ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

庚申塔の記

2014-04-20 20:32:33 | 歴史

                                   庚申塔の記 ・・青面金剛

                                        むかし、婆様に
          「人間は生まれながらに胎内に、悪い虫が三匹おってナー、そいつが寝てる時に体から抜け出して、悪さをすることがあるンジャ」 
                                     ・・・と聞いたことがある。

                       高遠・藤沢の庚申塔 青面金剛像

最近では、総持院に桐の花を見に行った時、境内で、青面金剛像を見かけた。また、時々田舎道を歩いていると、文字だけの”庚申塔”や”明王を彫った青面金剛像を見かけることがある。数年前、信州高遠の藤沢と言うところを歩いていた時、道のところどころに、凝った彫りの庚申塔や石に文字だけを粗く彫っただけの、すさまじい数の庚申塔を見かけたことがある。その時は、”さすが、石工の街”という感想であったが、考えてみると、かって民衆に深く土着した信仰であった様な気がする。この「庚申信仰」とは、一体どんなものなのか・・興味が湧く。

                         

                                
・・・
現在に伝わる庚申信仰とは、中国道教の説く「三尸(さんし)説」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である・・三尸とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。三虫ともいう。・・さらに、上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。・・これでは、何のことか分からない。

                     総持院・青面金剛像
                                                更に調べると・・・
庚申信仰の行為は、六十日に一度の庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずに過ごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。・・庚申待ちは平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。

                                     大興寺

                          以上を、婆様の言葉と重ねて照らし合わせると、少しだけ理解出来るようになった。

『柏崎物語』によると織田信長を始め、柴田勝家ら重臣二十余人が揃って庚申の酒席を行ったとある。さらに度々途中で厠に立った明智光秀を鎗を持って追いかけ、「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたともあるという。・・ 宗教を信じないような振る舞いの信長が、庚申信仰は信じていた・・と。
『入唐求法巡礼行』承和五年(838)11月26日の条に・・〈夜、人みな睡らず。本国正月庚中の夜と同じ〉とあり、おそらく8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと思われる。すなわち守庚申とは、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという行いである、とあります。

                                 高遠藤沢の青面金剛像

                                            歴史の流れを見て見ると・・・
庚申待が一般に広まったのがいつ頃か・・、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついたようです。仏教と結びついた信仰では、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。
また「日吉山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申塔」や「碑」には、「申待」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
このように、本来の庚申信仰は、神仏習合の流れの中で、猿を共通項にした新たな信仰へと変化しているようです。やがては宮中でも、庚申の本尊を祀るという形へと変化が見られるようになった。・・仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。
しかし、大正時代以降は急速にその信仰が失われた。

                                    大興寺

庚申塔の中の、青面金剛は、日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。・・インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。

                            遊馬・高城寺

庚申の申は、かのえさる・・猿に通じ、庚申信仰は”猿”が庚申の使いとされ、庚申塔には猿が描かれるようになり、三猿を見かけるようになった。また、猿は猿田彦の神道にも通じて、猿田彦を祀る神社も、庚申信仰の対象になった。           ・・ それにしても、神仏習合は、道教も習合していたのか!