ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「松本」学、あるいは「松本」考:6  山家」の読み方

2023-08-28 09:33:32 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:6

6:山家」の読み方

山家」の読み方

---・ 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり
---・上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います

と、先に書いた。
この「山家」は、「やまや」と読むとばかりに思っていた。

里山辺を散歩中に、地元の人との会話で、この城跡は「やまべ=山家・城」だと知った。散歩中に、この会話がなければ知りえなかったことである。

山家城跡:写真


「山家」を「やまべ」とは、難読の極みである。松本が、城下町の体裁を整えて、人口を増やしてきた折、新参者は「山家」を「やまや」と読みえず、呼び名は習わしであることから、当て字の方を「山辺」と変えたのであろう。そして「山家城」の主の統治の領域は、里山辺、入山辺、三才山辺りであったのではなかろうか。そういえば、美鈴湖の地籍は、三才山である。

歴史書を読み返していると、小笠原家の内訌、諏訪大社三社(上社・下社・高遠)の内訌、戦国期の初期、‥‥山家城は、度々府中小笠原に攻められた。山辺一族は、諏訪神党であったようで、その度に「諏訪上社」の神党に助けられたが、とうとう小笠原長朝(文明年間)の時に滅ぼされます。以後、山家城は、小笠原の傀儡が城主を継ぎますが、諏訪神党とは関係がありません。

 


「松本」学、あるいは「松本」考:5

2023-08-19 16:04:38 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:5

5:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:2

・・・、 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。
美ヶ原温泉郷から、細い道を縫っていくと、美鈴湖に合流する脇道もある。
ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、バスでも良し、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います。

入山辺のブドウ園:写真

さらに上ると、「三城牧場」に着きます。近くに、扉鉱泉」もあります。

---・なにせ・・五十年プラス前のことゆえ、いまだに牧場をやっているのか、鉱泉が名前をかえたのか、そこらへんはご容赦を・・・
「三城牧場」は、大学の「オリエンテーリング」の時のハイキングの目的地でした、、、それが縁で、美ケ原を裏庭と認識しているのかも知れません。贅沢なことです。

 

で、ルートは複数ながら、どちらも美ヶ原へ通じています。

高原です。そして草原です。山岳は、高度を増していくと、森林限界を超えって、背の高い森林がなくなって、低木や草花に変わります。

横や空が、抜けて、開放感が広がります。美ヶ原高原です。


「松本」学、あるいは「松本」考:4

2023-08-15 16:07:51 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:4

4:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:1

母校(信大)の脇を通って橋を渡ると「浅間温泉にでる。橋を渡った直ぐには、「川島芳子」が住んだ家がある。(----戦中に、渾名 男装の麗人、東洋のマタ・ハリとも呼ばれた人、機会があれば深追いするが・・・) 温泉旅館、温泉ホテルを突き抜けてそのまま上ってゆくと、・・・、 

三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、細い脇道だが、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、・・・、

美鈴湖の手前で合流する。美鈴湖と言えば、50年目r当時、「浅間温泉国際スケートセンター」があった。---・油氷とか言って、好記録続出の「アウトドア・スケートリンク」であったが、今はもう無いそうだ。


写真:美鈴湖

道草・トピックス;

美鈴湖からさらに登っていく。
番所が原スキー場を経て、美ヶ原高原美術館へ着く。

つづく・・


「松本」学、あるいは「松本」考:3

2023-08-04 13:54:30 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:3

3:松本市の由来

そもそも、松本は、城の改名からきている。それまでの城の名称は、「深志城」であった。
・・・松本市の由来 松本市の名前の由来は、天正10年(1582年)に小笠原貞慶が深志城を「松本城」と改称したことが要因。 「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」との懐述「待つ(松)本懐」から「松本」になったと言われている。 また、佳字を用いた瑞祥地名とする説もある。・・・

写真:松本城

理由は上記のとうりであるが、読んでのように、全く後で無理やり付けた理由のようで、納得が行くようなものではない。

小笠原貞慶」が出てきたので、中世・府中の領主の名前を、歴史的に振り返ってみよう。


建武の新制の時、足利高氏は、六波羅探題で、信濃武士を束ねて京都警備をしたことがある小笠原宗長に同志を依頼したことに始まり、足利高氏(尊氏)と小笠原宗長・貞宗は盟友であった。
建武の新制は、足利高氏(尊氏)と後醍醐天皇が、北条得宗家(前北条)を倒した戦いであった。後に、尊氏と後醍醐は離反し、北朝と南朝で対立する。
信濃武士は、室町幕府に抵抗する勢力が多く、大町の仁科や坂城の村上や、北条得宗家の御身内を自認する諏訪神党らが跋扈し、小笠原貞宗は、室町幕府与党として彼らを制圧するべく、府中に橋頭保を作った。従って、当初の府中小笠原家は、反室町幕府の反対勢力の陣屋であった。
この陣屋は、深志城ではなく、塩尻に近い井川であった。
深志城は、女鳥羽川や薄川を合流した木曽方面からの奈良井川と北アルプスからの梓川の落合地点でかなり水深い湿地帯にあった。以降、千曲川と合流するまでを犀川という。当時の城主は、小笠原家の家宰(家老)的な役割の坂西氏であって、小さな支城であった。

小笠原家の歴史

どうやら、「松本」という地名は、「松本城」という城名からきているのが確からしいことが分かった。そして深志城」を「松本城」に改名したのは、府中・小笠原家の係累であることも分かった。これ以前に、この地区に「松本」に因する地名も遺跡も見当たらない。
そこで、幕藩大名の小笠原家について深堀りをしてみる。・・・


  源頼朝に仕えた長清が甲斐国小笠原(現山梨県南アルプス市小笠原)に住して小笠原を名のったのに始まる。承久の乱後に鎌倉幕府の阿波守護に補任され、以後幕府滅亡までその地位を世襲。
  鎌倉末期の当主貞宗は新田義貞に従って倒幕に参加し、建武中興政府で武者所を務める。南北朝時代には足利尊氏に属して信濃守護に補任された。永享12年(1440年)に信濃を平定した政康の死後、一族は府中(深志)小笠原家と伊那(松尾)小笠原家に分裂して対立。
  天文年間の武田信玄の侵攻で府中小笠原家の長時は信濃を追われたが、その子貞慶の代に徳川家康に仕え、その子秀政が下総古河に3万石を与えられた。江戸時代には寛永9年(1632年)以降豊前小倉藩主家として続く。また分家の大名が3家(安志藩、千束藩、唐津藩)あった。維新後には旧小倉藩主家の宗家は華族の伯爵家となり、分家3家は子爵家に列した。
  伊那小笠原家の方は武田信玄に属したのちに織田信長や徳川家康に従い、江戸時代には越前勝山藩主家として続いた。維新後には華族の子爵家に列する。
  また庶流の京都小笠原家は室町時代に武家の兵学・礼法として小笠原流を起こした。江戸時代の譜代大名は、系図を仮冒した出自の怪しい家が多いが、その中でも数少ない清和源氏の名門だった小笠原家は武家故実を諸大名に相伝する家となり、小笠原流を武士の間に広めた。明治以降は学校教育にも取り入れられ、特に女子の礼式として国民に広く普及した。戦後は「半封建的道徳」とされて学校教育から退けられ衰退したが、小笠原家の子孫などによって伝承の努力が続けられている。
  ----その子貞慶の代に徳川家康に仕え、その子秀政が下総古河に3万石を与えられた。

五郎のように
この間の詳細

 ----その後は将軍・義輝の没落と御館の乱により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時の3男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。

このような経緯で、武田信玄の敗れて、府中を逃れた小笠原長時・・その三男の小笠原貞慶が、深志城に入って、城の名前を「松本城」にかえたという経緯がある。

そして、府中が、武田家統治時代に、「深志城」を陣屋、支城を整備して縄張りし作り変えたにが、工藤昌豊(内藤昌豊)であり、近代的な城にしたのが、秀吉家臣・石川数正であった・・

 どうも、松本は、小笠原家が当初三家(府中・松尾・鈴岡)に分立し、そして長く松尾と府中に対抗したようで、府中に橋頭保を作った小笠原貞宗も、幼名・松尾彦五郎(豊松)のように、松本城は、松尾が総領家であった時代が長く、松尾小笠原家が関係しているような気がするのだがーーーここらの歴史背景が一番説得力がありそうだが、・・・

 推論が多いので、ここらへんで。・