ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

川の記憶 ・・・砂鉄の痕跡を求めて ( 続き)

2014-09-29 23:09:38 | 歴史

承前
「2014-09-25 20:47:19 | 歴史 赤尾(・坂戸市) ・・・地名の裏を覗くと ・・
越辺川の”曼珠沙華”を見に来て、”赤尾"の地名が気にかかった。
天神橋を渡ると、坂戸市赤尾になる、その”赤尾”のことである。天神橋から越辺川のやや上流の坂戸側に、「金山彦神社」がある。 ・・・
 ・・・坂戸市の市内循環のバス停に「赤尾金山」とある。「金山彦神社」がある地域だ。「赤尾金山」と「金山彦神社」と「赤尾」と重なると、砂鉄と「たたら」の影を追いかけたくなる。」

第二章 :川の記憶 ・・砂鉄の痕跡を求めて

・一旦、高麗川を離れて、入間川 ・・・


写真・入間川風景


写真・川口金山神社


入間川は、中世まで、越辺川を合流し、市野川を合流して、今の大宮・片柳、そして浦和・三室まで剔って流れ、川口・金山を経て荒川と合流していたという記録が残る。この川口・金山は、良質の砂鉄の集積河床を持ち、秩父平氏の支族の古族・河越氏が集団で移住した地域であるという伝承が残るという。いまでも、古族・河越氏たちが崇めた金山神社は、移転・合祀されて、”川口神社”に鎮座していて、川口鋳物師達の”拠り所”となっているらしい。勿論、金山神社の祭神は、"金山彦”です。

さて、入間川だが、上流を名栗川という。同じ川だが、上流と下流が名前を違えるという。
この例は、県境で名前が変わる、信濃川と千曲川という例があるが、そんなに多くの類似を見るわけではない。現在では、入間川と名栗川の名称変化の地点は、飯能市内の飯能河原の先、岩根橋であると言われるが、古来はもっと下流の、加治の阿須の落合辺りであったらしい。しかし、入間川については、名称の境界点がいい加減に扱われていて、地図上でも、岩根橋上流も、入間川と表記されている事例がかなり多い。
阿須は飯能市阿須の地籍になるが、なにやら鉱山と関係が深い。いまでも、現役の炭鉱が稼働している珍しい地域である。このことは意外に知られていない。入間川沿岸部、阿須に「あけぼの子どもの森公園」があるが、隣接して、亜炭の炭鉱・”日豊鉱業武蔵野炭鉱”がそこにある。そして、現役で石炭を生産しているそうです。


写真・入間川・割岩橋


 

写真・入間川・阿須・「子どもの森公園」

さて、砂鉄ですが、鉄の権威といわれる窪田蔵郎氏は、入間川上流の加治丘陵を形成する豊岡礫(れき)層に良質の砂鉄あり、その総鉄量は鎌倉砂鉄の約二倍あると発表しています。豊岡礫層は、第四紀白亜期の地層であり、通常は地中深くに埋蔵されています。河川の流水に削られなければ、地表に現れることもないのですが、入間川が谷を作りながら沿岸を削ります。どうも、入間川が、砂鉄の川と言われるのは、ここの砂鉄が主要因のようです。
また、加治丘陵の西側を小畔川が流れます。この川の水源は、一つは日高・宮沢湖で、もう一つは加治丘陵です。そうであるなら、小畔川もまた砂鉄の川の可能性が高い。小畦川が、第四紀地層まで堀り起こして流したかどうかは、定かではないが ・・・。


写真・小畦川

中世飯能地区を収めた領主は、武蔵七党の一つ、丹党の氏族と言われています。丹党は、秩父平氏の末裔で、小豪族まで含めると45の氏族、主なところでも、丹氏、新里氏、榛沢氏、安保氏、長浜氏、勅使河原氏、中村氏、中山氏、大関氏、加治氏、横瀬氏、薄氏、小鹿野氏、大河原氏などがあります。その中で、飯能に、事跡を残しているのは、中山氏と加治氏が明らかで、飯能の各所に履歴の残し、源平合戦の折には、当初平家側に属しながら、すぐに頼朝に靡き、鎌倉御家人になっています。その政治的な身の振り方は、任せるとして ・・・。
丹党は、その名の通り、”丹”の採取を目的とする、鉱山主一族です。"丹”は”辰砂"(=水銀)のことで、”武”族となった後は、”丹”採鉱の修験者たちの頭目、元締めであったようです。”丹"の利用は、水銀としてよりも、顔料であったらしい。このことは、他の鉱物、鉄や金の鉱床の見分け方や採掘の方法、選鉱の方法、錬金、たたらの方法などを熟知していた可能性は高いと思われます。

 

写真・中山氏・能仁寺

 

写真・加治氏・円照寺

加治氏や中山氏や同族と思われる名栗氏が勢力としていた名栗地方には、赤工(アカタクミ)、赤沢など鉄に関係したような地名があります。神社や寺も、金錫寺、星宮神社(妙見信仰)、白髭神社、金亀館、八坂神社、金蔵寺などなど。特に有馬山に「たたらの頭」という峰があります。この”たたら"の言葉は、製鉄以外に見いだせないので、鉄製造の言葉として意味を持ちます。
さらに、名栗地方には、鉱山の採掘跡と思われる”穴”が各所で見つけられます。
有馬山は森林の山で、恐らくたたらに使ったであろう炭のための伐採で、禿げ山になったという伝承が残ります。
しかし、何れの痕跡も、"砂鉄”の痕跡を示しません。状況証拠ばかりです。鉱山跡の採掘の穴も、銅や金や、あるいは辰砂(=水銀)の採掘跡かも知れません。金や銅の精製にも、火が必要であります。

たたらの炉は何故か、発見が難しいようです。

”たたら”の遺跡については、伊奈町小室の「がんセンター」敷地内から発見された「大山遺跡」を見る機会がありました。現在は、発掘の跡、埋め直されて標識すらありません。しかし、大宮氷川神社内の「県立歴史博物館」に模型が展示されています。
実際見ての感想は、”たたら”は”意外と小さいものなのだ”ということです。製鉄炉は、内径66cmとあります。外形でも1m平方ぐらい。鍛冶工房は、製鉄炉の2~3倍ぐらいでしょうか。県内一の規模というのは、その炉が十数炉かたまってある、数の多さからです。燃料は、主として”サイカチ”という木を薪炭用として用いたとされています。


 ・・・ 参考:大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団

 


  参考:01/18/14--08:26: 大山遺跡 ・・・昔の製鉄所跡 in伊奈町 背後の建物は「上尾・がんセンター」

あの時の結論は、大山遺跡の脇を流れる「原市沼」/「原市川」が優良な砂鉄河床を持っていたのではないか、という推論でした。この付近に綾瀬川が流れており、綾瀬川の乱流・支流が原市川であった、と納得していました。歴史好きの人は既知のことですが、綾瀬川は、元荒川の分流の川です。

「たたらの炉は何故か、発見が難しい」 ・・・の理由が分かったような気がします。


写真・たたら製鉄炉


写真・鍛冶工房

たたらの炉は、粘土質で作られます。そして、製鉄炉自体は大きくない。鍛冶工房も、それほど大きくない。従って、玉鋼で作る刀鍛冶でなく、農具を作る農具鍛冶は、炉の温度を1400°Cまで高温にする必要が無い。そうすると、「たたら」は、大規模な製鉄施設を必要としなかった可能性があります。 ・・・大規模農家の敷地内に、「たたら」を設置して炭を焚いて農具を作る、という日常的な風景が仮設されます。
どうも、思い込みで、「たたら」の規模を過大化していたのではないかと ・・・。
従って、たたらの必要性が無くなれば、無用となった「たたら」は、崩されて、一般の農家の庭に戻ります。これで、小規模の”たたら”の発見は困難になりました。


写真・たたら模型 in 県立歴史博物館

ここで、高麗川に戻ります。
高麗川の下流部は、入間川、小畦川とほぼ並行に流れます。加治(鍛冶)丘陵という、地下に第四紀の豊岡地層と隣接の地帯を流れます。その地層から、、砂鉄を削り採って下流に流しているかどうかは、定かではありません。上流は、名栗川と平行に流れます。
名栗川の赤沢や赤工のある山の反対側を、高麗川が流れているのです。同じ山ですから、、山の岩石の組成は、ほぼ同じと見ていいでしょう。

 

写真・多峯主山

 

写真・日和田山


多峯主山(トウノスヤマ)にも鉱山があるそうです。日和田山にも、大宮鉱山がありました。
武蔵丘陵の最高峰・伊豆ケ岳の岩盤チャートは茶褐色で、鉄鉱石であることが確認されています。

 

 
写真・伊豆ケ岳・岩石チャート


写真・鉄のわらじ in天龍寺(子の権現)


面白いことに、伊豆ケ岳から近い”子の権現”に、「二トンもある世界一の鉄のわらじ」があります。 ・・・これは、鉄鉱山と関係ないのかも知れません。

飯能地区を中心に、現役鉱山は ・・・
○亜炭鉱山、○石灰鉱山、○マンガン鉱山だそうです。
砂鉄、並びに鉄鉱石は、採算が合わないので、採掘しないそうです。
同様に、金や銅も、あることは確認出来るが、採算上採掘しないそうです。 

坂戸の越辺川の砂鉄の出所は、これでどうにか分かりました。砂鉄は、花崗岩が風化して、組成分解してできるので、量を別にすれば何処にでもありそうです。秩父山系や武蔵丘陵は、色々の鉱物の宝庫でもあるようです。                          

                      ・・・完


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4 コメント

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入間川の橋につきまして (奥武蔵)
2015-06-16 00:53:34
初めまして

大変、不躾なながら
入間川の赤い橋は 割れ岩橋 と云います。
岩根橋は一つ上流にある橋です。

お邪魔致しました。
返信する
RE:割岩橋 (押田庄次郎)
2015-06-16 13:04:11
ご指摘有り難うございます。
調べて確認してみたらご指摘のとうり。早速訂正しておきました。
文献を読んだときの思い込み、間違いをしたみたいです。丁寧さが欠けていたと反省。
今後もよろしく御願いします。
返信する
荒川の砂鉄 (永瀬勇)
2019-08-16 15:28:25
川口市の鋳物屋に勤めている者で以前から川口で鋳物が栄えた理由に興味があります。荒川(入間川)では鋳物を作るだけの砂鉄は採れないと思っていますが10世紀ごろですと需要を賄う程度の採掘量はあったと思いますか ?
ご教示下さい。
返信する
RE:荒川の砂鉄 (永瀬勇) (押田)
2019-08-17 01:30:38
当該のブログに興味を持っていただいて有難うございます。
埼玉には、いくつかの「たたら」が現在も残されています。身近では、伊奈町の「大山遺跡」(県立がんセンター)の「たたら」、川口安行の「猿貝貝塚」の「たたら」などです。出来上がった製鉄・鋳物をみると、砂鉄の純度と高温にする炭の材質・技法が劣っていたようで良質とは言えないようです。
砂鉄については、荒川ではほとんど見られず、どうやら、「入間川」や「越辺川」にあったようです。先述の「たたら」もこちらの川沿岸のようです。
「入間川」については、名栗にも痕跡があるようですが、飯能・阿須から入間・豊岡あたりの地下:第三紀か第四白亜紀当たりの地層(豊岡歴層)が砂鉄の含有が豊富なようです。
飯能・阿須は、今売り出し中の宮沢湖:ムーミンバレーの元祖のほうの「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」のあるところで、この辺りは、宝物のような「鉱石」の宝庫です。
 ・---泥炭、砂鉄、漆喰(石灰の白壁)
(:成木の漆喰:江戸城造成のためこの漆喰は成木街道(青梅街道の前身)で江戸に運ばれた・)
荒川が今の河川ルートになったのは江戸初期です。伊奈備前守及び関東郡代・伊奈忠治が、関東平野に洪水を防ぎ耕作地を増やすため、主に利根川を東へ、荒川を西へ、瀬替え(水路を変えること)を行った。
それ以前の荒川は、元荒川として痕跡が残っている。入間川も、今の大宮・浦和あたりに深く切り込んで流れ、時には荒川と合流して流下した。痕跡は、乱流で幾筋もの川筋があって時代で異なるが、主として現在の綾瀬川のようです。
砂鉄の川は、入間川ですから、そして高麗川や越辺川も源流が入間川に近いので、砂鉄が取れるという話です。
川口は、地名にもなったように、元荒川、入間川、綾瀬川の合流地点で、砂鉄の集積が多かったのではないかといわれていますが、量の推定まではできません。広重などの中山道六十九次の川口宿には砂鉄堀小屋が描かれているそうです。

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