ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

紅葉・まで、あとすこし・・

2013-10-28 02:29:08 | 日記

先日、法事で、信州飯田に行ってきました。

いつもは、車で行くのですが、今回は高速バスです。バスの車窓からは、あいにくの雨で山の紅葉が見えません。やがて止んだ雨の後、飯田の町の街路樹は、やや色づいております。

        ・・街路樹の紅葉のはじめ・・・

 

気温に差があるのでしょう、さいたまの自宅周辺とは少し違うみたいです。

帰って、TVを見ていると、JR東海の「南禅寺の紅葉」のCMをやっています・・・・・。相変わらずに、”三都物語"というのでしょうか・・・。BGMも、変わらずに、アレンジ編曲の「My Favorite Things」です。

・・・南禅寺の紅葉(転用)

聞いていたら、本物を聞きたくなりました・・・

マイ・フェイバリット・シングス- ジョン・コルトレーン - YouTube

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歌詞(原文)と下手な訳

1番

Raindrops on roses and whiskers on kittens
Bright copper kettles and warm woolen mittens
Brown paper packages tied up with strings
These are a few of my favorite things

バラに降りかかる雨 子猫のひげ
ピカピカに光る銅のやかん あったかそうなウールのミトン
ひもをかけた茶色の小包
これらは私のお気に入り

2番
Cream colored ponies and crisp apple streusels
Doorbells and sleigh bells and schnitzel with noodles
Wild geese that fly with the moon on their wings
These are a few of my favorite things

クリーム色のポニー 歯触りのいいリンゴのシュトロイゼル
ドアの鈴 そりの鈴 ヌードルつきの子牛肉のカツレツ
月夜に翼を広げて羽ばたく雁の群れ
これらは私のお気に入り

Girls in white dresses with blue satin sashes
Snowflakes that stay on my nose and eyelashes
Silver white winters that melt into springs
These are a few of my favorite things

白いドレスに青いサテンのサッシュを身を纏った女の子
鼻やまつ毛に残った雪片
春になりかけて溶けだした銀白の冬
これらは私のお気に入り

When the dog bites
When the bee stings
When I'm feeling sad
I simply remember my favorite things
And then I don't feel so bad

犬に噛まれたとき
ハチに刺されたとき
悲しい気分になったとき
ひたすら、好きなもののことを思い浮かべる
そうしたら、悲しさが遠のいて、気分が晴れてくる

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アルトサックスもテナーサックスも好きですが、この曲の場合、耳慣れないソプラノサックスです。どうでもいいことですが、僕の場合、ソプラノサックスとの音質の差が分かりません・・・・・

John Coltrane 大好きな友人が、彼の死を悼んで「コルトレーンに捧げる挽歌」という詩を書いていたのを思い出します。学生時代の話で、学生アパートの隣室の友人です。その友人・・”じゅん”にも会いたいなあ・・・

「そうだ京都にいこう・・」とまでは思いませんが、夏場に巡回した秩父の寺院の庭園に、紅葉時期に又来てみたいところが何カ所があります。Coltraneの「My Favorite Things]のCDをかけた車に乗って、もう少ししたら、出かけてみようか・・と思っています。

 

 


雨の中の秋桜が・・

2013-10-24 17:13:45 | 日記

雨の中の秋桜が・・

 コスモスは秋桜とかくようだ。医者で俳人の、水原秋桜子は、よほどコスモスにこだわりがあったのだろうか、号に秋桜を選んでいる。しかし、詠んだ句は意外に少なく、数句にとどまっている。

よれよりも、”さだまさし”の歌の ”秋桜” が、なぜか馴染みます。・・作詞作曲。

・・・・・山口百恵の ・「秋桜」 ・・・CMはスキップできます・・

              秋桜 山口百恵 - YouTube

    さだまさし  ・「秋桜」 ・・・CMはスキップできます・・

              秋桜 - YouTube 

 

秋桜に対するイメージは、この歌から変わったような気がする。それまでは、秋桜には深い思い入れも、意味付けも、考えたこともなかった。いまは、秋桜を見ると、歌の情景が、浮かんできたしまうようになった。

・・・・・こんなのは、自分だけだろうか、こすもす は " コスモス ”ではなくて ”秋桜” の方がいい。

自分には、秋桜は”群落”でなくてもいい。むしろ、路傍に咲いた、雑草の中に、まばらに列をなした秋桜の方に愛着を感じる。そこに涼しげな風が吹いて、ようやく暑い夏の終わりを、かすかに目と肌で感じる・・・

「コスモス街道」の名がついた道は多いが、記憶に残っているのは、

             ○佐久街道 と ○館山に行く道

涼しくなった風が、秋桜を揺らしながら、旅を誘う・・・・・

 

      

 

秋桜をみた帰り、O沼テニス公園の自転車置き場の木立が紅葉していた。芝生に落ちた朽ち葉と紅葉が光って、自棄になったように、きれいに見える。・・・・・   もうすぐ、紅葉の季節  ・・・・・

 

 

 

 

 


虹を見ました

2013-10-23 01:39:14 | 日記

 ・・虹を見ました。・・・少し前のことです。

場所は、通船堀公園・・・公園らしくありません。芝川と見沼用水西縁線が合流する辺り、川口なのか浦和なのか、どちらか分かりません。大きく弧を描いて、地上に落ちています。久しぶりの虹です。

 

    ・・      虹立ちて 忽ち君の 在る如し  

            虹消えて 忽ち君の 無き如し    ・・高浜虚子

           ・虹を吐て ひらかんとする 牡丹かな   ・・蕪村


そうだ、今日は”りす” に会いに行こう!

2013-10-21 23:41:18 | 日記

大宮駅での待ち合わせは、左右の改札口の中央にある、金属のモニュメント、「豆の木」ということになっている。

・・この金属の”つる”が・・豆の木

だが、一昔前は、駅での待ち合わせには、駅階段・東口・を下りきったところの広場に佇む”りす”の像の前が利用された。しかしメジャーではなく、知らない人も多い。

・・りすの像・「子リスのトト」ちゃん

この”子リスのトトちゃん”は今から50数年前に、市制50周年を記念して、大宮のアイドルマスコットとして、制定されたらしい。それは、大宮出身のアニメ作家の絵から選定されたようだ。

・・雰囲気は、子供アニメのようだが、そして作者も、自分には分からない。どうも、大宮の、象徴的マスコットは、”りす”ということになるようだ。そういえば、プロサッカーチームの「大宮アルディージャ」は、「Ardilla]=りす、からの命名という。

 

そんなこんなで、・・・

・・「市民の森・見沼グリーンセンター」にやってきた。入口にある、レリーフの板碑は、色んな果物と野菜が彫られている。覗き窓?に鎮座するのは、青いリンゴ?。

反対側を見渡すと、見沼たんぼ風景と風車・・・

遠くに見える電車は、東武野田線・・・

園内は、公園です・・・

・・入口から、芝生の原の方角の風景・・

・・熱帯植物園、ですが、自分には”生暖かく”て苦手。

・・ここに、りすの家、があります。入場料は、確か、無料ですが、本日休館の文字が見えます。・・・残念

りすの飼育所のりす・・・

    

・・全長20Cmぐらい、手のひらに乗りそうです。シマリスです。

 

 

 

 

 


見沼代用水路の開鑿と沿線の幕藩の統治風景

2013-10-10 15:06:44 | 歴史

見沼代用水路の開鑿と沿線の幕藩の統治風景

 

江戸時代初期、武蔵東部の低地では越谷の辺りで合流し、氾濫を繰り返していた利根川と荒川を引き離し、その跡を一大水田地帯にする大土木事業が行われました。 利根川は文禄2年(1594)から60年をかけて銚子へ導き、荒川は寛永6年(1629)、熊谷の久下で元荒川を締め切り、入間川・隅田川を通じて江戸湾に導きました。大河川が遠のいた跡の池沼地帯では、耕地を広げるために池沼の水を排水する落川(おとしがわ)や農業用水を貯めておく溜井(ためい)がいくつも造成されました。

これらの大土木事業を行ったのは、伊奈備前守忠次を始めとする伊奈一族です。忠次の次男半十郎忠治は荒川を付け替えた同年に、現在のさいたま市東部に広がっていた見沼の東岸と西岸が最も近づく附島(緑区)と木曽呂(川口市)の間に約8町の長さから「八丁堤」と呼ばれる堤を築き、見沼への流入水の貯留を図りました。これが、「見沼溜井」です。

この、大工事によって、作り出された「たんぼ」は、この頃で約80万石、見沼代用水沿線だけで約8割弱の60万石と言われています。上流と下流は、氾濫原の低湿地地帯の堤防や治水で、中流は沼を干拓することによる「たんぼ」の創出です。中流の沼の干拓は、従来とは違う治水方法が必要です。従来の治水は、伊奈流と呼ばれる伊奈忠治が担い、沼の干拓は、新技術で井沢為永が担いました。これらの新田は、武蔵田園簿」と呼ばれる検地帳の中に、新田の名前、例えば下山口新田のように見えます。

ことに生産力の大きかったのは、浦和から川口、足立に渡る地区ですが、今ではそのほとんどが「たんぼ」ではなく、住宅地に変わっています。

この地区は、江戸から近く、ほとんどが江戸から”一夜泊まり”の距離で、幕府の重要幕僚の経済的基盤とされたようです。つまり、この沿線の藩は、老中だらけの藩というわけです。

*余計な知識ですが、江戸幕府の将軍の日光東照宮参詣は、往来共に三泊四日づつの行程でした。一泊目は岩槻宿、二泊目は古河宿、三泊目は宇都宮宿でした。従って、一夜泊まりの距離は理論上、古河になり、古河藩まで含まれます。幕藩初期古河藩は、土井家が移封されていました。そういえば、土井も老中であったようで、鎌倉の玉縄藩の本多正信とともに、初期の重要閣僚だった様です。

いまでは、岩槻には日光街道(R4)は走っていません。時代の経過が、日光との関係を薄くしていきます。

  忍藩・・ 歴代藩主2.1 松平(深溝)家2.2 松平(東条)家2.3 松平(大河内)家2.4 阿部家2.5 松平(奥平)家

忍藩は戦国時代は小田原北条家に属した成田家の城でした。近頃、「のぼうの城」で有名になったあの成田家です。この城は浮城とも呼ばれ、周囲は伏流水の流れる、利根川と荒川の支流の低湿地地帯で、生産力は高くありませんでした。その為、家康の四男の松平忠吉は10万石はでしたが、家臣団も多く、経済的には火の車だったようです。

 騎西藩・・写真は城のようですが、城の形をした、確か婦人会館だったように思います。歴代藩主は松平家と大久保家です。大久保家は大久保長安事件で転封されて、その後騎西藩は廃藩となります。この後は、川越藩の管理になります。

 川越藩・・ 歴代藩主3.1 酒井〔雅楽頭〕3.2 酒井〔雅楽頭家分家〕3.3 堀田家3.4 松平〔大河内〕家3.5 柳沢家3.6 秋元家3.7 松平〔越前〕家3.8 松平〔松井〕家

この藩は、老中も多いが、なかでも優秀な老中を多く排出した藩で、特に知恵伊豆の松平信綱や柳沢吉保などが名高い。周りが少石高の藩が多いのにに対して、騎西藩や伊奈熊蔵家の廃藩や廃絶にともなって、双方をも管理している。また、喜多院の防衛も兼務したと見られる。そんな様子をみると、どうも北関東の要の城かな、と思います。

 伊奈小室陣屋は廃絶の後、川越藩に管理されました。伊奈熊蔵忠次の居城です。忠次の役職名は、関東郡代頭です。この人は、洪水・氾濫に明け暮れる、利根川や荒川の流れを、江戸城付近に流れ込むことを防ぎ、利根の瀬を銚子方面に(東遷)、荒川の瀬を入間川に繋ぎました・・西遷。大プロジェクトなので、実施は何代にも及び、荒川の瀬替えは、三代忠治の時です。・・・・・実は、この伊奈熊蔵家の伊奈の出自にこだわり、調べています。・・・「探 三州街道」ブログ。

 

   岩槻藩  歴代藩主2.1 高力(こうりき)家2.2 青山(あおやま)家2.3 阿部(あべ)家2.4 板倉(いたくら)家2.5 戸田(とだ)家2.6 松平(藤井)(まつだいら(ふじい))家2.7 小笠原(おがさわら)家2.8 永井(ながい)家2.9 大岡(おおおか)家

こちらも、ほとんど老中を勤めた家柄です。無理すれば、川越藩同様に、一泊しなくても江戸に駆けつけられる距離です。川越が十三里で約50Kmの距離、こちらは更に短く30Kmの距離です。

  岩槻城は、太田道灌が造った城です。太田道灌は、生まれは、越生辺り、主君の上杉家は川越、道灌の居城は岩槻で、最後は伊勢原でだまされて殺されます。そのころ、岩槻城の脇を、荒川本流が流れていました。川の今の名は元荒川だそうで、城のある公園は、巾着田のような形で荒川に突き出ています。

   伊奈赤山陣屋跡  赤山陣屋跡、伊奈半十郎忠治を祖とする伊奈家の陣屋跡。伊奈家は、川口辺りを中心に七千石の知行をもらい、歴代関東郡代として、治水と農政にに勤めました。この家系も、幕府の重要官僚でした。

 

 


見沼氷川公園 三室周辺・・

2013-10-06 00:26:20 | 歴史

見沼氷川公園

この公園が、かって湖水に沈んでいたこと、また湖水に、赤い鳥居が突き出していたことを想像すると、いささか奇妙な感に襲われる。広島の厳島神社を思い浮かべて、絵になる光景であるとも思える。・・・事実は、ここにある通りの、極めて静寂な、人影もまばらな、当たり前だが自然豊かな公園である。

   ・・ここは、船の祭事の跡地・

湖水があった時代は御船祭が、干拓されて干上がった後は岩舟祭が、祭祀されたという・・・

跡地両側は、沼なのか川なのか、大きな鯉の影、魚影が見え隠れする。神事からの伝承を信じれば、片眼の鯉ということだが、釣りでもしなければ確かめようもない。・・・確かに船の祭祀跡はかなり神秘的なにおいがしないでもない。

   ・・公園の周囲・・

公園石碑と用水脇道路と見沼西縁水路・・・

見沼用水西縁線は、見沼たんぼから、約1Mくらいの高台を流れるが、東縁線が3-4Mぐらいの高台を流れるのに比べて水位はかなり低そうにも思えるのだが・・・

ちなみに、この高台は三室と呼ばれている。この三室は、江戸以前の古書には、御室の文字が見られ、三室の文字はあまり見かけない。これは、見沼がかっては御沼とか三沼と呼ばれていた事実と同様な呼ばれ方・・・日本の歴史を読む人は、読みは同じでも、書きが違う例はかなり多く、頭を柔軟にしていないと間違えそうだ。

 「三室」という地名が宮本の氷川女体神社に由来することは間違いない。広辞苑では・・「神を安置し奉る室、すなわち神社」とある。氷川女体神社の古文書の中の「大般若波羅蜜多経」には、「御室大明神」などの言葉もあり、それが、「三室」という文字が出てきたのは、戦国時代のころといわれている。「御室」がいつしか、「三室」になったようである。三室の地名は、実は各地にあるが、三室山には、岩室がある。岩室は、一族の長などの首長級の人が死んだ場合に葬られる場所を指していると言われる。ここの三室地区にも、、女体神社の背後にある、三室山と、小学校裏の小室山が祖霊の山としてあったことが、想像される。

氷川神社の宮司、西角井家の系図に拠れば、武蔵国造り、武蔵武芝は御室に住居し足立郡を支配したとある。武芝は、住居した近くに墓も造ったのだろう。その墓地周辺を室と呼び、御室と呼び三室になったのだろう。この時代の墓は、墳墓であり、小高く積み上げた山であった。また、この足立であるが、日本尊の伝承に寄れば、大宮氷川神社が発祥の起源であり、足立郡の勢力の及ぶ果てが、東京の足立区までとすれば、本来この周辺を、さいたま市ではなく、足立市としたほうが理屈として整合性がよいが、勢力の遠くが、地名として残ったというのも、面白い話である。永六輔さんによれば、足立も安達も安立も阿達も阿立も足達も皆同じ語源で、読みを同じくし、書きが変化したのだという。永さんの生家は宮司だという。

その根拠とするところ・・・

武蔵宿禰の後裔、武蔵武芝の名前は、平将門の反乱の折りにでてくる。天慶2年(939)武蔵国の権守興世王と介源経基が足立郡司武蔵武芝と対立したのを機会に武蔵に平将門が侵攻し、やがて新皇を名のるようになる。「将門記」には武芝を評して「郡司は正理を力となす」「誉ありて謗なし」としている。しかし、武蔵武芝はこの争いの中で平将門側にたったため、没落した。代わって足立郡司は武蔵武芝の女婿の菅原氏へと移り、氷川神社の祭司職も菅原氏に移った。平治の乱に名前の見える足立遠元は鎌倉幕府成立後に公文所寄人にも名を連ねる有力御家人である。武蔵武芝の末裔とも言われるが定かではない。

・・・これを見て見ると、氷川神社を最初に創建した人達の輪郭が浮かんでくる。・・「武蔵氏は、相撲の元祖と伝えられるノミノスクネの後裔、土師氏(菅原道真の一族)や、出雲氏と同族の関係になった。いわゆる出雲系の神がみをまつるのが、これまた出雲系の武蔵氏集団だった。」(「古代の東国の風景」・原島礼二)と定義している。・・・こうして土師氏が氷川神社と関係してくれば、冬至や夏至の太陽祭祀からの暦の知識に、さらに納得する。

見沼台地の南側に位置する、八丁堤付近(武蔵野線東浦和駅付近)は、今は大牧と大間木と区分して呼ばれている。だが、昔は区分なく、大牧と呼ばれていたことが想定される。つまり牧・・馬の生産地の牧場だった場所である。それがいつの日にか、牧場と農耕居住地が区分されて、こちらの方が大間木と呼ばれるようになったらしい。大牧は江戸時代に、家康から見性院に知行がおこなわれ、その庇護を伊奈家に命じたらしい。・・見性院は、武田信玄の娘で、穴山梅軒の妻であるが、いまでは家光の弟の保科正之の幼少の養母としての方が有名で、嫉妬深い「お江の方」から、正之の幼少を守ったことで知られる。見性院の墓は、大牧清泰寺にあり、武田菱と葵の紋が飾られている。

こうして見てくると、三室も歴史遺跡の多い所で、興味深い。今では、武蔵野線東浦和を最寄り駅として、緑がかなり多い、閑静な住宅街を形成し、浦和の中でも、人気の高い住みたい地区になっている。