ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

1:槻川  --・ 武蔵嵐山

2021-07-25 17:00:44 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

槻川:

1:槻川
 --・ 武蔵嵐山

ミカンの北限・・大内沢・風布

 「槻川」は堂平山・北川(=大野峠あたり)を源流として流下し、大内沢川と合流して、東秩父村(埼玉県内唯一の村)、小川町へと流れる。「大内沢川」の東側山麓はミカンの北限であり、山を越えた荒川側にも「風布」というミカンの畑が散在する。大内沢川と荒川の川霧は、どうも気温を上げるらしく、川べりの標高の低いところより標高を高くしたところの方が気温が高いらしい。その「メカニズム」の理屈は読んでみたがよくわからなった。「ミカン」の由来は、近くの寄居の「鉢形城」の小田原の後北条の北条氏邦によって、氏邦の出身の伊豆から運ばれたものらしい。この城は、武蔵と上野、下野、信濃の戦国の「橋頭保」であった。

 

東秩父村:道の駅・和紙

小川町:道の駅・和紙

 清流は、「和紙」の製造に必要らしい。川沿いに、中世より「和紙」の産業を育んできたようだ。東秩父にも小川にも、「和紙」をテーマにした「道の駅」がある。その南東の方向に見上げて「仙元山公園」があり」、かつて東洋一長いといわれた「滑り台」があった。記録は塗り替えられるのが常だから今でも一位かどうかはよく知らない。

 仙元山の南を下ると下里という山麓に「小倉城」という山城跡があり、この周辺が「緑泥片岩」の産地になる。緑泥片岩は、「板碑」などに使われる石板のことで、「板碑」は、慈光寺の山門跡近くのあの「板碑(=イタヒと読む)」のことで、梵字で書かれるのが常である。他には、神川町の「金讃神社」の奥・御岳の「鏡岩」への登坂道の脇に、規則的に並ぶ「句碑」にこの石板が多いようである。

 

小倉城跡と板碑:緑泥片岩の産地

板碑の意味は、供養板(宝篋印塔や卒塔婆と同じ)


 以後、槻川は山麓の土を洗い、緑泥片岩の岩を剥き出しにする。菅谷の館跡までの川の景観は、美しい渓谷美となり、東大の本多博士により、「京の嵐山に似たる」をもって「武蔵嵐山」と称せられる。

武蔵嵐山・・


 菅谷の館跡辺り(鎌形)で、都幾川と合流・・

 


都幾川と槻川  ・いわゆる、源流の風景

2021-07-24 14:07:20 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

都幾川と槻川:

◇:都幾川と槻川

 ・いわゆる、源流の風景

 「慈光寺」という古刹がある。外秩父山麓にあり、背後に「堂平山」を持つ。かなり規模の大きな「山寺」である。この寺のことを調べると意外と深い。これは、・・あとで、、
 この「堂平山」北を源とするのが「槻川」、「堂平山」南(大野峠辺り)を源とするのが「都幾川」、両川は、武蔵嵐山・菅谷館あたりで合流する。ともに清流・・ 
 「堂平山」は比企三山、”=笠山・堂平山・大霧山”。外秩父が比企に比定されているとは?知らなかった。外秩父は、「ヒルクラムサイクル(=自転車登板)」の首都圏のメッカである。時々、そんなサイクリングの自転車を見かける。また、「パラグライダー」の「堂平スカイパーク」というスクールもあり、「パラグライダー愛好家」が「堂平山」に集まるわけで・・。頂上付近、天体観測所:「堂平天文台(星と緑の創造センター)」(元東大所有:今ときがわ町所有)があり、星を見る・キャンプ場もある。

 

堂平山頂

 

パラグライダー

キャンプ場

 

 この外秩父の林道を、「奥武蔵グリーンライン」というらしいが、かなり好きなドライブコースで、過去に十数回走っている。名栗川以東の東京寄りの多摩山岳は別物・・か!

 


入間川: 新河岸川

2021-07-05 11:23:17 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

新河岸川:3(承前)

 ◇:新河岸川  (厳密には、新河岸川が入間川の支流かどうかは、覚えが確かではない。運河であると思っているわけで‥)

 今は昔・・「与野」という町がありまして、大変栄えておりました」-・なんて書くと違和感があるが事実である。平成の大合併の末、「与野市」は「中央区」と名を変えて、「さいたま市」に飲み込まれた。この合併というのが曲者で、街名を、上下に分けたり、東西南北にしたりで、中とか中央としたりして、昔からの人情の歴史をそぎ落としていく。これが事実だが、極端な違和感を覚えないのは、JRにまだ「与野駅」という名の駅が存在しているからだ。でも。中央区なんて、味もそっけもなく好きでない。その与野駅も、もともとは浦和市の所在であったのだが・・

 時をさかのぼること、1883(明治16)年、鉄道が敷設された。そのころ、大宮の戸数は「243戸」であり、やや大きな町であった浦和も、与野よりは人口の少ない県庁所在地であった。バラの「与野公園」の河岸段丘の上段の「与野本町」辺りが、この周辺の農産物の集積の商業地で、一番栄えていたようだ。農産物は、船で流下し、「新倉」に運ばれ、新河岸川の「河岸」で集荷されて・江戸/東京へ運ばれた。


 
 新河岸川と荒川は新倉で接近するが、合流せず岩淵水門まで並行する。分離して流下する方が、勝手がいいのだろうと思う。

 イントロ・・が長くなったがようやく新河岸川が出てきた。

 また少し脇道に逸れる。


 大宮公園に、「あかしで」という老木がある。「あかしや」ではなく「あかしで」である。一般にはそれほど馴染みはないが、「盆栽」愛好家にはなじみの名前であり、枝の格好や幹の奇怪さで好まれるようだ。---・見ての通り、「筋肉隆々」の様子・・場所は、「青木昆陽碑」と「ボート池」の中ごろ辺り・・


 その、「青木昆陽(1698-1759)碑」の「説明書き」に、「田島ヶ原」で「サツマイモ」の生育に成功し、飢饉を救った」とあった。(一説には、サツマイモの試作は、九十九里とされている)
 柳沢吉保(1658-1714)は、青木昆陽より少しだけ年代が遅い。だが、被って生きた時代もあった。昆陽が、サツマイモ試作に成功し、幾分かの飢饉の民を救った折には、丁度「川越藩主」を務めていた時であったようだ。松平信綱が、「川越」に商家を集めて街を作り、経験から「火事に強い」町つくりをし、「新河岸川」という水運の動脈を整備した後に、柳沢吉保が「「川越藩主」になった。吉保は、不毛の地・「関東ローム層」の三芳野という武蔵野台地に手を付けたのだった。
 まず、「けやき街道(=いも街道)」に30軒余りの,細長い矩形に仕切られた農家がある。いずれも同じ仕様で、まず屋敷と屋敷林があり、その裏手に、かなり広い畑(五町歩あまり)がある。これが、柳沢吉保が、不毛の地に入植を勧めてできた「いも農家」であった。


 「関東ローム層」は火山灰が積もった赤土である。火山で「塵」が風で運ばれて降り積もるのだかたら、粒子は極めて細かい。しかも、積もった「塵」にはほとんど栄養分がない。三芳野の台地は、今の三芳から狭山と所沢の一部も含まれる。この「関東ローム層」の厚みは20から30mともいわれる。江戸時代から、住居とすることを求めて、「井戸」を掘ったが、20m掘っても地下水にたどり着けまかったことが記録に残る。冬を終えて3月ころ、地が乾き、風で砂塵が巻き起こる。「人は、これを所沢の砂嵐」と呼ぶ。砂塵による「ホワイトアウト現象」・・この火山灰は、富士山噴火が三割、浅間山噴火が七割とされているようだが、そこはあまり詳しくない。
 とにかく、柳沢吉保は、この関東ローム層の入植地に「共同の井戸」を掘った。屋敷林は、砂塵の防御と落葉の堆肥化(=腐葉土)のためであった。腐葉土は、バクテリアによる「発酵」を意味する。これが役立った。バクテリアによる「落葉」の発酵・分解は、土壌の温度の上昇と腐葉土の栄養を生み、不毛の「関東ローム層」から「富のいも(=サツマイモ)」を生み出したのだった。瞬く間に人気化した「川越のサツマイモ」は「栗(九里)より甘い十三里」(江戸と川越の距離)と呼ばれるようになった。もちろん、江戸への運搬は、「新河岸川」による水運であった。
 
過去のブログ:三富のこと:tps://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_1946/e/791660a7dd7d80aafdaaf302b22b437b
参照してくだされありがたいです。

 この「三富」地区の「柳沢吉保」の評価ですが、古い農家ほど、神様の次ぐらいに高い評価なのです。教科書の記載には、元禄文化の奢侈を厳罰に取りしまり、花開いた文化を停滞させたとか、「生類憐みの令」とか、権謀術数的に「出世をするのは、金と女を使うに限る」とか、負の評価が多いが、ここではまるで「逆」の評価なのだ。

 

 「新河岸川」は柳沢吉保の前の川越藩主「松平信綱(伊豆守)」が整備した。
 「新河岸川」は、農業用灌漑用水として入間川(笹井堰)(今の豊水橋付近)から取水して、はじめを「赤間川」と呼んだ。これを「伊佐沼」に繋ぎ、不老川や霞川を合流して流下した。この川を運河として利用しようとしたのが「松平伊豆守」である。船は荷積みで沈むが、当時の「新河岸川」は流れが速く、かつ浅瀬であったようで、水運は思うようにいかなかった。そこで考え出されたのが、「クランク」というか「S字」というか、「ダム的」構造にする工事であった。これを、「九十九曲がり」と呼んだ。お陰で、船底をこすることは無くなったが、行程は、2から3倍になった。江戸・東京まで農産物を運ぶと空の船を川越まで戻さなくてはならない。船に綱をつなげて岡を引き返す作業である。曳舟という。当初の曳舟は空だったが、江戸の産物や川越観光の客を乗せるようになった。花川戸がその出発地であったようである。あるいは曳舟という地名の場所のそんな場所だったかもしれない。
 新河岸川の水運も、鉄道が敷設されることで廃れたが、そのころ以前の小説には、川越は、江戸(東京)から一番近くの観光地で、船旅の様子や川越の賑わいの様子が描かれている。一昔前は、大宮や浦和ではなく川越が、武蔵の国一番の街であった。今は、昔の物語である。

 


入間川 支流・成木川

2021-07-01 17:23:53 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

入間川:

成木川:2(承前)

 ◇:成木川

 西川材・・

 ・杉や檜の美林・・

 

 この「西川」には、「成木川」を加えていいものかどうか?。「成木川」にも、「筏流し」の記録がわずかに残る。。この「わずか」を、あえて「西川」にしていいものはどうか・・「入間川水系」には違いないのだが・
 かつて、この成木川の川沿いの街道を二度くらい通ったことがある。付近ならさらに数度行ったことがある。つつじの名園:「塩船観音」と「鎌倉古道」所以のためであった。さらに言えば、古族・豪族:金子一族の遺跡探求もあった。

成木川清流:1


 「成木川」は青梅に源を求め、飯能に流下して、名栗川に落合する。以後を「入間川」という。「成木」地区は、飯能との隣接地帯、山岳と里山を形成している。
 地層は、少し掘れば、石灰岩が現れる、地区の80%に「石灰岩層」があるといわれる。これが「良質」で、焼くと「消石灰」となり「漆喰」の原料となった。江戸初期にこの地に詳しい「大久保長安」が検案し、江戸城築城の白壁の材とした。以後、江戸への運搬の「ルート」を「成木街道」と呼んだ。江戸城が成った後も、雨に強く、火災でも延焼を防ぎ、見た目にも美しい「白壁材(漆喰)」は、商家の蔵としても人気を呼び、成木は栄えたという。
 その後、「成木街道」は、青梅の農産物や炭・薪などの燃料の運搬が増え、「青梅街道」と名称を変えて現在に至る。

成木川清流:2


 ついでながら、似たような「街道が並行して江戸に向かう。「伊奈街道」・・・、こちらは、多摩川支流の秋川の伊奈地区から秋川の「岩」が江戸に運ばれた。秋川の「伊奈」は、信州・高遠石工衆の集団移民先であった。因は、---・信玄亡き後、長篠の戦で敗れた「武田勝頼」が、織田・徳川軍との戦いに備えて、領民に年貢を増額したために、山村に暮らす住民は耐えられず「逃散」した例が多かったようで、「高遠石工」もその例のようである。もともと、灯篭や墓石で、出稼ぎが多かったから、そのように決断したのだろう。「勝頼」のこの重税は、山岳を領有している家臣を中心に次々に離反を呼んで、あの強固な武田軍団は急速に弱体化してしまった。
 秋川・伊奈の「岩」は砂岩で脆く、石垣には向かなかった。「岩」の供給は、主に伊豆稲取が担い、秋川・伊奈は「石工」の技術のみが「石垣造成」に供せられた。
 「伊奈街道」は、後に「五日市街道」と名称を変え、農産物や炭・薪が運搬される主役になった。
 入間川の水運の荷に材木や炭・薪の他に、所沢の「赤土(=壁材)」を多く見かけるが、刻んだ藁を混ぜると、この赤土(関東ローム層)は、強度を増すらしい。そこで、成木の「漆喰」も船荷になったのでないかと探してみたが・・・能わず。

成木川清流:3

 今では、都内の静かな清流・・釣り人の「メッカ」。

成木川清流:4 曼殊沙華!

 

                近況・・

高齢者講習が終わり、「免許更新」しました。  
それにしても、「あっちこっち」でめんどくさい。
何とか、もっと合理的にできないものか。