ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

スーパームーン

2015-09-29 01:00:48 | 草・木・花 風に吹かれて

スーパームーン

9月28日 午後11時頃 ・・・・・

曇っていたので無理かと思っていたが、それでもと外へ出て夜空を見上げると ・・・ 雲の裂け目から月が覗いた・・

スーパームーンである。


山田の中の一本足の案山子

2015-09-24 01:04:34 | 草・木・花 風に吹かれて

山田の中の一本足の案山子

ここは見沼田んぼの自然・・・


   童謡「山田の案山子」の唄発祥の地です。
既に刈田もあれば、稲刈りを待つ稲田もあります。
遠くの土手の赤い花は曼珠沙華、葉を落とした桜並木・・見沼東縁用水路の土手です。


案山子   武笠三

  山田の中の一本足の案山子
  天気のよいのに蓑笠着けて
  朝から晩までただ立ちどおし
  歩けないのか山田の案山子

  山田の中の一本足の案山子
  弓矢で威して力んで居れど
  山では烏がかあかと笑う
  耳が無いのか山田の案山子

武笠三のこと
見沼氷川公園”と“氷川女体神社”がある。
公園の中央付近に, 蓑と笠をつけたかかしの彫刻が建っていて, 副碑として 唱歌「案山子」の詩碑 もある。... 碑文にあるようにこの地で生まれ育った 作詞者の武笠が, この周辺の「見沼たんぼ」に立つかかしを歌ったもので, 「案山子」の歌は, 二年生用の文部省唱歌として 明治44年に発表された。 作曲は 山田源一郎, 作詞は 武笠三。 彼が 文部省で教科書の編纂に携わる間に作詞したものと言われる。

武笠三は、明治四年当地にある氷川女体神社の神官を代々勤めていた武笠家の長男として三室村(現浦和市宮本)に生れた。東京帝国大学卒業後 旧制四高, 埼玉県第一中学(現浦和高)、旧制七高で教鞭 をとる。明治四十一年文部省によばれ, 十七年間にわたり国定教科書の編さんにたずさわ った。「案山子」は第二学年用として作詞された。昭和四年没。

案山子とは関係ないが、武笠家は歴史のある家系です。
武笠三の生まれた武笠家は、”武蔵武芝”に繋がる氷川女体神社の宮司家を勤めた武笠家であります。詳しい内容は「みぬま物語」(井上書都羅)という書に記されていますが .... 巻末は、武笠家と武芝の関係など示す系図があり、武笠家の所有した古文書が付録されています。

武芝家
・更級物語 ・武芝寺
・将門記 ・足立郡司武蔵武芝
・氷川女体神社 ・宮司(大宮氷川神社・東西角井家の方が武蔵武芝家の庶流?不詳

 

詳しく知りたい方は 「武蔵武芝」(クイック)を覗いてください。

 

 

 


‘花の貴婦人’・洋蘭

2015-09-23 12:26:23 | 草・木・花 風に吹かれて

‘花の貴婦人’・洋蘭

大宮の見沼たんぼの近く、染谷は緑の多いところ・・・
徒然の散策は、ときに思いがけぬ拾いものをする。
その一角、林の中に目立たぬように洋蘭の店がある。

店の外観・・


 店の名;‘らんや‘


黒臼洋蘭園という植物農園があり、その洋蘭の直売店という関係らしい。


 ‘花の貴婦人’・洋蘭

店内のようす・・

店内からランの温室を見る・・:窓ガラスには、店内の洋蘭が映る

温室内のランの迫力・・”スゲー”


伊豆・堂ヶ島の”洋蘭センター”もいったことはあるが、こちらも凄い・・
皇太子も立ち寄ったことがあるとか!

有)黒臼洋蘭園:卸売植物農園
住所: 〒337-0026 埼玉県さいたま市 見沼区染谷1丁目188
電話:048-683-6727


夕闇に浮かぶ 曼珠沙華

2015-09-20 21:47:31 | 草・木・花 風に吹かれて

夕闇に浮かぶ 曼珠沙華

 

 

 


みささぎに 花のかんざし 曼珠沙華   ・・庄


京都の”みささぎ”は御陵と書く。
たしか・山科にある地名で、天皇の墳墓(古墳)があるので名がついた由縁とか・・・
地方の豪族の円古墳も”みささぎ”とよんでいいのか、浅学ゆえ分からないが・・・
えーい!ままよ!・・・
丸い小塚に、花のかんざしのように咲く  曼珠沙華!


マルタの「ヘイジュード」

2015-09-19 19:17:11 | ひとりごと

マルタの「ヘイジュード」

マルタ・クビショヴァー(Marta 、1942年11月1日 - )はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェ出身の歌手。
1960年代から音楽活動を開始する。プラハの春およびワルシャワ条約機構軍による軍事侵攻があった1968年に、ズデニェック・リティーシュ作詞によるチェコ語でカヴァーしたビートルズの"Hey Jude"で知られる。

 ・・・これに対する抵抗運動として、チェコの歌手、マルタ・クビショバ(Marta , 1942年~)は、ビートルズの名曲 「ヘイ・ジュード」を、チェコ語の歌詞に置き換えて歌いました。・・・「人生は素晴らしいけれど、残酷なもの。 私たちは人生にあやつられるけれども、どうか悲しまないで・・・」 といった歌詞の中に、祖国の自由への思いが込められたもの・・・まもなく、彼女は共産党政府の弾圧を受け、回収されたレコードは街頭で割られ、ファンが隠していたレコードも、密告により壊されてしまいます・・

いま日本では・・・

日本の国会の周辺を埋め尽くす群衆の波は深夜になっても引くどころか増え続けています。
シュプレヒコールは絶え間なく流れています。
「安全保障関連法」の成立阻止に向けた「民衆」の意思表示です。
・・・民意の無視だ」、「憲法守れ」、「戦争法制、絶対廃止」・・・は手つくりのプラカードやシュプレヒコールで表現されています。やがて・・・参加者はスマートフォンで国会中継を見守っていたが「成立した」、誰かが力なくつぶやく。・・・直後に「採決撤回」「選挙に行こう」と、怒りの大合唱が起きました。

「安全保障関連法」の反対の論理には様々な人がいます。
 ・法案そのものが憲法違反である、という立場の学者を中心とする知識人
 ・法案成立へ、前のめりの安倍晋三一派(自民党)の先例・ルール違反の強引さへの反発。
 ・平和主義の立場から、国際紛争を武力でない平和的(話し合い)で解決を望む平和主義者。
 ・戦争の悲惨さを体験した、厭戦的戦争反対者。
 ・などなど

確かに、戦後70年も経つと、実際に戦争の悲惨さを体験した人達は退場し始めました。この人達は、国家という訳が分からないものに強制動員されたのにも拘わらず、直接的に加害者でもあり被害者でもあったわけです。
そして、変わって台頭してきたのが「戦争を知らない子供たち」なわけで、戦後生まれの自分もその一人です。
かつて、日本の大多数を占めた厭戦的戦争反対者は時が経るとともに退潮を重ね、戦争を”観念”の中だけで考える人が多くなった結果 ・・・

自分が、「戦争のない世界」を理想とするとき、「戦争がある世界」への流れが確実に始まっているのを実感します。
この間の安倍政権のやり方は、”次世代の子供達”にまねをして欲しくない”本音を隠した”欺瞞の多い強引なやり方で”気持ちのよくない方法”です。
 ・ひとつは、悲惨な戦争の体験者が居なくなっていき、厭戦感が退潮していること
  -・これでひとつ歯止めとなっているものが無くなりました。
 ・「安全保障関連法」の成立も、戦争への歯止めを無くす法案です。

”プラハ”が、ソ連軍に蹂躙されて状況が絶望的になったとき、プラハ市民を鼓舞し、深く潜行しながら愛された”マルタ”の歌です。ビートルズのもいいのだけれど、マルタのも擦れた哀愁があり好きです。

マルタの「ヘイジュード」 ←クイック


小布施の栗羊羹

2015-09-04 19:53:40 | グルメ

小布施の栗羊羹

小布施の”栗羊羹”が届いておりました。


いつの頃からか、”小布施と言えば栗羊羹”、”栗のお菓子”が定番になっています。
栗の産地だそうです。
小布施栗を使った菓子に、栗羊羹や栗鹿の子などがあります。最近ではモンブランやマロングラッセなど洋菓子も作っているみたい。
こちらは、たまたま「小布施堂」ですが、「桜井甘精堂」、「竹風堂」もあり、この三家が、小布施栗菓子の御三家でしょうか。味の違いは好みでしょうが、いずれも根強いファンが付いています。

小布施栗の起源
小布施栗の起源にはいくつかの言い伝えがあります。
まずひとつは、弘法大師空海が諸国を旅しているとき、この地に立ち寄りを小布施と名付け、栗を三粒蒔き増えたと言う説があります。 しかし、全国には弘法大師がその土地の産業や奇跡を起こしたという言い伝えが至るところにあり、産業の発展を願う庶民の願いから生まれたもので 確証はありません。

さて”羊羹”ですが、・・
もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)。これは羊の肉を煮たスープの類だが、冷めるとゼラチンによって固まり自然に煮凝りの状態となる。
鎌倉時代に、禅僧によって日本に伝えられたが、禅宗では肉食が戒律、五戒により禁じられているため、精進料理として小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になった。
初期の羊羹は、小豆を小麦粉と混ぜて作る「蒸し羊羹」であった。蒸し羊羹からは、「ういろう」が派生。

小布施の街は、落ち着いていて清潔で、かなり気に入った街の一つです。
小布施とは? ・・・小布施は、長野県の北部、千曲川の東岸の町で、現在は 「栗と北斎と花のまち」として親しまれています。江戸時代は千曲川の舟運が発達し、交通と経済の要衝でした。
小布施の歴史 ・・・幕末に豪商高井鴻山が、葛飾北斎や佐久間象山、小林一茶といった文化人を招いたことで、小布施は当時の一流文人たちの交流の地になりました。

小布施の布施って地名はどこから? ・・・
仏教の用語に”布施”ってありますが、自分の所有物を仏法僧や困窮者に分け与えることを言います。現在でも葬儀などの時の供養料などをお布施と呼んでもいます。
昔、修行僧などが全国を巡礼しやすいように、各地に官製の布施場を作りました。寝所と食料の施しの場所のことです。いわば無料の食事付き宿泊施設です。それぞれが、あまり豪華なところではなかったそうですが、その場所が地名として残り、現在に至っているところが多いようです。
”小布施”も、その一つと思われます。
 ・・・この知識は、南北朝時代に宗良親王を庇護した大河原(大鹿村)の文献を漁っていたときに見つけました。大河原にも布施という地名か建物があったようです。

ここ小布施には、巨大なサービスエリアのオアシス、「小布施ハイウェイオアシス」があります。今全国に竹の子のように乱立を始めた「ハイウェイオアシス」の先駆けです。サービスエリアと道の駅を併せて、休憩施設と売店と遊行施設を充実し、郷土館・民芸館などを併設しています。

下記の過去ログも参照下さい。↓

・小布施と岩松院 2014-06-15 18:16:40 | 日記  

 *岩松院 ・・・武将・福島正則 終焉の場所 ・小林一茶 「やせガエル 負けるな一茶 ここにあり」 ・葛飾北斎 「天井画」