会津:善龍寺 飯盛山
同期会・(旧職場)・18/11/10 in 会津
会津は、古い城下町らしく寺が多い。しかし、会津藩士ゆかりの寺は、戊辰戦争で戦火に遭い焼失し、その後再建されたものも多いと聞く。
保科正之が、高遠藩から酒田(山形)へ、そして会津へ移封されたが、高遠から多くの家臣がこの移封に随行されたという記録が残る。併せて、高遠にあった藩主や重臣の菩提寺と目される寺院も随行され、酒田から随行した寺もある。
☆:まず、建福寺 山号・大宝山、臨済宗妙心寺派。
:---・ 寛永20(1643)年、高遠藩主/保科家の菩提寺である高遠/建福寺から、撤収禅師 (第5世) が供奉・し、無住であった長福寺の南町河原新丁に開基。
養祖父/保科正直、養父/正光の位牌が安置され、その法号から「大宝」、正直の法号から「建福」がとられ、寺の名になったとされる。
>河井継之助(・司馬遼太郎の小説「峠」)埋骨地
>島原城主/松倉重頼之墓
☆:善龍寺 曹洞宗の寺院 山号・祥雲山
:---・保科家の元祖筑前守正則(法名:祥雲)の霊を守る
会津:善龍寺 会津藩主保科家の菩提寺として発展してきました。境内には会津藩家老西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した西郷一族を埋葬した「二十一人の墓」や会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。
:---・善龍寺というのは、実は保科の旧領・高遠にはありません。千葉・多胡にありました。千葉・多胡は、家康が秀吉によって駿河から江戸へ入封されたとき、親藩・家臣団は家康にともなって関東に移りました。その時の保科家の移封先が多胡(匝瑳市)だったわけです。正之が養子となった保科家の養父:正光の父・正直が藩主だった時代のことです。この多胡時代の保科家が、上野国松枝(安中市松井田)の補陀寺から荊室広林という僧侶を招いて建立した寺が善龍寺でした。この多胡時代の晩期に、正直の祖父:正則が死去。従って、正則の墓は匝瑳市にあります。その後、幾多の変遷の後、保科家は会津の領主になりました。保科家の血流の西郷家は、多胡(匝瑳市)から、善龍寺を会津に移し、正則の位牌を開祖として会津・善龍寺に持っていき、会津・善龍寺を開いたわけです。山号となった「祥雲」は、保科正則の法名であります。
:保科家の傍流である西郷家とは、正光の叔父の血統 --、つまり正光の祖父・保科正俊の三男(次男説あり)が叔父(正勝=会津藩筆頭家老)。その子・正近(正光の従弟)が外孫を養子に迎えたが、事情により生家の西郷姓を名乗った。
:荊室広林 ---・保科正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男が、大泉山補陀寺(安中市松井田町)の的雄和尚に学び ... その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を会津に開山...((KAZUSA
保科家の謎?
その1:・・開祖となった保科正則は何歳?まで生きたの??
・保科正則の歴史上の初見は・・「小坂城の現地説明板・・忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、*永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る」。この、*永享年中は、永享年間(1429-41)ですが、村上顕国や保科弾正正利の生存期間と合いません。誤記か偽造です。延徳年間(1489~92)保科正利は、霜台城を築城---・とありますから、保科家が、北信・保科から村上により追われたのは、1492年と推論されます。仮置きですが、この時に保科正則が元服を終えていたとするなら約10歳以上で、1482年生まれ以前ということになります。房総・多胡で天正19年(1591)9月6日に正則が亡くなるとなると約110歳以上・没になり、どう考えても当時の寿命を考えると辻褄が合いません。
その2:・・保科正俊の墓はどこに?
・次に保科正俊ですが、保科家を大名家に押し上げる土台を作った人物で、歴史を検証すれはかなり明白です。歴史書への露出は、最初は「高遠頼継」の筆頭家老・、次には信玄に、諏訪・伊那が蹂躙される時は、信玄と戦った後に家臣になっており、「槍弾正」として勇名をはせています。川中島の合戦では、後に婚姻関係を結ぶ真田昌幸の窮地を救い、親近・信頼関係を築いたといわれ、保科家の節目では昌幸と相談をしています。真田昌幸は、正俊の孫の正光が婿でもあるわけで・・養子・保科正之の義父が正光であり、正光の正室が真田昌幸の娘なのだから、昌幸も義理の曽祖父にもなるわけで・・
・その、保科正俊の墓が、ないのです。どこを探しても・・ないのです。
○:他に、保科正之公が会津拝領となり、従って移った"お供寺"としては、大龍寺、大法寺など。
---・こちらの寺は、”高遠以来”ではなく、前任地の最上(山形)から。
:大龍寺は、機外禅師が開山したお寺です。この寺も、「八重の桜」の山本家や、多くの会津藩士が眠るてらです。 大龍寺には、他に 武家社会の礼儀作法を伝える小笠原流の祖・小笠原長時の墓もあります。 天保年間、その長時によって、大龍寺の前身(桂山寺)が創建され、その後、寛永20(1643)年に保科正之が会津に入り、正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山しました。
飯盛山
白虎隊自決地・
少年の像が・・幼くて痛々しい・
鶴ヶ城が見える高台・・ここから城下の街の火災・煙を見て、落城と勘違いの判断をして自決したといわれています。
峠の戦いに敗走し、猪苗代湖からの疎水を、胸まで浸かりながら水路を飯盛山まで辿り着いた、と言われています・
池の奥の穴が、白虎隊が逃げてきた疎水の水路の穴です。