ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

石榴

2015-10-23 11:32:05 | 日記

石榴

テーブルの上に石榴(ザクロ)が置いてありました。
食用ではなく、静物画の”モデル(被写体)のようです。
”ザックリ”と口を開けている”さま”は、”傷口”に思えて、昔から”ぞっ”とします。
4,50年前に口にして以来食べたことはありません。

東京・雑司が谷に鬼子母神(きしもじん)がありますが、”おどろしい”名前や逸話に似ず優しい風貌が伺えます。この鬼子母神は、由来はインドにあるといわれ、その先はユダヤ教に通じるという説も存在するみたいです。ザクロの呼称は、ペルシャのザクロス山脈を現地音に近い「石榴」の字で音訳したともいわれ、ユダヤ教では、虫がつかない唯一の果物として神殿の至聖所に持ち込むことを許された、なんとも神聖な食べ物だったようで、古代ユダヤ教を源流としたキリスト教の”聖母マリア像”には”石榴”を配した絵画が幾つか存在します。

それにしても、日本の神話や逸話の中に、中東・アラブやイスラム圏やユーラシアを源流と覚しきものが多いのは興味深いですね。真偽のほどは分かりませんが、記録を辿るのは“ロマン”を感じます。

割れた”ザクロ”の中の沢山詰まった実に、”子だくさん”を思って、子孫繁栄の思想につながって行くのは、たまに「おどろおどろしい」名前の”鬼子母神”が生まれたとしても、底流には、子供を宝と思う優しさがあるのですね。

 

   ○あまのはら冷ゆらむときにおのづから
           柘榴は割れてそのくれなゐよ    斉藤茂吉
                                                          *冷ゆらむ・・(ヒ)ゆらむ


東京駅開業100周年記念 「SUICA」

2015-10-19 10:29:55 | 建造物

東京駅開業100周年記念 「SUICA」

あればあったで・・”うれしいもの”ですが ・・
 特別に、並んでまで買う気は、全くないのですが ・・・
家族は、こういうものに、異常に執念を燃やすみたいです。

それで「応募できる」と聴いて、申し込んでいたところ、ようやく届きました。

東京駅開業100周年記念 「SUICA」

 

当然、実際にも使われるのでしょうが、・・
  あえて、「記念」として保管されのも想像できます。 
    さらに、飾られながら保管されるのかも知れません。
その為に、パンフは、二つ折り立てになり、切り込みには「スイカ」は挟めるようです。

保管されて、実用されない「記念スイカ」は実に3割以上に! ・・なんて根拠のない無責任な想像・・・

それにしても、煉瓦つくりの東京駅は、いい風格です。 (パンフレットから・)


コスモスの畑で

2015-10-12 18:12:50 | 草・木・花 風に吹かれて

コスモスの畑で


Catcher in The Cosmos ・・・
サリンジャーだったら、Cosmosは”宇宙”と訳すのだろうか?”コスモス畑”と訳すのだろうか?


コスモス自体は、茎や枝が細く単独では寂しい花でそんなに惹かれるわけではないのだが、道端や休耕農地で群生していると妙に懐かしくなる。
夏が終わり、昼間はまだ暑いが、朝夕に涼風を感じる頃、コスモスは咲き誇る。
山野のドライブに、車内のクーラーを切っても、窓を開けると、涼風が頬を撫でる季節に、幾つかのコスモス街道を走った記憶が蘇る。かなり懐かしい記憶の中の風景。
 ・神津牧場付近の道だったかしら・
 ・富浦から館山への道だったかしら・

与謝野晶子の詩に「コスモス」というのがあった。
晶子は短歌以外にも、詩も作るのか!という浅学ゆえの驚きもあったが、
不思議に記憶の底に残った詩であった。

    コスモス   与謝野晶子

   一本のコスモスが笑つてゐる。
   その上に、どつしりと
   太陽が腰を掛けてゐる。
   そして、きやしやなコスモスの花が
   なぜか、少しも撓(たわ)まない、
   その太陽の重味に。

コスモスの脇に、柿の実がたわわ!


秋の植木の郷 ・・・

2015-10-08 02:22:52 | 草・木・花 風に吹かれて

秋の植木の郷 ・・・

紅い実

南天のようだが、葉の形状が違う。季節も違う
図鑑を見たら、「梅もどき」か「ゴンズイ」。よく分からない。


名前はどうでもいいが、秋の青空によく似合う。


ピンクの花。
木槿(むくげ)だと思うが、八重の木槿?なんてあるのだろうか?

 


はな  ・・・秋の初め? 夏の終わり?

2015-10-04 19:32:34 | 草・木・花 風に吹かれて

はな  ・・・秋の初め? 夏の終わり?

黄コスモス 

ひるがお?ゆうがお?

季節のながれを惜しむような・・・  きたるみのりの時を待ちわびるような・・・

はざま の季節のながれ ・・・

 

 


昔は染谷村の鎮守、染谷氷川神社

2015-10-03 21:34:04 | 神社・仏閣

昔は染谷村の鎮守、染谷氷川神社

染谷には神社が二つあり、八雲神社と氷川神社がそれ。
昔を比定すれば、江戸時代から明治時代。明治時代には神社は一村一社と定められた。
その頃染谷は二村に別れていたらしい。染谷と染谷新田がそれ。
染谷には八雲神社があったが染谷新田には神社がなかった。
一村一社が定められた時、・・
 ・・染谷新田は”大宮氷川神社”を分祀して”染谷氷川神社”を勧請したらしい。
その後しばらくして染谷新田と染谷は合併し”染谷”になった。
以後片柳村の一部になり、その片柳も大宮市の一部になり、さらにその大宮もさいたま市の一部になり、今はさいたま市見沼区を冠にした次第である。
染谷新田は、もとが見沼(御沼)の開拓(干拓)で、江戸時代に出来た村であった。
 --- 染谷氷川神社の勧請の件は推論が入っている。詳しい人は指摘下され。

 

染谷氷川神社は、手入れの行き届いた閑静で清楚な神社である。
これだけの社叢・神域・社格の清潔感を見ると、氏子衆の質の良さを感じる。おそらく、比較的豊かな農家が散在して支えているのだろう。

石碑に、氷川神社宮司岩井陸郎の名前が見える。大宮氷川神社(男体社)宮司の岩井家との関係がなにやら感じられる。ーーここも根拠希薄。しかし”染谷氷川神社”を勧請したときに役割を演じた人ではなかろうかと・・
簡単に「大宮氷川神社」の明治以降の宮司の変遷を辿れば。・・・
氷川神社の男体社・女体社・簸王子社の三社とそれぞれを祀る社家3家は、元禄12(1699)年に「三社同格」との裁定が下され、年番制で宮司を務めていたのですが・・・
明治元年の明治維新によって、年番制が崩されます。明治4(1871)年に社寺上知令により、社領没収、世襲社家が廃止されます。そして氷川神社は公家出身の交野という人物が任命で宮司になります。この時期で岩井家は退いてしまったのです。
そして、明治27(1894)年に、出雲大社の国造の座を弟に譲った千家尊福が埼玉県知事に赴任します。3年間、千家尊福は埼玉県知事でした。
氷川神社三社のご祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命ですから出雲系で、その出雲系の国造が知事になったとなると、不遇を被ったもともとの社家は復活です。社寺行政も変遷し、戦争突入、敗戦と時は流れ、昭和34(1959)年に東角井家が宮司に昇格。粘り勝ちでしょうか。

明治維新の神社政策で「大宮氷川神社」の宮司を退いた岩井家は、宗教法人を起こしていました。それが「神道一乃宮教会」。千家尊福が国造を弟に譲って、出雲大社教会を起こしたことに倣ったのでしょうか。
この岩井家が、勧請で分祀した「染谷氷川神社」の面倒を見たのではないかと思っています。
ちなみに、岩井家は、祭祀の神官・大祝とか祝のことで、本来は「おおほうり」とか「ほうり」と読ませるところを、「いわい」と読み替えて宛字を「岩井」としたのではないかと思っています。
現在、岩井家は現存しておりますんで、機会があれば直接聞いてみたいと思っています。

社叢の裏手は、広大な墓地公園になっています