」であったことがわかる。
しかもである、騒乱の最中・激動の10年間のほとんどを、「正光」は、家康の忠臣として、城主は領国を留守にしていたわけである。

この時留守を預かり多古の民政をおこなった保科家臣は、家老北原采女佐(光次)、篠田半左衛門(隆吉)、一ノ瀬勘兵衛らだったようだ。
病身で隠居した「保科正直」は、香取の「樹林寺」を祈願寺としていた記録が残り、高遠帰還の時は兄弟寺として樹林寺も連れ帰った。

臨済宗妙心寺派の宗派は高遠戻った時、同じ宗派の「建福寺」が保科家の菩提寺になり、「保科一族」の依る「樹林寺」につながったことから、筋書きは合理的とみられる。


多胡時代の1593年までに、一切の身上の露出をしない「保科正俊」はどうしたのであろうか。この件は、「保科正則」も同じであり、保科家多胡統治時代以後の、それも墓(供養塔)のみの露出である。そもそも保科正俊・父の保科正則は、確か「赤羽記」によれば、小笠原家三家の内訌に松尾系に与して駒場で戦死しているというこの疑問は、不思議として残る。

保科正則夫婦の供養塔(墓)?


諏訪神族の「名跡」は、諏訪祝一族も高遠諏訪家も保科一族も同じ名跡が間隔を置いて繰り返し継承されるという法則性がある。まるで歌舞伎や落語界や老舗商家の「名跡」継承の如くであり、故に歴史を紐解くときに解明を困難させる例が多い。
保科家では、正利から隔世で正俊へ、正信、正則など、高遠諏訪家では頼継などが例である。


こうして検証してみると、匝瑳地区における善龍寺の過去と現在の「存在」の有無に影すら見せないと同時に、開基は「正直」「正光」ではありえず、わずかの可能性の「正俊」も文禄2年に亡くなっているのが事実とすれば、開基の存在しない寺の創設は幻であったと結論せざるを得ない。


つまり ---
--- 正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺」は嘘であると結論する。


ここで「廣琳荊室」のこの時代の履歴を掲示して確認しておく。

龍澤山桂泉院


出典は【木の下蔭】---・
・廣琳荊室・・信玄家臣内藤修理信量の次男・
・天正十年(1582年)正月上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職・(1582年:箕郷:善龍寺住職)
・的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる(1582年:松井田・補陀寺12代住職
・天正十八(1590年)七月落城・大道寺政繁討死す・・遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ。翌年(1591年)松井田の・・・本院殿閣を新城に移す。政繁の爲に新に塔院を記す。(大道寺政繁戒名=來炫院殿光淨清大居士:廣琳荊室が弔った」ということ)
・文禄元(1592年)二月亨寅長老に補陀寺を護りて當城(高遠城)の法堂院に退去す。
・其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つて・・・他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば・・依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る。
・則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く。
・其後慶長九(1604年)・・五鴈遷寂す。門弟子師の遺骨樹塔を補陀(寺)善龍(寺)當寺(桂泉院)三ヶ所に分る。
-----
【木の下蔭】によれば、「廣琳荊室」と保科多胡藩との関係は一切出てこない。時系列から見ても、多胡・匝瑳に善龍寺を建立する隙間は一切見つからない。
ここで奇妙な事実は、まず箕郷に善龍寺を再建した後、松井田・補陀寺12代住職になった廣琳荊室は、戦死した大檀那:大道寺政繁を弔って墓碑と供養塔を建立し、焼けた補陀寺を再建した後高遠城に来ているということ。その時期は、家康が江戸入府し家臣がこぞって関東に移り住む時期と重なるのだ。保科正直が高遠城からいなくなる時期に、内藤昌月が城主であったという。内藤昌月が高遠城主であれば、弟の廣琳荊室を自分の城下に招くことは不合理ではない。


こんなことは起こりえるのか?
天正壬午の乱以後の整理の時期に、小田原北条翼下にあった内藤昌月は、真田vs北条の戦いの後「真田」に与したという事例が残る。このに秀吉が加わり、北条亡き後、上杉vs徳川vs秀吉の構図ができ、真田は、沼田を割譲する代わりに、代替えとして、信濃:箕輪(高崎の箕輪ではない)を宛がわれたようだ。その時の真田の命で執行官(代官)が内藤昌月だったら、高遠城主が「昌月」だった可能性があるかもしれない。
そして、高遠城の法堂院から、竜沢の桂泉院に移ったのは、京極高知が飯田城主になり、高遠城の管理も兼ね、管理が厳しくなったので桂泉院に移ったのだろう。


ここには、記載された年号と数年の単位の誤差があるのだが、調整のにおいを感じる。


香取神宮 参詣・

2019-08-12 16:19:36 | 神社・仏閣

香取神宮 参詣・

 

     もともと(延喜式神名帳では)「神宮」という神社は3つだそうです。


「伊勢神宮」「香取神宮」「鹿島神宮」・---
あと、石上神宮、熱田神宮、明治神宮、北海道神宮、伊弉諾神宮、英彦山神宮などもある。通称は出雲大社だがまれに出雲大神宮とも呼ぶこともあるという。

 

 

 

    :鳥居をくぐると鬱蒼とした社叢・・

炎天をドライブしてきた身としたらつか間の涼・・

 


  :由緒・・

神宮の風格は、威容堂々・・流石・・

  :本殿・


本殿脇にこんなものが・・



香取神宮の親」とあるが、何だろう?か

多胡・匝瑳へ調べ物があったので出かけたのだが、折角なので寄り道をした次第です。
昔佐原へは仕事で何回も足を運んでいたのですが、いつの間にか「佐原市」は無くなり、香取市佐原になっていました。今日は佐原の市街地方面には寄りません。
小見川、匝瑳・多胡方面へ来ました。時期ならアジサイがきれいだと記憶にありますがその花の季節はとうに過ぎています。


茂林寺 :1

2019-07-22 22:16:50 | 神社・仏閣

茂林寺 :1


「蝶々の 婦ハリととん多 茶釜哉」 一茶


 ・・・> 「蝶々の ふわりと飛んだ 茶釜哉」



茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。


室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」

寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。


この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそらく本当だろう。


今は「花」の季節でもないし「花」を見に来たわけでもない。だが、この沼の多き付近は、つつじ」を始めとする花の名所が多い。季節には多くの見学者を集める。


「狸」見学も副業である。

 

目的ではないが、折角なので馴染んでいくつもり・。ちなみに、ここの「狸の置物」由来は、童話:「分福茶釜」の発祥の地に因するとされている。

 

(「分福茶釜」割愛)


二年参り と 大宮・氷川神社の不思議

2019-01-03 03:10:35 | 神社・仏閣

二年参り

二年参りとは、初詣の形式の一つで、大晦日の深夜零時をまたがって神社仏閣に参拝・参詣する事を言う。年をまたいで行う為にこの名がある。

ということで、晦日も24時の35分前に家を出て氷川神社へ向かった。凡そ徒歩で10分で神社に着くはず・・なのだが、第三鳥居に廻り込むと、既に長蛇のダムストップの足止めになっていた。
例年のことらしいが、楼門から拝殿までが、参拝客の容量人数で区切り、一定時間で拝殿前から移動させ、次の容量人数を楼門から入れるという段取り・・まいった!のは、この楼門ぬ入るまでに四五回の流れの塞き止めに遭い、これに4,50分を費やしてしまった。例年凄い人出である。
おかげで、二年参りの予定はだめになったわけで・・

氷川参道の、参道の長さは凡そ2Kmと言われています。
第一鳥居の所に、これより十八丁と刻印された石があり、氷川神社までの距離を案内されていますが、一丁(町)=110mですから18倍で1980m≒2Kmとなるわけで、第一鳥居から正式に参道を経緯して参詣すると30分もかかるわけで、参道の長さ日本一と言われているようです。


実際は・・二の鳥居から参詣される方便が今流のようです。
この今流の参道の両脇を、初詣や祭りの時は、出店が並び・・それはそれは壮観であり・・祭りを彩ります。

 

大宮・氷川神社の不思議

大宮氷川神社は出雲系の神社とされ、伊勢神宮系とは違う流れとされています。伊勢神宮系は、稲作に関係する伝承が多く、そのため南方系渡来の文化を象徴として天皇家と深いかかわりを持ってきました。
明治維新、東京遷都で、天皇が江戸(東京)に居を移すとき、武蔵野鎮守として最初に、大宮氷川神社に参詣されました。この時、天皇が「武蔵野」をどの範囲までの守護範囲にしていたのか、正確には分かりませんが、皇居を含めていたことだけは確実です。これは多少の驚きになります。

舞台です。豆まきや薪能が演じられるところ・・

きょうは、どでかい猪の絵馬が飾られています

 

出雲系の神社は、その地理的特性から、大陸系の文明やしきたりの特色を多く持っています。つまり、大陸から、朝鮮半島を経て海を渡って、文化や文明がやってきた証拠で、日本が文化文明を求めたことも事実でしょうが、圧倒的には、朝鮮半島を舞台とする大陸系の民族が衝突を繰り返しながら、敗れた方が海を渡って逃避してきた先が、日本であり、日本海沿岸部が最初の到着地であったと思われます。

朝鮮半島の先の海流は、速度20ノットという自転車の早さです。海流の流れる方向は、ほとんど流れに任せて能登半島沖にたどるようです。
・意思をもって、島を経由すれば、山陰の海岸に、・・流れにまかれれば、富山以北の日本海岸に辿り着けるのだそうです。
信濃川を遡った松代あたりに巨大古墳が散在し、菅平経由で、利根川流域の群馬・埼玉の古墳群は、大陸系の異民族の痕跡跡と仮設できるではないとかと確信します。日本国内を横断したとは考えにくいと思っています。

大宮氷川神社と諏訪大社は、案外似通ったところがあります。
・それは、ともに出雲系神社であること。
・ともに、大きな湖のほとりに存在したこと。
  --- ・大宮氷川神社の近くには、今は湖は存在しないが、江戸時代中期まで、「御沼」(=>見沼)という湖が存在しました。広さは、面積で、中禅寺湖と同じとされています。
・ともに、男神社と女神社が湖のほとりに対座していたとされます。
  --- ・諏訪大社は「上社」と「下社」。氷川神社は「氷川男神社」(=現在地)と氷川女体神社(三室)と別れていましたが、氷川神社は統合されています。
  
参考:武蔵一宮氷川神社の神主さん達の歴史 (このブログの過去記事) :2014-01-27 02:35:57 | 歴史 


 

氷川神社を参詣するとき、私が欠かさないのは、拝殿裏手にある「門客人神社」の参拝です。この「門客人神社」は別名を「荒脛巾神社」(荒脛巾・アラバハギ)といっていた神だそうです。「門客人」の読みは古語の読みで[マロウド」だそうで、どう読んでも私には読めません。

マロウド」:塚本学先生(実は1年間くらい塚本先生の生徒でした)の用語解説:

これによると、在来の神が、外来の神を饗宴して祭り上げて主祭神にした図式が見えてくるのですが、・・これを裏付ける資料が乏しく、頭の中に「仮説」として残ってしまっています。宮本常一さんの本を読んでもすっきりしません。

「門客人神社」と氷川神社との創生にかかわる関係がどうもなぞで・なかなか理解できません。
素直に塚本先生説から類推すれば、日本武尊の弟の成務天皇の時、武蔵国造の「出雲族の兄多毛比命」が角井家の祖で、まず角井家と内倉家に分かれ、氷川男神社の角井は神官を務め「ほうり]と呼ばれ「祝」と宛字された。「祝」は読みで・いわい・であり、後に岩井・角井家になり、内倉・角井家は子孫を継承できず廃絶し角井家から養子を得て存続し、併合の後、鳥居の西に住んだことから西・角井家と名づく。併合の時、三室・氷川女体社の角井家は鳥居の東に住み、東・角井家と名づく。三社併合の後しばらくは、岩井が「ほうり」(=神官)で角井の二家は禰宜という役割だったとの文章が見える。しばらくして、明治政府から、岩井家・東角井家・西角井家は”対等”という裁定が下され、岩井家が神官を離れたと伝えられる。
この角井家と門客人(まろうど)の関係が謎めいていて面白いが、これ以上は資料が乏しくて深入りできそうもない。

 


岩殿観音:正法寺 'いちょう'と'もみじ'

2018-12-06 14:06:32 | 神社・仏閣

岩殿観音:正法寺 'いちょう'と'もみじ'

:埼玉県東松山市岩殿1229岩殿観音
:2018/12/2


見頃から少し早かったかもしれない・・
      ・・ 落ち葉敷」が少な目だった・

本尊は千手観音、、観音堂の創建は養老年間・・その後戦火に遭い3回再建・・

観音堂・廻りの紅葉・・


幾星霜の巨木・銀杏の根と・・



紅葉と銀杏の競演・・


参道・石段を登りつめて、境内入り口・

 

 


土津神社・参詣

2018-11-14 19:02:47 | 神社・仏閣

土津神社・参詣

 

 

同期会・(旧職場)・18/11/10 in 猪苗代

土津を、”はにつ”とだれが読めるのだろうか?
まず、"はに”の意味解きから入ります。どうやら、土のことを”はに”という古語があったらしいです。その土は、鉄分を含んだ粘土質で、主に焼き物に使われたり、布を黄色に染める顔料だったりしたようです。この”はに”を土と書くことはごく稀で、「埴」と書く方が圧倒的に多かったようです。
「布を黄色に染める顔料だった」”はに”は、顔料の種類が少なかった時代、絹本着色といって、宗教絵画に使われた例が多かったようです。保科正之が、吉川神道の奥義を授けられた際に「土津」の霊神号を送られたことに由来したと伝承されていますが、吉川惟足は、このような古語に精通した人物であったのだろうと推測できます。それと、数奇な運命をたどった名君・保科正之は、仏教観では自分の人生観を整合できなかったのだろうと思うに至った次第であります。
土津神社から20分の奥の山中・高台に奥の院があり、そこが「保科正之」の墓所のようです。今回は準備不足で、奥の院まで行けなかったのですが、墓所の前に、土津神社の末社が、右に四社、左に三社控えて建っているそうです。正之の子息と重臣たちの末社・神社が「正之」を霊を守護するが如く侍っているようです。その家老たちの末裔は、何人かは今に馴染みの人で、知る人ぞ知る・

・下記に一部列挙・
  ・梁瀬正真 子孫・県知事や衆院議員
  ・田中正玄 子孫・田中清玄、田中玄宰(中興の主宰者)
  ・井深重光 子孫・井深大(ソニー創始者)
  ・会津藩の家老ではなかった人も、会津出身者は秀才が多いと聞く・・


 脱線・・
  過去に、学生だった頃・・興を覚えて、丹念に丁寧に、「田中清玄」の行動・言質を調べていたことがあります。当時日本共産党から徹底して嫌われた、右翼であったり左翼であったりした「清玄」は、僕の目からしたら案外一貫していて、”感”に入った人でした。
  清玄の先祖・正玄は、保科正之が15歳の時から仕え、教練の師となり、家老として差配した高遠と会津両方の藩の重鎮だったようです。保科正之が、磐梯山のこの山麓を墓と定めるとき、すでにそこにあった田中正玄の墓に向かって「正玄、ここにあるか、我も近く参るぞ」と言ったそうで、「父と見たか、師と見たか、あるいは・・」・・伴のものは皆涙したといわれています。

                       

土津神社の紅葉・・


白い鳥居が目立ちます。


 


・鳥居の起源

  ・-- 天岩戸の隠れた「天照大御神」を誘い出す「常世の長鳴鳥」の止まり木


・白い鳥居
  ・--- 本来は白だそうです。朱色の鳥居は、神仏習合より・(赤は魔除け)


・土津神社
  ・--- 磐梯山の神を祀る磐椅神社の末社