ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

第四章 「スサノウ」のこと

2020-07-31 19:56:07 | 歴史

荒ぶ(荒む)・・スサブ //スサノウ 荒王


第四章 「スサノウ」のこと


スサノオ(スサノヲ)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では建速須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊など、『出雲国風土記』では神須佐能袁命
◆:父‎: ‎伊邪那岐命 母‎: ‎伊弉冉尊(日本書紀のみ記述あり)
◆:兄弟姉妹‎: ‎アマテラス‎; ‎ツクヨミ 
‎参照:アマテラスとスサノオの誓約 · ‎クシナダヒメ · ‎神大市比売 · ‎牛頭天王

この神話の時代は、弥生時代後期です。日本にまだ文字はありません。弥生時代の特色は、稲作と鉄器の伝来です。歴史的に見れば、明治維新などと比べ物にならないくらいの、社会の変化と文明と呼べるものへの入り口です。
「伝来」と書きましたが、多くは「渡来人」によって、これらの「文化・文明」はもたらされたようです。日本を取り巻く海と海流を眺めていると、朧気ながら実態が目に入ってきます。

転用:

 
フィリピンやインドシナ辺りからは、うまく海流に乗れば、ごくわずかに日本にたどり着かかもしれません。藤村の詩の「ヤシの実」は、こちらの方面の台湾を含む地域からの海流によって運ばれた可能性が大いにありますが・
中国大陸からはどうでしょうか?インドシナ辺りからより、可能性がありますが、それでも主流とは判じがたいような気がします。
やはり、大量に「渡来」したのは朝鮮半島からのように判断します。
対馬海流は、朝鮮半島の手前で、本流を大きく二分し、半島のすぐ先に接近し、やがて北上しながら、二分がもとに戻ります。この合流地点は、能登半島の先です。
この前提を頭に入れておいて、当時の朝鮮半島の政治勢力関係を見てみましょう。朝鮮半島は、絶えず、大陸の遊牧・狩猟民族に晒されています。馬を操り、武器を持って侵入してくるのは、狩猟民族の常体です。
反抗・復活の芽になる宗教や文化遺産は完膚なきまでに壊滅するのが、侵略者の常であり、正義です。こう考えると、朝鮮半島を経由して日本に来た仏教などが根付けなかった事由が見えてきます。
少しわき道にそれましたが、、日本へ来る場合、人力などの動力で島伝に渡来するのは、朝鮮半島の権力者だけであり、侵略者に敗北した敗者は、海流を漂流して対馬海流に乗り、能登半島以北の日本の浜へ漂着したのだと推測します。この推測の正当性は、現在に至っても、北朝鮮のイカ釣り船が、何艘も日本海の海浜に漂着している事実からも、証明・担保できます。
ブリタニカ・---対馬海流の厚さはほぼ 200m,流速は 0.5~1ノットであり,著しい蛇行を伴うのが特徴であるーーー・「流速は 0.5~1ノット」は、時速2~3Kmであり、人間がゆっくり歩く速度です。
以上から、分析考察すれば、朝鮮半島からの渡来者は、二通りの性格が考えられます。
一つ目は、朝鮮半島の旧来民族と高原族の敗残の旧統治者で、逃亡者ですが人数的には圧倒的だったろうと思います。
二つ目は、その渡来当時の朝鮮半島の統治者で、島づたいに「出雲」に到着して、日本でも権力にありつこうとしたのではないかと想像します。
この分類から、一つ目の「半島脱出型・漂着者」の方が圧倒的多数であり、ほとんどが歴史に足跡を刻むことがほとんどなかっただろうと推定できます。原住者の側からは、まだ文字を持ってない住民でしたから、語り継いでも、暫くして消滅しただろうと・・二つ目は、一つ目と比べて少数であったものの、そんなに極小という訳でもなく・・しかし、かなり大和朝廷に対して協力的だったように記録が残ります。

氷川神社:紹介ブログより
 
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◆:さて、大宮氷川神社の祭神のことである。
 1:須佐之男命 :男体社由来
 2:稲田姫命  :女体社由来
 3:大己貴尊  :簸王子社(中川神社)由来
いずれも、神話の時代の「神」である。神話であるから、古事記、日本書記に、その神話、逸話が多い。

 由来書より


ここでの表記は、とりあえず「大宮氷川神社」の由来書に準じて、「須佐之男命」としておくが、ほぼこの漢字には意味がないと思っています。この意味のなさは、8年後に書かれた「日本書記」の「素戔男尊」にもいえることで、まず「すさおう/すさのう」が俗称であって、意味は「荒くれ」の「荒王」ということで、ようやく渡来人によってもたらされた「文字」を、どうにか「当て字」に使ったに過ぎないと、当時の文化度を背景に考えると結論せざるを得ないわけで・・
「古事記」の編纂の「逸話」収集の出典は、散逸して既にないそうですが、古事記から八年後の「日本書紀」の編纂の資料収集の出典は記録が残っております。その全てではないが、大半が「同じこと」を記録していることを考えると、編纂者は違えども、同じ資料を使ったのではないかと推測が可能になります。


◆:「日本書紀」の原資料・・
『日本旧記』/『高麗沙門道顯日本世記』/『伊吉連博徳書』/『難波吉士男人書』/『百済記』
/『百済新撰』/『百済本記』/『譜第』/『晋起居注』
◆:記事内容の典拠・・
帝紀/旧辞/古事記/諸氏に伝えられた先祖の記録/地方に伝えられた物語/政府の記録/個人の手記
/寺院の縁起/日本国外の記録/その他
となっています。


ここから伺い知るのは、原典の大半が、朝鮮などの書によることと、編纂の担い手が「渡来人」ではなかったか?!ということです。
こうなると・・推して知るべし・・「すさのう(=荒王)」は「渡来人」ではなかったか・・と。


「逸話」そのものも、日本で起こったこととは限らなくなりそうです。こう読んでくると、昔習った日本史の史実が怪しくなります。それを、以下に書きます。


「物部守屋」と「蘇我入鹿」の争いは、「物部=神社派(国神派)」VS「蘇我=仏教派(外来派)という風に学んだが、「神社派」自体も、どうも外来であるようで、・・・となると・・・「外来先着派」と「外来後着派」の争いのように思えてならない。このことは、とりもなおさず、朝鮮半島の「権力争い」の代理戦争でもあったという意味合いが見えてきそうでもある。 ---・ここに、教科書とは違う歴史が見えてきます。

さて、、ここからは、「荒王」の別称・・「牛頭天王」についてのみ深堀することにする。


----- ・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。・------『平家物語』第一巻「祇園精舎」より


◆:平家物語の冒頭の部分・・この壮大で、もの悲しい旋律を伴った「叙事詩」は、琵琶法師の「琵琶」の奏でにのっても心地よい。「祇園精舎」も「沙羅双樹」も日本のものではないし、当時も今も、知る人なんて殆どいない異国の風景なのだが、それでいて違和感がほとんどない。諸行無常」、「盛者必衰」とは、仏教の教え」なのだ。


私は、この叙事詩が好きだ。


平家物語の作者」については、「徒然草」の吉田兼好が、「--- ・信濃前司行長、稽古の誉ほまれありけるが、(中略) この行長入道、平家物語を作りて、生仏しょうぶつといひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり ---・」と書中に明かしている。「信濃前司行長」は、「中山行長」というらしい。
◆祇園精舎は、インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー(舎衛城)、にあった、昔の寺院であったそうで・・・、釈迦の説法をしていたところらしい。「牛頭天王」は、その祇園精舎の守護神とされていて、そのため、牛頭天王は別名「祇園天神」とも呼ばれる。

八坂神社:ブログより


 
日本では「祇園」の名は、京都・「八坂神社」の祇園祭が起源と思われるが、平安のころ、疫病が流行した際に「鎮めの神」として「牛頭天王」を祭祀とした祭りが行われたことを源流とするようだ。「八坂神社」は、もともとは「感神院祇園社」と称したが、どちらかといえば「寺院」。神仏混交禁止により、「八坂神社」と改められたーーー・かなりおかしい話:もともとは仏教に関係する守護神なのだが、神仏習合の末の「フェイク」・・

 

八坂神社ブログより:祇園祭

 

◆:脱線 ・---
京都市下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があり、ここに「悪王子社」が祀られていた。「悪」は、現代語の「悪」とは意味合いが違い、昔は「悪=強力」と言う意味合いもあった。昔の逸話に出てくる「悪太郎」とか「悪***」の名前は、まさにこの意味である。江戸時代の水田の供給水路を「上水」といったのに対し、排水路を「悪水」といった例もある。「悪水」が下水・汚水のことではない。近所にある「見沼用水」は上水で、「芝川」は悪水と表現されているが、昭和初期ごろ(人口急増以前)まで、芝川は水遊びができ泳げたそうである。
---・牛頭大王の子供は「八王子」(七男一女)です。埼玉県飯能市竹寺(八王子):神仏習合


◆:牛頭天王は日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされた。---・『ウィキペディア(Wikipedia)』


◆:由来 ・---
『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、スサノオが新羅のソシモリという地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述がある。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという。


蘇民将来説話  --・『備後国風土記』
『備後国風土記』逸文に「武塔天神」と「蘇民将来」兄弟の話が出てくる。『備後国風土記』は奈良時代初期に編纂された備後国(広島県東部)の地理書であるが、現在は鎌倉時代の逸文として引用のかたちで伝存したものである。ここでは、牛頭天王は「武塔天神」と同一視され、親切に迎え入れた兄の「蘇民将来」に対して疫病を免れしめ、その一宿一飯の恩に報いるために蘇民とその娘に除難の法を教えたと記している。本文に「批則祇園社本縁也」と記述された説話がそれであり、これは文献にあらわれた「蘇民将来」説話の最古の例である。


---・どうみても、巨旦将来も蘇民将来も、日本人の名前としては収まりがよくない。漢字圏だとすれば、中国か朝鮮の「逸話」だろうと思う。


第三章 簸王子社と荒脛神社

2020-07-16 13:49:30 | 時事ニュース

承前啓後  簸王子社と荒脛神社


「承前」と書いてみて、ハタと思いとどまった・・「承前啓後」のほうが、意味が似つかわしいのではないか・?と・

今回も、かなりマニアックな「神社」の由来に関するもの・・こういう歴史に関するものは、興味のない人は冗長である。「ロマン」を感じる人だけを対象としたい。「ロマン」を感じない人は、飛ばしてください。


前回、「”武蔵一之宮:大宮氷川神社”は、創設当初は「二社」であった。」と書いた続きである。この思わせぶりの「書き様」は、後にも、氷川神社の存在を暗示している。
第三の氷川神社は、「簸王子社」と呼ばれたり、「中氷川神社」と呼ばれたり、「中山神社」と呼ばれたりしている。
由来---・「中氷川」の由来は、氷川神社と氷川女体神社の中間に位置することから付けられたという。社伝では、鎮火祭(後述)の火により「中氷川」の氷が溶け、「中川」の地名になったとされる・---
 
◆:中山神社:アラバハギ神社

祭神は、大己貴命 (大国主の別名)で、氷川女体神社の祭神:奇稲田姫の子とされる。脇に建つ「荒脛神社」は、その由来の因を示すといわれているが、謎が多い。
じつは、「アラバハギ神社」は、武蔵一之宮:大宮:氷川神社(男体神社)にもあるのだが・どういう訳か、神社の名前が違うのだ。
 
◆:「門客人神社」(アラバハギ神社):大宮氷川神社

かっては、「アラバハギ」神社と呼ばれていたのだが、今は「門客人神社」という訳の分からない名前になっている。「アラバハギ」も分からなければ、「門客人」も分からない・神社名。ちなみに、「門客人」は「マロウド」と読ませるらしい。
二社が出発点であった「氷川神社」は、明治中期と後期の「神社合祀」により整理されるにいたる。その時、武蔵一之宮:大宮氷川神社は、先述の「四社」の併合により成立したものとされているが、定説では、「アラバハギ」神社を除いたものが正論いう説もある。
この流れは、県社、郷社、村社という括りでその範囲を鎮護:あるいは鎮守するという意味合いが付与されている。従って、併合の社(神社)は、摂社と末社ということになり、時を重ねて併合を重ねていったらしい。ただ、氏神としての屋敷神としての神社は、併合の流れからは外れていたようで、「おしめん様」などの俗称の「神明神社(=伊勢神宮系)」はほとんど併合されていない。


違う角度から眺めてみよう。


先述の「四社」の神官家を調べてみると、江戸時代以前には、氷川神社は、男体社、女体社、簸王子社の三社に別れ、それぞれ岩井家・内倉家(のち断絶、角井家が継承して西角井家を称する)・角井家(後に東角井家を称する)が社家として神主を世襲した。三社の祭神や順位を巡る論争もあったが、幕府から、1699年(元禄12年)三社・三社家を同格とする裁定が下った。


*1:---・この岩井家だが、神社では、祭祀のことを「祝」、呼称は「ほうり」とよぶ。つまり「読み」は「ほうり」だが、「書き」は「祝」であり、書いた「祝」を「いわい」と読むに至り、「岩井」となったのではないか・---と思っていて、勝手にかなり信じているのだが、古書の裏付けがほとんどないので、私見です。


*2:大宮氷川神社が、神社としての体裁を整えてきたのは、江戸時代初期で、関東郡代:伊奈忠次が命じられて「中山道」を整備したころに始まる。---・文禄5年(1596年)8月に関東郡代伊奈忠次を奉行として氷川神社:男体社の社頭を造営した。江戸時代には幕府から社地三百石が寄進されていた。江戸初期の中山道は大宮宿の南で参道を使用していたが、この地を治めていた関東郡司伊奈忠治が、参道を街道とすることは恐れ多いとする宿の意見を受け、寛永5年(1628年)に西側に街道を付け替え、参道沿いの宿や家およそ40軒を新設街道沿いに移転させ、これが現在に至る大宮の町となった・---。

中山道が整備される江戸時代以前に、大宮氷川神社:男体社に関する記述は、かなり乏しい。
江戸時代以前、古書に登場するのは、ほぼ三室の「女体社」:氷川神社である。その事実から察するのは、有名かつ、信仰を集めていたのは、どうやら三室の方でありそうであるが、これも古書から散見する類推の域を出ないので、私見としておく。


さて、四番目の神社は、「荒脛巾神社(=アラバハギ:神社)」であり、この社の神官は「氷川家」である。この氷川家は戦国期には、潮田家の家臣であった。


多少なじみが薄かろう潮田家のことを、概説だけ述べていおくと、岩槻の太田道灌に系流する「別家筋」で、太田家の有力武将である。地領は、今の大宮周辺で、寿能城(寿能町:氷川神社のある高島町となり)が居城で、太田道灌は、説明を必要としないまで有名な武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰であった。どうも、かっては、氷川氏が神官である「荒脛巾神社」の社叢が、そのまま「氷川の森」で、氷川神社の敷地になった可能性が強い。ほとんどが状況証拠なので、このことも私見とする。


なお、岩槻:太田家は、三室の女体社:氷川神社を保護・後援していた事実が書に残る。江戸時代以前までは、三室:氷川神社の方が信仰を多く集めていたらしい」の傍証である。


*3:三室:氷川神社の角井家(後に東角井家を称する)は、「武蔵武芝」一族であるという有力な説が存在する。この武芝は、『更級日記』に登場する「たけしば」寺の伝説で、地方の小豪族から国造に昇った武蔵不破麻呂から武蔵武芝までの盛衰が一人の人物による伝説化して語られたものとする説がある。また、「平将門の乱」では、--・武蔵国へ新たに赴任した武蔵権守・興世王と同介・源経基が、赴任早々に収奪を目的とし足立郡内に進入してきた。そのため、足立郡郡司と武蔵国衙の判官代を兼ねていた武芝は「武蔵国では、正官の守の着任前に権官が国内の諸郡に入った前例はない」として、これに反対する。しかし2人の国司は武芝を無礼であるとして、財産を没収する。武芝は一旦山野に逃亡した後、平将門に調停を依頼した。将門の調停により興世王と武芝は和解したが、和議に応じなかった経基の陣を武芝の兵が取り囲み、経基は京に逃亡、将門謀反と上奏し承平天慶の乱の遠因となった。その後の武芝の消息は不明であるが、『将門記』では氷川神社の祭祀権を失ったとしている・---  その後の武芝の消息は不明である」のは、平将門が、朝廷に敵対したため、同盟を組んでいた「武芝」は、「武笠」と名前を変えて隠棲して生き延びて、今日に至るという説が根強く残り、武笠の末裔が明治になって、文部省の役人になり、唱歌:「案山子」を作ったとされる。


 

参考:みむろ物語 ・・・武蔵武芝のこと

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621
(https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/b21fb3fca3b9c831a6aa935caaa4e621)

さて、本筋に戻ります。
荒脛巾神社の--・氷川内記が神職であったときに、神祀伯吉田家へとどけ出て、門客人社と改号し、テナヅチ、アシナヅチの二座を配社した」とあります。大宮氷川神社にある「門客人」神社は、もともとは「アラバハギ」神社と呼ばれたのだ。