ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

大宮宿 ・・・木曾街道 六十九次

2014-04-11 06:24:03 | 史跡

                                大宮宿           ・・・木曾街道   六十九次

              

中山道・大宮宿の版画絵を見ています。

富士山があり、桜が咲いています。右の土手の台地は・・大宮台地でしょうか。浮世絵の特色は誇張した表現・・ディフォルメにあります。この崖か土手がまさにそれ。左の端に青面金剛像の彫られた庚申塔が見えます。

桜咲く早春の風景のようです。

江戸日本橋から京へは、東海道53次と中山道69次の二つの道がありました。四宿一泊の原則に従えば、東海道で京に上れば十三日、中山道を選べば十七日、さらに霧ヶ峰の大門峠や木曽路は、箱根越えよりも難儀の多い旅だったと思われます。旅程も、四日余計に掛かります。

それよりも、今では”中山道”が一般的であるのに、木曾街道の名称が使われています。江戸時代は、”木曾街道”の方が普通だったようです。この部分は、少し斬新に思えます。

木曾街道の大宮付近は、江戸の初期には、氷川神社の参道を兼ねており、”恐れ多いこと”と判断され、参道と分離して中山道が整備されました。この中山道整備の奉行は、伊奈忠治(=関東郡代)で、中山道開道後に、参道脇の本陣、脇本陣、旅籠が新街道へ移されました。その時の関東郡代の陣屋は、記録では小菅陣屋とあります。・・・赤山陣屋ではないんですね。

 

                                     浦和宿

             

浦和宿の風景は、煙たなびく山が描かれております。”浅間山”のようです。木曾街道・・木曽路は”支蘇路”と書かれています。他の画の中には、岐阻街道とも書かれていて、色んな当て字が見えます。大宮には富士、浦和には浅間、が街の借景のシンボルだったんですね。

                                                                    ・・中山道六十九次・絵・・・渓斎英泉・安藤広重


参考:小菅陣屋

小菅は、徳川家康の関東入国以来関東郡代職にあって農政に秀でた伊奈氏代々の下屋敷があったところで、小菅御殿あるいは千住御殿と称され、将軍鷹狩りの時の休憩所ともなっている。なお、小菅御殿は寛政4年(1792)、伊奈氏の失脚とともに廃され、その後江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座が置かれました。伊奈忠次や忠治は、家康の信頼が厚く、鷹狩りの時の休憩所(御殿)や駿河へ隠棲するための道路(現・中原街道)や途中の宿泊所(御殿)の造成も手がけた様です。・・・中原街道は、東海道が整備される前の、駿河への道だった、と言われています。