ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

1:高麗川と寺院仏閣

2021-08-20 18:30:42 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!


1:高麗川と寺院仏閣
  
 「高麗神社」

写真:トーテンポール?
   トーテムポールのような標柱。「将軍標」という朝鮮半島で使われる魔除けの境界標

 一風変わっています。


 高麗神社 由緒 --- ・「当社は、高句麗からの渡来人 高麗王若光を主祭神として祀る社です。他に、導きの神 猿田彦命、長寿にして長く朝廷に仕えた竹内宿祢が祀られています」
 *高麗王若光 ;高麗(こま)の王(こき;古代朝鮮語)し若光(じゃっこう)---・

 どうやら、主祭神は「朝鮮半島」からの「亡命者」の類であろうか。後先の時系列から言うと、新羅という外敵から攻められて、支援を求めて「大和朝廷」に来たのだが、最中に・・高句麗が新羅に攻め落とされて帰るところを失ったとの筋書き・・大和朝廷に派遣されたのが、高句麗の「王族」に関係するとかしないとか・・の人物が「若光」であり、真偽は別として、大和朝廷は「高句麗王族」として扱った、というところであろうか?
 ここで、「高麗神社」にあまり関与がなさそうな「竹内宿祢」が祭神として祀られている。何故であろうか考えてみた。
 竹内宿祢は、伝説上の人物・・何しろ330歳まで生きたというから驚き・・業績を見てみると、内政のかなり有能な官僚(能吏)の実績が記録に残る・・恐らくは、亡命した高句麗民族に、日本における「移住地」を宛がい、存続出来るようにしたのが彼であろうと想像するのだが・・・これが事実かどうかの記録はないが・・では、何故に「高麗神社」の祭神のの一つになっているのか」を考えると・竹内宿祢の関りを暗示しているように思われる。
 高句麗王族に限らず、朝鮮の「王族」政権は、どうやら、絶えず脅かされて入れ替わっていたようで、敗者は、正式ルートに限らず、海流に乗って命からがら亡命した例は、かなり多かったのではないかと・・日本は、その亡命先で、古事記や日本書紀の記述には、累々の天皇家も、・・出自は大陸であろうかとの「傍証」が幾つもあり・・その伝手を頼りに「亡命してきた」と考えると「さもあるかな」と・・

 

..出世明神と呼ばれる:《 高麗神社 》


 巾着田 曼殊沙華・群生・・
 この異国情緒が残る風景に、何やら似つかわしい・・

 

 

 「竹寺」


 深き山中に、不思議な寺はあった。
 異国風情の漂う・・寺のような/寺でないような・・寺であった。そして、美しい。
 参道の竹林を抜けると、「牛頭天王」が登場する。この竹林が、俗称「竹寺」の由来・・のようだ。

 ・「医王山薬寿院 八王寺」--・正式名称
 由来は・:歴史 ---・天安元年(857年)に円仁(慈覚大師)が東国巡礼の際、病人が多いのを憐み、この地に道場を造り、大護摩の秘法を修したのが開山とされる。

 ・この竹寺の「本来」は「薬草園」のようである。


 ・本尊は牛頭天王、本地仏は薬師如来としているが明治維新の神仏分離から免れ、神仏習合の寺となっている。
 ・牛頭天王・本坊・三十三番結願堂・本地堂(瑠璃殿)・弁天堂・稲荷社・水屋・奥の院・鳥居・石燈籠など・・.

 この「神仏習合」というのがよくわからない。「大護摩の秘法」というのは、浅学の私でも、記憶の片隅に「密教」の法であることを教唆する。つまり仏教の前提・・仏教以前の宗教を意味する。「神仏習合」の、学校教育の「教科書」的意味は、神社と仏閣がまずあり、やがて「いいとこどり」をして共存関係になった・・」と理解していたのだが、ここの「竹寺」では、その時系列関係を拒否している様である。

牛頭天王のことを「スサノウ」と同一人物と比定する学者は多い

 

 開山は、円仁(慈覚大師)---・第三代天台座主。生まれは上州佐野。(「佐野サービスエリア」隣の「みかも公園」の端の方)。この人は遣唐使・・行も帰りもかなり苦労しているようである。特に「帰り」は、いろいろの理由で、なかなか帰国できなくて、「新羅」の人脈に相当お世話になったようであり、新羅に駐留し、ここで「薬学」を中心に「密教」の知識を会得したようである。そして、「新羅人」が随伴して帰国し、その後「新羅人」は帰らずに、円仁の手足になったようである。
 この寺には、「トーテンポール」のような「将軍標」があり、「新羅」の牛頭山の牛頭を冠にした「牛頭天王」があり、牛頭天王の子供の「八王子」を祀った御堂があり、その御堂は、東方楽園・浄土を表す「瑠璃殿」の名称であり・・つまり、「新羅」が多く残っている様である。


 ここには「新羅」、そして近在に、対称である「高句麗」の「高麗神社」を配しているのも「妙」である。


 茅の輪 --・登り口の鳥居に茅の輪が設けられている。木製の蘇民将来の護符を授与している。両者とも蘇民将来伝説に関係する厄除け ・

・・・「蘇民将来伝説」は、どうも日本の説話ではないような気がするのだが、・・これを否定する説を見かけない。

.

 

 あえて・・・ かつて「秩父三十四札所」を巡ってみたが、また訪れたい寺は、それらの札所より、「竹寺」である。

 「秩父三十四札所」には、なぜか「天台宗」派はない。

 

 

 

 


越辺川と高麗川

2021-08-20 18:26:08 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

越辺川と高麗川:

◇:越辺川と高麗川
 
 高麗川は正丸峠辺りを源流とする。高麗川と名栗川を挟んだ山岳は有数の杉の美林・・。高麗川に沿って走る西武鉄道が秩父まで繋ぐ。
 高麗川の周辺には、趣のある神社仏閣があるが、・・高麗神社、竹寺、能仁寺、子の権現などなど・・このうち、高麗神社、竹寺は、後で詳細する・・巾着田は、高麗川の一部で、「がま口」のように蛇行して流れ、時期には、曼殊沙華の群生が埋め尽くす。巾着田に隣接する「宮沢湖」は、最近人気の「ムーミンバレーパーク」というテーマパーク・・
 高麗川は、流れて坂戸と鳩山の境あたりで、越辺川に合流する。

ムーミンバレーパーク 写真
飯能市宮沢:郊外型レジャー施設。ムーミンテーマパーク

 

 越辺川は、外秩父山系の黒滝を水源とする。流下して、越生の梅林の中を通り、先述の高麗川と合流し、物見山の裾を捲いて、川島の長楽辺りで都幾川を合流して、やがて入間川にそそぐ。
 物見山は「平和資料館」「岩殿観音」「大東文化大学」「東京電機大学」「こども動物自然公園」などが集積する。また、八幡橋は「冠水橋」で有名、少し上流は、「白鳥の飛来」で人気のところ・・この付近は自然が残り、TVや映画などの「ロケ地」でたびたび登場する。

平和資料館 写真


2:慈光寺、都幾川

2021-08-07 10:49:12 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
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慈光寺、都幾川:


2:慈光寺、都幾川
 --・戦国の僧兵たち &番匠、湯葉など

 

 都幾川 --・ときがわ町(玉川村と都幾川村が合併してできた町名)、因は、町を貫流する都幾川。その都幾川は、慈光寺の山号「都幾山」を由来とする。

 慈光寺のホームページの紹介の項に、「戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌らによって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどること・・」という文面がある。
 
 その慈光寺・・

 時がたち・・嘗ての慈光寺が如何なるものであったか?」は、「web」を巡ることである程度把握は出来そうであるが、本来の規模や勢力の実感は、--・つまり筋肉質や血の実感までは、「見える化」しなければ霧のように遠いのである・・その「見える化」の作業・・
 この輪郭の明確化こそが、この項の要である。
 恐らくは、頼朝から寄進された「1200町歩」という領地の規模が、この慈光寺の性格を定義したのであろうと推測して・・以下の作業

不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

 開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
 奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。
 つまり、霊山院(リョウザンイン)はもともと「慈光寺」の僧坊で、その塔頭の一つだったわけで、・・・

山門は、現在「瓦葺」になっているそうです・・

 ---・【白河天皇】より ... 法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。・---

 ここであえて、「霊山院」を取り上げてみたのは、山岳仏教の武装寺院の「慈光寺」の性格の輪郭を明確に描きたいためである。中世におけるこの寺院の存在の必然性は何だったのか?

 霊山院の創設は建久年間で、鎌倉幕府成立の時期と重なるわけで、その「宗派」の臨済宗も、始めを同じ頃としていた。僧侶にも、偏諱の制度なあったかどうかは詳しくないが、烏帽子親や烏帽子名の習慣が僧侶の世界にもあったとしても不思議はない。臨済宗の祖が、自分の一字を高弟に与えて、「栄朝」と名付けて東の官の寺である慈光寺に派遣したとみるのは合理的である。叡山の天台宗が、天皇家と深い繋がりがあるのは、その頃から、天台宗座主に、天皇の子息がなっている例は多い。栄西、道元、法然、親鸞、などなど・・宗派分流のもとの仏教の学校が「叡山」であった。従って、天台宗「慈光寺」の僧兵の分流に、「臨済宗」や「密教」や「台教(=顕教)」があったのは、ごく普通の話であったようだ。それぞれの流派の塔頭・僧坊は繁栄を極め、「一山七十五坊」あったと記録が残る。坊あたり何人の僧兵がいたかは不明だが、かなりの要塞であったのは確かで、これが戦国の時代まで続いた。

 都幾川の地元には、その僧兵の蛋白源としての「豆腐」や「湯葉」の産業、あるいは「番匠」という大工の集団の移住の地名や「大工」より収入が安定できるとして変質した「建具」の産業が、遺産として残る。写経などで大量消費しただろう「和紙」の産地も近くに残るのも、僧兵=学徒の存在の傍証かもしれない。

 慈光寺は、鎌倉時代前後に、『慈光寺実録』によると、慈光寺別当. 厳耀は、畠山重忠の伯父であったという。 畠山重忠は板東八平氏の一つ秩父氏の出身の関東武士で、初期から「頼朝」を助けた。この別当というのは、経済的支援者で、この寺は平良文流の秩父平氏で、さらに頼朝から「1200町歩」を寄進されており、1町歩=100俵:2俵=1石とすれば、120000俵/2=60000石(6万石)という中堅クラスの大名と同じ経済力ということになる。

 要は、中世において慈光寺は守護大名と同じ経済地盤だったということ、中世の戦国は、その経済地盤の領地の「分捕り合戦」が常であった、ということ。先述で、太田道灌"ら"により「焼き討ち」にあったとあったが、この「ら」は、--・天文年間(1532~55年)小田原北条氏の家臣で松山城主上田朝直が大築城を築き、一山75坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するのに際して付城とし、北方約4㎞にある慈光寺を焼き打ちにした。---・とあるので「上田朝直」であろうか! (大築城・・ときがわ町大附(オオツキ))

 付録:同時期に、東松山にある「正法寺」が、同じように「焼き討ち」にあい、周囲にある「僧坊」を焼失している」という記録が、同じ書に残る。「正法寺」も、比企一族由来で北条政子の加護寺(守り本尊)なので、鎌倉幕府より多くの寄進地があったのだろう。「正法寺」は岩殿観音として親しまれている寺・・

 とにかく、以後に慈光寺に、江戸時代まで坊の記録を見ないので、「焼き討ち」の以後に、この寺は武装を解き、知行地を奪われたとみるのが合理的であるが、家康の江戸入府で、この寺は、御朱印を受け、ここからまた100石の寄進地を得ていて29坊を作っている。江戸・上野の「寛永寺」の山号は「東叡山」で、比叡山の関東の拠点を意味し、慈光寺は、寛永寺の末寺にされている。恐らく「天海」の策と推定・・ 鎌倉時代は、比叡山・延暦寺「別院」であったとか?・・

 これらの史実の記録を残した『慈光寺実録』の作者は、九十六世信海」となっておりますが、いささか疑問??九十六世信海」は江戸時代の人・どこかで読んだが、調べてみたがわからず・・慈光寺の創設が、宝亀元年(770年)道忠が開山とあり、信海が生きた江戸時代中を1700年とすれば、天武(40代)-東山(113代)の間で、天皇家はこの間:73代の天皇がいたことになり、ほぼ同期間に96代慈光寺住職は疑問?併せて、慈光寺の創設時期が、書により「マチマチ」なのが気にかかる・・
 中世の山伏の宿坊・75坊は戦火で焼けたことは記録に残るが、江戸時代の29坊は、現存を一つも見ない、のはなぜか?
 経緯・由来から、天皇家・後鳥羽上皇などと関係が深いが、南北朝時代はどちらに与したのだろうか?生い立ちから「南朝側」とみるのが自然であるのだが・・
 霊山院の塔頭・栄朝は、老いて上野へ退き、長楽寺を創設。長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥・・とある。
 --・戦国以前は、子息に、自国領土の一部を分譲し宛がった。新田義季の宛がわれた地が「世良田」であった。中世の封建時代は、目下のものが目上の者を「呼ぶ」とき「正式な氏名」を呼ことは憚られた。代用は、お館さま、お頭、あるいは住んだ土地名で、例えば「世良田さま」とか。妻女には、み台さま、奥さま、奥方さまなど・・この世良田は、新田氏の有力な一族であった。南北朝時代、絶えず天皇側であった新田氏は、「後醍醐上皇」に与して、その世良田氏はご醍醐上皇の子息・「宗長親王」の側近として行動を共にした。世良田氏は、宗長親王亡き後も、その子の尹良親王を助けて連戦し、敗れて「奥三河・設楽」に隠棲して、そこで松平と姓を変えた」とある。徳川家のもとの松平の出自である。
 上野国・世良田(今は、群馬県太田市内)には、長楽寺の隣に「東照宮」があり、家康が祀られている。

都幾川:三波渓(群馬・鬼石の三波石と同等の石が散在する・・に因んで)

 都幾川・・慈光寺・霊山院のあるところ、都幾山というが、その脇を、都幾川が流れる。その山懐の開けた地に、湯葉や豆腐、建具の産業が息づく。土地の名は、「大工の集落」を意味する「番匠」という。流れはやがて槻川を落合して、さらに流下して、越辺川と落合する。

 

 


1:槻川  --・ 武蔵嵐山

2021-07-25 17:00:44 | 史跡

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槻川:

1:槻川
 --・ 武蔵嵐山

ミカンの北限・・大内沢・風布

 「槻川」は堂平山・北川(=大野峠あたり)を源流として流下し、大内沢川と合流して、東秩父村(埼玉県内唯一の村)、小川町へと流れる。「大内沢川」の東側山麓はミカンの北限であり、山を越えた荒川側にも「風布」というミカンの畑が散在する。大内沢川と荒川の川霧は、どうも気温を上げるらしく、川べりの標高の低いところより標高を高くしたところの方が気温が高いらしい。その「メカニズム」の理屈は読んでみたがよくわからなった。「ミカン」の由来は、近くの寄居の「鉢形城」の小田原の後北条の北条氏邦によって、氏邦の出身の伊豆から運ばれたものらしい。この城は、武蔵と上野、下野、信濃の戦国の「橋頭保」であった。

 

東秩父村:道の駅・和紙

小川町:道の駅・和紙

 清流は、「和紙」の製造に必要らしい。川沿いに、中世より「和紙」の産業を育んできたようだ。東秩父にも小川にも、「和紙」をテーマにした「道の駅」がある。その南東の方向に見上げて「仙元山公園」があり」、かつて東洋一長いといわれた「滑り台」があった。記録は塗り替えられるのが常だから今でも一位かどうかはよく知らない。

 仙元山の南を下ると下里という山麓に「小倉城」という山城跡があり、この周辺が「緑泥片岩」の産地になる。緑泥片岩は、「板碑」などに使われる石板のことで、「板碑」は、慈光寺の山門跡近くのあの「板碑(=イタヒと読む)」のことで、梵字で書かれるのが常である。他には、神川町の「金讃神社」の奥・御岳の「鏡岩」への登坂道の脇に、規則的に並ぶ「句碑」にこの石板が多いようである。

 

小倉城跡と板碑:緑泥片岩の産地

板碑の意味は、供養板(宝篋印塔や卒塔婆と同じ)


 以後、槻川は山麓の土を洗い、緑泥片岩の岩を剥き出しにする。菅谷の館跡までの川の景観は、美しい渓谷美となり、東大の本多博士により、「京の嵐山に似たる」をもって「武蔵嵐山」と称せられる。

武蔵嵐山・・


 菅谷の館跡辺り(鎌形)で、都幾川と合流・・

 


都幾川と槻川  ・いわゆる、源流の風景

2021-07-24 14:07:20 | 史跡

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都幾川と槻川:

◇:都幾川と槻川

 ・いわゆる、源流の風景

 「慈光寺」という古刹がある。外秩父山麓にあり、背後に「堂平山」を持つ。かなり規模の大きな「山寺」である。この寺のことを調べると意外と深い。これは、・・あとで、、
 この「堂平山」北を源とするのが「槻川」、「堂平山」南(大野峠辺り)を源とするのが「都幾川」、両川は、武蔵嵐山・菅谷館あたりで合流する。ともに清流・・ 
 「堂平山」は比企三山、”=笠山・堂平山・大霧山”。外秩父が比企に比定されているとは?知らなかった。外秩父は、「ヒルクラムサイクル(=自転車登板)」の首都圏のメッカである。時々、そんなサイクリングの自転車を見かける。また、「パラグライダー」の「堂平スカイパーク」というスクールもあり、「パラグライダー愛好家」が「堂平山」に集まるわけで・・。頂上付近、天体観測所:「堂平天文台(星と緑の創造センター)」(元東大所有:今ときがわ町所有)があり、星を見る・キャンプ場もある。

 

堂平山頂

 

パラグライダー

キャンプ場

 

 この外秩父の林道を、「奥武蔵グリーンライン」というらしいが、かなり好きなドライブコースで、過去に十数回走っている。名栗川以東の東京寄りの多摩山岳は別物・・か!

 


入間川: 新河岸川

2021-07-05 11:23:17 | 史跡

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入間川:

新河岸川:3(承前)

 ◇:新河岸川  (厳密には、新河岸川が入間川の支流かどうかは、覚えが確かではない。運河であると思っているわけで‥)

 今は昔・・「与野」という町がありまして、大変栄えておりました」-・なんて書くと違和感があるが事実である。平成の大合併の末、「与野市」は「中央区」と名を変えて、「さいたま市」に飲み込まれた。この合併というのが曲者で、街名を、上下に分けたり、東西南北にしたりで、中とか中央としたりして、昔からの人情の歴史をそぎ落としていく。これが事実だが、極端な違和感を覚えないのは、JRにまだ「与野駅」という名の駅が存在しているからだ。でも。中央区なんて、味もそっけもなく好きでない。その与野駅も、もともとは浦和市の所在であったのだが・・

 時をさかのぼること、1883(明治16)年、鉄道が敷設された。そのころ、大宮の戸数は「243戸」であり、やや大きな町であった浦和も、与野よりは人口の少ない県庁所在地であった。バラの「与野公園」の河岸段丘の上段の「与野本町」辺りが、この周辺の農産物の集積の商業地で、一番栄えていたようだ。農産物は、船で流下し、「新倉」に運ばれ、新河岸川の「河岸」で集荷されて・江戸/東京へ運ばれた。


 
 新河岸川と荒川は新倉で接近するが、合流せず岩淵水門まで並行する。分離して流下する方が、勝手がいいのだろうと思う。

 イントロ・・が長くなったがようやく新河岸川が出てきた。

 また少し脇道に逸れる。


 大宮公園に、「あかしで」という老木がある。「あかしや」ではなく「あかしで」である。一般にはそれほど馴染みはないが、「盆栽」愛好家にはなじみの名前であり、枝の格好や幹の奇怪さで好まれるようだ。---・見ての通り、「筋肉隆々」の様子・・場所は、「青木昆陽碑」と「ボート池」の中ごろ辺り・・


 その、「青木昆陽(1698-1759)碑」の「説明書き」に、「田島ヶ原」で「サツマイモ」の生育に成功し、飢饉を救った」とあった。(一説には、サツマイモの試作は、九十九里とされている)
 柳沢吉保(1658-1714)は、青木昆陽より少しだけ年代が遅い。だが、被って生きた時代もあった。昆陽が、サツマイモ試作に成功し、幾分かの飢饉の民を救った折には、丁度「川越藩主」を務めていた時であったようだ。松平信綱が、「川越」に商家を集めて街を作り、経験から「火事に強い」町つくりをし、「新河岸川」という水運の動脈を整備した後に、柳沢吉保が「「川越藩主」になった。吉保は、不毛の地・「関東ローム層」の三芳野という武蔵野台地に手を付けたのだった。
 まず、「けやき街道(=いも街道)」に30軒余りの,細長い矩形に仕切られた農家がある。いずれも同じ仕様で、まず屋敷と屋敷林があり、その裏手に、かなり広い畑(五町歩あまり)がある。これが、柳沢吉保が、不毛の地に入植を勧めてできた「いも農家」であった。


 「関東ローム層」は火山灰が積もった赤土である。火山で「塵」が風で運ばれて降り積もるのだかたら、粒子は極めて細かい。しかも、積もった「塵」にはほとんど栄養分がない。三芳野の台地は、今の三芳から狭山と所沢の一部も含まれる。この「関東ローム層」の厚みは20から30mともいわれる。江戸時代から、住居とすることを求めて、「井戸」を掘ったが、20m掘っても地下水にたどり着けまかったことが記録に残る。冬を終えて3月ころ、地が乾き、風で砂塵が巻き起こる。「人は、これを所沢の砂嵐」と呼ぶ。砂塵による「ホワイトアウト現象」・・この火山灰は、富士山噴火が三割、浅間山噴火が七割とされているようだが、そこはあまり詳しくない。
 とにかく、柳沢吉保は、この関東ローム層の入植地に「共同の井戸」を掘った。屋敷林は、砂塵の防御と落葉の堆肥化(=腐葉土)のためであった。腐葉土は、バクテリアによる「発酵」を意味する。これが役立った。バクテリアによる「落葉」の発酵・分解は、土壌の温度の上昇と腐葉土の栄養を生み、不毛の「関東ローム層」から「富のいも(=サツマイモ)」を生み出したのだった。瞬く間に人気化した「川越のサツマイモ」は「栗(九里)より甘い十三里」(江戸と川越の距離)と呼ばれるようになった。もちろん、江戸への運搬は、「新河岸川」による水運であった。
 
過去のブログ:三富のこと:tps://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/791660a7dd7d80aafdaaf302b22b437b
参照してくだされありがたいです。

 この「三富」地区の「柳沢吉保」の評価ですが、古い農家ほど、神様の次ぐらいに高い評価なのです。教科書の記載には、元禄文化の奢侈を厳罰に取りしまり、花開いた文化を停滞させたとか、「生類憐みの令」とか、権謀術数的に「出世をするのは、金と女を使うに限る」とか、負の評価が多いが、ここではまるで「逆」の評価なのだ。

 

 「新河岸川」は柳沢吉保の前の川越藩主「松平信綱(伊豆守)」が整備した。
 「新河岸川」は、農業用灌漑用水として入間川(笹井堰)(今の豊水橋付近)から取水して、はじめを「赤間川」と呼んだ。これを「伊佐沼」に繋ぎ、不老川や霞川を合流して流下した。この川を運河として利用しようとしたのが「松平伊豆守」である。船は荷積みで沈むが、当時の「新河岸川」は流れが速く、かつ浅瀬であったようで、水運は思うようにいかなかった。そこで考え出されたのが、「クランク」というか「S字」というか、「ダム的」構造にする工事であった。これを、「九十九曲がり」と呼んだ。お陰で、船底をこすることは無くなったが、行程は、2から3倍になった。江戸・東京まで農産物を運ぶと空の船を川越まで戻さなくてはならない。船に綱をつなげて岡を引き返す作業である。曳舟という。当初の曳舟は空だったが、江戸の産物や川越観光の客を乗せるようになった。花川戸がその出発地であったようである。あるいは曳舟という地名の場所のそんな場所だったかもしれない。
 新河岸川の水運も、鉄道が敷設されることで廃れたが、そのころ以前の小説には、川越は、江戸(東京)から一番近くの観光地で、船旅の様子や川越の賑わいの様子が描かれている。一昔前は、大宮や浦和ではなく川越が、武蔵の国一番の街であった。今は、昔の物語である。

 


入間川 支流・成木川

2021-07-01 17:23:53 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

成木川:2(承前)

 ◇:成木川

 西川材・・

 ・杉や檜の美林・・

 

 この「西川」には、「成木川」を加えていいものかどうか?。「成木川」にも、「筏流し」の記録がわずかに残る。。この「わずか」を、あえて「西川」にしていいものはどうか・・「入間川水系」には違いないのだが・
 かつて、この成木川の川沿いの街道を二度くらい通ったことがある。付近ならさらに数度行ったことがある。つつじの名園:「塩船観音」と「鎌倉古道」所以のためであった。さらに言えば、古族・豪族:金子一族の遺跡探求もあった。

成木川清流:1


 「成木川」は青梅に源を求め、飯能に流下して、名栗川に落合する。以後を「入間川」という。「成木」地区は、飯能との隣接地帯、山岳と里山を形成している。
 地層は、少し掘れば、石灰岩が現れる、地区の80%に「石灰岩層」があるといわれる。これが「良質」で、焼くと「消石灰」となり「漆喰」の原料となった。江戸初期にこの地に詳しい「大久保長安」が検案し、江戸城築城の白壁の材とした。以後、江戸への運搬の「ルート」を「成木街道」と呼んだ。江戸城が成った後も、雨に強く、火災でも延焼を防ぎ、見た目にも美しい「白壁材(漆喰)」は、商家の蔵としても人気を呼び、成木は栄えたという。
 その後、「成木街道」は、青梅の農産物や炭・薪などの燃料の運搬が増え、「青梅街道」と名称を変えて現在に至る。

成木川清流:2


 ついでながら、似たような「街道が並行して江戸に向かう。「伊奈街道」・・・、こちらは、多摩川支流の秋川の伊奈地区から秋川の「岩」が江戸に運ばれた。秋川の「伊奈」は、信州・高遠石工衆の集団移民先であった。因は、---・信玄亡き後、長篠の戦で敗れた「武田勝頼」が、織田・徳川軍との戦いに備えて、領民に年貢を増額したために、山村に暮らす住民は耐えられず「逃散」した例が多かったようで、「高遠石工」もその例のようである。もともと、灯篭や墓石で、出稼ぎが多かったから、そのように決断したのだろう。「勝頼」のこの重税は、山岳を領有している家臣を中心に次々に離反を呼んで、あの強固な武田軍団は急速に弱体化してしまった。
 秋川・伊奈の「岩」は砂岩で脆く、石垣には向かなかった。「岩」の供給は、主に伊豆稲取が担い、秋川・伊奈は「石工」の技術のみが「石垣造成」に供せられた。
 「伊奈街道」は、後に「五日市街道」と名称を変え、農産物や炭・薪が運搬される主役になった。
 入間川の水運の荷に材木や炭・薪の他に、所沢の「赤土(=壁材)」を多く見かけるが、刻んだ藁を混ぜると、この赤土(関東ローム層)は、強度を増すらしい。そこで、成木の「漆喰」も船荷になったのでないかと探してみたが・・・能わず。

成木川清流:3

 今では、都内の静かな清流・・釣り人の「メッカ」。

成木川清流:4 曼殊沙華!

 

                近況・・

高齢者講習が終わり、「免許更新」しました。  
それにしても、「あっちこっち」でめんどくさい。
何とか、もっと合理的にできないものか。    


どどんがどん! 入間川

2021-06-28 09:38:44 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

入間川:1(プロローグ・的!)

 以前の職場の先輩が、リタイヤ後に「絵」を描き始め、そのコピーを送ってきた。なかなかの「もの」である。
その中に「阿須」の公園のものがあった。


「八高線」が入間川を渡るあたりである。飯能の領分に位置するそうである。「阿須」は“崩涯”を意味すると「中国」由来の辞書は語っているそうである。---・いわゆる「崖の端っこ」とか。
こんな地質学的特徴は興味をそそられる。川に、表層を削り取られた地層は、たまに太古の姿を現すことがある。まさに、白亜紀とか第四期の地層のことだ。どうもここがそのようなのだ。
まず、「阿須」の公園は、運動公園と「あけぼの子どもの森公園」とから成り立っている。職場の先輩が、「絵」を描いた対象は、その「あけぼの子どもの森公園」。---・「トーべ・ヤンソンのムーミン」のメルヘンの世界を模した公園なのだ。


<ムーミンの童画的・風景写真:1>

<ムーミンの童画的・風景写真:2>

<ムーミンの童画的・風景写真:3>

こちらの写真は、すべて、飯能市の広報誌からの転用になります


その公園の名付けの冠の「あけぼの」には、「あけぼの杉」の謂れからとった名称のようである。「あけぼの杉」は「メタセコイヤ」とも言い。太古からある「生きた化石」なのだそうで・

あけぼの子どもの森公園」の裏手は、今では珍しい「泥炭」の採掘場である(日豊鉱業株式会社 -亜炭・泥炭ー 武蔵野炭鉱)。太古にここの「メタセコイヤ」が朽ちて積み重なり、地熱と加圧で、泥炭化したのだそうである。

 入間川という川は、上流と下流では、川の名称を幾度と変遷する。
上流部は「名栗川」といい、先述の阿須付近で「成木川」を落合して「入間川」と名を変える。近年「入間川」脇を西武線が走ることにより、「埼玉都民」という新参者が増えて、いつも間にか「名栗川」まで「入間川」と呼ぶ人が増えてきている。「入間」は「阿須」より少し下流なのだから、本来は「阿須」から下流が「入間川」なのだが、・・また入間川の下流の都内部分を「隅田川」と呼んだが、さらに本所吾妻橋から下流を「大川」とも呼んでいる。

 入間川は、荒川の西遷(伊奈郡代)により、川越・古谷あたりで荒川と合流する。江戸時代・徳川幕府三代目将軍・家光のころである。川越街道・川島との境の落合橋のところでの合流ではない。落合橋は、小畔川と越辺川の合流(落合)を意味する。ちなみに、小畔川の源流は「宮沢湖」であり、「宮沢湖」は名栗川から取水してトンネルを通して造った農業用溜池で、当初は「西武鉄道」がかかわった遊園地でもあったが、「ベビーブーム」と「バブル」の退行とともに遊園地は終焉していたのだが、「あけぼの子どもの森公園」の開設の際の、トーベヤンソンと飯能市の良好な関係から、「ムーミンバレーパーク」のテーマパークとして生まれ代わった。「宮沢湖」自体が昭和生まれなので、当然「小畔川」も昭和生まれであるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回:西川(予定) - - - どうなることやら 。

  6/28:本日午後・高齢者講習(¥5100)(認知機能検査は済)        

 

 


大塚古墳

2019-02-24 00:45:19 | 史跡

大塚古墳

 

R16を、宮前ジャンクションを抜けて川越へ、荒川を渡る「上江橋」の少し手前・・「大塚古墳・信号」が目に飛び込んでくる。--・二桁他国道の信号名になっている古墳だから、さぞかし”大きい”のだろうと見渡しても確認できないので気になっていた。



そもそも、宮前は、大きな神社の前という意味であるのだが、近くの宮原は、加茂(宮)神社の周辺の原(野)を意味していたらしい。そこで宮前の宮も「加茂(宮)神社」のことかと当たりをつけたが、どうも違う。武蔵一之宮(氷川神社)のこととも違う。武蔵風土記によれば、宮前の前身は「内野村」であり、隣接が指扇であったり、本郷であったり、日進であったりするが、宮前や宮前を暗示する地名が一切見当たらないのである。つまり、明治22年の町村制施行時に「宮前」地名は初見するのである。 ---・宮が地名につくから紛らわしいわけで・・・

昔の地図から俯瞰すると宮前のあたりは大宮台地の中で舌状になった入り江の水縁が表示されている。つまり近くまで、東京湾が浸食してきており、それを証拠立てる「貝塚」が付近に散見され、古代人の痕跡が確認できるわけで、「貝塚」からそれほど遠くないところに、あまり大きくない「古墳」もあったわけで、入り江は食料は豊富だったのだろうとも思われる・・・

「大塚古墳」もそのひとつで、円墳がほとんどの中、方墳は希少だというらしい。


松山城・跡

2018-02-12 19:29:59 | 史跡

松山城・跡

 

承前 ・--- 川島・道祖土氏

 

吉見百穴というのがある。大陸の墓の様式だそうだが、だとすれば、この地方の古代は渡来人の郷ということになる。


 

 その百穴への引き込みの道路の反対側が険しい懸崖になっており、岩室観音堂があり、「観音像」が安置されている。この岩室観音堂の背景地が松山城跡になっている。

 

 

  

岩室観音堂から松山城跡地に行くことは出来るようだが、かなり難儀のようなので、舗装の坂道を観音堂を裏手に回り込んで入って、松山城跡へ上る。

                

入り口付近にある「案内板」

 

武蔵国中原の要衝・・
・松山城の築城は、扇谷上杉氏の部将・上田氏・
・当初は、下総国古河の古河公方と上野国の山内上杉氏に対する鼎立抗争の前線拠点・
・その後、膨張する小田原・北条氏に対する拠点となった。河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらに松山城も攻撃を受けたが、城主・難波田憲重らが撃退し、松山城は上杉朝定の居城となったが、やがて小田原北条に敗れる。その後も小田原北条の軍門に下るを潔しとしない大田資正らが、上杉謙信の力を借りて、松山城を奪還する・・その後も・・・