「松本」学、あるいは「松本」考:9
9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?
:9-3:「武田」が「信長」に敗れたとき・・
井深氏・・
・『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』
上の文章は、松本市の公式な見解の記述であるのだが・・・
なんか変である。
普通、戦に負けて降参すると、領土を保全されて安堵され、「先方衆」として勝者の軍に配されるのが、戦国時代の一般的な習いである。なのに、以後に「井深氏=(後丁氏)」の名前は当時の府中から消えているのだ。
「謎」を深堀してみると、「信府統記」という古書があり。ここに「赤沢氏」の記述がある。
・信府統記・赤沢氏・『後ニ井深ノ城主後庁大蔵ヲ攻落シ、彼領地ヲ以テ是ヲ武田家ヘノ忠節トセリ』赤沢氏が伊深城を攻め落としたとの事。だから『赤沢ガ為ニ没落セリ』
とある。
『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主・水野忠幹の命によって、家臣で学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が著述・編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。
この書の「記述」を確認すると、全般に「精緻」であり「客観的」であり、ほぼ信頼に耐えうるものとしてみることができる。ただし、松本・水野藩についてだけは多少疑いを持つことにしている。学究の武士であった鈴木重武と三井弘篤が清廉潔白な人であったことは、疑うべくもないので「フェイク」は無かったにしろ、不都合は書かなかったかもしれない、という疑念が多少残る。これが、古書に対する態度である。「信長公記」や「太閤記」や「東鑑」は、疑念の多いことが多々ある。
この、一見矛盾しているように思える二つの文章は、本当に矛盾しているのか?
・武田信玄が信濃に進出し,天文 19 (1550) 年諸城を攻めるに及んで林城を捨て,村上義清と同盟して平瀬城に拠った。翌年,信玄が深志城に進出,平瀬城を落し,さらに長時方の中塔城,小岩岳城,苅屋城などを攻略したため,同 21年 12月,越後の上杉謙信のもとに逃れた。
上記の文章は、塩尻峠で「信玄」に敗北して以来の、「小笠原長時」を詳細している。つまり、「小笠原家臣団」すべてが、「塩尻峠の戦い」で敗れて、自落している訳ではないということ。長時に味方して、擁護した豪族は、平瀬城主:平瀬氏、中塔城:二木氏、など複数いたのだが、再度信玄が出陣すると聞き、支援していた村上氏が軍勢を引き上げるのに臨んで、落城を決意したと思われる。
1552年、中塔城:二木氏とともにあった「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」に繋がるわけで、時系列的解釈では、早々と自落した稲倉城:赤沢氏に、手薄を好機とされて、侵略されたと解するのが合理的と思う。
以後の「井深氏」については、武田勝頼が信長に負けて新府(韮崎)を逃亡するとき、井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という記録まで動静は不明である。
恐らくは、「大日方家」の家中として過ごし、武田家へも奉公したものと思う。
保科正俊・・
ここで何故槍弾正か?
武田氏の信濃先方衆(120騎持)。特に槍に優れた使い手であった。三弾正:高坂昌信「逃げ弾正」、真田幸綱「攻め弾正」、保科正俊「槍弾正」。高遠城城主。
「保科正俊」の違う角度の見方・・「大日方氏」は正俊の娘婿、後に、孫の「保科正光」は真田昌綱の娘婿、さらに「川中島の戦い」で「真田昌綱」の窮地を救ったのが「保科正俊」という関係が見えてくる。ここには、信玄の先方衆同士の信頼関係が見えてくるのは私だけか?さらに、「保科正光」には息子がなく、養子を「大日方氏」から迎えていたが、将軍:家光の弟・正之を養子に迎えるという皮肉が起こった」という事実もある。
「井深氏」は、「赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている」と前章で書いたが、大日方氏傘下になった「井深氏」は、当然ながら「大日方氏」と「保科氏」の関係を知るわけで、「井深宅右衛門(重吉)に人質の身であった「保科正光」を保科陣まで救出した」という経緯に至り、その後「保科正光」の側近となり、やがて会津:保科/松平藩の家老に至る道筋を見ることができる。
とにかく、「信濃府中」消滅の因に、「赤沢氏」が関わっていることは確認できたわけで・・
topix -----
この「井深氏」の末裔に連なる、「ソニー」創始者:井深大氏は、松本・岡田で、自らの出自に関して、スタッフを動員して調査を行った。その調査結果を、地元・岡田公民館で行ったようだが、「調査結果」は封印して、「社外秘」とした。
何故だろう・・
私が考察した以外に、まだ何かがあるような気がする。・・・知りたい。