ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2

2019-07-24 22:00:03 | 建造物

「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2


さて、本願・
ここに来た理由は、下記の文を目にしたからに他ならない。


参照:---- ・天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わって ・ ----・保科正則夫妻の墓 飯高法華寺:▲大乗山法華寺の保科正則夫妻の墓・----(to KAZUSA)
本当に、保科正俊」の墓が、茂林寺にあるのだろうか?と来てみたわけである。内藤昌月父子は、厩橋(高崎)の箕郷、--・箕輪城からも、保渡田城からも、案外遠い館林の地・・

 ここで、歴史好きにはある程度メジャーだが、普通は「知る人ぞ知る」ぐらいの「保科正俊」について概要を説明しておく。興味の薄い人は、・・ままに。

保科正俊は -----・戦国時代の武将。保科正直、内藤昌月などの父。はじめ、高遠頼継の家老。後に武田信玄の家臣となった。信玄の戦役に務め、「槍弾正」の功名を挙げる。子息:保科正直は家康の家臣、家康の養女を妻に迎えた。正直の子の保科正光の妻は真田正幸の娘、子ができなかったので三代将軍:家光の弟:正之を養子に迎え、やがて保科正之は会津松平藩の祖となり、家光の幕政を助ける。内藤昌月は、正俊:息から内藤昌秀(昌豊)の養子になる。内藤昌豊は、戦国時武将。信玄の家臣で武田四天王の一人。戦上手と言われ、敵城を自分の軍も相手の軍も損なうことなく幾つも落としたという伝承の持ち主。小笠原亡き後の松本城の城代を務めた後、厩橋(今の高崎)の城代を務める。厩橋時代の居城は、保渡田城か箕輪城。・-----
-----・保科正俊は、織田信長の「武田攻め」で高遠を追われ、息子のいる厩橋(高崎)に落ちる。隠棲先は保渡田城と思われる。信長横死のあと内藤昌月の兵を借りて、息:正直とともに高遠城を奪還し、すぐに家康の家臣になる。秀吉の世に、後北条攻めがあり、家康は、五国太守から関東:江戸へ入封される。家臣も随伴。保科正直は、房総:多胡へ1万石で入封される。この多胡時代に、正直病気のため、息:正光に相続。正俊は、正光が多胡城主時代に没。・-----


茂林寺・門前風景


門前の土産物屋の店は寂しく、うどん屋は店を閉めている。寺が、格式が高そうなのに比して、これである。
それはさておいて、寺門をくぐると、茶釜の狸が参道の両脇に並列して迎えてくれる。壮観である。

 

 

左手が墓地のようである。左手の墓地に足を踏み込むと、手前の墓は真新しいが、奥へ行くにしたがって、古びて苔むしたような墓石が散見できる。あればあの付近だろうと当たりを付けて寄ってみる。古いのの大方が、居士:大姉の二つながらを刻印した夫婦募石であり、対象から除外・・それに墓石が古いのは、刻印が崩れて、天正や文禄の文字が読み取れない。中には宝篋印塔らしきもあるが、供養塔の場合が多く、たまに墓塔としても扱われるという。文字の判読が能わず・・


半ばあきらめ、御朱印を記帳してくれるご婦人のところへ行き、「ここに戦国時代の保科正俊の墓があると噂できてみたが、知らないか」と尋ねてみた。
暫くして、ご婦人は、この寺に住職を連れてきてくれた。

 


茂林寺の住職によると、どうもそれらしき塔があるという。この塔を訪ねて、高遠から人が調査に訪れ、「保科」に関連がありそうだから塔を高頭に持っていくといったらしい。かなり乱暴な話である。
住職は、その塔に案内してくれた。


その塔は、「宝篋印塔」に近いが「宝篋印塔」というには不足物があるようで・・住職に言わせると、長年の歳月で、塔基下方部が損壊したのかもしれないという。「宝篋印塔」が墓でないとは言い切れないが、供養塔である場合が圧倒的に多い。

 

刻印された文字は、私には・・ところどころ・・しか判読できないが、さすが和尚・・は、なんとか判読してくれた。
それが以下である。

             

・「祥雲院殿椿叟榮壽大居士」は保科正則の法名である。正俊ではない。

でも、なんで、「保科」の供養塔(墓?)が茂林寺にあるのか?

  -----・次回に解析を試みます。また、茂林寺住職・古川正道氏の丁寧な応対、協力と判読に感謝いたします。


茂林寺 :1

2019-07-22 22:16:50 | 神社・仏閣

茂林寺 :1


「蝶々の 婦ハリととん多 茶釜哉」 一茶


 ・・・> 「蝶々の ふわりと飛んだ 茶釜哉」



茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。


室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」

寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。


この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそらく本当だろう。


今は「花」の季節でもないし「花」を見に来たわけでもない。だが、この沼の多き付近は、つつじ」を始めとする花の名所が多い。季節には多くの見学者を集める。


「狸」見学も副業である。

 

目的ではないが、折角なので馴染んでいくつもり・。ちなみに、ここの「狸の置物」由来は、童話:「分福茶釜」の発祥の地に因するとされている。

 

(「分福茶釜」割愛)