ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

残菊

2014-12-26 22:15:44 | 草・木・花 風に吹かれて

残菊

 

冬を迎える ・・・野田の植木の郷

寂寞の感あり ・・・

 

植木の畑に、残菊が ・・・

 

○ 夢で行く いつもの道に 迷う秋


○ 余命への 祭りの終に 残る菊


お年取り魚  ・・・ 鰤、鮭

2014-12-25 10:57:21 | グルメ

お年取り魚    ・・・ 鰤、鮭


○年取り魚とは?・・ 大晦日の夜,越年に吉例として用いられる魚。サケ・ブリなど。  ・・Weblio辞書

田舎から出て、東京近郊に住み着き、早三十年を少し越してきました。
食事には、普段余り拘らない方ですが、晦日の夜の食事には多少違和感を覚えておりました。・・・というのは、田舎の大晦日の夜の食事は、鰤の塩焼きか照り焼きに決まっており、関東流の”年越しの蕎麦”の風習は、何故か馴染めません。
田舎は、信州の伊那谷です。

 

天竜川・遠景の橋は・水神橋・(南原橋から)

雑学
そこで、雑学的に、晦日の”鰤”のことを調べて見ました。
すると、”お年取り魚”のことが出ています。魚の種類は、鰤と鮭です。両方とも縁起の良い魚のようです。
○鰤は ・・稚魚から成魚までの魚の成長に応じて異なる名前で呼ばれる。 ... ワカシ:イナダ: ワラサ: ブリ ・・この名前の変遷で出世魚と呼ばれます。
○鮭は ・・海から山、山から海を行き来するその生態から、 歳神の使い、とされる縁起魚だそうです。
晦日の年取り魚の実例は、どう言うわけか信州に多く見られます。一般的に信州は、鮭文化と鰤文化があり、境界は、 北信は鮭、中、南信は鰤を”年取り魚”としているようです。
 ・・・以上の食文化は、なにも信州に限った事ではなく、全国でも見られます。しかし、こういう食文化の伝承は、全国では、そんなに色濃くは残っていないようです。
 ・・・ここで長野県と言わず、あえて信州というのは、つまらない”こだわり”からですが、その経緯は ・・・昔県庁所在地が松本であったとき、県庁が焼けてしまい、やむなく臨時的に県庁が長野へ移りました。県の中央は松本の方ですから、松本や伊那の住民は、長野市へ移った長野県庁を・「火事場泥棒」と呼び、松本に県庁が戻ることを希望します。北信東信の住民は、せっかく県庁が長野へ来たので、そのままにしようと希望します。県庁の綱引きの対立です。この県の呼称が信州だったら、そんなに感情的な対立も起こりません。そんなわけで、県民は南も北も、地元を信州と呼びます。地元の国立大学も”信州大学”です。・・ちょっと脱線の雑学。

鮭文化


奈良時代頃から戦国時代まで、鮭の水揚げは、日本海側の方が、圧倒的に多かったそうです。残された文献での記載も多いが、これは海水温度と海流に関係するのだそうです。
太平洋側で鮭の遡上が確認される限界は多摩川や相模川ですが、漁猟としてはもっとずっと北になるそうです。
日本海側では、鮭の遡上は、島根や鳥取まで確認され、漁猟としては、新潟県や富山県には、大量の鮭の水揚げの記録が残るそうです。特に、新潟県の三面川が、鮭漁が盛んで、恐らくここが随一と目されていたようです。三面川の沿岸の民家に、干し鮭が軒に吊り下がる様は、冬の風物詩で、北海道の”新巻鮭”の原型とされているようです。
北海道が鮭の本場産地と思い込んでいた自分には、目から鱗が落ちる思いの風景でした。
この新潟県から日本海へそそぐ大河に信濃川があります。この信濃川と上流の千曲川・犀川も大量の鮭遡上の川でした。千曲川・犀川の沿岸とその支流に、伊勢神宮の荘園・御厨が存在しています。御厨から伊勢神宮への貢ぎ物の中に、鮭といくらが記載されています。鮭の文化は、平安期から戦国期まで、北信濃に広がっていたのが確認出来そうです。

鰤文化


○岡田冠者の話
松本の高台・岡田地区に、豪族で”岡田冠者”が住んでいました。鎌倉時代の前後の頃の話です。
◆岡田冠者親義の話・・・
木曽義仲の挙兵に際して、最初から義仲軍に参加し活躍した源氏の武将に、岡田冠者親義があり、親義の終生の居館跡が、松本市岡田伊深にあったといわれています。今では、居館跡は住宅地に呑み込まれて、跡かたも無いが、居館近在に、一族が尊崇した式内社・岡田神社が建つ小高い丘が 、岡田親義の住居だと言われています。いまだ往古の雰囲気が残っています。近くにある伊深城は親義一族が築いた山城だとの説もあります。・・・*冠者は成人男子のこと、若武者と言う意味か。

 

岡田親義が活躍した倶梨伽羅峠の戦い・・・
                          ・倶梨伽羅峠・・石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂との境。
◆倶梨伽羅峠の戦い・・平安末期の寿永(1183)2年5月11日に、越中・加賀の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で、源(木曽)義仲の源氏軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。・・

ここが有名になったのは、牛の角に松明をくくりつけた「火牛の計」の戦いを描いた絵巻があるからだそうです。
この倶利伽羅峠の合戦には、義仲軍は「火牛の計」という戦法を取った。・・火牛の計・・「数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ・・『源平盛衰記』、これは”絵巻”にも描かれているが、しかし ・・・後年の創作の疑いもあるそうです。
 ・・・・・岡田冠者は、この戦いで戦功を上げたが戦死し、戦役に同行していた息子たちが故郷へ戻った。その際、倶利伽羅峠のある地方から、鰤と鰤の料理法を持ち帰ったと言われています。

小笠原流礼式

 

信州に於ける晦日の鰤の食習慣は、室町幕府時代から戦国にかけての小笠原守護家の統治地域と奇妙に重なる。

信州の、松本(昔は府中)と伊賀良(飯田は除く・飯田は郊戸と呼ばれ、郊戸は小笠原家庶流の坂西家)を二つの拠点とする小笠原家は、武家の棟梁であるとともに、武家の棟梁のたしなみの”礼式”の宗家でもあった。その流儀は、”弓馬の礼”を基本としながら、武家屋敷の日常の生活様式にまで及び、今でも茶道・華道を含めての「小笠原流」として広く伝搬している。


その小笠原流の正月の節分(=おせち)に関する部分を拾い上げてみると、
・床の間の飾りを床飾りと呼び、小笠原流の伝書には次のように記されています。
・・「正月の飾りには裏白を敷きて その上に餅ふたつ置きて 昆布 柑子 俵物を餅の上に置き 末広の扇子を紙にて包み水引にて中を結び 熨斗を添えて飾るなり」
・・「屠蘇の「蘇」は悪鬼を表し、悪鬼を屠るというのが、屠蘇の字義」なり。
・・「おせち料理は、正月に火を使わない風習」
・・「おせち料理はめでたいことを重ねるという願いを込めて重箱に詰め ・・ 基本は四段重ねで、上から順に、一の重、二の重、三の重、与の重、と呼び・・
一の重…黒豆、数の子、ごまめ(田作り)などの祝い肴〔ざかな〕
二の重…伊達巻やきんとんのような甘いもの中心
三の重…魚や海老の焼き物など海の幸
与の重…野菜類の煮物などの山の幸


その意味は ・・・
黒豆…一年中「まめ」に働き「まめ」に暮らせるようにとの願いが込められ・・
数の子…たくさんの卵があるというところから、子孫繁栄の願いが込められ・・
田作り…稲の豊作を願う気持ち、五穀豊穣の願いが込められ・・
海老…腰が曲がるまで丈夫という長寿の願いが込められ、海老の赤色は魔よけの色・・
昆布巻き…「よろこぶ」 の語呂合わせ・・
きんとん…「金団」と書き、その色から財産、富を得る縁起物・・
紅白なます…紅白のめでたい色は水引を表し、紅白の組み合わせは平和を願う縁起物・・
*三の重の焼き物に”鰤”が入ります。現在では、京都も鮭の入手がたやすくなったので、現代風には、鰤と鮭と両方とも入るみたいです。

残念ながら、晦日の鰤の項目は見つけられなかったが、小笠原流の地元・信州とともに、小笠原流の中心であった京の食文化は、北陸の海産物に支えられていたと言われており、室町時代の京都の食文化と無関係ではなさそうです。

伊那地方の食文化は、愛知県・三河とかなり似通っていると言われています。
鰤に限らず、山国・信州の海産物は、塩とともに三州街道を通って三河から運ばれてきたものと思われます。鰤は、富山・氷見が有名ですが、北陸に限定されたものでもなさそうで、事実三河湾の漁港でも水揚げされています。
根拠のない推論ですが、伊那地方の晦日の鰤は、北信の鮭よりも、三河の方が身近で馴染みやすく、鰤の方が入手しやすかったのではないだろうか、と・・・。事実、三河と飯伊地方(下伊那)は、陸運の繋がりのみ成らず、三河との姻戚関係のある旧家が散在します。

三河湾の漁港は波静かな海に面しています

そういえば、田舎の正月に、毎年”三河漫才”がやって来て、軒先で舞を舞ったのを思い出しました。そんな訳で、三河は、昔からかなり親近の情があるように思います。

 

○ やまざとは まんざい遅し 梅の花  ・・芭蕉



冬なのに南国気分 ・・・  大崎公園 植物園・温室

2014-12-22 14:26:18 | 建造物

冬なのに南国気分 ・・・     
      大崎公園 植物園・温室

「さいたま市園芸植物園」 + 「見沼ヘルシーランド」 + 「大崎公園」

 さいたま市緑区大崎3156-1
  (公財)さいたま市公園緑地協会 TEL 048-836-5678
  (土日祝祭日 大崎公園子供動物園 TEL 048-878-2882)

三つ合わせると、かなり広大 ・・・ 見沼たんぼの中にある。
 ・・・園芸植物園の温室とヘルシーランドの要は、どうやら「ゴミの焼却所」
 ・・・馬鹿高い建物は、煙突!?
 この熱を利用した、温室とヘルシーランド、とか

 

冬場の温室で ・・・
 南洋の果物を見た。

 it'S バナナ

 it'S カカオ


 
 it'S パパイヤ

 it'S カリン


 
 それに、蘭の花 ・・・

冬の庭園 風景

ハンカチの木に、実がなっている ・・・知らなかった。 

 


赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

2014-12-18 11:36:54 | 史跡

赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

 

概容・首都高初の「ハイウェイオアシス」の計画
 ・・・ ハイウェイオアシスとは、高速道路上にある一部のSA・PAに連結されている、道路区域外の都市公園・地域振興施設等の呼称である。高速道路の料金所を出る事なく、隣接する公園・レクリエーション施設を利用出来る。HWOまたはHOと略称される。・・・wikipediaより
 ・・・ 有名どころ 
  ○道の駅オアシスおぶせ(小布施総合公園)・上信越自動車道
  ○道の駅富楽里とみやま・富津館山道路
  ○道の駅富士川楽座・東名高速道路・上り線のみ
  ○佐久スキーガーデンパラダ・上信越自動車道・スキー場として有名
  ・・・ 関東近辺のみ

(仮称)赤山歴史自然公園の基本設計が完了しました  ・・・2014/06/20
 ===>概算事業費は約180億円を予定しています。平成29年4月に完成予定・・・

 

~(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計がまとまりました~
平成24年3月の都市計画決定、首都高速道路株式会社との事業連携を踏まえて、今年度、実施してきた(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計が完了しました。

(仮称)赤山歴史自然公園の完成予定図

 ・・内容・・・
 ・・・公園、火葬施設、高速道路PAの調和
・ 約 10.9ha の区域に、公園、火葬施設、高速道路PAの3つの施設が立地する世界的にもめずらしいプロジェクトであり、計画全体の一体感や統一感を保ちつつ、利用者の動線や視線を十分に配慮して、各拠点施設や大池・緩衝樹林・中島などを配置しています。
 ○公園内外の回遊性の確保
・ 高速道路PAに隣接して周辺施設への周遊バス発着所を設けるとともに、赤山オアシスゾーンから公園ゾーンへの入口部分に、公園や地域の情報発信施設、公園を見渡せる展望テラスを配置しています。
 ○「植木のまち川口」ならではの公園
・ 地元の植木の専門家の方々とのワークショップを重ね、周辺の開放植木圃場「オープンナーセリー」と連続する、日本ではじめての公園を計画しています。
・ 公園の随所に、江戸時代から続く伝統的な植木と近年の国際色豊かなモダンな植木を織り交ぜた植栽を行うとともに、赤山オアシスゾーンや(仮称)地域物産館において、植木や花鉢・ミニ盆栽などの販売スペースを計画しています。
 ○広域的な集客の確保
・ 高速道路を降りずに公園や地域を散策することができる、首都高初のハイウェイオアシスを計画しており、赤山オアシスゾーンと公園ゾーンの合計で、年間約350 万人の来訪を見込んでいます。
・ 赤山オアシスゾーンにおける物販・商業イベント、(仮称)歴史自然資料館におけるアートイベント・映像・展示、プレイロットにおける子ども向け大型遊具、(仮称)地域物産館における植木販売・各種教室、水源かん養育成樹林における環境学習など、市民はもとより、首都圏からの広域的な来訪者の多種多様なニーズにも対応できるよう、各施設を計画しています。
○赤山オアシスゾーンの施設概要
・商業休憩施設(建築面積 約 2600m2・地上2階建)諸室: 店舗(物販・飲食)、休憩室、情報発信施設 等・イベントテント広場(建築面積 約 700m2・地上1階建)
○公園ゾーンの施設概要
・(仮称)歴史自然資料館(建築面積 約 400m2・地上1階建)
諸室: 展示室 等
・(仮称)地域物産館(建築面積 約 600m2・地上1階建)
諸室: 植木展示・販売スペース、集会スペース 等
○駐車場の概要
公園東側駐車場(高速): 約 150 台(この他、既存川口PA駐車場 119 台)公園東側駐車場(一般): 約 70 台

植木の郷の「植木園」

赤山城(赤山陣屋)跡・治水事業の名門・伊奈郡代の屋敷跡

 赤山陣屋を見守る神社

*****
 ・・ PAに隣接してと言う表現があり、かつ圏央道・首都高に隣接し、東北道から離れているので、PAと言うことは、川口PAのことでしょうか。
 ・・ モデルにしたのは、長野自動車道の小布施PAに隣接した「ハイウェイオアシス」とのことです。

これは、参考モデルの「小布施ハイウェイオアシス」


 ・・ 力の入れ方は、相当なもので、埼玉の大都市、”川口”を、植木の郷 ・・自然をアピールして、歴史上の偉人・伊奈郡代をからめて、”鋳物の町”にかわる、もとい・並ぶ、川口のアピールのようです。
 ・・ 小布施と同じように、”スマートIC”で高速道への出入りが可能になる計画のようです。
 ・・ 現状は、宅地造成でどんどん自然が破壊されています。


猪瀬直樹が再び作家として ・・

2014-12-18 11:34:46 | ひとりごと

猪瀬直樹が再び作家として ・・

「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」マガジンハウス・\1300+税;10月30日刊

 

その前に、メールマガジンを配信して頂き、「断章 妻ゆり子の思い出」を全20章、自分としては、かなり丹念に丁寧に読んだつもりである。
発刊本は、「断章 妻ゆり子の思いで」に、「第三章 走り抜けて」を追加して構成し直している。

猪瀬の若い頃を知っている自分としては、道路公団民営化の辺りからマスコミに登場するようになるが、この間が自分には空白であった。この空白の期間の瀬の生き様を、メールマガジンと今回の発刊本は空白の穴を埋めてくれるようであった。そこには、自分の知らなかった”瀬”の生活があった。

いい内容である。

いくぶん傲慢であると見られていた”瀬”の、心情の吐露の様子は、あの時の周囲からの全面砲火に耐えて、無二の理解者への思いに馳せていく。
そして、ゆり子さんと歩いた足跡を辿り、苦楽を共にした記録を思い起こしながら記述していく。 ・・・ここには、あの”傲慢”も”高飛車”もない。マスコミに露出していた“瀬”とは別物のようだ。
 ・・・ 実は、この”傲慢”でも”高飛車”でもない、“瀬”の側面は、むかし知っていたような気がする。何時の頃からか、突っ張って”ディベート”をするようになっていった。 ・・・そうか、奥さんのことを書く時に、鎧は要らない、鎧を脱いだのか ・・?

ただ、”傲慢”でも”高飛車”という評価は、多くは部下である都庁職員とか、出版社の直接担当者の具体的イメージのようである。このことは、余りいい事ではない。いい事ではないにしても、瀬が行った業績のへの評価とは関係が無い。”傲慢”と”高飛車”という一般的には負の人格評価へのマスコミのミスリードが、瀬の行った業績の評価を汚していったように思う。

そして ・・・
「第三章 走り抜けて」
この章は、メールマガジンの「断章 妻ゆり子の思い出」に、追加された章 ・・・
この章には、徳州会病院の徳田虎雄理事長からの献金問題の経緯が詳細に記されている。あの時、疑問に思っていたことを答えてくれているだろうか、と気に掛かり、読みました。

というのは、1月の始めに瀬の5000万円疑惑について”ブログ”にアップしている。
以下がその時のブログ ・・・
○猪瀬直樹 ism      2014/01/07
○猪瀬直樹 ism 最後に・・ 2014/01/15
この二つの間にもブログの書き込みはあるが、それは瀬の著作から、瀬の考え方の骨組みを考察してみた内容で、疑問に思うことは最初と最後に集約させてある。
その時の疑問と疑惑は、解消できたのであろうか。

その時の疑問・疑惑に対して ・順不同

*1:「・・・初めての選挙と言うこともあり、資金面で不安もあり、5000万の金を借りました・・・使った言葉は、正確には覚えていないが、要旨はこの通りだったように覚えています。
・・このことは、正しいか否か別にして、納得出来る説明でした。
要するに、あまり金の掛かるような選挙はしてこなかった。
・・そうすると5000万の金は使わずに済みます。準備した3000万の金も余ったのかも知れません。猪瀬氏の最初の会見を思い出します。」
 ==>概ね、想像した通りの内容でした。違和感はありません。それで罪状があれば甘受すればヨシ。特に瀬に”聖人君子”を望んではいません。

*2:「猪瀬氏支持の関係者に挨拶回りの時、徳田虎雄に挨拶に行った・・何故?」
 ==>徳田虎雄との、利権がらみの”贈収賄”なんて、当初から瀬がマスコミに登場してきた経緯をみれば、あり得ないことだと思っていました。”贈収賄”は、瀬の生き様と合いませんし似合いません。

*3:「猪瀬直樹の判断基準は、ウェットな面を持った近代合理主義者」
 ==>この判断は昔も今も変わりません。

*4:「未だよく分からないのが、彼の政治的主張のスタンス。少なくとも石原慎太郎のもとで副知事をして、そこから政治家猪瀬直樹が生まれたこと。こうしたエッセーへの、いくつかの共感と石原慎太郎は、どうも結びつかない」
 ==>この部分は、いまだによく分かりません。たぶん”ナショナリズム”のとらえ方の部分だと思いますが、石原慎太郎と瀬では、でてくる決断が違ってくるように思えます。石原を評価している部分と違う部分を、どこかの機会に顕かにして欲しいものだと思います。
 ・・・瀬の方が、もう少し合理主義的かな ・・。その意味で、橋川文三はよく分かります。

*5:「時折走ることのある高速道路の、最近のサービスエリアは、昔のと全く違ってきました。場所により”コンビニ”もあります。おいしい”パン”も焼きたてです。この頃は、ドライブ疲れの”休憩所”から、エリア内のしゃれたショップ目的の方も多いと訊きます。道路公団民営化のあとの競争の原理が働いて進化しているように思えます。恐らく、経済的規模も、昔とは比較にならないくらい大きくなっているのでしょう。これは、明らかに猪瀬直樹のお陰でしょう。猪瀬氏本人が言えば、自慢話で嫌みになりますが、ほとんどの人がそう感じていると思います。」
 ==>最近、地下鉄で携帯が使えるようになって、大学生や高校生が喜んでいます。例えばこれも瀬の功績なんでしょうが、これは時代の流れなので、他の人が知事でも同じことをやったのかも知れません。しかし、東京都の発電所の計画は、”瀬的発想”の賜のようにも思えるのですが ・・・。他にもあるが割愛 ・・


瀬が、5000万円で知事を辞めて、50億の費用をかけて選挙を行い、新しい都政になりました ・・・。
上記では、5000万円が”たわいもない”単純ミスで、褒められたことではないのは確かですが、”鬼の首”でもなさそうです。そして ・・・・・都政は良くなったのでしょうか。
”鋭い切り込み方”のない、この歯がゆい現実を見ていると、もどかしさを感じて複雑な心境です。
 ・・と言っても小生は都民ではありません。

読み通してみると、あの時の疑問に、ほぼ答えてくれているようです。

もとに戻って ・・・
「さよならと言ってなかった  ・・わが愛 わが罪」 再び言います。いい内容です。
「ゆりこさん」へ、冥福を祈ります。


和紙の町・小川町

2014-12-11 18:04:14 | 歴史

和紙の町・小川町
  ・・・ 細川紙 -ユネスコ無形文化遺産に登録世界遺産認定


  
 ・小川和紙の起源は古く、一説には約千三百年前、当時の武蔵国に渡米した高句麗人により伝えられたのが始まりとされています。昭和61年より優良県産品に認定され和紙のやわらかさと色合いが好評です・

 == 現在の小川町で漉かれている紙が「細川紙」と呼ばれ始めたのは江戸時代中期といわれ、それまでは「武蔵紙」と言われていました。

 ・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・
 ・・・ 埼玉伝統工芸会館 ・・・
 ・・・ 和紙製造元・窪田紙業有限会社 ・・・ 小川和紙センター
 ・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・
 ・・・ 紙すき場 町に15軒ある生産者 ・・・

小川町の”小川”の由来 ・・・
 ・・・ 槻川の支川であることから、兜川は「小川」と呼ばれていたことがあり、 それが小川町の名前の由来になったとも言われている。 ・・ 小川町を中心とする比企郡の和紙産業を支えたのは、兜川と槻川の清流だった ・・
 和紙の製造には、どうやら”清流”が必要だったようで、小川町の兜川と槻川は、さらに”佳き酒”も生み出したようだ。 ・・小川町は、県内の「酒どころ」としても有名。"帝松"の造り酒屋に、何回か寄って、その都度日本酒を求めることがある。

なお槻川上流は、東秩父村になり、小川町と同様に”細川和紙"の産地として、ユネスコ無形文化遺産に登録された。

小川和紙の歴史  ・・
 ・・・ 小川和紙の起源は610年に高麗の僧「雲徴」が製紙技術を伝えたのが最初といわれ、正倉院の古文書には八世紀に ... 小川町で手漉き和紙が盛んになったのは原料の楮が自生していたこと、恵まれた槻川の清流、ときがわ町の慈光寺など多くの寺で、盛んに写経が行なわれたため、これが小川和紙の発祥と関連がある ・・・と言われています。

 ・・・ 小川町和紙体験学習センター ・・・

和紙体験センター 入り口

レトロな建物 駅付近の細い道

 

道の駅にある・伝統工芸館


紙漉の道具

カラフルな和紙

細川紙の作業工程

すかしに花や葉が・・こんなのも

和紙で作ったファッション衣料・雨で濡れたら ??

 ・・・ 和紙民芸品製造・鷹野製紙所 ・・・

・・・ 小川和紙センター

*-----*-----*-----*-----*-----*


東秩父村の細川・和紙については、こちらをどうぞ ↓

東秩父村「和紙の里」紙漉き農家


 

和紙の歴史

 

1:紙の歴史
紀元より前のころ、文字が発明されて、その頃から"紙"は使用されていたらしい。しかし、文字の記録が、一挙に紙になったわけでもなさそうだ。
中国の文献に寄れば、植物繊維の紙の前に、絹で作った紙が存在し、それが文字の記録に使われていたようだ。
エジプトでは、パピルスに文字は書かれた。初期の聖書はパピルスに書かれていたようで、この『パピルス』が”paper”の語源になったことはよく知られている。
文明の開化の時代、中国の絹の紙も、エジプトのパピルスも、かなり貴重なものとされ、製法は秘密であった。文明の発展というものは、記憶を記録するところから始まり、文字の記録は、さらに必要になっていく。エジプトでは、羊飼いが盛んであった。羊が食用とされた後、残るのが羊の皮である。これを工夫して、文字が書けるようにしたのが、羊皮紙である。羊皮紙は、パピルスよりも格段に書きやすかった。イスラム教の教典も、キリスト教のバイブルも、ヒンズー教の教典も、この世界宗教の発展とともに羊皮紙は、莫大な成長を遂げた。
エジプトから印度までの、獣皮による紙・羊皮紙が発展しているのと同時期、中国では、麻を使った和紙の原型の、植物の繊維の紙が発明されている。後漢の時代、紀元より少し前の事だ。ただ、この麻の紙は、繊維質が粗くて、文字書きには適さず、もっぱら銅鏡などが傷つくことを防ぐ、包装用に使用されていたらしい。
中国の麻紙は、やがて絹を採る蚕の餌の桑科の植物に移行していく。桑科の植物を、細かく砕くことにより、繊細な繊維筋になり、漸く文字が書けるような和紙の原型が出来上がっていく。
この桑科の紙は、中国からの仏教の伝来とともに、紙漉の技術も伝来したと見てよい。同時に、桑と絹の製法も伝わったのではないかと思う。
ちなみに、和紙で使う”楮”は桑科の植物である。楮は、山間の斜面に自生するが、水を好み、水辺の方が成長が早い。河原で挿し木によって栽培することが出来る。

 

2:和紙の歴史
さて、ここまでが紙の発明に関する外国の模様である。
日本で、紙のことが歴史に登場するのは、西暦700年代、の「正倉院文書」によってである。
 ・・・ 『正倉院文書』天平勝宝四年(753年)には植物で染色された、五色紙・彩色紙・浅黄紙などの十数種類の色紙と、金銀をさまざまにあしらった、金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙などの十数種類の加工紙の名がある。 ・・ この他に『正倉院文書』には多くの紙の名が見える。・・ 原料名を示す麻紙・斐紙・穀紙などの他に、紙屋紙・上野紙・美濃紙などの産地名や固有名詞を冠するもの、加工法を表す打紙・継紙(端継紙)、形と質を表す長紙・短紙・半紙・上紙・中紙、他に用途を示す料紙・写紙・表紙・障子料紙(明かり障子ではなく間仕切り総称としての障子にはるもの)、染料の名を示すもの、色相を示すものなど実に多くの紙の名が見える。
 図書寮が置かれ、官庁の紙の需要増大に対応して、年間の造紙量を二万張(幅二尺二寸長さ一尺二寸)と規定し、さまざまの造紙の工夫がなされるようになった。官営紙漉き場である図書寮とその付属の山城国の五十戸の紙戸が指導的立場で、写経用紙をはじめ夥しい色紙、染紙、手の込んだ加工紙などが抄造され、華麗な天平文化の一翼を担った。 ・・・”図書”は官名で、「トショ・・と読むのではなく”ヅショ”」と読みます。蔵書を目的とする役職ですが、発給する”御教書”などが法に適合しているのか、の検証の役目・・現在の大手企業の文書課の役割と、制度発足当時は、和紙の製造・運搬・販売・貯蔵までとその染料の管理までを役割の範囲にしていたのが見て取れます。役割は、やがてシュリンクして蔵書のみになり、官名詐称の道具に成り下がったようです。
 ・・・ すでにこの頃、小川郷が紙の産地であったことが確認されている。
 ・・・ 注目すべきは、既にこの頃から障子料紙としての用途の拡大が記録されている。奈良、平安の時代、和紙は建具の障子に使われていたことが確認出来るのだ。しかし、これは現代の障子ではなく、不透明な間仕切りの襖的なものを意味するようだ。
 明かり取りの機能を持った障子が普及し始めるのは、室町時代からで、江戸時代に、爆発的に一般に普及する。
 文明としての文字の記録は、文明の発展とともに、紙の普及を促していく。さらに時代を経ると、用途・目的の拡大があり、写経、和歌・俳句、寺子屋、藩校、帳簿、傘、提灯、草紙、そして何よりも障子紙などなど・・・爆発的に需要は伸びていく。このうちの、障子紙の建具への転用は、小川郷の近郷に新たな産業を生み出す。都幾川・明覚の建具産業がそれである。
 この歴史の流れを鑑みるとき、細川紙は、江戸時代までは、不況知らずの右肩上がりの産業ではなかったのではないかと想像できる。

 

3:税の中心の紙
 ・・・ 平安時代に、和紙はかなり貴重なもので、納税の品目に”紙”が見受けられます。男衾三郎(寄居町の豪族)の逸話に、子息たちが後に苦労しないため、納税を前納したことが記録に残っています。その品目の中に、和紙が入っています。この和紙は、男衾との地理的近接で、小川和紙と比定できそうです。 ・・・男衾三郎や吉見二郎は、どうやら実在の人物ではなさそうですが、壬生一族の子息をモデルにした、架空の絵巻物として作られた、と言うことでしょうか。子息が、分割された地に赴いたとき、その地名を”冠”にして、例えば”男衾殿”と呼ばれることが多かったようです。
 この頃の、納税の品目は、遠方では、馬や絹織物や地方名産品の他、”和紙”が多く見受けられます。和紙は、かなり貴重なものだったようです。
 また、御厨で、伊勢神宮に貢ぐものの品目に、「神鳳鈔」などで確認すると、、鮭と鮭の子、麻の布、和紙、馬が記載されています。埼玉県の御厨は、二カ所が確認されています。大川戸(古利根岸・松伏町)と児玉町飯倉(荒川岸・本庄市)がそれに当たります。御厨の位置を確認すると、なぜか海岸、川岸がほとんどです。このことは、想像を逞しくします。

 

しかし、明治維新以後、木材パルプで作った洋紙が廉価で出回り、ガラスが障子に取って代わり始めると、和紙の産業は、一気に”斜陽”に転換していく。



大宅文庫・越生別館

2014-12-10 22:37:23 | 建造物

大宅文庫・越生別館


大宅文庫

大宅文庫・世田谷本館

世田谷八幡山にある”大宅文庫"は、社会派ルポルタージュを書く「ジャーナリスト」にとって、宝島であるという。

”立花”然り、”猪瀬”然り、 ・・・

大宅文庫 ・
 ・・・ 公益財団法人 大宅壮一文庫(おおやそういちぶんこ)は、大宅壮一が亡くなった翌年の1971年、膨大な雑誌のコレクションを基礎として作られた専門図書館「大宅壮一文庫」を運営する公益法人。
 ・・・ 大宅コレクションは週刊誌をはじめとする通俗的な雑誌を、大宅独特の視点と方法により索引づけられている。件名別、人名別の「雑誌記事索引総目録」が刊行されているが、普通の雑誌記事索引では見られない記事を拾っているところが貴重である。
当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、1976年発生したロッキード事件で多くの報道関係者が押し寄せて以来、多くのジャーナリストやライターに愛用されるようになり、現在[いつ?]1年間でおよそ10万人の利用者があるという。 ・・・wikipediaより

今日は、昔から興味があったので、「大宅文庫・越生分館」に寄って見た・・・
越生分館の方は、 ・・蔵書数 - 書籍約7万冊 
 ・開館 - 祝日を除く火・水・木曜日、11:00~16:00(昼休み 12:00~13:00)の筈である。

世田谷本館の方は、蔵書数 - 雑誌約1万種類、約70万冊 といわれている。

恐らく、評価が定まっていない現代史の、”隠された真実”が、雑誌の方に、莫大な数で埋まっているのだろう。まさに宝の山 ・・・
立花隆の・「田中角栄研究~その金脈と人脈」や猪瀬直樹の・「ミカドの肖像」、「天皇の影法師」など、ここの雑誌類に多く触発されたらしい。・『マガジン青春譜-川端康成と大宅壮一』
特に猪瀬は、ここにかなりの頻度で通ったらしい。

大宅文庫・越生分館

行ってみると、意外と分かりぬくい。
「ゆうパークおごせ」手前の十字路を右に30m、細い脇道を上った高台にある。
たまたま、通りかかった”お巡りさん"がいたので、漸くたどり着けた次第 ・・・
脇道の口にも案内はない。いたって不親切で、公開しているといえど、来訪を拒んでいるが如く ・・・

夏休みも長かったが、既に冬休み ・・・ 残念!

所在地 〒350-0415
埼玉県入間郡越生町上野2845-2
TEL:049-277-1151


清洲会議と松姫

2014-12-07 15:27:43 | 歴史

清洲会議と松姫

「あんれ・・まあ!!」 ・・・

12/6夜、TVで、三谷幸喜の”清洲会議"を見た。
内容は、面白いことは面白いのだが ??

TV 清洲会議

清洲会議
 ・・・ 戦国時代、信長が明智光秀の謀反に合い、本能寺で”横死”した後、西国出征の秀吉が、信長の武将の誰よりも早く取って返し、光秀を征伐した。これよりの課題は、織田家の跡目をどうするか、信長の領分をどう配分するか、・・・今後の権力構造を決定付ける重要な会議・・清洲会議であった。会議の参加資格者は、柴田勝家、丹羽長秀、秀吉、滝川一益 ・・滝川は、東国で後北条との戦いで苦戦し参加が遅れる。滝川の代わりに、‎池田恒興が選ばれた。 ・・・ 織田家の跡目に、勝家は織田信孝(3男)を推し、秀吉は戦死した信長の嫡子・信忠の子・三法師を推す。この時の、裏の駆け引きも面白いが、正統性の強い三法師に決まると、秀吉は三法師を膝に載せ、織田家臣団に挨拶をさせる。本来は、幼い跡目の三法師への挨拶だが、あたかも新主人の秀吉への臣従の挨拶のようであった。・・・
 ---以上が史実であるようだが、ドラマには「所々史実とは異なる作り話」を入れてある。TVを見ての感想と評価を読んでみると「作り話」までが、史実であるかのように受け取られている。

清洲城

柴田権六が、あそこまで”あほであった”かどうかの誇張や、お市の方が、あそこまで秀吉を嫌っていたかの誇張は、とりあえず許される範囲と言うことにする。

小説・清洲城

しかし、三法師の母、信長の嫡男・信忠の正妻を、信玄の娘・松姫にしたのは史実に反する。 ・・・恐らく三谷幸喜は、分かっていて、あえて松姫にしたのだろうと思うが ・・・これを史実と信じる評価をあまりに多く見ると、なにか危うく感じてしまう。・・・これは違うのだ!


松姫のこと ・・・

松姫を演じた 剛力彩芽

おいたち
松姫は、永禄4年(1561)に古府中(甲府市)のつつじが崎の屋敷で生まれました。父親は戦国時代の武将の一人で甲斐の国(山梨県)を中心に活躍した武田信玄、母親は油川信友の 娘です。永禄10年(1567)11月、松姫が7歳の時に織田信長の11歳の長男信忠(幼 名:奇妙丸)と婚約しました。結婚のお祝いわいの品は、帯や布地、織物、金・銀の細工物、虎やヒョウの毛皮など豪華な品々がやりとりされました。この時代の身分の高い人たちの結婚は、「政略結婚」といって、家同士どうしの結むすびつきを強めるために、本人の意思と関係なく親が決めていました。結婚式まで相手の顔を見ないこともありました。


かなしみ、そして旅立ち
元亀2年(1571)、松姫が11歳の時に母が亡なくなり、翌年には武田家と織田家が敵・味方に分かれてしまったため、信忠との婚約が解消されてしまいました。原因は、三方が原の合戦の時、織田の軍勢が武田と敵対していた徳川の軍勢に加勢したためでした。
さらに、天正元年(1573)4月には父・信玄が亡くなり、織田家は武田家を滅ぼそうと攻せめるようになりました。武田家が滅亡する天正10年(1582)1月下旬、松姫は、留まっていた兄・仁科盛信の高遠城に織田軍が攻めてくるとの知らせに、兄・盛信の3歳になる姫を連れて高遠城を逃れました。その後、、新府城に行って兄・勝頼の4歳になる姫、人質として預かっていた小山田信茂の4歳になる姫も加わえ、少ない供を連れて逃げ延びていきました。高遠城(伊那市高遠)から始じまり、新府城(韮崎)→入明寺(甲府市)→開桃寺(今の海島寺・塩山市)→向獄寺(塩山市)→ 金照庵という古寺(八王子市上恩方)まで、 幼い姫たちを連れ、そしていつ敵に見つかるかもしれない旅は、精神的にも肉体的にも大変なものでした。
6月2日、本能寺の変が起こり、武田家を滅ぼした織田信長、信忠が亡くなってしまいました。その年の秋、金照庵から心源院(八王子市下恩方)に移り、髪を切って尼になり、信忠をはじめ、武田家一族の人たちの冥福を祈りました。


▲鶴巻橋の松姫像尼になって名前が「松姫」から「信松尼」に変わりました。松姫、22歳のことです。松尼の「信」は、信忠の妻であるという意味が込められていると伝えられています。


信松尼と信松院
心源院で8年間の 修行をつみ、天正18年(1590)の秋、御所水の里(今の台町)に移り住みました。尼としての生活を送りながら、11、12歳になった3人の姫たちを育て生活するため、朝から晩まで 働きました。収入は、寺子屋で近所の子どもたちに読み書きを教えたり、織物を作ることから得ました。もちろん、織物はカイコを育て、糸をつむぐことから始まります。これらの松姫の織り方が、八王子の織物の発展につながったと言われています。
また、かつて武田信玄につかえていた大久保長安は、松姫が八王子にいることを知り、彼女のためにりっぱな草庵(今の信松院がある場所)を贈りました。元和2年(1616)、松姫は56歳で亡くなりましたが、生前の願いがかない、この草庵はお寺にされ、「信松院」と名付なづけられました。このお寺には、松姫のお墓、江戸時代のなかごろに作られた木造の松姫坐像、日本最古の木造の軍船模型があります。この軍船模型は東京都の指定文化財になっています。境内には布袋尊がまつってあり、毎年1月の1日から15日まで八王子七福神巡りの一つとしてにぎわいます。また、毎年7月には「ほおずき市」がおこなわれ、夏の風物詩になっています。・・・八王子図書館


 
松姫は、大変美しい方だったという伝承が残っています。それと、織田の高遠城攻めの後、八王子へ逃れていた松姫のもとへ、織田信忠から、改めて正妻に迎えたい、という書状が届き、松姫は心待ちにしていたと伝えられています。その直ぐ後に、本能寺の変が起こり、信長と信忠は"横死”しました。”本能寺の変”を聞いた松姫は、一生独身を決意し、尼僧になったと伝えられています。何故か、この逸話からか、女性に圧倒的に人気が高いそうです。こうゆうのを、"純愛”というのかもしれませんが、所謂”歴女”という人達からかなり評価の高い歴史上の女性のようです。


 

松姫・side-story


見性院に預けられた幸松(コウマツ)を、嫉妬深い二代将軍の御台・お江の方が追跡を始めると、幸松の身を案じた見性院は、妹の松姫(=信松尼)に相談します。松姫は、姉の願いを聞き入れて、幸松を八王子の自分ところへ隠すことにします。

この時見性院と松姫(信松院)は、幸松の”身の安寧”を願い、祈願文を大宮・氷川神社に納めた、といわれています。
この祈願文が本当にあるのかどうか、氷川神社の若い神官に尋ねたことがあります。 ・・・氷川神社には、そのような祈願文の管理はしてないそうです。若い神官が言うには、もしあるとすれば、”歴史的古文書は、宮司の西角井家の方で管理保護している”にではないか、とのことです。
幸松は、後の”保科正之”の幼名。三代将軍家光の弟で、成人してから、親藩筆頭の会津松平家の始祖になった人。幼年の幸松を庇護した見性院は、家康から浦和の大牧に知行をいただき、大牧に墓があります。その知行地は、伊奈忠治の管理下で、忠治が見守ったと言われています。


 ・・・経緯から、公にはなりにくい内容ですが、松姫は、幸松も庇護したのではないかと言われています。



浦和レッズ 2位 決定

2014-12-06 23:59:47 | 時事ニュース

it’s a pity!

2位 決定

SAITAMA URAWA

RED DIAMONDS

 

今宵は、酒場で、残念会 !!

それにしても、G大阪は、降格の危機から、あれよあれよ!と勝ち続け、優勝。

見事 天晴れ !

 


片羽の白鳥

2014-12-03 15:41:10 | 草・木・花 風に吹かれて

白鳥の川 越辺川の昼下がり


 

川に遊ぶ?いや餌を探す白鳥

 

片羽の白鳥 

右の方 ・・・か!↑


太陽に透ける、片羽の白鳥 ↓

今年の早春のこと、対岸の坂戸・赤尾か島田あたりで、餌を探している最中、野良犬にやられたらしい。

渡り鳥 ・・・故郷へ帰らず 留鳥になって住み着いたという。

そういえば、白鳥見学の際に、「犬を連れた見学への”注意書き”」が、やたらと増えている。