ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

田畑文士村散策

2018-12-30 16:51:30 | 街 探求!

田畑文士村散策

パソコンでのデータ収集とチェック作業が午前中で終了して午後暇になった。
毎日の日課で、歩行7000歩以上、1時間以上がノルマとしている。この数日は、寒波到来で、歩行数少な目・・そこで、「田畑文士村散策」を企てた。



この町は、上野に「東京芸大」が出来た当初には、上野から近く、まだ田園風景が残っており、家賃が比較的安かったことから、「東京芸大」の「芸術家の卵」が住居として選んだ土地であった。この「芸術家の卵」たちは、サロン的に友好し、コミュニケを形成しながら、芸術論を議論し、ともに娯楽し、「類」を誘って集積していった。
田畑が、文士村になっていく過程の話である。

散策マップには、芥川龍之介や室生犀星の名前が見える。竹久夢二や正岡子規の名前も板谷波山や小杉放菴の名前もサトウハチロウや菊池寛の名前も見える。
まさに、多士済々・・

まず、大宮から田畑までは電車で・・約25分くらい・・
田畑の駅を降りると「文士村記念館」がある。

ここに資料の散逸を防ぐため、・・一部が展示されており、「田畑文士村」が成立した経緯が説明されており、文士、芸術家が丁寧に説明されており、資料や作品が展示されておるわけで・・
なにせ、戦前のことでもあり、空襲もあったことから、付近は焦土と化しており、戦後の復旧と住宅化は彼らの旧家どころか面影も残していない。
それでも、「わらべ橋」とか「与楽寺坂」とか「ポプラ坂」とかの地形や寺や神社は残っており、寺や神社の旧跡は、当時の匂いが微かでも残っていて・・散策の憩いになって・・



正岡子規の墓所がある「太龍寺」


ゆっくりの散策は、歩数を稼げた訳でもないが、約2時間の運動になった。

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秋川の「伊奈」地名由来

2018-12-21 11:17:17 | 歴史

秋川の「伊奈」地名由来

高校Å組同級会・12/4

思えば、古希を過ぎている。
田舎の高校の、同級の輩と、最近同級会を重ねている。つまり・・
名所・旧跡を若干散歩した後
  ・・市ヶ谷で「飲み会」をして散会という件がほぼの内容・・
  散策の場所は、提案があることもあれば、幹事が決めることもあるわけで・・
  若干軽い場所もあれば、重い場所もある訳で・・
  市ヶ谷は、数人の大学時代の馴染みのようで、、
  各人の今の住まいからほほセンターらしくて、皆に不満はない。


  
12/4:皇居の中:乾どおり:紅葉狩り散策の折・・
・まじまじと皇居:江戸城の石垣を見た。
 ----- 夥しい数の石垣の石とところどころの石の大きさ・
 しばらくして、守屋の石工のことが頭に浮かんだ。


 
秋川の「伊奈」地名由来
 
多摩の奥に、秋川という川がある。多摩川の支流である。


支流と本流が合流する地点を昔から「落合」というのだが、そこが今は「あきる野市」というらしい。「あきる野」の由来は、「秋留」からとったが「阿伎留神社」が鎮座する。
「あきる野市」は秋川に沿って存在し、上流部は五日市、下流部は秋川に分けられ、その中間部に
「阿伎留神社」が鎮座する訳で・・

戦国時代・・信玄が死んで、子息・勝頼が跡を継いだ甲信国・・勝頼の居城は高遠城であった。勝頼は、信玄の西進の意を継いで、信長・家康連合に戦いを挑んで、奥三河・長篠の合戦に敗れた。その後、織田・徳川軍の来襲に備えて領国に戦費の負担を強いたといわれる。
時に、高遠・藤沢地区の片倉・松倉はほとんど水田を持たない場所で、過酷な徴税は生活の破綻に直結する。ここの村民は、生活の糧として石工の技術を持っていたものが多かった。かつ、時々出稼ぎとして、墓石や神社の灯篭などを作りに遠方に出かけることも多かった。
武田勝頼時代後期、先の地域の住民はほとんどが逃散していなくなったのである。
武田・織豊の時代が終わり、徳川の時代になると、保科正俊と正直親子が高遠を奪還し、片倉・松倉の旧村民を慰撫しながら村に戻したが、一部は逃散先に移住したものもあった。
その一部が、武蔵・秋川渓谷の伊奈であった。

彼らが、秋川谷を選んだのは、この川の渓谷が”豊富な石材”の宝庫だったからである。現在この川を有名にしているのは、清冽な谷川と風景とキャンプ場であり、都民の四季折々の憩いの場所である。とくに夏場の「秋川河原のキャンプ」は好評である。
高遠・藤沢の片倉・松倉の石工は、ここを終の棲家と定めて、石工の生業を始めたという記録が残っている。
この秋川の石材は、砂岩であった故、彫刻には極めて適していたのだが、砂岩質のため”風化”に弱かった。

      

織田信長が、本能寺で横死すると、弔い合戦を仕掛けた秀吉が勝利を収めた。豊臣時代になると各豪族に支持を持つ”家康”を、自分の領国近在におくと危険だと感じた秀吉は、家康の五国太守から関東・江戸に移封を命じた。当時の関東は荒野が多く、多くの収穫は見込めず、五国より低い生産力であったが、開拓すれば倍から3倍の生産余力を確信した家康は、江戸に入府したのだった。
家康とともに、関東に随伴した親藩は、道灌の江戸城を改築したのだった。

江戸城の石垣には、風化に脆い「秋川の石材」は使われなく、主に「伊豆稲取の石」が海上輸送されて使われた。
「家康時代」に、多胡姫を徳川家から貰っていた保科正直は、どうやら「高遠石工集団」を率いて、江戸城の石垣の加工技術の方で貢献したらしい。その時に、秋川・伊奈の石工は、もとは「高遠石工」でもあり、親戚縁者も多く、正直の配下として扱われた。
江戸城築城の後、「高遠石工集団」は、高遠へ戻ったものもあり、石工の技術を見込まれ、各地に散って定住したものも合った。

 

秋川の石工は、砂岩の脆さから風化が激しく、やがて”生業”としては成り立たなくなり、石工は農家に転業して土着したという記録が残る。
僅かに「石工」の痕跡のある「伊奈」という地名を残して・・

 


今は、五日市街道と呼ぶらしいが、街道が整備された当初は、「伊奈街道」という呼び名であったらしい。江戸城の石垣が崩れたときの修理の石材として、秋川・伊奈から江戸城までのルートである。石工集団として、保科正直配下であった高遠・秋川石工衆は、江戸城完成とともに解散し、秋川石工衆は、八王寺の大久保長安の支配下になって江戸城修復の任を担ったようだ。「伊奈街道」はその時の名残で、やがて修復の役目を終えると、五日市の炭や薪の運搬ルートになっていった。江戸の町の、まさに「ライフライン」を任された訳である。以来・・「伊奈街道」は「五日市街道」に名前を替え、五日市は、炭や薪や農産物の市で、大いに賑わったという。
時がたち、燃料や暖房は、・・・石油と電気に変わり・・「五日市街道」もかっての役目を終える。

 

伊奈(伊那)は、高校同級会の出身の高校のあるところ・・
名前に懐かしさを覚える・
伊奈備前にゆかりの地名もあれば、伊那地方本来にゆかりの地名もありで・・

写真・絵図面は「あきる野市広報」から

 

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皇居の紅葉・

2018-12-09 05:35:14 | 草・木・花 風に吹かれて

皇居の紅葉・

 

高校Å組同級会・12/4

伏線のように・・

先日、漱石山房に行ったが、その時半藤末利子(漱石の孫)が半藤一利の奥さんだと知った。
昭和史の正確な理解は、現代を生きる上で重要と考えて、折に触れて時間を惜しんだつもりはない。そんな自分の知識を拡大するときに「半藤一利」の知識と認識を、良識的硬派として参考にさせてもらっている。
・天皇制と太平洋戦争・・・
古希を過ぎた高校の同級会(首都圏在住者)が隔月にあるのだが、12月は、「皇居乾通りの紅葉 2018<秋の一般公開> 」を見てから市ヶ谷で「飲み会」と相成った。
---・坂下門から、皇居を歩き、紅葉を愛でて、乾門に抜けるという、コースである。
伏線がなければ、更にS君の計画がなければ、皇居内など知らないで、とりわけの興味も持たずに、一生を終えたのだろと思う。S君に感謝。
集合は、千代田線二重橋前・6番出口。当日の6番出口は閉鎖であったが・・・


坂下門:辺り・



皇居の紅葉
 



皇居の石垣



乾門:辺り・



北の丸公園
紅葉 こっちの方が鮮やか?



田安門・



靖国神社:ゼロ戦(in 遊就館)



運転席って・・「ちっちゃ・」

  ~~~~~~・のちPM5:00より・「飲み会」

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岩殿観音:正法寺 'いちょう'と'もみじ'

2018-12-06 14:06:32 | 神社・仏閣

岩殿観音:正法寺 'いちょう'と'もみじ'

:埼玉県東松山市岩殿1229岩殿観音
:2018/12/2


見頃から少し早かったかもしれない・・
      ・・ 落ち葉敷」が少な目だった・

本尊は千手観音、、観音堂の創建は養老年間・・その後戦火に遭い3回再建・・

観音堂・廻りの紅葉・・


幾星霜の巨木・銀杏の根と・・



紅葉と銀杏の競演・・


参道・石段を登りつめて、境内入り口・

 

 

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会津:善龍寺  飯盛山

2018-12-02 14:28:37 | 歴史

会津:善龍寺 飯盛山


同期会・(旧職場)・18/11/10 in 会津


会津は、古い城下町らしく寺が多い。しかし、会津藩士ゆかりの寺は、戊辰戦争で戦火に遭い焼失し、その後再建されたものも多いと聞く。
保科正之が、高遠藩から酒田(山形)へ、そして会津へ移封されたが、高遠から多くの家臣がこの移封に随行されたという記録が残る。併せて、高遠にあった藩主や重臣の菩提寺と目される寺院も随行され、酒田から随行した寺もある。

 

☆:まず、建福寺 山号・大宝山、臨済宗妙心寺派。           
  :---・ 寛永20(1643)年、高遠藩主/保科家の菩提寺である高遠/建福寺から、撤収禅師 (第5世) が供奉・し、無住であった長福寺の南町河原新丁に開基。
 養祖父/保科正直、養父/正光の位牌が安置され、その法号から「大宝」、正直の法号から「建福」がとられ、寺の名になったとされる。
 >河井継之助(・司馬遼太郎の小説「峠」)埋骨地 
 >島原城主/松倉重頼之墓


☆:善龍寺 曹洞宗の寺院 山号・祥雲山
  :---・保科家の元祖筑前守正則(法名:祥雲)の霊を守る

会津:善龍寺 会津藩主保科家の菩提寺として発展してきました。境内には会津藩家老西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した西郷一族を埋葬した「二十一人の墓」や会津藩士の遺体の埋葬に尽力した伴百悦の墓など、多くの会津藩士のお墓があります。


  :---・善龍寺というのは、実は保科の旧領・高遠にはありません。千葉・多胡にありました。千葉・多胡は、家康が秀吉によって駿河から江戸へ入封されたとき、親藩・家臣団は家康にともなって関東に移りました。その時の保科家の移封先が多胡(匝瑳市)だったわけです。正之が養子となった保科家の養父:正光の父・正直が藩主だった時代のことです。この多胡時代の保科家が、上野国松枝(安中市松井田)の補陀寺から荊室広林という僧侶を招いて建立した寺が善龍寺でした。この多胡時代の晩期に、正直の祖父:正則が死去。従って、正則の墓は匝瑳市にあります。その後、幾多の変遷の後、保科家は会津の領主になりました。保科家の血流の西郷家は、多胡(匝瑳市)から、善龍寺を会津に移し、正則の位牌を開祖として会津・善龍寺に持っていき、会津・善龍寺を開いたわけです。山号となった「祥雲」は、保科正則の法名であります。
  :保科家の傍流である西郷家とは、正光の叔父の血統 --、つまり正光の祖父・保科正俊の三男(次男説あり)が叔父(正勝=会津藩筆頭家老)。その子・正近(正光の従弟)が外孫を養子に迎えたが、事情により生家の西郷姓を名乗った。
  :荊室広林  ---・保科正則の孫の源蔵(内藤昌月)を養子に迎えた内藤信量の次男が、大泉山補陀寺(安中市松井田町)の的雄和尚に学び ... その後、高遠城を継いだ保科正之が寛永13年(1636)最上(山形)転封の際に当時の桂泉院住僧英呑が付き従い長源寺に住、会津移封で泉海が下総の善龍寺と同じ号で祥雲山善龍寺を会津に開山...((KAZUSA


保科家の謎?


その1:・・開祖となった保科正則は何歳?まで生きたの??


・保科正則の歴史上の初見は・・「小坂城の現地説明板・・忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、*永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る」。この、*永享年中は、永享年間(1429-41)ですが、村上顕国や保科弾正正利の生存期間と合いません。誤記か偽造です。延徳年間(1489~92)保科正利は、霜台城を築城---・とありますから、保科家が、北信・保科から村上により追われたのは、1492年と推論されます。仮置きですが、この時に保科正則が元服を終えていたとするなら約10歳以上で、1482年生まれ以前ということになります。房総・多胡で天正19年(1591)9月6日に正則が亡くなるとなると約110歳以上・没になり、どう考えても当時の寿命を考えると辻褄が合いません。


その2:・・保科正俊の墓はどこに?

・次に保科正俊ですが、保科家を大名家に押し上げる土台を作った人物で、歴史を検証すれはかなり明白です。歴史書への露出は、最初は「高遠頼継」の筆頭家老・、次には信玄に、諏訪・伊那が蹂躙される時は、信玄と戦った後に家臣になっており、「槍弾正」として勇名をはせています。川中島の合戦では、後に婚姻関係を結ぶ真田昌幸の窮地を救い、親近・信頼関係を築いたといわれ、保科家の節目では昌幸と相談をしています。真田昌幸は、正俊の孫の正光が婿でもあるわけで・・養子・保科正之の義父が正光であり、正光の正室が真田昌幸の娘なのだから、昌幸も義理の曽祖父にもなるわけで・・
・その、保科正俊の墓が、ないのです。どこを探しても・・ないのです。


○:他に、保科正之公が会津拝領となり、従って移った"お供寺"としては、大龍寺、大法寺など。

   ---・こちらの寺は、”高遠以来”ではなく、前任地の最上(山形)から。


:大龍寺は、機外禅師が開山したお寺です。この寺も、「八重の桜」の山本家や、多くの会津藩士が眠るてらです。 大龍寺には、他に 武家社会の礼儀作法を伝える小笠原流の祖・小笠原長時の墓もあります。 天保年間、その長時によって、大龍寺の前身(桂山寺)が創建され、その後、寛永20(1643)年に保科正之が会津に入り、正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山しました。

 

飯盛山


白虎隊自決地・

少年の像が・・幼くて痛々しい・

鶴ヶ城が見える高台・・ここから城下の街の火災・煙を見て、落城と勘違いの判断をして自決したといわれています。

峠の戦いに敗走し、猪苗代湖からの疎水を、胸まで浸かりながら水路を飯盛山まで辿り着いた、と言われています・

池の奥の穴が、白虎隊が逃げてきた疎水の水路の穴です。

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