ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

竹寺へ その四(終章) ・医王山薬寿院八王寺

2017-03-30 20:58:19 | 神社・仏閣

 竹寺へ


どうしても、”牛頭明王”を見たくて、竹寺へやってきた。

竹寺へ その四(終章) ・医王山薬寿院八王寺

名栗の山中深く・・というと、”知る人ぞ知る”で、馴染みが薄いと思います。
秩父山系、外秩父丘陵に位置します。別名を、奥武蔵丘陵とも言います。愛称を「グリーンライン」といって、「サイクリスト」のメッカ、人気の高原山歩き、、などなど、キャンプ場を含め、アウトドア派の”聖地”として、そちらに関心のある人たちからは、一挙に、メジャー級の人気の場所になります。
そんな奥武蔵丘陵からは、幾筋かの荒川支流が源流を跡にして、渓谷に削って流れ下ります。北から、都幾川、越辺川、高麗川、名栗川(=入間川)です。名栗川は、以前は飯能の平地部分から下流に入間川と名を変えましたが、最近は上流まで「入間川」と呼ぶ人が多くなりました。個人的な思いは、「川名」に限らず、時空の経過の刻印が押された昔からの地名を変更することは潔いとしません。(市野川の源流も入れていいのかどうか、分かりません。市野川は、寄居発になります)
名栗地方は、そんな高麗川と名栗川の渓谷を挟んだ山岳地帯と名栗川の両側になります。近くには、奥武蔵丘陵の最高峰・伊豆ケ岳があります。(奥秩父まで含めると、最高峰は、
北奥千丈岳 (2,601m)になり、登山で人気の雲取山や武甲山は奥秩父山系になります)

☆定峰峠あたりから荒川方面は、山桜が延々と”桜トンネル”をつくりますから、山桜の季節のハイキングは”お奨め”です。・足に自信のない方は、、ドライブもいいですよ。

さて、承前・・

竹寺の創建期・

竹寺の創建は、天安元年(857)になっております。平安時代中期、藤原家の摂関政治の始まりのころと重なります。
天台宗の座主・円仁が、この地方に”疫病”が多いことから、”道場”を造ったのが始まりとされています。

眉の太い人ですね


円仁のこと・
 ・・・円仁(794-864)、第3代天台座主。慈覚大師とも。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)。
下野国:出自・壬生氏。・・生誕地:栃木市岩舟町下津原の説もあり。
 ・円仁は15歳の時比叡山・延暦寺んへ赴き最澄の弟子になる。最澄の愛弟子になったのち、入唐を試みるが何度かの失敗の後唐に渡航できる。期間、修行を納め仏典を書写したのち帰国を試みるが、ここでも何回か失敗する。後に山東半島にいた新羅人の助けで新羅密教を習得し、新羅人の助けで帰国する。帰国の後、天台宗・延暦寺第三代座主となる。
 ・天台宗の祖が最澄ならば、天台宗・密教の充実は円仁の業績なのだろうと確信する。 
 
 そのころ(平安初期中期)、仏教の布教は禁じられていた、国家安寧の祈願のみが許される状態であった、という文献が残っている。
 ・なのに、天台宗、真言宗の高僧は、なぜか全国に出かけて業績を残している。
 ・その業績、とは何か?
  ・有名なものでは、空海の「灌漑治水の土木遺構」・・満濃池や大和益田池の治水工事
  ・全国の道の難所に設けられた「布施屋」
  ・道路工事、橋立、鉱山の開発、井戸、、業績を調べると暇がない・・
  ・土木工事の他に、特徴を上げれば、薬研と鉱山なのだろうと思う。

 仏教の導入期、、彼高僧たちの行状は、学んできた仏教の観念世界とかなり違う。最初に衝撃を覚えたのは、、空海の土木作業であった (・・司馬遼太郎の本)。これではまるで、平安政府の「建設省」の役割そのものではないか。仏教徒の、それを可能にしたのは、実学としての「土木の知識」、他方面では、あるいは「薬学の知識」、鉱山学、なんてあるかどうか知らないが「錬金の知識」・・・どうもこれらが、密教というものの正体らしい。どこまでが文献として残存しているかどうかは、分からないまでも、業績からうかがい知れる遺構遺跡から、こんなことが読み取れるのだ。
 
 円仁が、天台密教の祖であるなら、円仁は、山東半島で新羅人に援けられて一緒に過ごした時期にしか、この知識技能を習得した可能性を見出すことは能わない。
 円仁が日本に帰国したときも、新羅人はともに来訪し、既に本邦にあった新羅人とも関係を保ち、在野に訪歴して、薬研の道場や道路を造るときも同伴していたとするなら、それで新羅人は各地に散っていき、その地方の指導者になりえたのではないだろうか。
 その山間、山岳の人を、「修験者」という?!

円仁の弟子には、浄土宗を造った「法然」がいる。


 

山中深く・・静寂なるかな 清浄なるかな 
しかして・ 荘厳ではない 清貧ではある・
そのむかし・・ 修験者の郷と見ゆ・

 


母屋と本堂をつなぐ橋立の回廊の欄干に松ぼっくりが干してある・・
「松の実」は薬種・  薬膳

☆松の実  wikipediaより
 ・・・薬効
 ・・・漢方薬としては、「海松子」、「松子仁」、「松子」などと呼び、
   体を温める性質があり、気を補い、肌を潤し、咳を鎮め、内臓機能を調節し、
   脳を活性化するとしている。
   このため、高齢者や虚弱体質の人に薬膳として食べることを勧める。
 ・・・朝鮮半島の韓国料理に多い。
 

  
 ・竹寺境内にある句碑。
 ・奥武蔵俳句寺としても知られる。
 
 「竹寺は 薬師の浄土 風光る」 中谷孝雄
 「竹寺の 青黛刷ける 紅葉かな」 渡辺佳子 
 「琅かんの 竹玲瓏と 冬に入る」 西本一都
 「今年竹 渓流ひびき やすきかな」 秋元不死男
 「たもとほる 竹の鳥居や 竹の秋」 鈴木白祇

 

 友人に、俳句を嗜むやつがいるが・
  「どうだ、うらやましいだろう」・・


竹寺へ その三  ・牛頭明王 

2017-03-27 06:01:07 | 神社・仏閣

竹寺へ

どうしても、”牛頭明王”を見たくて、竹寺へやってきた。

 

竹寺へ その三  ・牛頭明王 

さて、いよいよ「牛頭明王」のことになります。
◆一見の”風貌”が日本人離れをしていて、”渡来人”ではないかと興味を持ちました。
◆牛頭が、なにか、中東の高原の”宗教”の匂いがします。
◆牛頭明王の子息が8人、、八王子の名の場所になったり、八王寺の寺名になったり、・・
   それも複数の場所や寺が確認されています。・・これは何でしょうか?

   この竹寺の正式名称は、「医王山薬寿院八王寺」なのです・
   
・幾星霜を過ごした風貌ですから、かなりデフォルメされているとは思いますが、
   どこかの”民族の風貌”に似通うところが、有りや無しやと興味は尽きません。
   といっても、どこかの「民族の風貌」など、それほど知っているわけではないのですが、・
   

   
・牛頭明王
  ・牛頭大王とも、牛頭天王とも称せられるようです。
  ・素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一、蘇民将来説話の武塔天神と同一とも言われます。
  ・「スサノオノミコト」は古事記と日本書記では違う書き方で「須佐之男命」と書く場合もあります。
  ・牛頭・・の読み方は「ゴズ」です。
  
                     竹寺牛頭銅像(中国からの寄贈)

由来を尋ねると ・・・記述の通り・・・
 ・・・・・紀元一世紀大日如来は、印度からチベットを経て中国に渡り日本に伝えられた。
 チベット密教では大黒天神といわれ顕教では無量寿仏と称せられる牛頭明王は、この無量寿仏の怨念の相であり悪魔を降伏するための姿である。
 頭上に無量寿仏を頂き、足下に鬼卒地神を踏み眉をしかめ恕目して風雲を叱咤する。
 ・・・・・以後は装身・装備の記述なのでで略します、興味のある方は写真を解読してください・・・・・
 
 ・大黒天 ・ヒンドゥー教のシヴァ神の化身
 ・無量寿仏 ・阿弥陀如来と同義、牛頭と阿弥陀如来は同じなのか??
 ・日本では、大黒様も無量寿仏も阿弥陀様も大日如来も、すべからく”優しい表情”をしている。
 
 ・牛頭明王の渡来の経路はおぼろげながら分かってきたが、しかし「牛の頭」が謎である・
 

 ・牛頭明王の渡来の経路は、中国から新羅を経て日本に渡った証拠?!
 ・朝鮮トーテンポールは、北部大陸と朝鮮の民族風習である。
 


 ・この木彫りの「牛頭明王」の表情が実に良い
 ・王者の風格
 

 ◇調べると、・・
 ・シナイ半島で「牛頭の神」が生まれたという伝承があった。
 ・「牛頭の神」の名は、「バール神」といった。「ミーノタウロス」ともいう。
 ・「バール神」は、そのころのメソポタミヤの強国「ペルシャ」が信仰する神であった。
 ・膨張するペルシャは西進してギリシャに「牛頭の神」を残した。・・「バルバル神殿」である。
 ・東進するペルシャは、中東の高原に「バール神」の痕跡をわずかに残し、印度に「牛頭の神」を習合し、また中国に「牛頭天王」を残した。
 ・・こんな痕跡が点在するのだか、あまり明確ではない・・
 ・謎が残るので、やはり「歴史ロマン」!・・・


竹寺へ その三  ・神なるもの

2017-03-25 21:23:47 | 神社・仏閣

竹寺へ

どうしても、”牛頭明王”を見たくて、竹寺へやってきた。

竹寺へ その三  ・神なるもの 



 

・瑠璃光城
   読み方は・「るりこうじょう」かどうか不詳(つまびらかならず)


   
・「城」と銘を打ってあるのですが、どうも神社・本殿のようです。
・屋根は茅葺、屋根の天には「千木」(=X型に組んだ木:チギ)があるのは「神社」様式です。
・本殿に安置されているのは、「牛頭明王」とその8人の子息「八王子」です。
・建屋が新しいのは、火事で焼失したため再建したとあります。--平成11年焼失、平成15年再建
・仏教説話に「東方瑠璃光浄土」というのがあります。
  ・文脈から「パラダイス」のようでもあります。
  ・極楽浄土の別名でしょうか!
・「瑠璃光」とは一体何でしょうか?
  ・瑠璃は、青紫色の宝石ラピス・ラズリとも、ガラス工芸品とも言われています。
  ・色は。赤みを帯びた青色とか!
  ・「ラピス・ラズリ」(=瑠璃)の産地は、ほとんどがアフガン、日本では産出されません。
  ・いつの時点で、インド・仏教に取り込まれたかは、想像の世界になります。
・「東方瑠璃光浄土」の本尊は、薬師仏になります。・・つまり「病院の仏様」。
>ここで、薬研の竹寺とつながりました。
>しかし、なぜ城なのかは、不明のまま・・ 豪族が住んだという痕跡はありません。

 

>竹寺・王城(瑠璃殿)へ続く鳥居・

・緩い傾斜の薬草園?の間を縫って、「竹の鳥居」をくぐって進むと、
   石段の先に茅の輪があり、
   その先に、「瑠璃光城(=瑠璃殿:本殿)が見える。
   
・この風景は、早春の日差しに、暖かくて、優しくて、・・かなり好きだ。


   



 

・茅の輪

茅輪神事 大祓(おおはらえ、おおはらい)とも 
  ・・厄払い  1:)6月30日「夏越祓」  2:)大晦日「大祓」
  ・・宮中祭祀 神社神事
  
  ・『古事記』の段にある説明は凄まじい。以下の罪を祓う
  ・生剝、逆剝、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪の類
  ・6月30日「夏越祓」は、食中毒の季節到来で、厄払い・
  ・延喜式に「六月晦大祓、十二月此准」とあり、6月が本来であるという。
  
歴史 
  ・古来より、渡来の神事としてあったが、養老年間に「宮中神事」として始まった。
  ・室町・応仁の乱のころ、全国と京都が荒廃して、神事は途絶えた。地方では、僅かに継続・
  ・明治になって、明治4年、太政官布告で「宮中祭祀」として復活。
  ・地方でも復活するところあり。
  
蘇民将来
 ・「茅の輪」は、蘇民将来という逸話から生まれています。
 ・蘇民将来は、なんとなく日本の逸話ではないような、、
 ・それと、明治以降に「美化されて」美談に変質しているようで、、
 
 邪馬台国辺りの歴史ロマンに興味のある方のみ、
  ・「群書類従」の「蘇民将来」を掲示しておきますので、
       鶴見良行の「ナマコの目」とともにお読みください。
  ・「蘇民将来」は、朝鮮半島・新羅か、その源流の大陸系の逸話ではないかと思えます。
  
・群書類従
・・・「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来という。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って、饗たてまつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」・・・


竹寺へ その二。 竹寺の竹・

2017-03-23 01:12:06 | 神社・仏閣

竹寺へ


    どうしても、”牛頭明王”を見たくて、竹寺へやってきた。

 

竹寺へ その二。 竹寺の竹・

 

茅葺屋根には、千木が・ 「千木」だとすると神社なのかもしれない。

茅葺屋根の本堂の背後は、孟宗竹の竹林・
この竹林は、林立して深いのだが・


他の竹の茂みは、種類を別にして、散在している。

竹林の庭に、地蔵尊や羅漢やなにやらの石像がごろごろと・・

    

      あっ!「竹の鳥居だ!」

    

      珍しき・亀甲竹!

朝鮮トーテンポール?
朝鮮の「将軍標」だとすると、対であって然るべき・・?

雑記・  朝鮮トーテンポール?

・「高麗神社」の将軍標は、
      「天下大将軍」と「地下女将軍」が対になっていて、
            かなり派手な彩色を施した人面彫刻であった。
・しかるに、ここのポールの頂上には、対の人面彫刻があり、対の間には「建屋」の彫刻がある。
      その下には、「牛頭明王」(=牛頭天王)の彫刻、さらに下には「仏像」の彫刻・・
      将軍標の変形なのだろうか?
      このことの知識の守備範囲が限界なので、これ以上思い浮かばない。
・将軍標は、部族の道祖神を示し、部族の象徴を示すものであったらしい。
      そこに「牛頭像」があるとすれば、「邪悪」からの防衛を意味するのかもしれない。
      
◆ここには、建屋では、「仏閣」の体裁はほとんど見受けられないし、
      神社の体裁は、「鳥居」や「千木」で少し見受けられるのだが、
           重厚で、神聖な神域という雰囲気は、ほとんど感じられない。

・第一、門前の碑塔の案内は、「牛頭天王参道」となっています。
      門前には、「神社仏閣の名称」の案内がどこにも見当たりません。

ですが、・・この牧歌的な雰囲気は、かなり気に入っています。
           
・梅や椿などの花咲く庭は、庭園でしょうか?もしかして、日当たりの良い畑、・そう薬草園ではないのでしょうか。


  >竹寺では、薬の製造も行っていたようで薬研と薬関係の版木が残っているそうです。


竹寺へ その一。   おおよそのこと・

2017-03-22 11:42:59 | 神社・仏閣

竹寺へ


どうしても、”牛頭明王”を見たくて、竹寺へやってきた。



         竹寺へ  その一。 おおよそのこと・

竹寺というのは、通称です。
 近在の住民が、竹林の中にある寺なので、”竹寺”と呼んでいるのです。
 竹林の中に寺があるのは、ここだけではありません。
 覚えでは、京都・竹寺、鎌倉・竹寺が記憶に上がります。
   他にも、全国に、通称”竹寺”はいくつかありそうです。
   *京都・竹寺、・京都・西京の地蔵院(別称・鈴虫寺)
   *鎌倉・竹寺、・鎌倉・報国寺(孟宗竹の竹林の庭園)


   

   
ここの竹寺の正式名称は、「医王山薬寿院八王寺」です。
 ・住所:飯能市南704、tel:042-977-0108
 ・名栗川(入間川源流)の原市場から山中深く登ったところにあります。


 

         刻印に武蔵国・増上寺とあります
 
 脱線・

 雑話

 ・名栗は、”山名栗”からきた地名だといわれています。
 ・”山名栗”は木材の削り方の技法で、角材や八角材で、竹の節のような文様になります。
 ・江戸時代の名栗は、江戸の家屋の材木の供給源で、
    名栗の材木は筏で入間川を流下し、深川や木場を作ったといわれています。
    名栗は、言わば、江戸時代の「衣食住」の「住」のふるさと・
    今でも飯能には、材木屋が多いといわれています。

 名栗・原市場は、赤沢、唐竹、赤工、中藤等の字・郷村からなっています。
    ・この地名に、かなり興味を惹かれています。
    ・まず「原市場」ですが、名栗川と中藤川の合流する地点に位置します。
    ・名栗川も、ここから上流は、それほど水量が多くありません。
    
   ・つまり、、、
       筏(いかだ)として流せる最上流ではないかということです。
    ・名栗川上流から、あるいは中藤川上流からは、単体流木が流れ着て集積し、
       ここ(原市場)で、まず「材木市」が立ち、ここで筏を組んで流下させた、
       併せて、周辺の農産物の市も始まった、と想像しました。


    ・「原市場」の地名が、何よりの証拠、、文献を漁ったわけではありません。
    
   ・それと、、、
       「赤沢、唐竹、赤工」は、たたらの痕跡と大陸の匂いを感じさせる言葉です。
    ・「赤沢、赤工」の赤は、古来鉄鉱石を意味してきましたが、
       今の調査では、採算に合う含有はないことが分かっています。
    ・勝手に想像すれば、この地の奥の「竹寺」に、天台密教の修験者が生息していて、、
       密教・修験者の得意は、「鉱石の採掘と薬草分別」なので、
         その試掘の名残が「赤沢、赤工」になったのではないかと・・・
         
    ・隣接は、高麗人の「高麗の郷」です。「高麗神社」があります。
       ・しかして、高麗人と相容れない半島の人・「新羅人」は、名栗に住んだ・・
    ・「新羅人」は、もともと「秦」の民族の流れで・
         「秦」は、中東の高原種族と習合しているといわれています。
    ・中東の高原種族は、鉱石や錬金に類まれな技能と知識を有していたとしたら・・
       ・証拠や文献をもとに構想しているわけではありません。
       ・歴史ロマンの・妄想かもしれません。


    ・歴史の「ロマン」は時空を駆け巡ります・・


北へ帰る”白鳥”

2017-03-05 21:44:42 | 草・木・花 風に吹かれて

 北へ帰る”白鳥”

「北帰行」:原曲(旅順高等学校寮歌)

  今は黙して行かむ
  何をまた語るべき
  さらば祖国 わがふるさとよ
  明日は異郷の旅路
  明日は異郷の旅路
  


3月の初旬の晴れた日・・
  越辺川に屯していた白鳥たちは北に向かって旅立つ。
  


 先輩のブログに載っていた記事を見て、
     その時期が来たかと、今年の白鳥の最後の姿を見にやってきました。
 北へ帰る”白鳥”は、小林旭の北帰行もいいのですが、原曲の方の5番が似合います。
 数えれば、40羽ぐらい、、もう一部は旅立ったのかもしれません・・


醤遊王国

2017-03-05 19:51:29 | 街 探求!

醤遊王国

地籍は日高になるそうです。
 ・日高市多和目804-1:tel・042-985-8011
 ・正式な会社名:弓削田醤油株式会社
 ・多和目といい、弓削田といい、何か興味の沸く名前です。


場所の案内・
 ・日高川島線・道路、坂戸と日高の境の日高寄り、通りから100mぐらい奥・
 ・東武・越生線の西大家が最寄り駅、
 ・脇を高麗川が流れ、川向うに埼玉医大国際医療センターが見える。
 ・静かなる田園風景・・

              
 
・評判の「卵かけごはん」は、弓削田醤油の”卵かけごはん専用醤油”あり、
  ・なぜか、醤油ソフトクリームが評判がいいらしい。醤油味のソフトクリームってどんな味だろう?!
    ・2階が軽食堂になっている。
      ・上がってみたら、30,40人待ち・・
      ・こういう場合、すぐにあきらめて、1階の売店で、、
      ・土産に「卵かけごはん用醤油」と「おナメ」を買い、


      ・試しに、焼き醤油団子を1本買って食べてみたが、、
         団子は”ハズレ”で硬いし焼けてないところがあった、、いまに!没