ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

2014-08-31 19:14:13 | 時事ニュース

飯田線 慕情 4 信濃毎日新聞より

信濃毎日新聞

「JR東海、リニア工事認可申請 アセス評価書最終版も提出」 08月27日(水)

[写真・省略] ・・国交省の担当者にリニア中央新幹線の工事実施計画を提出するJR東海の宇野護・中央新幹線推進本部長(左)=26日、東京・霞が関 
JR東海は26日、リニア中央新幹線の東京(品川)―名古屋間について、工事実施計画を国土交通省に提出、工事の認可を申請した。太田昭宏国土交通相の意見を受けて補正した長野県を含む沿線1都6県の環境影響評価(アセスメント)書の最終版も提出。アセス手続きは、29日から1カ月間実施する公告・縦覧を残して終了した。太田国交相が認可すれば、JRは10月にも2027年の同区間の完成に向けて事業着手する。

 実施計画では、JR東海が負担する同区間の総工事費が従来の説明より935億円増えて5兆5235億円になるとの見通しを示した。高性能設備の導入や人件費の上昇などを理由に挙げた。

 長野県が知事意見で求めていた作業用トンネル坑口(非常口)の削減は、木曽郡南木曽町や下伊那郡大鹿村は当初計画から変更されなかった。同村の小渋川に架かる橋の地中化、市町村などとの環境保全に関する協定の締結も評価書の最終版には盛られなかった。

 長野県分の評価書には、トンネル掘削による発生土の活用先の候補地情報を追加で記載した。知事意見を踏まえて調査した絶滅危惧種「ミゾゴイ」の調査では大鹿村で鳴き声を確認。同じく「ブッポウソウ」は、工事車両が通る上伊那郡中川村でつがい3組の繁殖行動などが見られたとし、JR東海は「必要に応じて環境保全を検討する」とした。

 JR東海は26日に長野市で開いた記者会見で、大鹿村のトンネル掘削で出る残土の運搬経路となる県道松川インター大鹿線について「改良にかかる費用を負担する考えはある」と説明。同様に他の狭い道路を運搬経路にする場合も「必要に応じて改良しなければならない」とし、一定額の費用を工事実施計画に見積もっている―とした。

 JR東海の宇野護(まもる)・中央新幹線推進本部長が国交省鉄道局を訪問。江口秀二・施設課長に対し、7月の国交相意見を踏まえて補正した評価書などの書類を提出した。その後、都内で記者会見したJR東海の金子慎(しん)・副社長は、評価書について「関係部門が総力を挙げて充実した内容に仕上げた。記載した内容に基づき(工事などを)しっかり進めていく」と説明。「認可をいただき次第、安全面、環境面に十分配慮して工事を進めていきたい」と述べた。

 JR東海は工事認可申請を2回に分けて行う予定で、今回はトンネルや橋、駅など土木構造物を中心に申請、工事費は4兆158億円とした。電気設備や車両などは別途、認可申請する。

 ・・・ 2027年完成に向けて リニア中央新幹線の敷設工事は着実に動き始めているようです。しかし、全容については、まだ詳しく分かりません。

次回は、リニア中央新幹線とは ・・・ を見極めてみたいと思います。


飯田線 慕情 3  飯田線 秘境の駅

2014-08-31 06:59:37 | 名勝

飯田線 慕情  飯田線 秘境の駅

天竜川の渓谷 1


天竜川の渓谷 2

天竜川の渓谷 3

天竜川の渓谷 4

 

飯田線が走っている路線の車窓を眺めて、辰野から豊橋までを見ると、最初は長閑な田園風景が延々と続く。これが、天竜峡を過ぎる辺りから、車窓の風景は一変してくる。天竜川が流れる両脇は、深い渓谷を見せ始める。電車は、その渓谷にへばりつくように線路を張っている。電車は、トンネルに次ぐトンネルを潜り、川はダム湖に変わり、幾つもの水力発電のダムの脇を通過する。そして最後に、かって東洋一と言われた佐久間ダムを過ぎると、山容は丸みを帯び高度を低くする。飯田線は、佐久間ダム辺りで、赤石山系と天竜川を離れたのだ。そして、三河高原に入り、長篠辺りから平地が多くなっていく。
この天竜峡から佐久間ダムのある水窪辺りまでが、過疎地帯で限界集落を形成しているのだろう。この過疎地帯が、飯田線の秘境と言われる駅を出現させているのだ。
人が住むことを拒む地域は、秘境駅と呼ばれ郷愁を誘うらしい。

天竜峡

伊那から飯田まで周囲が開けた部分を流れてきた天竜川は天竜峡に至ってぐっと川幅が狭まり渓谷状になる。周囲に岸壁が連なり、有名な天竜船下りで知られる観光地になる。
天竜峡一帯は領家変成帯に属していて、領家帯には主に花崗岩や高温低圧型の変成岩や片麻岩などが分布している。天竜峡には主に花崗岩が露出していて、ここの花崗岩は「天竜峡花崗岩」と呼ばれ、特徴としては、鉱物に一定の配列が見られることや、捕獲岩(ゼノリス)が多いことである。
 ・・・ 地質学の専門家でないので詳しくは分からないが、上流は谷を削って、教科書にも載る有名な河岸段丘を生成しているのに対し、ここから下流は、この岩壁を削ることができないのだ。ここからは、顕かに地質の変化が見られるようだ。
記憶に絶対の自信はないが、天竜峡から上流部の方が、土砂崩れ・土石流の災害は多いような気がする。下流部の方は、山道に落石の情報はあるが、土砂崩れの情報は意外と少ない。

秘境駅の路線図

 

飯田線・秘境六駅

小和田駅中井侍駅

為栗駅田本駅

金野駅千代駅

 

  

○JR飯田線・小和田駅・三県県境



○JR飯田線・中井侍駅・茶畑


○JR飯田線・為栗駅



○JR飯田線・田本駅・ホームへ急勾配

 

 

○JR飯田線・金野駅



○JR飯田線・千代駅



牛山隆信の秘境駅の五つの要素 ・・・
*秘境度 - 周囲が断崖絶壁、深い山林、荒涼とした原野にあり、人家が無い。
*雰囲気 - 駅舎、待合室、周囲の建造物などに古い歴史を感じさせる。
*列車到達難易度 - 列車の停車が極めて少なく、当該秘境駅に到達するのが困難である。
*車到達難易度 - 駅までの道が無い、次いで歩道のみ、未舗装の林道など、自動車やオートバイでの当該秘境駅訪問が困難。
 ・・・牛山隆信 秘境駅の写真家

駅名の読み方

天竜峡;てんりゆうきよう →
千代;ちよ →
金野;きんの →
唐笠;からかさ →
門島;かどしま →
田本;たもと →
温田;ぬくた →
為栗;してぐり →
平岡;ひらおか →
鶯巣;うぐす →
伊那小沢;いなこざわ →
中井侍;なかいさむらい →
小和田;こわだ →
大嵐;おおぞ →
水窪;みさくぼ →

峡谷を走る飯田線の駅名です。全部正解で読めた人はいるのでしょうか?
特に、金野;為栗;鶯巣;大嵐;は正解率が低そうです。

小和田を挟んだ、長野、静岡、愛知の三県の県境は、冬場の火祭り、霜月神楽の地でもあります。古代の祭礼の原型とも言われる神への奉納の舞は、神秘的であるとともに心に響くものを持っています。

霜月神楽・遠山

ちなみに、小和田は静岡県の駅で、浜松市になります。


飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

2014-08-31 01:04:58 | 歴史

飯田線 慕情 2  飯田線の概容と歴史

飯田線は、豊橋駅と辰野駅を結ぶJR東海の鉄道路線(地方交通線)。

山間を走る飯田線

概容 ・・・
全線開通の開業は1937年。
ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河・天竜・中南信の都市農山村を結ぶ路線。
上諏訪駅から豊橋駅まで各駅停車で直通する列車もあり、辰野駅から豊橋駅までは約六時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。
旧形国電の宝庫として鉄道ファンの注目を集めたが、現在でも天竜川の険しい渓谷を縫うように走る車窓風景や、小和田駅や田本駅などのいわゆる秘境駅の存在から、鉄道ファンや旅行者に人気のある路線である。
もともと四社の私鉄路線(豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)を戦時国有化・統合したことで成立した路線であり、駅は開通時の沿線集落ごとに設けられている。
駅間距離がとても短いのが特徴で、全長195.7km中に起終点を含めて実に94の駅がある。それらの平均駅間距離は約2.1kmと大都市の市街地路線並みであり、また速度は低く、急カーブや急勾配も多く見られる。
中でも赤木駅 - 沢渡駅間の勾配は40°で、現在ではJR最急勾配である。

中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。
コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。
それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。
1931年からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎が工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。
このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅 - 小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年である(当初より電化)。


熊谷三太郎と川村カ子ト  ・・・飯田線敷設で、忘れてはならない人

熊谷三太郎

熊谷三太郎

飯田線の敷設工事を語る時、熊谷三太郎は欠かせません。
明治に、福井で生まれた熊谷三太郎は、京都・宿布発電所の土木工事を請け負い完成させると、水力発電所や鉄道敷設工事に携わり、後に同業の飛鳥組の飛鳥文吉の高い理想に共鳴して飛鳥組に入る。飯田線敷設工事は、三太郎が飛鳥組の部長の時であった。この工事は、地盤が悪く、峡谷の断崖絶壁と言うこともあって、難航を重ねた。時には、途中で資金が途絶えることもあったが、自分で工費を立て替えるという熱意で銀行から融資を得て、漸く成功する。この飯田線の難工事の成功は、三太郎を、飛鳥組から独立させ、難工事で培った技術は三太郎の会社を飛躍的に大きくさせていった。今も土木に強い”熊谷組”である。
熊谷三太郎は、その後社長を”大三郎"に譲り、自らは参議院議員になったという。
熊谷組の社史をみると、飯田線敷設工事に熊谷三太郎が関わった記述があるが、その文字は一行に満たない。世界に飛び出している熊谷組という建設・土木会社が、繁栄の出発点となった飯田線敷設工事がこの扱いである。これには、飯田線完成という輝かしい業績の裏に負の遺産を抱えており、熊谷組が、この負の遺産に触れたくないのだと穿った見方も出来る。

平岡ダム

*負の遺産:参考(先輩のブログです) ・・ 南信州を行く③・・・平岡ダム・・・負の歴史

 

水力発電所・平岡ダムなどと飯田線の敷設は関係が深いと言われています。この両方の工事に朝鮮労働者が従事していたことは事実認定されています。熊谷三太郎と朝鮮労働者との関係を示す資料もあるそうです。

 

川村カ子ト(かねと)

川村か子と

明治二十六年(1893) - 昭和五十二年(1977)。旭川市永山に生まれる。
上川アイヌの長で、旧国鉄の測量技手。
国鉄退職後はアイヌ記念館館長、旭川アイヌ民族史跡保存会長、旭川アイヌ民族工芸会長などを務めた。
小学校卒業後、鉄道測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、測量技手試験に合格し、鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。
三信鉄道(飯田線の元)に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊をひきいて敢行。現場監督も務めて難工事を完成させた。
急峻な山岳地帯を通過するルートで、非常な難工事であったが、アイヌ出身の測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子ト等が招聘されて建設にあたり、ようやく完成した。
三信鉄道開通後は、樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが、1944年(昭和19年)日本へ戻る。戦後は、視力の衰えで測量の仕事を離れ、川村カ子トアイヌ記念館の館長を務めた。昭和35年(1960)には、三信鉄道における貢献を縁として、信州に招かれている。


久伊豆神社  ・・獅子頭と神楽殿について

2014-08-26 19:38:51 | 歴史

久伊豆神社  ・・獅子頭と神楽殿について


承前 玉敷神社

玉敷神社・萱葺きの神楽殿

久伊豆神社に限らず、そこそこ神社は神楽殿を備えています。

では、神楽殿とは一体なんでしょうか。文字どうり、神楽を奉納する場所の意味であることは、文字からも疑う余地のないところのようです。楽の文字から、楽器の演奏・伴奏を必要として、舞(この場合踊りではないようです)を奉じるようです。

発祥は ・・・

戸隠神社・神楽絵


古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだった、というのが最初であったとされます。
「神懸り」するために、人間から離れて、面が必要だのかも知れません。

神楽を調べると、御神楽と里神楽が出てきます。
御神楽は、宮中行事で、謂われは多そうですが、ここは他者に任せます。

里神楽は ・・・
○巫女神楽(神懸かり系・早乙女系)

巫女神楽


巫女が舞う神楽。本来は神懸かりのための舞の様式化で、祈祷や奉納の舞。


○採物神楽(出雲流神楽)

採物神楽


出雲国・佐陀大社の御座替神事が源流。この神事は御座を清めるための採物舞と神話や神社縁起を劇化した神能などから成り、演劇性・娯楽性の神楽が全国へ広がった。


○湯立神楽(伊勢流神楽)

    

湯立て神楽           霜月神楽


湯立と神楽が結びつく。伊勢外宮の摂末社の神楽役たちが行ったものが各地へ広まったとされる。霜月神楽、花祭とも。釜で湯を沸かし、巫女などが自身や周囲の人にその湯をかけて清める「湯立」に、採物または着面の神楽が加わる。


○獅子神楽

山伏神楽


獅子舞の一種。風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を巡って祈祷やお払いを行う。東北地方の山伏神楽と、伊勢などの*太神楽がある。

*太神楽 ・・・
太神楽曲芸『傘の曲』 ・・・伊勢神宮や熱田神宮の神人が各地を巡って神札を配り、竃祓いや村の辻での悪魔祓いとして行った神楽。大神楽・代神楽とも。獅子舞と曲芸から成る。伊勢太神楽の獅子舞は回檀先の多くの村々に移入され、伊勢太神楽系の獅子舞と呼ばれる。熱田派は江戸開府の際に本拠地を江戸に移した。余興だった曲芸は舞台芸としての太神楽に発展、江戸太神楽や水戸大神楽となった。江戸末期からの寄席では神楽よりも演芸色の強い曲芸の方が多く演じられた。寄席での神楽は落語、講談とは違い色物とされることが多く太神楽曲芸と言う。 ・・・ 正月の神楽は演芸化して行ったのはこの系統。獅子舞はその代表。

*能神楽

能神楽

能や薪能も、出発は神楽の一種であったようです。

次第に、面や舞が精錬されていき芸術的な領域まで達したようです。

能の美術性・芸術性に拘ると、白洲正子の世界になります。

参考:南部領辻の獅子舞 ・・・由緒(鷲神社)
・・・ 「この獅子舞は、八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光が奥州へ兄を助けに向かう途中、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものを、土地の人達が習って伝えたものといわれています。
いわゆる『三頭一人立ち』の獅子舞で、毎年五月と十月に鷲神社に奉納されるほか、五月の奉納後には地域を回り、氏子の庭先でも舞われます。
地域の『厄払い』のために舞われるという本来の姿をよく伝える獅子舞で、太夫(大獅子)を中心にした三頭の獅子が勇壮に舞います」 ・・・

獅子舞を、上の例から読み解くと、神社で奉納する「獅子舞」は、神社の由来で”招魂”の意味のようです。舞台のある神社では、当然舞台で舞ったと思われます。この舞台のことを、神に奉納することから”神楽殿”と呼んだと思われます。あるいは、五月の「田植え」の時期、十月の「収穫」の時期を思い起こせば、五穀豊穣の祈願と感謝が込められていたのは、疑いの余地は少ないと思えます。
併せて、地域内の氏子の家を回り、玄関や庭先で舞うのは、「厄払い」です。
恐らく、この地区から、新羅三郎義光の家臣が奥州へ出征したのではないかと読み取れます。源義光は、新羅三郎といって新羅系の渡来人の系譜で、新羅系の渡来人が、政府に組み入れられる時、”武”の方面を受け持ったのではないかと思えます。源氏は、新羅系の渡来人が祖である、といっているようなものです。

獅子舞や獅子頭の内容 ・・・
獅子舞の道具の内容も記載されています。
天狗(面)、お守り持ち、笛x2、ささらx2、太夫、中獅子、女獅子の衣装と道具。この道具の数から推測すると、獅子舞には9人を必要とするようです。そして、音の出る道具が用意されていることから、かなり賑やかな舞であったようです。
*ささら ・・天狗が獅子を起こす時に使う”ささら”で、竹製のものと赤樫製のもので1対です。これを擦り合わせるようにして音を出します。

これで、獅子神楽のことは、朧気ながら分かってきました。
勝手な解釈ながら、元荒川と古利根の流域は、昔氾濫の頻発地帯です。時には日本の大河が洪水して、合流して流域全体を埋め尽くしてしまうことも多かったと訊きます。こうゆう所は、人知が及ぶべくも無く、神頼み、信仰が深くなるそうです。 ・・・「人知が及ぶべくもなく」と嘆いた洪水は、それから何百年か後に、利根川を東に流れを変えさせ、荒川を西に流れさせて、関東平野から洪水を、ほぼ無くした男がいました。伊奈熊蔵忠次です。その業績を思い、改めて利根川や荒川を見ると、ただただ感嘆の思いがこみ上げてきます。
そこで発生したのが、荒ぶる自然の鎮魂の信仰で、五穀豊穣と表裏一体です。
この信仰の流れの上に、神楽を眺めると、神楽が”陽気”であるだけに余計納得出来ます。


久伊豆神社  ・・獅子頭について

2014-08-24 03:32:31 | 歴史

久伊豆神社  ・・獅子頭について


承前 玉敷神社

元荒川沿いの久伊豆神社の分布の領域には、獅子頭の伝承が数多く残っています。獅子頭の伝承自体は、珍しいものでは無く、全国各地に残っていて、さらに江戸時代からは、その発展形の”獅子舞”が、正月の風物詩として発展したようです。しかし、この元荒川地区に残る”獅子頭”の伝承は、地域集中して異常な多さで、伝承を継続させています。

獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」という言い伝えです。

獅子頭

騎西町・玉敷神社
ご神宝の獅子頭を貸し出して地域の厄を祓う「お獅子様」の行事は有名である。
春・夏を中心に「お獅子さま〔おしっさま〕」という祓えの行事がある。これは玉敷神社の神宝である獅子頭をそれぞれの地区に迎え、五穀豊穣・家内安全を祈るというもので、その範囲は南・北埼玉郡・北葛飾郡・大里郡・北足立郡から群馬・茨城の一部に及ぶという。
 ・・・宮代町の場合 ・・・春から夏にかけて行われている厄除け・疫病除け・悪魔除けとして、悪例を病気の災いを追い払う呪力があると信じられている獅子頭を捧持し、村落内の各家や村境を廻り災いを取り除く行事があります。これは一般的に「オシシサマ」「シシマツリ」などと呼ばれ、各地域によって様々な名称があります。昔は町内の十数ケ所でこの行事が行われていましたが、現在はお獅子様の村廻りは五ケ所の地区で行われ、各地区ごとにそれぞれ特色のある行事となっています。
 ・・・ 各地区のお獅子様
獅子頭はどこにあるの?
獅子頭は各地域で所有している場合と、特定の有名な神社から借用する場合があります。個人又は、各地域で管理しているのは、宿、西原、松の木島は集会所、東は個人宅、前原は宝生院でそれぞれ保管しています。


神社から借りてくるのは、姫宮神社から逆井、山崎、姫宮の各地域です。八河内は騎西町の玉敷神社から借りています。
 ・・・ 行事は、獅子頭と天狗面を騎西町玉敷神社から行事の当日に借りてきて稲荷神社のとなりの集会所から出発し家々を廻ります。各家の縁側から上がり、玄関から出ます。獅子は実際には木の箱に入っており目にすることはできませんが、この獅子を家主の頭の上で揺すりカラカラと音を立てます。そしてこの時、各家ではお札をいただきお賽銭を納めます。最後に、備中岐橋の上で天狗面をかぶっている人を胴揚げして厄を祓います。
・・・行事は、宝生院釈迦堂からムラ持ちの獅子を集会所に運ぶことから始まります。集会所でお祓いした後、子供獅子が出発し、次に大人獅子が出ます。10数年前までは宝生院釈迦堂から直接出発していました。
 ・・・ 獅子は玄関から入り、待っている家の主人をお祓いした後、主人は獅子頭を持って各部屋を廻りました。かつては家々で団子や赤飯や小麦饅頭をふるまったことから「ダンゴジシ」とも呼ばれています。この時出される団子を食べると流行病にかからないと言われています。又、太鼓を叩く音が「ダンゴ、ダンゴ」ときこえるところから、「ダンゴジシ」と呼ばれたとも伝えられています。
 ・・・ 最後に、この行事の大きな特徴でもある祓いの儀礼として村境である隼人堀川の猫島橋に集まり、天狗の持っていた御幣を投げ入れ全員で大声で叫びながら獅子頭の口が川面につくまで下ろし、厄を川に流します。そして獅子を引き上げ、手締めをして行事は終わります。 ・・・

獅子頭の行事は、「お獅子様」と呼ばれ、”おしっさま”、”おししさま”、”ししまつり”などの俗称が着いていたようです。
獅子頭の保管は、有名な神社や寺であったようで、大切に保管された様子です。
「お獅子様」の行事は、基本は”厄払い”で、あと五穀豊穣と家内安全の祈願が付与されていた模様が覗えます。
「お獅子様」の”厄払い”は、獅子が厄を食らうという行為でなされ、最後に厄を川へ流すことで浄化・終了となるようです。
従って、お獅子様の行事は、五穀豊穣の祈願の最も適時の、種植えと収穫の前と言うことになります。あと雨乞いも当然入っています。
獅子舞の時期は、ほぼ4月中頃か7月(8月)中頃に集中しています。

獅子のこと ・・・
獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で,その起源が,より西方の猛獣であることはいうまでもない。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり,一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で,現存最古例は正倉院の伎楽面中に見ることができる。眼をいからし,耳を立て,鼻孔を開いたすさまじい表情で,一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け,それぞれが動くように工夫されている


 ・・・世界大百科事典 第2版の解説

  

霊獣                               獏

*獅子は厄を食らい、獏は夢を食らう、といわれています。

 ・・・ 「日本獅子舞之由来」と題する巻物によると、・・・


 1245年3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、ものすごい光り物が飛んで来て紫宸殿の庭へ落下した。参列していた客は大いに驚き恐れたが、よくよく見ると三つの動物の頭らしき物であった。  しかし、誰一人としてこれが何物であるか判らず、「かような物が宮中へ飛来するのは天下騒乱の前兆であろう。ただちに海へ捨ててしまえ」ということになったが、天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ、「これぞ南天竺の洞ヶ岳に棲む獅子という動物の頭で、この獅子の頭が我が国へ飛来したことは希有の吉兆である。この三つの頭をかぶり舞うときは、日本国は永久に天下泰平であろう」とのことであった。
 そこで、下総国の角兵衛という舞の上手な者が弟の角内・角助と共に宮中に招かれ、獅子頭をかぶって勇ましい舞を演じた。というようなことが書かれており、全国的にも同様な説話となっている。

・・・「高水山獅子舞の解説」より抜粋

次ぎに、元荒川沿いに残る”獅子頭の伝承”を拾ってみます。

○行田市・久伊豆神社
昔,洪水の時獅子頭が漂着し,獅子舞が始まった。
○行田市・御嶽神社
星川本流が大洪水の際,獅子頭三頭が御嶽神社に漂着し,獅子舞が始められた。
○行田市・治子神社,興徳寺
利根川の洪水があり,獅子頭が漂着,これを神前に奉納し,獅子舞を奏したのが始まり。
○加須市・大桑・雷電神社
旧家の門井家が雷電社に獅子舞を寄進したのが始まり。
○羽生市・桑崎・桑崎三神社
利根川決壌のとき,獅子頭一頭が流れ着いたのが始まり。
○越谷市・下間久里・下間久里香取神社
悪疫退散,五穀豊穣のため京都から伝わる。千葉県野田市清水では下間久里の獅子舞が元禄六年(1693)に伝わったことが記録されている。また,春日部市銚子口,赤沼,庄和町中野にも伝来を伝える文書が残っている。
○久喜市・除堀・久伊豆神社,諏訪神社,七社神社,不動寺
江川浮会地に男獅子が浮かび上がり,村人が医王院に奉安し,雨乞いの祈願に舞ったのが始まり。
○久喜市・古久喜・太田神社
大水で獅子が青毛堀に流れ着いたのを拾い上げてはじめられた。
○三郷市・幸房,岩野木・幸房富足神社,福富神社
大水害の時に獅子頭三個と猿の面一個が流れ着いたのがきっかけ。
○三郷市・戸ヶ崎・浅間神社,戸ヶ崎鳥取神社
角兵衛の末孫を召して獅子舞を奉納したところ凶事が去りそれ以降村人が獅子舞を奉納するようになった。
○宮代町・東粂原・鷲宮神社
利根川が氾濫し,作物がとれず疫病が流行したときに杉戸から伝習して奉納したのが始まり。
○菖蒲町・小林・小林神社
出水の折り,獅子頭が三つ流れ着き土地のものが拾い上げて,はじめた。
○菖蒲町・三箇上辻・三箇神社
出水の折り,獅子頭が流れ着き土地のものが拾い上げて,金山神社にまつった。
○松伏町・松伏・松伏神社
疫病悪魔除けに舞ったのが始まり。
○庄和町・中野・中野香取神社
神社に神木の夜な夜な怪物が飛来したため,危難消除の獅子舞を奉納した。
○庄和町・西金野井馬場・香取神社
神前に三体の竜神の面が降りたのが起源とも,江戸川に流れ着いた面を用いて早魃の時に舞ったら雨に恵まれたのが始まりとも伝えられる。

まだ、他にもあるとは思いますが、かなり似通った伝承です。川は、元荒川に限らず、古利根川流域(今の中川)にも広がっています。
神社は、久伊豆神社だけではなく、様々です。
面白いのは、文化の伝承や同質性は、距離ではなく、”川の流域”で均質性が保持されていると言うことです。本当に流れてきたのかどうかは、定かではありませんが、荒川の上流は秩父であり、獅子頭のモチーフの霊獣が、中国や中近東の産物であり、獅子舞がインドに源流が見えることから、渡来人の文化が秩父から流れてきたのかも知れません。しかし秩父には仏閣神社は多いが、荒川の川沿いにはほとんどありません。荒川の支流だとすれば、むしろ修験者・山伏のほうが可能性はあります。

”獅子頭”の伝承に、野与党や私市党が関わっている痕跡は見つけられませんでした。ですが、野与党の祖先が出雲族であり、朝鮮半島からの渡来人であるのなら、この”霊獣"のことは知っていたのかも知れません。

獅子舞

正月の獅子舞の流行
 ・・・ 獅子頭を頭にかぶって舞う伝統芸能・獅子舞は、日本各地の正月行事や晴れの日に舞われ、幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして伝えられてます。
獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがあります。
獅子舞は大自然の霊力を我々に授けてくれる不思議な芸能です。
モチーフといわれているライオンは日本列島には生息しておらず、アフリカ大陸やインド、紀元前にはヨーロッパにもいたようです。その中でもインドが獅子舞の起源といわれていますが、もしかするとエジプトやペルシャ文明まで遡れるかもしれません。
日本列島に生きる民たちは、縄文の猪送り、アイヌの熊送り、東北の鹿踊り等のように、動物を大自然の神として敬う精神文化を既に持ち、さらにお祓いの人生観とも結びついて、外来の獅子舞を日本独特なスタイルに熟成させました。
インドから東南アジア~沖縄と海を渡って伝えられた獅子舞もあり、日本各地に多種多様な獅子舞が見られるのはそのためです。 
江戸時代には伊勢地方の獅子舞が発展し、遠方の村々を回るようになり、次第に芸能的要素が加わりました。 ・・・


フウセンカズラ

2014-08-22 19:32:42 | 写真と詩歌

夏のつる花  ・・風船葛 フウセンカズラ

改訂・間違いに気付き、改訂しました

 

 

つる性の一年草でフェンスなどにつるを絡ませながら、ぐんぐん伸びるフウセンカズラ(風船蔓)。
夏になる花を咲かせるが、花よりもその後にできる風船のような実がユニークなのだ ・・・

その実はホオズキのように空洞になっていて、中に3粒の種ができる筈 、

種には着生していた跡が残るのだが、その跡というのがハート型らしい。

黒い種に、白いハートの模様。なんとも、ロマンティックな花。


○恋文に 夢の種なる ハートピー   ・・庄


-----


凌霄花・ノーゼンカズラ


戀の熊蜂  ・・堀口大学


軽くさわやかな夏の朝の/

空気をうならせて素から飛んで来て/

さてはもの狂ほしい勢ひに/

男叫びわななきながら/

毒々しい凌霄(のうぜんかづら)の花の中へ


*一部にはノウゼンカツラには毒がある、と言われていますが、毒はありません。




夏の公園にて ・・




久伊豆神社の謎

2014-08-22 14:30:01 | 歴史

久伊豆神社の謎  

承前 玉敷神社  

気になっていたのですが ・・・

玉敷神社が、何の神社なのか不思議に思っておりました。
玉敷神社は、元荒川沿いに集中してある久伊豆神社の総鎮守といわれています。その久伊豆神社も、何を御神体にしているのか分かりません。

 「久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に分布する神社である。祭神は大己貴命(大国主)である。久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致している。加須市の玉敷神社は、かつて「久伊豆明神」と称しており、久伊豆神社の総本社 ・・・

解明の鍵は、”私市党・野与党”、”元荒川沿い”、”出雲の大国主命”。まず、私市党は出雲族なのでしょうか。 ・・・そうすると足立(大宮)・氷川神社と同祖になってしまいます。これは釈然としません。

私市党は、武蔵七党の一党派で、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国 を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士 団と言われています。 成立は、武蔵国は駿馬の産地であり、多くの牧が設けられていた。その管理者(牧官)の中から、多くの中小武士団が生まれた。この武士団のことを武蔵七党と呼んだとされています。

『武蔵七党系図』には:横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党・・の説があり、また:横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、綴党、私市党の説もあります。他にも:丹治党、西野党を入れる書もあります。
この何れの党も、実在の可能性が極めて高く、本貫・本拠地とされている地区に地名を残しているところからもそれが証明されると思っています。武蔵の地に、大小の武士団が群居し、その中で、誰もが認める大勢力が、横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党の五党で、次の中規模の勢力の中に、、西党、丹党、綴党、私市党、丹治党、西野党などがあり、七党の語呂の良さから”七"に拘り、選ばれたのが人に拠ったのではないかと、勝手に想像しています。
同様の選び方に、坂東七平氏といわれるものもあります。これは、坂東(関東)に根付いた平氏の一族を七氏選んでの呼び名で、頼朝が、平家討伐で旗を揚げた時、坂東七平氏はいち早く頼朝側で合力したと言われています。 ・・・坂東八平氏もあります。源氏に平氏が協力したことも興味深い。

もう少し、私市党を詳しく調べて見ます。
私市は、古代皇后の部族で私市部を祖とするようです。その一族が流れて、旧埼玉郡北部の大里郡の根小屋に居着いたと言われています。
ここは、利根川水系の後背湿地帯にある小さな町で、やがて私市と書かれ、武蔵七党の一つ私市党の根拠地であり、東部の根小屋に私市城を築いた。集落は、自然堤防上にあり、典型的な列村形態をなしている。いわゆる往還沿いに発達した市場町だったようです。
私市が何時に騎西と名を変えたのかは定かではありません。

熊谷直実は私市党の一員であった


久下直光は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武士。私市氏(私市党)の一族で、本姓より私市直光とも呼ばれる。久下権守を名乗った。
そうです、熊谷市久下の領主であった、あの久下の地域のことです。久下は、伊那忠次・忠治の荒川の西遷の起点になった場所です。
・・・ 久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(1182)5月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(1192)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年11月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)・・・

そうすると、時代背景は頼朝の時代の前後で、私市党の勢力地域は、熊谷の一部にまで及んでいたことが分かります。

野与党について
私市党の本拠に近接して、野与庄があります。この野与庄を本拠にして、平安時代末期に勢力を張った野与党があります。
坂東平氏の祖・平良文の孫将常は、武蔵国秩父を本拠地に武士団秩父党を形成していましたが、平将常の弟忠常は房総半島一帯の実力者となって、のちに長元の乱(1028)を起こします。これを鎮圧したのが源義家の祖父・源頼信で、忠常の死後、投降した嫡子・平常将以降は代々源氏の郎党となったようです。後の鎌倉時代の千葉氏一族がその子孫です。
そして、常将の弟・胤永の子孫が関東の武士団武蔵七党のうち村山党と野与党という武士団を形成していきます。
胤永の孫・基永は武蔵国埼玉郡野与庄(現加須市)を領して野与基永と名乗り、基永の弟・頼任が武蔵国多摩郡村山郷(現東村山市)を領して村山頼任を名乗り、それぞれが分立して武士団を形成していきます。これが野与党の発祥です。
野与党からは武蔵国騎西荘多賀谷郷(騎西町)を発祥地とした多賀谷氏が出て、ほか野与党には西脇・多名・鬼窪・白岡・渋江・菅間・道智・大蔵・箕勾・大相模・利生・柏崎・須久毛・八条・金重・野崎・高柳などがあります。
これらの地名は、ほとんど現代に名を残しています。規模を見ると、どうも”大字”か”字”を冠にする地域の規模のようです。この規模から、逆にこれらの支族の規模を想定すると、大家族制とはいえ、一家族三世代で、郎党を加えると20人から30人ぐらいの規模が想定されます。その支族を、50前後従えていたのが、野与党であったようです。従って、女子供を除く四割ぐらいが武力として数えられるとして野与党の兵力は500人ぐらい。板東平氏の祖・平良文の拠点と重なっている事は、良文の末裔を証拠立てる傍証かも知れません。
私市党は、ほぼ20ぐらいの支族で兵力は200人ぐらいと言われています。
横山党、児玉党、猪俣党は、野与党や村山党より大勢力であったと言われています。

・・・ 「西角井系図」には、畠山氏・葛西氏らの祖とされる将常の妻として、武蔵武芝(武蔵国造系)の娘を、その兄弟として武宗(野与二郎)をあげています。さらに、この武宗の娘が、忠頼の子孫の元宗(父は胤宗とされる)なる者の妻となり、基永(野与党の祖)、頼任(村山党の祖)兄弟を産んだとしています。従って、野与党は本来、武蔵国造に連なる系譜を持つ氏族であって、後に、多治経明を祖とする秩父党のうち、特に忠常の系譜に何らかの形で連なった可能性がある ・・・

「西角井系図」というのは、大宮氷川神社の宮司・西角井家に伝わる家系図です。江戸時代に造られた武家の家系図は仮冒(経歴詐称)が多く信頼性に問題がありますが、この西角井家の家系図は、信頼性が高いことが証明されています。
この家系図によると、畠山忠重は平良文の一族であり、坂東平家の家系が、大宮氷川神社の宮司並びにその係累の武芝一族と婚姻関係があり、その一族から野与党が生まれたことになっています。
 ・・ 武芝の一族に、野与二郎と名乗ったものがいることが確認されています。 

私市党と野与党は、時代的には重なる部分はあるが、抗争の歴史は見いだすことができない。恐らく、私市党は、城跡と地名を残したぐらいで鎌倉時代に戦乱で没落し、その跡地へ、勢力を膨張させた野与党が変わって侵入したものと、時系列的に理解してよいのではないかと思っている。騎西町の各地に残る”板碑”の記名は、ほぼ野与党に関連したものと解読されている。

野与党と久伊豆神社

各地の久伊豆神社

 

 

 

久伊豆神社は、どうも野与党の氏神のようです。はっきりと氏神としている久伊豆神社は以下の通りですが、他の久伊豆神社の近くは野与党の支族の拠点が多くあります。
○東方久伊豆神社 ・・・越谷市大成町にある久伊豆神社。当地近くには武蔵七党野与党の一族・大相模次郎能高(延久元年 1069年歿)の居館跡があり、久伊豆神社は野与党の氏神といわれる。
○蒲生久伊豆神社 ・・・越谷市蒲生にある久伊豆神社。当地近くには武蔵七党野与党の一族大相模次郎能高(延久元年 1069年歿)の居館跡があり、久伊豆神社は野与党の氏神といわれる。
○篠津久伊豆神社(浅間神社、白岡) ・・・北鬼窪氏(野与党)の館跡。


この様に見て見ると、元荒川沿いに、野与党の勢力分布と重なって久伊豆神社があります。一部の書にあるような、私市党と久伊豆神社の関係は見えてきません。

元荒川流域に散在するほとんどの久伊豆神社は、一部を除き、今となっては、村社、郷社の位置づけで、野与党の氏神であることは確認出来ません。しかし、この神社が野与党の氏神でなかったと否定することも出来ません。この場合、もともと野与党の氏神の久伊豆神社であったが、長い歴史が野与党の存在を薄くしていったと考えるのが合理的であると考えます。

続き ・・次は、獅子頭について


玉敷神社

2014-08-16 02:30:59 | 史跡

玉敷神社

玉敷神社 鳥居と本殿 ↑

萱葺きの 神楽殿 ↑

 玉敷神社 由来書

 

祭神:大己貴命(おおなむぢ命)
 ・・・ 大己貴命 は別名大国主尊(命)
創建は古く
 ・・成務天皇六年(136)?、兄多毛比命が武蔵国造になった時 の説
 ・・文武天皇の大宝三年(703)、多治比真人三宅麿が東山道宣撫のため東国に下った時 の説
の二説がある。出雲大社の分霊を遷座したと言われている。
戦火で、場所が二転し現在の場所へ。古い資料は、戦火のため焼失。
そのため、なぜ久伊豆神社が玉敷神社になったのか?
久伊豆神社と私市党がどんな関係なのか? ・・・不明。

騎西の歴史

騎西町は武蔵七党で名高い武士団である私市党の本拠地。
*私市党 ・・きさい(ち)党と読む。騎西町の起源?
また武蔵七党の野与党も当地に勢力を持っていた。
騎西の玉敷神社は古来より久伊豆神社と称していた。
元荒川沿いに活動した騎西党や野与党であったたが、
久伊豆社も私市党や野与党の勢力範囲に分布しているといわれる。

地理 ・・
国道R122を北上すると騎西町中心部に至る。
さらに北上するとR125と交差する。
鴻巣駅からバスで、騎西経由加須行きで、20分の距離。
免許更新で「免許センター」へ行く用事の時、足を伸ばしてもよい。

 

 

 

玉敷神社 社叢

 

 

玉敷神社の社叢
かなり大きな社叢。白樫、楠、杉、松の古木が聳える。野鳥も多い。
その社叢を切り開いて神苑を造る。

 

 

玉敷神社 藤棚 ↓

 

 

神苑 ・・玉敷公園
藤の名所 季節にはかなりの人出があり賑わう。
むしろ ・・・藤の名所の方が名高いのかも知れない

 

 

河野省三邸

 

河野省三 ・・ 玉敷神社は生誕の地。
文学博士の河野省三は国学者・神道学者であり、國學院大学総長を務めた。
明治15年に騎西町で生まれ、國學院師範部を卒業後に玉敷神社の宮司となった。
その後は国学や神道を研究し権威として活躍。
昭和27年に埼玉県神社庁長、昭和36年には紫綬襃章を受章。

 


場所:北埼玉郡騎西町騎西 552


 

 


盆 について

2014-08-15 00:50:48 | 歴史

盆 について

今日は14日、この月はの十五夜ではありません。今日はあいにく曇り・・月は出ていない

○極楽も 地獄も盆は 月夜かな  ・・森川許六

日本人的な曖昧な感覚では、”盆”は”正月”と双璧な季節行事のイベントである。
がしかし、”正月"と違い、"盆”は国民の休日ではない。
この曖昧な感覚を、もっと合理的に説明できないかと思い調べて見た。

まず、お盆とは ・・・
お盆は、和暦(=天保暦など旧暦)の7月15日を中心に日本で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事。
 旧暦なので、本来は8月13日~16日の4日間とされる。
 最近都市部では、西暦の7月13日~16日の4日間とする所も出てきたらしい

お盆の由来は、[盂蘭盆会・うらぼんえ]といって仏教の供養の儀式がもとになったと言われる。
 一般的には、13日の夕方に、”迎え火”を焚き、先祖が迷わぬように案内して、迎入れます。
 期間中には、菩提寺の僧侶を招き、経を読み、先祖に飲食を奉じ、一族も飲食して供養します。
 16日の夕方、”送り火”を焚き、先祖の霊をお墓にお帰り頂きます。
 この間は、お墓には先祖の霊は留守であります。

この儀式の由来は盂蘭盆会がもとになったとされ、「盂蘭盆会」とはインドのサンスクリット語のウラバンナ(逆さ吊り)を漢字で音写したもので、 転じて「逆さまに釣り下げられるような苦しみにあっている人を救う法要」という意味だそうです。
いまの「お盆」と少しかけ離れていて、なんか故事つけのような気がします。

・・・・・・ とここまでが、今までの私の”盆”の知識と考え方。

「盆は仏教の儀式が一般に広まった」というが果たして本当でしょうか。
”盆”には、どうも、祖先崇拝(礼拝)と供養の二つの意味合いがあるように思われます。
供養のは、仏教の得意とするところ。なるほど、近親者の供養を、よく盆に行います。近親者は、顔を見たことがあり、声を聞いたことがあり、時にはぶたれながら叱られたり、手を繋いで幼稚園や学校や動物園に行った皮膚の感覚や、あるいは取っ組み合いの喧嘩をした創の痛みの感覚など懐かしさを伴った供養の意味です。顔を知らない、声も知らない、皮膚の温もりも知らない人の供養は、嘘っぽくて体裁のみです。
供養は、どうも祖先全般を意味しないようです。
祖先崇拝は、現代では薄れてきましたが、一族の発祥や家の存立に関わる繁栄の問題と関係が深そうです。これは、神社や神道の問題のようです。
”お盆”は、どうも仏教だけでは説明しきれないようです。

では、”お盆”は昔からあったのでしょうか。
似た様なものは、かなり昔から有ったようですが、急激に普及したのは江戸時代からのようです。徳川幕府の政策に関係しているようです。天海和尚が発案者かな?
棚経=お盆に僧侶が檀家を回って精霊に経を誦し、回向すること。 棚経についての語義的いわれは、徳川幕府の宗教政策の一つである寺請制度のなかから起こったとされる。
それまでは、仏教中心に行われていた儀式が、江戸時代に庶民まで広がったというのが事実のようです。一説には、ローソクの大量生産が可能になり、仏壇や行燈とともに、ステイタスシンボルとして全国に広まっていった、というのが正直な所のようです。

盆踊りの意味
これは、地獄に落ちた亡者が、地獄の苦受から解放されて、喜んで踊る様に、生きている老若男女が加わって踊ることだとされています。従って本来は、旧暦の7月16日で、十五夜の翌日になります。満月の月明かりで、寺院の境内で夜通し踊ることが出来て、供養になったとされています。 ・・・何故か、最近は日程がづれてきて、かつ寺院の境内でないところの方が多いようにも思います。最早宗教性などなくなったのかも知れません。

灯籠流し
盆は、霊が、あの世とこの世を行き来する日です。誰が考えたのか、行き来に”乗り物”を考えました。精霊馬 ・・・しょうりょううま、というものです。野菜の茄子やキュウリに割り箸やマッチで足を付けて、飾りました。キュウリは馬に見立てて、あの世から、早くこの世へ来るように、帰りは茄子を牛に見立てて、のろまでゆっくりあの世へ帰るように、他の供物は帰る時のの土産だそうです。灯籠流しは、この乗り物の変化形でしょうか。

これらの盆行事は、懐かしいもの心を揺さぶるものも残っています。


北海道 『北海盆唄』
秋田県 三大盆踊り
 毛馬内の盆踊(鹿角市、8月21日 - 23日)国重要無形民俗文化財
 一日市の盆踊(八郎潟町、8月18日 - 20日)県無形民俗文化財
 西馬音内の盆踊(羽後町、8月16日 - 18日)国重要無形民俗文化財
栃木県 百八灯流し(栃木市)
富山県 おわら風の盆(富山市八尾地域、9月1日 - 3日)
石川県 御招霊(能美市、加賀市山中温泉栢野)
福井県 御招霊(勝山市猪野口)
愛知県 乗本万灯 -(新城市乗本) 8月15日 県無形民俗文化財
 振り万灯 -(豊田市石野地区) 8月15日
静岡県 遠州大念仏(浜松市)
京都府 五山の送り火(京都市)
奈良県 奈良高円山大文字送り火(奈良市)
広島県 盆灯篭(安芸地方)
鳥取県 傘踊り(鳥取県東部)
徳島県 阿波踊り(徳島市)
長崎県
 チャンココ踊り(五島市)
 精霊流し(県内各地)
沖縄県 エイサー(県内各地) アンガマ(石垣島)

この中には、是非行ってみたいのが幾つかあります。
さらに、秋田竿灯祭りや青森ねぶた祭りも”盆”に関係しているのではないかと思っていますが、これは確認が取れていません。

盆と正月 ・・・藪入り(やぶいり) 蛇足
「盆と正月」という言葉が聞かれるほど、日本人にとってお盆は大切な行事と考えられています。 最近は藪入り(やぶいり)という言葉も死語となってしまいました。

 

あ! 忘れていた ・・・
”お盆が、国民の休日でないわけ ?”
理由1:発祥が一宗教(仏教)行事であるため ・・・宗教の自由に反する
理由2:本来旧暦7月13~16日だが、全国的に実施日はバラバラのため ・・・絞れない
だそうです。
国民的知恵で、学校など、夏休み期間で、新暦の盆期間:8月13~16日も含まれるから、民間会社の応用的代休制度を利用して、実際には不都合が生じないように工夫もあるようです。