ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

田畑文士村散策

2018-12-30 16:51:30 | 街 探求!

田畑文士村散策

パソコンでのデータ収集とチェック作業が午前中で終了して午後暇になった。
毎日の日課で、歩行7000歩以上、1時間以上がノルマとしている。この数日は、寒波到来で、歩行数少な目・・そこで、「田畑文士村散策」を企てた。



この町は、上野に「東京芸大」が出来た当初には、上野から近く、まだ田園風景が残っており、家賃が比較的安かったことから、「東京芸大」の「芸術家の卵」が住居として選んだ土地であった。この「芸術家の卵」たちは、サロン的に友好し、コミュニケを形成しながら、芸術論を議論し、ともに娯楽し、「類」を誘って集積していった。
田畑が、文士村になっていく過程の話である。

散策マップには、芥川龍之介や室生犀星の名前が見える。竹久夢二や正岡子規の名前も板谷波山や小杉放菴の名前もサトウハチロウや菊池寛の名前も見える。
まさに、多士済々・・

まず、大宮から田畑までは電車で・・約25分くらい・・
田畑の駅を降りると「文士村記念館」がある。

ここに資料の散逸を防ぐため、・・一部が展示されており、「田畑文士村」が成立した経緯が説明されており、文士、芸術家が丁寧に説明されており、資料や作品が展示されておるわけで・・
なにせ、戦前のことでもあり、空襲もあったことから、付近は焦土と化しており、戦後の復旧と住宅化は彼らの旧家どころか面影も残していない。
それでも、「わらべ橋」とか「与楽寺坂」とか「ポプラ坂」とかの地形や寺や神社は残っており、寺や神社の旧跡は、当時の匂いが微かでも残っていて・・散策の憩いになって・・



正岡子規の墓所がある「太龍寺」


ゆっくりの散策は、歩数を稼げた訳でもないが、約2時間の運動になった。


三ノ輪・逍遥 4: 竜泉寺界隈・神社

2018-06-21 17:27:13 | 街 探求!

高校同級会・6/4 終章


三ノ輪・逍遥 4:・・のち・飲み会


竜泉寺界隈・神社

樋口一葉館・


平安時代の女流文豪・紫式部や和泉式部など以来の、長い・ながーい・・時間を経ての女流文学者。
ただ・・1年にも満たない竜泉生活であったが、「たけくらべ」の生活情景はほぼ”竜泉風景”である。
吉原や鷲神社のにぎわい、「見返り柳」などの風景描写は・・、「たけくらべ」の文中が使われる。
---・樋口一葉の生活実態のほとんどが本郷周辺だったようで 

---・一葉記念館から国際通りに出て浅草へ向かうと、「おとりさま」こと鷲神社の赤鳥居が見えてくる。
     ...「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」 あまりにも有名な『たけくらべ』の冒頭に登場する、吉原の見返り柳 ---

 

鷲神社


日本の「商業の発祥」といわれる「酉の市」の「おおとり」さま・・
 ---・ 日本の宗教は神仏習合である。仏と神では、どちらが上でどちらが下で、あるいはどちらの方が偉くて偉くないか・・など不謹慎であるが、よくわからない。というより役割が各々あったのではないかとも思える。生きて節目の祝・神社、死して鎮魂の仏閣などの特色は、言わずもがな・・で
今一つの特色は、その公共性の有り様!。維新の前あたりの時期までには、神社が、役場の代わりの機能が確かにあったし、古くは真言宗に見られるのは、仏閣講堂は宿泊所を兼ねていたという布施屋の機能・。そして境内や参詣道はみんなのものであったという事実である。これは為政者へも一般人と共通の認識であり、それが不入特権という形で神社仏閣に与えられていたようである。
この不入特権は、中世に2つの大きな特徴を生み出していく。
一つは、それまでの為政者・豪族の相続が、所有土地の分割相続が限界に達し、分け与える土地が無くなるにしたがって、次男以下を仏閣に隠棲させる方法や完全の家臣化の方法・・、このやり方への不満が「内訌」・戦国化へつながっていくという。
今一つは、中世農村社会でも、生産性の向上は、まず「物々交換」の商業の萌芽を発展させていいて、その場が「公共性の高い」神社の参詣道(=参道)であったり、仏閣の境内だったりしたわけで、そこは「不入特権」があり、為政者から「税」の対象にされてなかったわけで、・・・
そんな折の、「鳳神社」の「酉の市」の発祥・・だから、秋の収穫を終えてに時期に「酉の市」は始まった。


<脱線> ---
・戦国期に、尾張/三河/伊勢/越前などで「一向一揆」が起こった。これは、これらの地方の一向宗(浄土真宗)の寺院で起こった「不入特権」を無視した領主への反抗の戦いであった。浄土真宗の各人の境内で行われる商業活動で上がる利益を、領主・織田信長や家康が欲しがったためである。この境内での商業活動は進化して、信長は「楽市楽座」として発展させ、淨土真宗についての弾圧は,凄惨を極めた。一向一揆の発生の地域特色は海岸線が多いが、商業活動の品目には「農産物」のほか「塩」がおおい。三河一向一揆の頭目には、西尾(煮塩)の吉良家の存在が大きい。敗北で、家康に従順した吉良家の領民の主産物は「塩」であり、後にこの「塩」をめぐって「浅野家」との間の悶着をおこして「忠臣蔵」が起こる。「忠臣蔵」を主君の仇討と捉える反面の裏側の経済の理由を知ると幕藩体制維持の論理と事の良し悪しの是非は、案外深い。---

各地の「門前町」の成り立ちは、この「酉の市」の応用発展であるようだ。

 

吉原神社、吉原大門、見返り柳・・など、





上:吉原大門(おおもん)、中:吉原神社、下:弁天池  コメント割愛

 

 

 


三ノ輪・逍遥 3  浄閑寺

2018-06-14 01:15:54 | 街 探求!

高校同級会・6/4



・台東区と荒川区の境界は・・まさに区界って意味深で・・・
三ノ輪・逍遥 3:・・のち・飲み会
浄閑寺


・苦界 、、、「生きては苦界、死しては浄閑寺」
吉原遊廓の近くにあり、遊女の投げ込み寺

 

永井荷風の筆塚



永井荷風の墓ではありません。
この近くに住んだ彼が、作品の中・・死んだあとこの寺に墓を・と望み、
友人・谷崎潤一郎などが、それではせめてもと筆塚を建立した。

三の輪駅から「淨閑寺」「樋口一葉館」「鳳神社」「吉原神社」「吉原大門」などを廻り・また三の輪駅へ


三ノ輪・逍遥 2

2018-06-12 12:21:42 | 街 探求!

高校同級会・6/4


三ノ輪・逍遥 2:・・のち・飲み会


ジョイフル三ノ輪:アーケード商店街



三の輪駅から「淨閑寺」「樋口一葉館」「鳳神社」「吉原神社」「吉原大門」などを廻り・また三の輪駅へ

実は、都電に乗ったことがなかった。
・同級会が「三ノ輪駅(地下鉄)」集合と聞いて思い立った。
・行程は、王子から箕輪までのハーフである・・早稲田の方はまた機会があれば・・・
・せっかくだから、「アーケード」を歩いてみようと思った。
「三ノ輪橋」一つ前の「中学前」で降りて、「アーケード」をテクテクと・・
・昼少し前ということで、人通りが多くなかった。
・”むにゅ・”--- アーケードのほぼ中央に「銭湯」が・・・



--- ・たまに、雑踏に紛れることは嫌いじゃない ---

◇:三ノ輪・逍遥
 ・サラリーマン時代・土日の臨時出勤のとき・車で会社に行った。
 ・ルートは、R122:尾久橋通り:明治通り:<三ノ輪>:国際通り、だった。
 ・<三ノ輪>:は、通過しただけだったが、かなり馴染みが深い。
   ---・途中休憩したのは「舎人公園」だったが・


三ノ輪・逍遥

2018-06-10 14:51:13 | 街 探求!

高校同級会・6/4


三ノ輪・逍遥 1:・・のち・飲み会


台東区と荒川区の境で・・見つけた”明日のジョー”像・


三の輪駅から「淨閑寺」「樋口一葉館」「鳳神社」「吉原神社」「吉原大門」などを廻り・また三の輪駅へ

 

道すがらに・・その像はあった。
かって、その漫画に”虜”になった。----- 50年も前の話である。
そして、確か ---「少年マガジン」「少年サンデー」「ジャンプ」「アクション」「ビッグコミック」が、「朝日ジャーナル」とともに愛読書になっていた。
大学生時代の熱い思い出である。
「明日のジョー」のボクシングジムは、確か・泪橋の下の河原に掘立小屋があり、確か・丹下段平がトレーナーをやっていた。
すると、、像があった場所が、・・泪橋か?
漫画によれば 
 ・・泪橋が山谷との境で・この橋を渡って、栄光へ目指そうという意味だったと覚えている。

◇:三ノ輪・逍遥
  今日の逍遥は、少し重いので
  ・・便乗するのでなければ、自らは選ばないコース。
  ・その中で、「明日のジョー」像は、「カルタシス」になるのかも知れない。


大宮に”猿の花”が咲いた・・え!なに、それ??

2017-05-04 21:41:31 | 街 探求!

大宮に”猿の花”が咲いた・・え!なに、それ??

 

そんな花、知りません。”猿の花”なんて見たこともありません。

参考:

実は、「猿花」って、地名らしいんです。

「猿花」、そんな地籍は大宮のどこにも登録されていないのですが、
  さいたま市見沼区南中野というところ、日大法学部の正門とは反対側近くに、

 ・「猿花キャンプ場」
 ・「猿花稲荷神社」

があります。だがそこは、猿花という地名ではありません。



   ・「猿花キャンプ場」看板


 
   ・「猿花稲荷神社」鳥居 

 があります。・・どうも、地名を冠にしているようです。
  そうなると、昔の地名のような・気がします。
  
元来、謎めいた”地名”の謎解きは「大好き」です。
それでは、昔「猿花稲荷神社」は何と呼ばれていたか見てみましょう。

新編武蔵風土記稿による猿花稲荷神社の由緒
(中野村)稲荷社:村持。(新編武蔵風土記稿より)・・・「埼玉の神社」による猿花稲荷神社の由緒


稲荷神社<大宮市南中野一一五三(南中野字新田)>
当社の鎮座する字新田は、・・・古くから猿花と呼ばれている所・・この地名は、小石の多い台地の突端を意味する語であるとい・・地元では「猿」の字を「・・「やえんばな」と呼ぶ。『風土記稿』・・は、・・当社は古くから猿花だけで祀ってきた社という。・・・内陣には、神璽が二体と狐の背に立ち稲把と鎌を手に持つ稲荷大明神像が奉安されている・・神璽筥には墨書があり、一体には「正一位稲荷大明神安鎮 神主・・松本和泉守」と京都伏見稲荷の神主の名があるため、同社からの分霊であ・・・もう一体には、「正一位猿花稲荷大明神 璽」・・神主斎部宿祢守義」とある。これは江戸湯島・・の妻恋稲荷の神璽で、神主の「守義」は幕末に神主を務めている・・・「埼玉の神社」より。

この「新編武蔵風土記稿」は、文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌であります。
その頃には、この「猿花稲荷神社」はすでに存在していたようで、そこの地名は新田を意味し、南中野の飛び地であったようです。恐らく、見沼の開拓によって新しく生まれた地域であり、この区画一帯を鎮守する神社であったようです。・南中野を鎮守する諏訪神社とは異なります。


普通の神社


・「えんばな」は、今では死語に近いが”縁端”と書きます。大宮台地の”端っこ”の意味だと思います。
・「や・えんばな」は、恐らく「谷・縁端」ではなかろうかと思えます。
・---すると、見沼田んぼ開拓地の風景が浮かびあがって、”新田”の様子が頭に描けてきます。
・この開拓新田は、---・しばらくの間、”谷縁端”、”縁端”、”縁鼻”と書かれ、呼ばれていたことが想像できます。
・「えんばな」の呼び方が先行した後地名記載の時、誰かか「猿花」と宛字し、それでも暫くは「えんばな」と呼んでいたのでしょう。・・ここいらは多少想像で、正確ではありませんが、80%ぐらいの確信があります。

・「猿花」は、こうしている内に、読みやすい「さるばな」と呼ばれるようになったのですが・・


キャンプ場の木漏れ日


・地域的にかなり狭い区域だったので、やがて南中野に併合されていった・とか。



神社入り口には、稲荷神社の眷属:狐の狛犬が守ります。


醤遊王国

2017-03-05 19:51:29 | 街 探求!

醤遊王国

地籍は日高になるそうです。
 ・日高市多和目804-1:tel・042-985-8011
 ・正式な会社名:弓削田醤油株式会社
 ・多和目といい、弓削田といい、何か興味の沸く名前です。


場所の案内・
 ・日高川島線・道路、坂戸と日高の境の日高寄り、通りから100mぐらい奥・
 ・東武・越生線の西大家が最寄り駅、
 ・脇を高麗川が流れ、川向うに埼玉医大国際医療センターが見える。
 ・静かなる田園風景・・

              
 
・評判の「卵かけごはん」は、弓削田醤油の”卵かけごはん専用醤油”あり、
  ・なぜか、醤油ソフトクリームが評判がいいらしい。醤油味のソフトクリームってどんな味だろう?!
    ・2階が軽食堂になっている。
      ・上がってみたら、30,40人待ち・・
      ・こういう場合、すぐにあきらめて、1階の売店で、、
      ・土産に「卵かけごはん用醤油」と「おナメ」を買い、


      ・試しに、焼き醤油団子を1本買って食べてみたが、、
         団子は”ハズレ”で硬いし焼けてないところがあった、、いまに!没


仙台の”ナナカマド”の紅葉・

2016-11-22 15:03:20 | 街 探求!

11/20:日:晴れ・・・
同期会2・・・今年は仙台・ 年に一度、お互いの”白髪の数”を確かめ合うのも”一興”であろう・

仙台は、かっては年に1,2度の割合で訪れていたのだが、さすがに街中をそれほど知っているわけではない。

 

仙台市内で、ナナカマドの紅葉を見つけた。
杜の都・仙台は、森や林や、とにかく公園の多い街である。
森や林の、赤い木の実は、・・・ほとんどが野鳥たちの食料 ・・・仙台は、野鳥に優しい街である。


> 宮城県美術館の中の佐藤忠良記念館:外テラスにて
* 佐藤忠良 日本の彫刻家、女優:佐藤オリエの父、
、”この人の語りに、、日本人として心に染み込んでいくような言葉がある”

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・・・ 女優:佐藤オリエが・・・役者になりたいって父に言ったら、
    反対されると思っていたのに・・・そんなことはなくて、
     「じゃあ五十歳になって本物の役者になれ」、って言いました。
  兄が医者になりたいと言ったときは、「金儲けの医者にはなるな」、って 
                 ・・・でも父は決してゆるぎませんでした。
  「役者になって、十年間は稼ぐなんてことは考えないでやる、って約束するか?」 って、・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





村岡のこと  ・・坂東平氏の源流

2015-07-20 03:07:07 | 街 探求!

村岡のこと  ・・坂東平氏の源流
                                                ・・・ 熊谷市村岡。

[高雲寺・墓地・円古墳?]

村岡古墳群はR407の東松山と熊谷の界当たり、村岡三叉路(交差点)近くの高雲寺の周辺に分布とあり、寺の墓地に小高い塚が一つあるが、孤高で群れていない。この古墳は円墳らしき?があるが、近くに豪族が住んでいたのか・?古墳自体はその一基を残して、他は崩されて、田園に変わっている・?

[村岡付近の高雲寺]

「平良文 仁和二年(886)3月18日に京で生まれた。良文は武蔵国大里郡村岡郷(熊谷市村岡)を本拠とし、村岡五郎を称した」という伝承が残る。しかし、その場所は比定できない・・・・・

今昔物語の説話・
『今昔物語集』には源宛(箕田宛)と(平良文)の一騎討ちの説話が収められている。これによると源宛との一騎打ちは以下のようなものであった。
今は昔、東国に源宛・平良文という二人の武士がおり、二人の領地は荒川を隔てて近いところにあってたびたび家来たちが小競り合いをしていた。そのうちに家来同士ではなく二人で一騎打ちをしようという話になり、お互い家来を引き連れて荒川の河原に乗り込み、家来には手出しをしないように命じて前へ進み出た。はじめに源宛は平良文の放った矢を軽くかわし、次々と射られる矢を刀で打ち落した。平良文も負けじと源宛が放った矢を軽くかわして次々射られる矢を刀で打ち落し、二人のすばらしい業に敵味方関係なく喝采が送られた。二人は一歩も譲らず、戦いが終わると互いに駆け寄って健闘をたたえあい、今後は助け合って地方の開発に尽くすと誓い合ったという。

[箕田古墳群の中]

ここに出てくる荒川は、今の元荒川だろうし、それも乱流を繰り返し、洪水の毎に水路を変えたという伝承が残っている。二人の戦いの場所は何処なのだろうか?
源任のことを訊ねると、箕田任のことだという。読み方は、多少ややこしくて、箕田・みた・任・つこう・と読むのだそうだ。そして、鴻巣の箕田に、箕田館という武家屋敷があったと古文書にのこる。
この箕田屋敷の箕田氏は三代続き、二代目は源宛(あつる)、三代目は渡辺綱(つな)で、渡辺綱のとき京へ上り、源頼光の家臣になり、頼光四天王の筆頭と言われた。有名なのは「羅生門」の鬼退治の話である。『今昔物語集』の「羅生門」は謡曲にもなり、芥川龍ノ介の小説にもなった。

[鴻巣・氷川神社]

鴻巣の箕田屋敷は、北鴻巣の氷川神社(鴻巣市箕田)であったと言われている。そうすると、川を隔てた元荒川の河原は、鴻巣の「免許センター」裏手の河原ではないかと、勝手に想像する。全く根拠がない当てづっぽうだが、何故かそう思えてならない。鴻巣の「免許センター」の裏手は、昔知人の葬儀があり、火葬場があった。周囲は人家の疎らな田園で、確か行田の古墳群の郷まで、延々と続いていたように思う。その風景の記憶は、古戦場をつい想起させるのだ。だが、”良文”と”任”の戦いは、なんとも長閑な感じである。

ここで、武蔵野を発祥とする「桓武平氏の源流」に再び戻る。
延長元年(923)、三十六歳の平良文は、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。その後東国のどこかに定住して京に戻ることはなかった。
東国に来た”平良文”は村岡五郎と名乗った。
村岡五郎が住んだと言われた場所は、いつの間にか、「村岡」という地名になった。
その場所は、・
 ・武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、
 ・相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)、
 ・下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)、
住んで居館はあったが地名にならなかった場所が
 ・千葉県東庄町、
 ・千葉県小見川町、
である。
歴史を辿ると、上記は時系列になっており、数少ない逸話の中で、それでも多い方が熊谷の村岡であるから、熊谷の村岡に住んだから”村岡五郎”を名乗ったのかも知れない。それから後の村岡は、平良文がすんだので、村岡と呼ばれるようになったのかも知れない。いずれにしても証拠がない話なので、定かではない。
こうして見てくると、”村岡五郎”の役割と行動範囲と人となりが浮かび上がってくる。まず役割だが、村岡五郎は、朝廷から派遣された、武蔵国及び周辺国の”鎮撫の長官”つまり警察機能と見ていいだろう。周辺国とは、相模国と下総国までが範囲であるが、”下総国結城郡村岡”には違和感が残るのは、中世の地名に馴染みがないからか。結城の現在の地籍は茨城県に属し、常陸国ではないのか。常陸国と上総国は別人がその任に当たっていた。説話に残る、村岡五郎の人柄はおしなべて公平な好男児である。”賊”というのは、恐らく税金を拒否して、富と武力を私的に貯えた地方豪族を指すのだろう。
当時の鎮撫(警察機構)は、現代の警察機構と違って、網の目のように網羅されていたわけではない。浮かび上がってくるのは、交通の要所で、受け持ちの範囲の中央に位置していたのではないかと言うことである。鎌倉古道を確認すると東山道武蔵野道と重複しているみたいである。確認された古道は、吉見町の西条里遺跡、とうかん山古墳を通っているようである。やはりこの辺りを分岐して上野国と信濃国への道に分かれる。別名は古道上道と呼ばれていたようだが、坂戸や日高のように、古道の痕跡ははっきりとは残っているわけではない。
村岡五郎は、各地に反逆する”賊”を成敗に出かけるが、その痕跡が各地に居館が残っている所を見ると、その戦いは数ヶ月から数年に及んだと読むことが出来そうだ。それも、次々と征伐に出かけざるを得ない暮らしが続いていたようだ。戦いの兵力も、手持ちの家来だけでは足りず、現地の協力的な豪族の手も借りたと思われる。
ここからの部分は私見ですが、現地豪族と派遣政府高官(賊成敗の朝廷の武官)の関係の考察ですが、現地豪族は、政府高官に対して、思惑があり、供応したと思われる。それは、朝廷から派遣される武官は、おしなべて名族であり、あわよくばその名族の一員に列することは末代までの地位の保全になる。その為、豪族の子女を‘現地妻’として応対させ、彼女が男児でも産めば、彼の豪族の思惑の願いが叶い、名族に一員になると言う筋書きが完成する。平安時代の婚姻の制度は”通い婚”であり、道徳的にも違和感がない。こうして桓武平氏は、武蔵野の地で増殖を重ねていきます。
賊を追放し、あるいは戦死させた領土は、領主不在になり、増殖した桓武平氏の手に委ねられます。
このメカニズムは、平氏に限らず、源氏も同じで、地方に「賊を征伐する」為に派遣された源氏も、各地で増殖をしていたことが実証されています。南関東の坂東九平氏、北関東・信濃の源氏庶流は、このメカニズムによって生み出された庶流と見ることが出来る。

ここで系譜のおさらい ・・
平良文の父は平高望。高望の子は四人確認されている。正室の子は平国香、平良兼、平良将、側室の子は良文。父の平高望が東国に下向した際には、平国香、平良兼、平良将は従ったが、良文は幼年のため従わなかった。後、延長元年(923)、三十六歳の良文は醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向し、盗賊を滅ぼしたと伝わる。
父:平高望亡き後、正室の子、平国香、平良兼、平良将の三人は常陸国に居着いた。遅れて東国に来た良文は武蔵国に村岡に居館を構えた。朝廷からの任務は、同じだったと考えられる。「将門記」の平将門は平良将の子。将門と良文は伯父、甥の関係。将門が戦った、平国香とも伯父、甥の関係。「将門の乱」の時、平良文は、将門に味方したと伝わる。
平良文には五人の子がおり、長男の忠輔は早世、春姫(平将門の娘)を正室とした三男・平忠頼からは千葉氏、上総氏、秩父氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などが、五男・平忠光からは梶原氏、長江氏、鎌倉氏などが出て、さらにこれらの氏族から多くの氏族が分かれて「良文流平氏」を形成した。畠山重忠の畠山氏族は、秩父氏から派生したと言われる。
後に、源頼朝による源平合戦に従軍して鎌倉幕府の創立に協力し、鎌倉幕府で有力な御家人になった者の多くがこの良文流平氏に属する。
なお、平良文流・鎌倉氏が伊勢に流れて伊勢平氏を名乗り、伊勢平氏が朝廷に文官として仕えて勢力を拡大し、京都に権勢を誇った平氏が生まれた、と言う説があるが、良文流であるかどうか詳らかではない。
いずれにしても、謎に包まれた”平良文(=村岡五郎)の霧は、少しだけ晴れて輪郭が見えてきたように思う。

[千葉神社]・千葉一族の氏神・千葉氏の嫡流の元服が行われた。

妙見菩薩と良文
平将門が叔父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。


 ・・・この逸話は、当時の情勢や逆賊とされた”将門”に味方した良文を、朝廷は鎮守府将軍とするだろうか、それも戦いの最中に・・という合理性に欠ける所がある。平良文の孫が千葉に住み、千葉氏を名乗った、ことは確か。千葉県や千葉市の名前の由来でもある。その千葉氏が信仰する「妙見信仰」のことを書いた古文書が残されていて、その内容である。平良文は、晩年を千葉・小見川に住み没したとされている。

 

[小見川の平良文館]


不老川のこと 三富のこと:追記

2015-06-27 16:48:08 | 街 探求!

不老川のこと 三富のこと:追記 

承前
三富の開拓のため、柳沢吉保は、箱根ヶ崎の池から水路を引こうとしたが、どうもうまく行かなかったようだ、詳しからずと前回書いた。
気になっていたので、地図を眺めてあれこれ想像した。・・・ こういう思考の彷徨は好きである。

不老川

 


新河岸川 不老川との合流点

まず川越 ・・・
川越は武蔵国の古都である。今でこそ、大宮や浦和や川口に、人口では抜き去られ、所沢のあとに位置しているが、明治以前は武蔵国随一の町であった。
川越は、名のごとく川を界にしている。今をして思えば、荒川が境界の川の最たるものという思いがあるが、実は入間川の方が、川越の界川に相応しい。さらに、入間川と平行して流れるのが小畦川で、小畦川は、川越・落合橋付近で入間川と合流する。荒川の今の水路は、せいぜい江戸初期からのことである。その他に、川越を流れる川と言えば、新河岸川であろう。新河岸川の水源を尋ねると、赤間川、九十川、不老川とある。赤間川は、入間川を取水として川越城下を流れる川で、恐らくこの乱流が伊佐沼をつくったのだろう。伊佐沼を水源とする九十川は、流下して新河岸川に繋ぐ。赤間川も同様に新河岸川に繋がる。
さて、ここで不老川だが、本来の名前は「としとらずがわ」という。今では、読み方の煩わしさから、「ふろうがわ」と読む人が多くなり、どうも「ふろうがわ」が一般的になった。
不老川の水源は、箱根ヶ崎・狭山が池である。この水路は、狭山丘陵の崖下を沿って流れ、入間、堀兼、入曽を通って、川越・今福辺りを通過して、新河岸川に繋がる。
新河岸川は、江戸時代、川越藩主・松平信綱が水運用につくった川である。松平信綱は”知恵伊豆”の異名をもつ切れ者であった。当初の目的は、喜多院の建築資材を、江戸から運ぶためのものだったという記録が残るが、やがて川越付近の農産物や物産を江戸へ運ぶための大動脈になった。初期の頃は、新河岸川の水量が足りず運搬に度々支障が出て、何度かの改修を経て今の水路になった。水量を確保するため、川を蛇行させたのである。そのため、陸路十三里が水路ではほぼ倍になったという。新河岸川の名前は、その頃付いた名前で、水運の名残を表している。当然元の川の名前もあっただろうが、詳らかではない。

狭山湖


多摩湖


狭山池


イントロの部分が長くなったが、話は‘不老川’のこと。
狭山が池を水源とする”不老川”は、冬場は渇水して枯れ川になることが多いと訊く。そう聞くと、狭山が池の水量は豊富なのかどうか、気になる。
箱根ヶ崎の狭山ヶ池とはどんなんだと調べて見ると、箱根ヶ崎は、都下・瑞穂町になり、池は、入間と所沢と瑞穂町の境界あたりの、狭山丘陵でも標高の高い丘陵山林部分である。もっと分かりやすく言えば、西武球場のある辺り。ここは、湧き水が豊富で、湧き水を貯めて、狭山湖、多摩湖という人造湖をつくり、都内への水道の供給源になっているのだ。ちなみに狭山湖、多摩湖は通称で、狭山湖は山口貯水池、多摩湖は村山貯水池が正式名称である。要するに、水量は豊富なのである。

多摩川


狭山丘陵 丘陵の上に富士山が覗く

紀元前、何万年か何十万年前、多摩川は、多少乱流していたが、本流は入間川に合流していた。古多摩川の流域が、不老川の流域に重なる。多摩川は、水源の山岳が、秩父山岳と岩場と違い、山肌から土砂を削り取り、下流に堆積させたという。狭山丘陵は、基本的には多摩川のつくった堆積層の丘陵と言うことになる。紀元前の、いつ頃か分からないが、断層があり、両側から押されて盛り上がった。これが狭山丘陵の隆起で、多摩川は、その時以来狭山丘陵の西側を流れるようになった。いまの多摩川の水路である。恐らく、狭山丘陵を隆起させた断層は、立川断層というのだろう。しかして、狭山ヶ池付近の水源は西へ流れ、多摩川水系の支流になった。と言うことは、多摩川に向かって傾斜していると言うことなのだろう。

もっと要点を抽出して明確に言うと、不老川(古多摩川)の流域は、古多摩川時代水量が多く、沿岸に堆積層をつくり、かつ削って、流域を低地にした。それに、武蔵野台地と狭山丘陵は、つくられた経緯が異なり、地続きだが、成り立ちの違いから土壌の構成が異なるのだ。
以上の条件から、不老川の水脈を、武蔵野台地に流すことはかなり困難な事業と予想できる。水は、低い所から高い所には流れないのだ。それと、不老川の水量は、水源地の地理的な制約から、豊富とは言えないのだ。

不老川

蛇足の雑記 ・・・
不老川のことを、武蔵野風土記では 年不取川と表されている。不老川は、冬に干上がる。
名前の由来は ・・・ 旧暦正月に年齢を重ねる習慣における加齢の際にその姿を現さないため「年とらず川」と呼び習わされている。また、干上がった川の橋の下で一晩を過ごすと、歳をとらないといわれる伝承もある。

 

川越城

柳沢吉保が川越城主になる数代前の川越城主は松平信綱(伊豆守)であった。

二人とも、幕藩の官僚として治世に優れた業績を残した。徳川時代を通してみても、この文官達は秀逸である。
松平信綱が、川越藩主時代に行った治世で、優れたものを二つ特筆すれば、一つには川越城下に‘市’を設けたこと、今一つは、新河岸川の水運の水路の開拓であろう。川越城下の市は、川越を”商業都市”として繁栄させて関東でも有数の商業都市になった。新河岸川の水運は、急増する人口の江戸への、食料の供給源になった。川越藩の新河岸川沿いは、出自の家系のもっとも得意とする所、伊奈組の治水と開拓のエキスパートである。信綱自身が詳しくなくとも、関係者は、ほぼ治水の匠である。父である大河内久綱は、関東郡代頭・伊奈忠次の家臣であり、天領・寄居の代官であった。松平の姓は、養子先の苗字。
優れた民政を行った信綱であったが、三富の元・三芳野の武蔵野台地の開拓には手を付けていない。

 

平林寺(新座市) 秋の紅葉が美しい

蛇足の雑記 ・・・
松平信綱の幼名は三十郎と呼ばれる。父は大河内久綱で、伊奈町小室に生まれた。父・久綱は、小室の藩屋敷と寄居の陣屋を往来する。小室の久綱邸は特定できていないが、幼少の三十郎の遊んだ場所と神主から寺子屋風に学んだ場所は、蓮田・八幡宮と記録に残る。従って、八幡様に近い伊奈町の範囲が比定できそうだ。この幼少の神童と呼ばれた始めはここにあり、封建の階級制度を飛び越すような養子制度を自ら求めて飛翔していった。封建的階級制度が機能している時代、養子制度は階級を飛び越す裏技であり、かってに名付ければ”煙突機能”と呼びたい。なお、明治維新が成ったとき、大河内松平家は、本来の大河内家に戻っている。菩提寺は、野火止の平林寺。秋の紅葉の美しい寺である。