消えた「鷲神社」・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/89/6b4870c14eb44550a4eb35f184136c77.jpg)
宮田、宮前、宮内、宮城、大宮、宇都宮、三宮、西宮、富士宮・・・
宮が付く地名は、全国に意外と多い。
この場合の”宮”は、概ね「神社」のことで、関連する地名になる。
さて、さいたま市見沼区に、昔「門前村」というのがあったらしい。そして、字・「宮の上」を中心として「東宮下」「宮ヶ谷塔」「東門前」という字・地名が散在する。こうなると、「宮の上」には確実にかなり大きな神社が存在したのは、疑いの余地のないところだろう。
このことについては、かって余正確ではない情報を書いたことがある。
◇:「大宮 風渡野の宮 を探って」:http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/e0caa3dc754ed4bc8739d49060423534:参照
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/a0/ba0f7660ca47a82ae9d791487508b114.jpg)
さて、東門前通り・を蓮沼から東上して突き当たった近くが「宮の上」という地籍。この「宮の上」には、あまり大きいと言えない「湯殿神社」というのがあるのだが、・・。どうも、門前町を形成る神社としては、「力不足が」が否めない感じがする。
そこで「湯殿神社の由緒」を尋ねてみる。---「埼玉の神社」による湯殿神社の由緒
湯殿神社<大宮市東門前三五六(東門前字道際)>
当地は、『風土記稿』に「風渡野村枝郷門前村」と---この門前という地名の由来は、当地に社領23石の鷲明神社があり、その門前が発達して---この鷲明神社は、当地の字「上の宮」に鎮座していたが、当地が分村独立するに及び、本村である風渡野村へ遷座した---「鷲神社」が移転したことでその跡に「湯殿神社」が勧請されたという説明である。
古文に記された「鷲明神」は神領23石を持つ神社とあるので、江戸中期までは、この地方に君臨する「威風堂々」の社格を有する神社であったことが覗われる。この地は、七里の地名が示すように、数村の離散併合が繰り返され、明治後期の「神社令」が決定的になり、天神社への併合によって、僅かな痕跡をとどめるに至ったわけで、今に残る地名を生み出した神社としては、いささかさみしい限り、と言わざるを得ない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/6b/d87af45ba4dcde2af46fca581805a4ad.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/f3/9dc13a6eb217bc9a5429943816001176.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/9b/a1b321340b4c4b39ef3050209de240dd.jpg)
また、「鷲明神」の神領23石はどこであったのかも興味が尽きないが、江戸中期以前のこの付近の古地図が近くの図書館に有りそうな「地方史・収録」でもあれば、確かめようもある。当たらないかもしれないが、七里駅周辺の小字名が「鷲」という名前であるそうで、そこが鷲神社の「神領」であれば合理的に説明がつく。
追記:門前のこと
しかし、・である。
この程度の規模の神社で、門前町を生み出すには、かなり訝しい?
そこで、門前村・「鷲神社」だけの特色を探ってみることにすると、大和田や野田とは違い、「神領」・23石を持っていることが他との違いではないかと思われる。どうやら、近在やその郷村の氏子に支えられた氏神の性格ではなくて、「神領」を所有する神官一族の「守り・氏神」という性格が強いのではないか・と思われる。
そこで、「鷲神社」の”鷲”について「おさらい」をしてみる。
・ 鷲は、記紀の時代、「大きな白い鳥」を意味していた。
・ 記紀の時代は、古事記、日本書記の時代のことで、伝承・説話のこと・
・ この場合の「大きな白い鳥」は鶴であったり白鳥であったり・と記されている。
・ この大きな白い鳥は、嘴に稲穂を加えてやってきて、稲作の農耕を伝えたとされる。
・ 稲作文明の伝搬に関与したとされる「伊勢神宮」系の神道の要でもあり、天皇制の柱でもある。
・ これに、「イザナミ」の終末話・「白鳥伝説」が加わった。
・ いつの頃からか、鷲の意味が大きな鳥という意味になり、猛禽類の鷲:種目が加わった。
・ いつの頃からか、「鷲」種目から白鳥の類が除かれていった。
・ 記録に「朝廷や伊勢神宮の遷宮の折などに鷲の尾羽を献上」と残っている。
・現在の、鷲の意味とは違い、「鷲神社」の「鷲」は白鳥だろうとする方が合理的?!
・「鳳神社」/「大鳥神社」と「鷲神社」は同義語。あるいは「鷲」を「おおとり」と読むかも?
・・多少、想像力のところもあるのだが
酉の市
・3っつ手前のブログで、「大和田・鷲神社」のことを書いた。 ・・参照
・「鷲神社/大鳥神社」と「酉の市」は深いつながりがある。
・「酉の市」は、そもそもの日本の物流、物販、商業の源流であり・・
・寺や神社の境内や参道を商業地にして、
また寺や寺院が商業を保護して、日本の貨幣経済が発展してきた事例が示され・
この手法を「真似た」信長や秀吉が、楽市楽座として積極的に取り込み・・
一向宗は、寺の不入特権と寺境内の「市」の経済力で、巨大な権力構造を作り出して、武家権力と対抗し・・・
・このようなことを背景にすると、こんな仮説が構想される・
・「鷲神社」の別当だった某は、参詣道の保護と「市」の育成に努めた。
--・でなければこのような門前町の形成はなりえない。
--・神社の規模と参詣道・門前町の規模の不釣り合い。
七里(・この地名は、後年になって付けられたもの)周辺は戦国期は、岩槻(岩付)の大田藩の領有下にあったものと思われるが、大和田陣屋・伊達氏や中丸陣屋・中丸氏の勢力下であったとも思えない。むしろ、岩槻藩主・大田氏の直轄地のような気がする。---が資料が不足し見えてこない。
いずれにしても、門前を形成することに尽力をした、商業・貨幣経済に造詣が深い、理解した某の存在を感じる。