ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

盆の火祭り

2016-08-16 07:44:58 | 神社・仏閣

                                       盆の火祭り

 

祖先の霊が常日頃墓に宿るのか氏神様に宿るのかはよくわからない。
論理的には、氏神様に宿るというほうが理屈に合っているようにも思うのだが、
どうゆう訳か、お盆の迎え火は、お墓から迎え、盆が終わればお墓へ送り火を炊き惜別する ・・・
これが”習わし”として、幾多の歳月を過ごしてきたわけで ・・・
ことさら、理屈に合わないからと言って、異議を唱えるつもりもない。

お盆というのは、死者の霊をお迎えして、現世の生者が一緒に時を過ごすわけだが、
そのイメージは、一向に暗くなくて陽気である。
お盆は、お祭りなのだ。
お盆には一定の手順があり、段取りともいうが、儀式であり、
儀式は”祀り”であり、じつは”祀り”は”祭り”なのだ。

古来、盆の”送り火”は、儀式を終えて”祀り”より”祭り”への合図でもあり、
”盆の火祭り”として、かなり派手な地方もある。
儀式を終えて、精神の解放 ・・・解き放たれた精神は、笛や太鼓をともない踊り狂う。
 ・・・ これが”盆踊り”の原型なのだろうか?
 旧暦のお盆は、満月の時でもあり、盆踊りの舞台を装置している。
 
先日、田舎から去年の「風笛の送り盆」の写真が届いた。

写真:地蔵盆燈明

「千体燈明」というらしいが”幻想的”である。*千体というのは、石仏千体の意味である。
ここのは物静かで、鉦や太鼓はないようだ。

そこは、歴史的に由緒ある場所・・・・・
古道・東山道の脇街道で、美濃・坂本から信濃・伊賀良へ抜ける木曽山中の難所にある。現在の地名でいえば、岐阜・中津川から長野・飯田。

◆逸話◆
 ・・・ 平安時代初期に最澄・伝教大師・が、東国教化の折に東山道神坂峠のあまりにもの急峻さに驚かれ、旅人の便宜を図るために信濃側と美濃側に一軒ずつ作ったとされるのが布施屋。その布施屋の信濃側が広拯院(こうじょういん)、美濃側が、広済院(こうさいいん)。
 信濃側に作られた広拯院については長野県下伊那郡阿智村の園原の「月見堂」がその跡地であると比定されている。しかし、美濃側に作られた広済院については文献に記述はあるが比定できていない。

◆布施屋◆
布施屋については、歴史家により、大よその概要が解明されている。
有名なのは「武蔵国の悲田処」だが、『続日本後紀』天長10(833)年5月11日條に、・・・
 ・・・武藏國言。管内曠遠。行路多難。公私行旅。飢病者衆。仍於多磨入間兩郡界置悲田處。建屋五宇。介從五位下當宗宿禰家主以下。少目從七位上大丘秋主已上六箇人。各割公廨。以備糊口之資。須附帳出擧。以其息利充用。相承受領。輪轉不斷。許之。・・・の記述がある。
 ・目的は ・行路多難。公私行旅。飢病者衆。 ・・・の救済
 ・建物は ・建屋五宇。 ・・・旅人の宿泊・病院設備
 ・どうやら官製で、役人が管理し、食料の供給もあったらしい。
 ・場所は、都と埼玉県境・東村山あたり、板倉と薬師堂と宿泊施設3棟の計5棟の跡が確認されている。板倉は、穀物倉庫であるから台所を兼任し、薬師は病院と行倒れの弔いを兼ねていたのだろう。
 
場所の類型と記述から、奈良・平安期の古道の、山中とか大河の行程難儀の場所に建てられたと想像される。また、各地に残る”布施”の地名の場所も裏付けになるが、たまに、布施屋の管理者から土着したものが布施氏を名乗る豪族になり、布施の地名のもとになったところもあるやに聞く。
布施の薬師が、やがて薬師寺になったり、寺名を変えて、薬師を守りながら存続したところもあると伝えもあるが、確かめたわけではなく詳らかではない。
 
話をもどして・

・信濃側の広拯院が、どの程度の布施屋であったかは推定するしかないが、東山道(=脇道)の通行量から想像すると、武蔵国の建屋・5棟の規模は到底あったとは思えない。おそらく、薬師も板屋も宿泊施設も、すべて一棟の建屋の中に納まった形の布施屋だったのだろう。やがて、東山道の使命を終えて、無住の廃屋になり ・・・建物跡だけが残り、現代にいたって、再建されたのであろう。

さて、その布施屋であった”広拯院”が、寺院の体裁を整えて、昔の最澄の縁を頼りに比叡山と連絡して、灯と山号を譲り受け、信濃叡山の名前を付けて、”盆の火祭り”に至ったわけだが・
ただ山号が”信濃叡山”は、かなり作為の感があり、観光化の無理が目立つ。

それはさりとて、
ともかく、月夜に浮かぶ、”千体燈明”は幻想的である。
”風笛”と名がつく山間に、風に揺れる”燈明”を見てみたい。
今年は、「8月31日」に開催らしい。