ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

木曽呂と安行 ・・地名の裏を覗くと

2014-04-09 00:33:10 | 日記

木曽呂は、木曽呂であって安行ではなさそうである。しかし地続きで、”植木の郷”安行の隣に位置する。

      


見沼の悪水・芝川は台地の間を貫流し上尾、大宮、浦和を流れ、川口を流下する。その台地が舌状に東から延びている場所が木曽呂。反対側の西から舌状に伸びている場所が大牧。東の木曽呂と西の大牧の付島間は、僅か八丁、・・ここに芝川を堰き止めて、広大な溜め井がつくられた。この溜め井の沼湖は、日光の中禅寺湖よりやや大きく、諏訪湖よりやや小さい。芝川の堰き止めを、八丁堤という。
寛永六年(1629)、伊奈忠治の仕事である。
八丁堤によって出来た溜め井は、川口を手始めとする足立郡の下流地域・221ヶ村に調整された水流を流し、新田と美田を作り上げ、幕府の収入を飛躍的に増加させた。
一方、溜め井になって見沼の沼を増大させた湖水は、沿岸に多大の被害を出し始めた。
享保7年(1722)に将軍の吉宗の命により、井沢弥惣兵衛は見沼の灌漑を手がける。下流への灌漑用水の供給と見沼の新田開発である。これは、八丁堤を決壊して水を抜き、新たに見沼用水路を開鑿して水を供給するという事業である。成し遂げた井沢弥惣兵衛は、見沼をも新田に変えたのである。

さて、川口市に属する木曽呂だが、奇妙な名前である。木曽と関係があるかと思って、御嶽神社を探してみたが、どこにも見つけられない。どうも、”崖”や”傾斜地”を表す”きそ”から出来た地名らしい。呂は”背骨”の意味を持つ。この「崖+背骨」の地形名が始めに出来て、木曽呂の文字が宛がわれた・・・恐らくこんな所だろう。

地続きの安行の地名も妙である。しかし、こちらの方は、比較的明確に歴史に刻まれている。
戦国時代、岩槻城主太田資頼の家臣に、中田安斉入道安行がおり、この地を治めていたという。この安行(やすゆき)の名前から、安行の地名が付いたという。

              金剛寺・中田安斉入道安行の開基 ・・殿山城跡?


殿山城、たぶん陣屋の規模で、安行吉原、字立ノ崎。築城年は室町期で、主な城主は、吉岡将監・・・中田安斉入道安行の子だという。
歴史・・『新編武蔵風土記稿』には吉岡将監の陣屋と伝えている。吉岡将監は安行村の村名になった中田安斎入道安行の子であり、親子で岩附城主太田資頼(太田道灌孫)に仕えていたとされる。安行は明応五年(1496)に金剛寺を開基し、天文二年(1533)没。
なお、吉岡氏は現在も植木農家として存続し、吉岡氏が開基となった金剛寺も存続しており、安行の歴史を伝えている。

朝日神社   ・・・参詣記

                   朝日神社    


朝日の字を分解すると、十月十日が見える。○○年十月十日、近在の氏神が合祀されて、朝日神社になったという。・・・なんとも安易な神社名。

                                   


別名を木曽呂の氷川神社ともいう。しかし、祀ってある祭神の中に「須佐之男命」や「奇稲田姫命」が見えない。大宮氷川神社の改装の時、古き建材を譲られて、神社を建立した歴史があるという。無関係とまではいえないし、仮冒とまでいわないが、氷川神社とは別流と見ていいのでは、と思う。