ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「松本」学、あるいは「松本」考:7  トピックス2

2023-09-04 14:08:21 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:7

7:トピックス2

古(いにしえ)は神社由来より・・・

浅間温泉の温泉街の上の方に神社がある。国道254号線の三才山トンネルの手前にも神社がある。また、美鈴湖を少し上った、美ヶ原の高原の中にも神社はある。御射神社という、・・らしい。

名前が「みさじんじゃ」といい、祭祀の様式が、キリスト教の「ミサ」に似ていることから、一説に「大陸高原の遊牧民」からの伝承の神社という説も、秘かに受け継がれているが・・・確証に乏しい。

正式名称を見てみよう。浅間温泉の上にある神社は、「御射神社春宮」、三才山トンネル近くの神社は、「御謝神社秋宮」、美鈴湖上の美ヶ原にあるのは「御謝神社奥宮」と呼ぶらしい。松本・岡田の地方誌の伝承によれば、鎌倉初期に、浅間郷の地頭であった「赤沢氏(=小笠原氏の傍流)」が稲倉城にいたころ諏訪から勧請したという記録が残るという。

だが、源氏の流派を標榜する赤沢氏が、独特な祭祀の様式をもつ御謝神社とは、どうも馴染まない。源氏であれば、「八幡神社」がほぼ氏神のようで、戦の神:諏訪神社でもいささか都合が悪い。

それでは、御謝神社の御神体を見てみよう・・・・・

御祭神・・諏訪明神(建御名方神・大己貴神・高志沼河姫神) 国常立命

建御名方神 ---・たけみなかたのかみ / 大己貴神 ---・おおなむちのみこと

そして、御謝神社は、諏訪神社のお狩場でもあるそうで・・・

御謝神社のある山は、所を変えることにより、御社山・御斎山・三才山とも呼ばれるが、「言い」のもとは、どこも「ミサ」であることは間違いなく、このことが美ヶ原や霧ヶ峰を「神の高原」とかんじさせる「ロマン」の源と思わせる。そういえば、連続性だけは認識しているのだが、美ヶ原や霧ヶ峰の境界は、いままで全く意識していたことはなく、ヴィーナスラインのカーブラインだけを覚えている。七島八島湿地は、諏訪大社の「お狩場」の聖地・・・

御謝神社の御謝は、どうやら「ミシャグジ」信仰が由来のような気がする。

ミシャグジ信仰の淵源は、

・・・・・柳田國男はこう書いている。・・・「荒神・山神・地ノ神・道祖神は、西部の諸県にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしかないのは社宮司しゃぐじという神である。これについて二十年余りも前に、私は小さな本を一冊書いている。それから後に判ったことは、信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかということである」。つまり、もともとその土地に固有した在来神ということ」・・・

これが後からやってきた諏訪神と抗争したが敗れ、やがて同化して祭神事を共有化していった」とみるのが一番合理性があるように思う。

さて、諏訪社の祭事の中で、最も神秘的な・・というか、不思議的な「御頭祭」は、生贄の祭祀である。

「御頭祭」は、別名「酉の祭」とも言われ、正式名称「大御立座(おおみたてまし)神事」です。この行事の最大の見所は、鹿の首75頭をはじめ猪の首や魚、雉などを生贄として供えるという ------

「鹿の頭」の剥製:写真

 -----・ なんともはや・・上記は旧約聖書の言葉とほぼ同じ、、「羊」を「鹿」に置き換えれば、、「ほぼ」も無くなるし・・

上記の真偽は、よくわからないが、、--こんな神秘的な祭祀が行われていたのは確かなようで、、最近では、鹿の頭は、さすがに残酷なさまなので、生身を「剥製」に取り換えているそうだ。

美ヶ原は、文字通り「美しい高原」であるが、神々の舞台でもあったようで・・・

 


「松本」学、あるいは「松本」考:6  山家」の読み方

2023-08-28 09:33:32 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:6

6:山家」の読み方

山家」の読み方

---・ 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり
---・上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います

と、先に書いた。
この「山家」は、「やまや」と読むとばかりに思っていた。

里山辺を散歩中に、地元の人との会話で、この城跡は「やまべ=山家・城」だと知った。散歩中に、この会話がなければ知りえなかったことである。

山家城跡:写真


「山家」を「やまべ」とは、難読の極みである。松本が、城下町の体裁を整えて、人口を増やしてきた折、新参者は「山家」を「やまや」と読みえず、呼び名は習わしであることから、当て字の方を「山辺」と変えたのであろう。そして「山家城」の主の統治の領域は、里山辺、入山辺、三才山辺りであったのではなかろうか。そういえば、美鈴湖の地籍は、三才山である。

歴史書を読み返していると、小笠原家の内訌、諏訪大社三社(上社・下社・高遠)の内訌、戦国期の初期、‥‥山家城は、度々府中小笠原に攻められた。山辺一族は、諏訪神党であったようで、その度に「諏訪上社」の神党に助けられたが、とうとう小笠原長朝(文明年間)の時に滅ぼされます。以後、山家城は、小笠原の傀儡が城主を継ぎますが、諏訪神党とは関係がありません。

 


「松本」学、あるいは「松本」考:5

2023-08-19 16:04:38 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:5

5:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:2

・・・、 三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。
美ヶ原温泉郷から、細い道を縫っていくと、美鈴湖に合流する脇道もある。
ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、バスでも良し、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、「山家城跡」というのがあります。ここらあたりから、入山辺」と言います。

入山辺のブドウ園:写真

さらに上ると、「三城牧場」に着きます。近くに、扉鉱泉」もあります。

---・なにせ・・五十年プラス前のことゆえ、いまだに牧場をやっているのか、鉱泉が名前をかえたのか、そこらへんはご容赦を・・・
「三城牧場」は、大学の「オリエンテーリング」の時のハイキングの目的地でした、、、それが縁で、美ケ原を裏庭と認識しているのかも知れません。贅沢なことです。

 

で、ルートは複数ながら、どちらも美ヶ原へ通じています。

高原です。そして草原です。山岳は、高度を増していくと、森林限界を超えって、背の高い森林がなくなって、低木や草花に変わります。

横や空が、抜けて、開放感が広がります。美ヶ原高原です。


「松本」学、あるいは「松本」考:4

2023-08-15 16:07:51 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:4

4:裏庭・美ヶ原

裏庭・美ヶ原

ルート:1

母校(信大)の脇を通って橋を渡ると「浅間温泉にでる。橋を渡った直ぐには、「川島芳子」が住んだ家がある。(----戦中に、渾名 男装の麗人、東洋のマタ・ハリとも呼ばれた人、機会があれば深追いするが・・・) 温泉旅館、温泉ホテルを突き抜けてそのまま上ってゆくと、・・・、 

三年間住んだ里山辺の近くには美ヶ原温泉郷もあり、バス停は「美ヶ原」に通じていた。ここいら一帯は、見渡す限りのブドウ園で「種なしデラウェア」の産地である。ここを、細い脇道だが、歩行でもよし、でブドウ畑の間をヒタすら上っていくと、・・・、

美鈴湖の手前で合流する。美鈴湖と言えば、50年目r当時、「浅間温泉国際スケートセンター」があった。---・油氷とか言って、好記録続出の「アウトドア・スケートリンク」であったが、今はもう無いそうだ。


写真:美鈴湖

道草・トピックス;

美鈴湖からさらに登っていく。
番所が原スキー場を経て、美ヶ原高原美術館へ着く。

つづく・・


「松本」学、あるいは「松本」考:3

2023-08-04 13:54:30 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:3

3:松本市の由来

そもそも、松本は、城の改名からきている。それまでの城の名称は、「深志城」であった。
・・・松本市の由来 松本市の名前の由来は、天正10年(1582年)に小笠原貞慶が深志城を「松本城」と改称したことが要因。 「待つ事久しくして本懐を遂ぐ」との懐述「待つ(松)本懐」から「松本」になったと言われている。 また、佳字を用いた瑞祥地名とする説もある。・・・

写真:松本城

理由は上記のとうりであるが、読んでのように、全く後で無理やり付けた理由のようで、納得が行くようなものではない。

小笠原貞慶」が出てきたので、中世・府中の領主の名前を、歴史的に振り返ってみよう。


建武の新制の時、足利高氏は、六波羅探題で、信濃武士を束ねて京都警備をしたことがある小笠原宗長に同志を依頼したことに始まり、足利高氏(尊氏)と小笠原宗長・貞宗は盟友であった。
建武の新制は、足利高氏(尊氏)と後醍醐天皇が、北条得宗家(前北条)を倒した戦いであった。後に、尊氏と後醍醐は離反し、北朝と南朝で対立する。
信濃武士は、室町幕府に抵抗する勢力が多く、大町の仁科や坂城の村上や、北条得宗家の御身内を自認する諏訪神党らが跋扈し、小笠原貞宗は、室町幕府与党として彼らを制圧するべく、府中に橋頭保を作った。従って、当初の府中小笠原家は、反室町幕府の反対勢力の陣屋であった。
この陣屋は、深志城ではなく、塩尻に近い井川であった。
深志城は、女鳥羽川や薄川を合流した木曽方面からの奈良井川と北アルプスからの梓川の落合地点でかなり水深い湿地帯にあった。以降、千曲川と合流するまでを犀川という。当時の城主は、小笠原家の家宰(家老)的な役割の坂西氏であって、小さな支城であった。

小笠原家の歴史

どうやら、「松本」という地名は、「松本城」という城名からきているのが確からしいことが分かった。そして深志城」を「松本城」に改名したのは、府中・小笠原家の係累であることも分かった。これ以前に、この地区に「松本」に因する地名も遺跡も見当たらない。
そこで、幕藩大名の小笠原家について深堀りをしてみる。・・・


  源頼朝に仕えた長清が甲斐国小笠原(現山梨県南アルプス市小笠原)に住して小笠原を名のったのに始まる。承久の乱後に鎌倉幕府の阿波守護に補任され、以後幕府滅亡までその地位を世襲。
  鎌倉末期の当主貞宗は新田義貞に従って倒幕に参加し、建武中興政府で武者所を務める。南北朝時代には足利尊氏に属して信濃守護に補任された。永享12年(1440年)に信濃を平定した政康の死後、一族は府中(深志)小笠原家と伊那(松尾)小笠原家に分裂して対立。
  天文年間の武田信玄の侵攻で府中小笠原家の長時は信濃を追われたが、その子貞慶の代に徳川家康に仕え、その子秀政が下総古河に3万石を与えられた。江戸時代には寛永9年(1632年)以降豊前小倉藩主家として続く。また分家の大名が3家(安志藩、千束藩、唐津藩)あった。維新後には旧小倉藩主家の宗家は華族の伯爵家となり、分家3家は子爵家に列した。
  伊那小笠原家の方は武田信玄に属したのちに織田信長や徳川家康に従い、江戸時代には越前勝山藩主家として続いた。維新後には華族の子爵家に列する。
  また庶流の京都小笠原家は室町時代に武家の兵学・礼法として小笠原流を起こした。江戸時代の譜代大名は、系図を仮冒した出自の怪しい家が多いが、その中でも数少ない清和源氏の名門だった小笠原家は武家故実を諸大名に相伝する家となり、小笠原流を武士の間に広めた。明治以降は学校教育にも取り入れられ、特に女子の礼式として国民に広く普及した。戦後は「半封建的道徳」とされて学校教育から退けられ衰退したが、小笠原家の子孫などによって伝承の努力が続けられている。
  ----その子貞慶の代に徳川家康に仕え、その子秀政が下総古河に3万石を与えられた。

五郎のように
この間の詳細

 ----その後は将軍・義輝の没落と御館の乱により長時は会津へ逃れる。天正10年(1582年)、武田遺領を巡る天正壬午の乱においては長時の弟である小笠原洞雪斎が越後上杉氏の支援を受け、小笠原旧臣の助力を得て木曾義昌から深志城(松本城)を奪還する。洞雪斎は上杉氏の傀儡であったといわれ、長時の3男の貞慶は徳川家康に仕え、小笠原旧臣の支持を得て深志城を奪還する。

このような経緯で、武田信玄の敗れて、府中を逃れた小笠原長時・・その三男の小笠原貞慶が、深志城に入って、城の名前を「松本城」にかえたという経緯がある。

そして、府中が、武田家統治時代に、「深志城」を陣屋、支城を整備して縄張りし作り変えたにが、工藤昌豊(内藤昌豊)であり、近代的な城にしたのが、秀吉家臣・石川数正であった・・

 どうも、松本は、小笠原家が当初三家(府中・松尾・鈴岡)に分立し、そして長く松尾と府中に対抗したようで、府中に橋頭保を作った小笠原貞宗も、幼名・松尾彦五郎(豊松)のように、松本城は、松尾が総領家であった時代が長く、松尾小笠原家が関係しているような気がするのだがーーーここらの歴史背景が一番説得力がありそうだが、・・・

 推論が多いので、ここらへんで。・


「松本」学、あるいは「松本」考:2

2023-07-30 18:35:18 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考:2

2:「松本」より前に、「府中」って呼んだ?

松本市は、松本って地名の前には、府中と呼んだらしい。

府中・・・古代に中央官庁から送られた税務や警察機能などの役人を「国衙」といい、その役所を「国庁」、その存在する場所を「国府」と呼んだ。府中は、その国府が存在する地方のことで・・・

では、松本の前の国府のあった場所はどこか?が、覚束ない。このような類の歴史的な由来は、たいがい市の広報に案内があるものだが、不案内である。
では、どこかに詳らかにされていないかと調べてみると、「松本の歴史 - 岡田地区編」というのが「フェースブック」に載っており、若干詳しいが、断定に足る資料であるかどうか」は不安定に思える。
 つまり、「府中」という名称は、長らく呼びなれてきたがゆえに、客観性があり、存在を傍証的に担保するが、遺跡が少なくて場所の特定はままならず」ってとこか?


興味のある方は、下記を参照;・・・
https://www.facebook.com/rekishinopage/posts/2059106014380356/

古地図写真;

??「国府」は、「セキスイハイムスタジアム」(=野球場)と「「カリガネサッカー場」の中間地点【玄向寺】辺りかと・・

?「後丁」は、岡田伊深?の「伊深」のこと、

伊深」は「井深」に通じ、ソニー創始者の井深大の出自と聞いたが、当初半信半疑であった。後に、松本市岡田の公民館で、井深大」氏自らこの出自について講演をしたと聞いて、「本当らしい」と思う様になった。保科家家老を代々務めた井深家が、小笠原家臣から、保科家家臣へ移った経緯は分からないが、高遠以来の保科家臣は、いまだ継続が多いし、フェイクする理由も見つからないし・・・


「松本」学、あるいは「松本」考

2023-07-23 17:18:56 | 日記

「松本」学、あるいは「松本」考

はじめに、

松本には四年住んだことある。
一年は、蟻ケ崎は住宅街だが、寮があって、三年は、里山辺に、住宅街の端っこで、そこより背後は、緩やかな裾野で、デラウェアのブドウ園が延々と広がる。
そこでの四年間の記憶が、この頃どうも少しずつ薄くなっているように思う。
そこで思い立つのだが、・・・
キーボードを打つ手が、最近んとみにしんどい。胸骨の手術以降、右手が肩よりり上に上がらなくなっているのに加え、副作用でか、しびれまで加わっている所為・・・
下降としている内容は、記憶の中のこと。五十年以上前のことになるので、精度が甚だ不安だが、そこはご容赦を!

1:旭町

松本に「旭町」という町名がある。
昔、一年だけ通った母校の所在地だ。
どうもここは、旧来の地名ではなさそうで、戦後に出来た地名のように思える。調べてみると、「俗地名として江戸時代の旧町名からの天白町、中ノ町、東ノ町、上下町(かみしものまち)、下下町(したしものまち)、岡宮文園町などがある」とあり、・・・母校の裏には、「女鳥羽川」が流れていて、どうやらそこは、案外広い「氾濫原」(=河原)だったようで、戦中に、陸軍の「五十連隊」が仙台辺りから移住して練兵場になった。併せてこの練兵場の端に陸軍病院が建ち、この病院が医学部と付属病院に、暫くしてこの練兵場の大半が母校にかわったという記録が残る。
旭町は、かっての陸軍に由来する地名なのだ。そして昭和に生まれた町名なのだ。

写真:女鳥羽川

2:女鳥羽川と縄手

女鳥羽川は松本中心部を流れる。
中心部・・松本城への道・千歳橋を挟んで、上流部が、いつでも歩行者天国の出店・集積の繩手の商店街。近くに「四柱神社」があり、そこの参道に因する「市」という説がありますが、四柱神社の建立は、明治とあるので、その説は嘘っぽい・・繩手の出店ができたのは、江戸時代らしいが、女鳥羽川の河原に、自然発生的にできたらしい。当初は、日本海側の海産物が、いわゆる「謙信」が「信玄に送ったとされるあの「塩」の道を通って運ばれて、その海産物が売られた、ところという風説があるが、日本海の海産物は、理にかない本当だろうが、「謙信の塩」はどうみても「眉唾」もので、雪が多く冬の長い新潟に、自家用の塩以外に、商業用の塩を造る余裕もなく、商業用の塩田の実績は、探してみたがなかった。江戸時代に北国廻船が盛んになって以降、瀬戸内海の塩が運ばれたという事実は残るので、そのころ以降なら話は判るが、信玄・謙信時代の「塩」の話は、どうも怪しいと思う。

3:繩手のカエルの像:写真

繩手の出店街は独特である。
松本には、四年間居たが、大半、この界隈には入り浸った。理由は、近辺に居心地のいい「ジャズ喫茶(=アミ)」やコーヒーの旨い翁堂という喫茶などがあり、冬は寒く夏は暑い独特な盆地気候の避寒避暑を兼ねて、居間、応接間、読書室がわりであった。
同じような使途で、当時日本一安いといわれた映画館もあった。女鳥羽川の対岸には、柳宗悦が絶賛したといわれる「囲炉裏のある喫茶店=(まるも)」があったが、松本にいた当初に数回行っただけで、好きな場所ではあったが、それ程通ってはいない。「アンアン」や「ノンノ」に掲載されて以来、若い女性の占領されて、空いたテーブルがなかったから・・・

4:女鳥羽川・上流

さて、女鳥羽川を上流へ辿ってみる。
といっても、女鳥羽川の河原を上流へと辿るということではない。まず、松本から岡田へのルート、先は四賀・青木峠・上田へと続く。この岡田の伊深というところで、松本・佐久往還と交差する。交差を右に向かうと三才山トンネルになる。このトンネルの先が佐久。
この三才山が女鳥羽川の源流になる。

御謝神社・秋宮:写真

三才山トンネル:写真


1:高麗川と寺院仏閣

2021-08-20 18:30:42 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!


1:高麗川と寺院仏閣
  
 「高麗神社」

写真:トーテンポール?
   トーテムポールのような標柱。「将軍標」という朝鮮半島で使われる魔除けの境界標

 一風変わっています。


 高麗神社 由緒 --- ・「当社は、高句麗からの渡来人 高麗王若光を主祭神として祀る社です。他に、導きの神 猿田彦命、長寿にして長く朝廷に仕えた竹内宿祢が祀られています」
 *高麗王若光 ;高麗(こま)の王(こき;古代朝鮮語)し若光(じゃっこう)---・

 どうやら、主祭神は「朝鮮半島」からの「亡命者」の類であろうか。後先の時系列から言うと、新羅という外敵から攻められて、支援を求めて「大和朝廷」に来たのだが、最中に・・高句麗が新羅に攻め落とされて帰るところを失ったとの筋書き・・大和朝廷に派遣されたのが、高句麗の「王族」に関係するとかしないとか・・の人物が「若光」であり、真偽は別として、大和朝廷は「高句麗王族」として扱った、というところであろうか?
 ここで、「高麗神社」にあまり関与がなさそうな「竹内宿祢」が祭神として祀られている。何故であろうか考えてみた。
 竹内宿祢は、伝説上の人物・・何しろ330歳まで生きたというから驚き・・業績を見てみると、内政のかなり有能な官僚(能吏)の実績が記録に残る・・恐らくは、亡命した高句麗民族に、日本における「移住地」を宛がい、存続出来るようにしたのが彼であろうと想像するのだが・・・これが事実かどうかの記録はないが・・では、何故に「高麗神社」の祭神のの一つになっているのか」を考えると・竹内宿祢の関りを暗示しているように思われる。
 高句麗王族に限らず、朝鮮の「王族」政権は、どうやら、絶えず脅かされて入れ替わっていたようで、敗者は、正式ルートに限らず、海流に乗って命からがら亡命した例は、かなり多かったのではないかと・・日本は、その亡命先で、古事記や日本書紀の記述には、累々の天皇家も、・・出自は大陸であろうかとの「傍証」が幾つもあり・・その伝手を頼りに「亡命してきた」と考えると「さもあるかな」と・・

 

..出世明神と呼ばれる:《 高麗神社 》


 巾着田 曼殊沙華・群生・・
 この異国情緒が残る風景に、何やら似つかわしい・・

 

 

 「竹寺」


 深き山中に、不思議な寺はあった。
 異国風情の漂う・・寺のような/寺でないような・・寺であった。そして、美しい。
 参道の竹林を抜けると、「牛頭天王」が登場する。この竹林が、俗称「竹寺」の由来・・のようだ。

 ・「医王山薬寿院 八王寺」--・正式名称
 由来は・:歴史 ---・天安元年(857年)に円仁(慈覚大師)が東国巡礼の際、病人が多いのを憐み、この地に道場を造り、大護摩の秘法を修したのが開山とされる。

 ・この竹寺の「本来」は「薬草園」のようである。


 ・本尊は牛頭天王、本地仏は薬師如来としているが明治維新の神仏分離から免れ、神仏習合の寺となっている。
 ・牛頭天王・本坊・三十三番結願堂・本地堂(瑠璃殿)・弁天堂・稲荷社・水屋・奥の院・鳥居・石燈籠など・・.

 この「神仏習合」というのがよくわからない。「大護摩の秘法」というのは、浅学の私でも、記憶の片隅に「密教」の法であることを教唆する。つまり仏教の前提・・仏教以前の宗教を意味する。「神仏習合」の、学校教育の「教科書」的意味は、神社と仏閣がまずあり、やがて「いいとこどり」をして共存関係になった・・」と理解していたのだが、ここの「竹寺」では、その時系列関係を拒否している様である。

牛頭天王のことを「スサノウ」と同一人物と比定する学者は多い

 

 開山は、円仁(慈覚大師)---・第三代天台座主。生まれは上州佐野。(「佐野サービスエリア」隣の「みかも公園」の端の方)。この人は遣唐使・・行も帰りもかなり苦労しているようである。特に「帰り」は、いろいろの理由で、なかなか帰国できなくて、「新羅」の人脈に相当お世話になったようであり、新羅に駐留し、ここで「薬学」を中心に「密教」の知識を会得したようである。そして、「新羅人」が随伴して帰国し、その後「新羅人」は帰らずに、円仁の手足になったようである。
 この寺には、「トーテンポール」のような「将軍標」があり、「新羅」の牛頭山の牛頭を冠にした「牛頭天王」があり、牛頭天王の子供の「八王子」を祀った御堂があり、その御堂は、東方楽園・浄土を表す「瑠璃殿」の名称であり・・つまり、「新羅」が多く残っている様である。


 ここには「新羅」、そして近在に、対称である「高句麗」の「高麗神社」を配しているのも「妙」である。


 茅の輪 --・登り口の鳥居に茅の輪が設けられている。木製の蘇民将来の護符を授与している。両者とも蘇民将来伝説に関係する厄除け ・

・・・「蘇民将来伝説」は、どうも日本の説話ではないような気がするのだが、・・これを否定する説を見かけない。

.

 

 あえて・・・ かつて「秩父三十四札所」を巡ってみたが、また訪れたい寺は、それらの札所より、「竹寺」である。

 「秩父三十四札所」には、なぜか「天台宗」派はない。

 

 

 

 


越辺川と高麗川

2021-08-20 18:26:08 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

越辺川と高麗川:

◇:越辺川と高麗川
 
 高麗川は正丸峠辺りを源流とする。高麗川と名栗川を挟んだ山岳は有数の杉の美林・・。高麗川に沿って走る西武鉄道が秩父まで繋ぐ。
 高麗川の周辺には、趣のある神社仏閣があるが、・・高麗神社、竹寺、能仁寺、子の権現などなど・・このうち、高麗神社、竹寺は、後で詳細する・・巾着田は、高麗川の一部で、「がま口」のように蛇行して流れ、時期には、曼殊沙華の群生が埋め尽くす。巾着田に隣接する「宮沢湖」は、最近人気の「ムーミンバレーパーク」というテーマパーク・・
 高麗川は、流れて坂戸と鳩山の境あたりで、越辺川に合流する。

ムーミンバレーパーク 写真
飯能市宮沢:郊外型レジャー施設。ムーミンテーマパーク

 

 越辺川は、外秩父山系の黒滝を水源とする。流下して、越生の梅林の中を通り、先述の高麗川と合流し、物見山の裾を捲いて、川島の長楽辺りで都幾川を合流して、やがて入間川にそそぐ。
 物見山は「平和資料館」「岩殿観音」「大東文化大学」「東京電機大学」「こども動物自然公園」などが集積する。また、八幡橋は「冠水橋」で有名、少し上流は、「白鳥の飛来」で人気のところ・・この付近は自然が残り、TVや映画などの「ロケ地」でたびたび登場する。

平和資料館 写真


2:慈光寺、都幾川

2021-08-07 10:49:12 | 史跡

「どん」が何を意味するのか?
「鈍」なのか?「呑」なのか?「丼」なのか?あるいは「首領(Don)なのか?はたまた!!

慈光寺、都幾川:


2:慈光寺、都幾川
 --・戦国の僧兵たち &番匠、湯葉など

 

 都幾川 --・ときがわ町(玉川村と都幾川村が合併してできた町名)、因は、町を貫流する都幾川。その都幾川は、慈光寺の山号「都幾山」を由来とする。

 慈光寺のホームページの紹介の項に、「戦国の時世では、当山も僧兵を傭し、近隣の城主との抗争に明け暮れましたが、それも太田道灌らによって焼き討ちの憂き目にあい、栄華を誇った寺院も衰運をたどること・・」という文面がある。
 
 その慈光寺・・

 時がたち・・嘗ての慈光寺が如何なるものであったか?」は、「web」を巡ることである程度把握は出来そうであるが、本来の規模や勢力の実感は、--・つまり筋肉質や血の実感までは、「見える化」しなければ霧のように遠いのである・・その「見える化」の作業・・
 この輪郭の明確化こそが、この項の要である。
 恐らくは、頼朝から寄進された「1200町歩」という領地の規模が、この慈光寺の性格を定義したのであろうと推測して・・以下の作業

不思議なる塔頭の庵の寺院・霊山院

 開山は臨済宗開祖の栄西禅師の高弟・栄朝禅師。後鳥羽天皇から勅命を受け、慈光寺の塔頭として、建久八年(1197)に創建、「東関最初禅窟」の勅額があり、勅使門もある。
 奇妙に感じるのは、慈光寺が天台宗であり、塔頭の庵・寺院の霊山院が、臨済宗であること。さらに勅使門があることは、天皇家から度々使いが訪れていたことを裏付けている。
 つまり、霊山院(リョウザンイン)はもともと「慈光寺」の僧坊で、その塔頭の一つだったわけで、・・・

山門は、現在「瓦葺」になっているそうです・・

 ---・【白河天皇】より ... 法皇の政治は恣意的な面が強く,〈意の如くならざるもの,鴨河の水,双六(すごろく)の賽,山法師の三つのみ〉という,いわゆる〈天下三不如意〉の逸話もその権勢を示すものとされる。・---

 ここであえて、「霊山院」を取り上げてみたのは、山岳仏教の武装寺院の「慈光寺」の性格の輪郭を明確に描きたいためである。中世におけるこの寺院の存在の必然性は何だったのか?

 霊山院の創設は建久年間で、鎌倉幕府成立の時期と重なるわけで、その「宗派」の臨済宗も、始めを同じ頃としていた。僧侶にも、偏諱の制度なあったかどうかは詳しくないが、烏帽子親や烏帽子名の習慣が僧侶の世界にもあったとしても不思議はない。臨済宗の祖が、自分の一字を高弟に与えて、「栄朝」と名付けて東の官の寺である慈光寺に派遣したとみるのは合理的である。叡山の天台宗が、天皇家と深い繋がりがあるのは、その頃から、天台宗座主に、天皇の子息がなっている例は多い。栄西、道元、法然、親鸞、などなど・・宗派分流のもとの仏教の学校が「叡山」であった。従って、天台宗「慈光寺」の僧兵の分流に、「臨済宗」や「密教」や「台教(=顕教)」があったのは、ごく普通の話であったようだ。それぞれの流派の塔頭・僧坊は繁栄を極め、「一山七十五坊」あったと記録が残る。坊あたり何人の僧兵がいたかは不明だが、かなりの要塞であったのは確かで、これが戦国の時代まで続いた。

 都幾川の地元には、その僧兵の蛋白源としての「豆腐」や「湯葉」の産業、あるいは「番匠」という大工の集団の移住の地名や「大工」より収入が安定できるとして変質した「建具」の産業が、遺産として残る。写経などで大量消費しただろう「和紙」の産地も近くに残るのも、僧兵=学徒の存在の傍証かもしれない。

 慈光寺は、鎌倉時代前後に、『慈光寺実録』によると、慈光寺別当. 厳耀は、畠山重忠の伯父であったという。 畠山重忠は板東八平氏の一つ秩父氏の出身の関東武士で、初期から「頼朝」を助けた。この別当というのは、経済的支援者で、この寺は平良文流の秩父平氏で、さらに頼朝から「1200町歩」を寄進されており、1町歩=100俵:2俵=1石とすれば、120000俵/2=60000石(6万石)という中堅クラスの大名と同じ経済力ということになる。

 要は、中世において慈光寺は守護大名と同じ経済地盤だったということ、中世の戦国は、その経済地盤の領地の「分捕り合戦」が常であった、ということ。先述で、太田道灌"ら"により「焼き討ち」にあったとあったが、この「ら」は、--・天文年間(1532~55年)小田原北条氏の家臣で松山城主上田朝直が大築城を築き、一山75坊を有し関東屈指の大寺院であった天台宗関東別院慈光寺を攻略するのに際して付城とし、北方約4㎞にある慈光寺を焼き打ちにした。---・とあるので「上田朝直」であろうか! (大築城・・ときがわ町大附(オオツキ))

 付録:同時期に、東松山にある「正法寺」が、同じように「焼き討ち」にあい、周囲にある「僧坊」を焼失している」という記録が、同じ書に残る。「正法寺」も、比企一族由来で北条政子の加護寺(守り本尊)なので、鎌倉幕府より多くの寄進地があったのだろう。「正法寺」は岩殿観音として親しまれている寺・・

 とにかく、以後に慈光寺に、江戸時代まで坊の記録を見ないので、「焼き討ち」の以後に、この寺は武装を解き、知行地を奪われたとみるのが合理的であるが、家康の江戸入府で、この寺は、御朱印を受け、ここからまた100石の寄進地を得ていて29坊を作っている。江戸・上野の「寛永寺」の山号は「東叡山」で、比叡山の関東の拠点を意味し、慈光寺は、寛永寺の末寺にされている。恐らく「天海」の策と推定・・ 鎌倉時代は、比叡山・延暦寺「別院」であったとか?・・

 これらの史実の記録を残した『慈光寺実録』の作者は、九十六世信海」となっておりますが、いささか疑問??九十六世信海」は江戸時代の人・どこかで読んだが、調べてみたがわからず・・慈光寺の創設が、宝亀元年(770年)道忠が開山とあり、信海が生きた江戸時代中を1700年とすれば、天武(40代)-東山(113代)の間で、天皇家はこの間:73代の天皇がいたことになり、ほぼ同期間に96代慈光寺住職は疑問?併せて、慈光寺の創設時期が、書により「マチマチ」なのが気にかかる・・
 中世の山伏の宿坊・75坊は戦火で焼けたことは記録に残るが、江戸時代の29坊は、現存を一つも見ない、のはなぜか?
 経緯・由来から、天皇家・後鳥羽上皇などと関係が深いが、南北朝時代はどちらに与したのだろうか?生い立ちから「南朝側」とみるのが自然であるのだが・・
 霊山院の塔頭・栄朝は、老いて上野へ退き、長楽寺を創設。長楽寺は承久3年(1221)、新田義重の四男で徳川氏始祖の義季が、臨済宗の開祖栄西の高弟栄朝を招いて開基した、東国における禅文化発祥・・とある。
 --・戦国以前は、子息に、自国領土の一部を分譲し宛がった。新田義季の宛がわれた地が「世良田」であった。中世の封建時代は、目下のものが目上の者を「呼ぶ」とき「正式な氏名」を呼ことは憚られた。代用は、お館さま、お頭、あるいは住んだ土地名で、例えば「世良田さま」とか。妻女には、み台さま、奥さま、奥方さまなど・・この世良田は、新田氏の有力な一族であった。南北朝時代、絶えず天皇側であった新田氏は、「後醍醐上皇」に与して、その世良田氏はご醍醐上皇の子息・「宗長親王」の側近として行動を共にした。世良田氏は、宗長親王亡き後も、その子の尹良親王を助けて連戦し、敗れて「奥三河・設楽」に隠棲して、そこで松平と姓を変えた」とある。徳川家のもとの松平の出自である。
 上野国・世良田(今は、群馬県太田市内)には、長楽寺の隣に「東照宮」があり、家康が祀られている。

都幾川:三波渓(群馬・鬼石の三波石と同等の石が散在する・・に因んで)

 都幾川・・慈光寺・霊山院のあるところ、都幾山というが、その脇を、都幾川が流れる。その山懐の開けた地に、湯葉や豆腐、建具の産業が息づく。土地の名は、「大工の集落」を意味する「番匠」という。流れはやがて槻川を落合して、さらに流下して、越辺川と落合する。