ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

COCOON 夜の風景・・・

2013-12-29 02:32:47 | 日記

 COCOON 夜の風景・・・

 COCOON ・・・コクーンと読むのだそうです・

X’masが過ぎたのですが、イルミネーションがきれいです・・・

ここは、京浜東北線の大宮駅となり「埼玉新都心駅」です・・・

駅を挟んで、、埼玉アリーナとCOCOONがあります。イトーヨーカドーも隣接しています。今日は本を買いにCOCOON内の紀伊國屋書店に寄ります。

  大宮の大型書店は、ジュンク堂(高島屋店内←ロフト大宮店)、三省堂(そごう大宮店)、とここ・紀伊國屋書店です。いずれも、アマゾン対抗で超大型化しています。でも人間が偏屈だと、読む本も変わっているらしく、この3店でも用を足しません・・・

 

「埼玉アリーナ」と「埼玉新都心駅」と「COCOON]を繋ぐ、ペデストリアンデッキの所に出ると、イルミネーションが目に飛び込んできました。

ペデストリアンデッキとは、空中回廊と訳すのだそうです。日本では仙台駅のが有名ですが、その後続々作られ、多少規模の小さいものは、大宮駅西口、川越駅などにもあります。

ちなみに、COCOONの意味は、蚕の繭だそうですが、・・・ここは昔、片倉製糸工場の跡地で、絹糸をつくっていたとか?・・・定かではありませんが・それで、繭の名がついた?のかも!

・・・片倉製糸は片倉工業に、そして今は、キャロンというストッキングメーカーになっています。絹が日本の輸出の柱だった時、そのトップにいたのが片倉製糸工業でした。片倉は、諏訪を地盤にして、絹と伴に成長した企業でした。・・あの時代・・女工哀史も諏訪の製糸工場の生活を描いています・・片倉は、諏訪の神体山・守屋山の杖突峠を登った高遠への入口のところ、片倉を出自としています。・・時代は変わりました。

  

 *「埼玉アリーナ」で、先日オリンピック出場をかけて、フィギアの大会が行われました。羽生結弦くんや浅田真央ちゃんが氷上の踊りを繰り広げました。

でも、「埼玉アリーナ」には、アイススケート場は無いはずです。不思議です。臨時に、氷を張って、スケート場は、直ぐ出来るものなのでしょうか???

 

 

 

 


我が輩は、猫でない、虎なのだ・・

2013-12-28 13:31:25 | 日記

面白い猫の写真を見つけました・・・

友人の友人の友人の、フェースブックの中の写真です。

このブログで「シェア」します・・・

                        ・・・Yoko Toyama ”Cat”

 

”にゃろめ!”・・我が輩は、猫でない、虎なのだ・・後ろの一升瓶は呑み空けたのだ・・・

遠い、とおい記憶の中に、”日の丸鉢巻きの、なめネコ”のキャラが僅かに残存しますが、記憶が薄らぐと、こんな写真が新鮮に思えてきます・・・

なんとも・・愛らしくて、シェアしました・・・


越辺川に、白鳥が飛来しました  ・・・十五羽

2013-12-23 19:35:55 | 日記

越辺川に、白鳥が飛来しました・・・十五羽 

 今年の飛来は、かなり遅いようですが、ようやく数が増えてきました。1月になるともっと増えるそうです。例年のようになるといいですね。・・・・・

場所は、水門の辺りです。つい先頃は、下流の八幡冠水橋との中間ぐらいに。・・・河原から、比較的近距離ですから、撮影も出来そう・・・

 

  

  

 こんな記事が新聞に載っていて、少しだけ心配していました。

 消えた? 川島のコハクチョウ 「年明けに舞い戻る」 ・・・東京新聞 12.10

どうも、白鳥の飛来が遅いのは、河川工事と関係が深そうです。・・・調べて見ると、白鳥の”えさ”は、水生植物のようです。水草や水苔などを食べて生活しているようで、虫などと思い違いをしていましたが、違う様です。河川工事の内容は、河床に堆積した土石を取り除く工事のようです。この工事を放置すると、河床が積み上がって洪水氾濫の原因になります。工事は、人間には必要なんですが、白鳥には”えさ”が無くなります・・・ウーン・・・??・・・・・素人考えですが、工事の時期を、白鳥が飛び立ったあとの春にしたら、水草など生えるかも、なんて・・・

 


川島町歴史探索の記 

2013-12-07 02:48:49 | 日記

川島町散策 ・・・歴史の由来を求めて

いつもは、川島町は、通過するだけの所なのですが・・・・・
越辺川の白鳥に振られてしまい、川島町の興味の湧くところを散策します。といっても、行動は車ですが。なにやら今年の白鳥の飛来はまだ、未だに姿を見せずと聞きます。越辺川の土手を散歩していた老婦人が、対岸の土木工事が原因ではないかと言っていました。川の水に、工事のなにかが混ざり、”えさ”がいなくなったのでしょうか。そうだとしたら、残念・・・


この写真は、去年のものです。

  越辺川の白鳥・・      

 

大宮から、関越高速に乗る時や、東松山・嵐山・越生・東秩父牧場などへ行く時は、荒川を、開平橋で渡り、荒川・入間川の中堤防を通って、R254に出ることが多い、通い慣れた道です。最近は関越高速に乗る時は、上尾から桶川インターに出て、圏央道経由が多くなりましたが・・・。この開平橋・中堤防からの道の途中に、以前から気になる地名が二つありました。

一つは、大屋敷。もう一つは、狢(下狢交差点)。

・・大屋敷・・

この大屋敷を調べて見ると、伊奈備前守の陣屋のあった場所と言うことです。利根川の東遷、荒川の西遷を構想して、利根川の東遷を手がけた伊奈忠次が死去すると、三代伊奈忠治は、意志を継いで荒川の西遷を手がけます。忠治は忠次の次男に当たります。川島町の伊奈備前の陣屋は、忠次のつくったものだろうと推定されています。目的も、荒川の西遷工事の指揮所兼住居だろうことは容易に想像が着きます。


以下、「武蔵国郡村史」・・・「ここに陣屋跡あり、東西97間(約176m)、南北84間(約153m)。慶長(1596-1615)の頃伊奈備前守(伊奈忠次)の陣屋あり、寛永(1624-44)の頃之を廃すと口碑にいう」と記されています。また、「武蔵田園簿」によれば幕府の直轄領として武蔵国22郡の内16郡におよび、石高約28万石、村落数512ヶ村に達していました。こうしたことから伊奈氏を中心とする近世初頭の河川改修や新田開発にあたり、一時的な地域支配の拠点として複数に及ぶ中規模の陣屋を配置していたものとも推定されます。・・・


こうして、年代を確認すると、この陣屋がつくられたのは伊奈忠次の頃、この陣屋を廃したのは伊奈忠治の頃と言うことになります。そうして、伊奈備前陣屋は、大屋敷という地名のみを残して歴史から忘却されます。

この陣屋が、廃墟にされた理由は・・・荒川の西遷は、元和年間(1615-24)に吉見領囲堤、 寛永6年(1629)武蔵国久下~川島を終えたことになっていますから、西遷工事の為の陣屋の役目を終えたと言うことでしょうか。この頃寛永16年(1639)、松平伊豆守信綱が川越藩主 に移封してきます。・・・この、大屋敷があった地区は、昔は「伊豆丸」と呼ばれていたらしく、伊豆守が領主になった時、地名が領主名と同じことを憚り、地元が遠慮して陣屋を壊し、地名も出丸(イデマル)に替えたと言う説が存在します。理由はこんなところでしょうか。裏付ける資料が存在しないため、この推論が当たっているか、定かではありません。伊奈家が造ったとされる大工事のための陣屋のほとんどは、家臣に下げ渡されている例が多いのだそうで、ここの特異な例は、少し興味を湧かせます。


ちなみに、・・・現在の出丸小学校が、大屋敷(伊奈陣屋)跡と言われています。

 ・・出丸小学校と付近の風景

 

もう一つは、・・ 狢 ・・(下狢交差点)
       ・・・狢・ムジナ(貉、狢)とは、主に穴熊のことを指す。狸やハクビシンを指す場合もある。


近くの風景・・・

               

農家と田圃以外なにもないような・・・。昔、「むじな」がここにいたのだろうか。それ以外に、この地名が着く理由が思い当たらない。「のどか」という言葉が適切かどうかも分からない。どうして、”むじな”なんて、地名にしたのだろうか。なぜか気になります。

川島町は、名が示すように、川に挟まれた田園地帯です。北は市野川を挟んで吉見町と接し、南は入間川を挟んで川越市と接しています。その入間川は、下流で越辺川を合流し、越辺川は少し上流で都幾川を合流します。その都幾川も高麗川を合流します。古地図で、それらの川を眺めていると、市野川や入間川は大宮や浦和に、剔って流れ込んでいたようです。こうした川の合流点を持つ川島町は、どう見ても氾濫原だったような気がします。

この氾濫原は、関東郡代(代官頭)伊奈家の、荒川の西遷によって、”穏やかな農地に変わった”のでしょうか。川島町を、歴史を尋ねて、ほっつき歩き(車ですが)、見て回ると、確かに穏やかな農地が広がっているように思えます。

西川材・・・川島町を流れる河川の名を見て歴史を思ったのですが、これらの川は”西川材”という江戸時代の杉や檜の材木のいかだのルートではないかと確認します。この杉や檜は、良質だったため、江戸の西の川から供給されるので”西川材”としてブランド化されます。西川材の材木の供給地は、飯能、毛呂山、越生、日高と歴史書に記載されています。中心は飯能、飯能は昔から、今でも材木店と材木問屋がやたらと多い町です。飯能は奥地の名栗の山から名栗川に木を切り出し、入間川にいかだを組んで運び、荒川から江戸深川に木を運びます。同様に日高、毛呂山、越生は高麗川や都幾川に木を出して、越辺川経由で荒川を経て墨田川の深川に木を運びます。・・・かつて、この西川材の木材の産業と運搬ルートに、伊奈郡代(代官頭)が関わっていたのではないかと調べたことがあります。・・資料は未発見・・ 江戸深川は材木問屋の町でかつ花街、深川木場は材木貯蔵地。材木をいかだで運んだいかだ師達は、運搬を終え、問屋に無事材木を届け終わると、荒ぶる魂を、深川の花街で鎮めたのではないでしょうか。

・・・江戸の町発展の、衣食住の住の部分を担った、さらに度々起こる江戸の大火の復興に、奥武蔵の山の杉や檜は、おおいに役だったのではないか・・・と振り返っています。

 

・・鳥羽井沼辺りへ・・

鳥羽井沼(とばいぬま)とは、埼玉県比企郡川島町にある市野川の洪水でできた河跡湖です。

 

・・・いまでは、鳥羽井沼は、完全に”釣り堀”になっています。少し眺めている間だけでも、”太公望”は、ひょいひょいと、鮒らしい魚を釣り上げています。

川島町鳥羽井の荒川の土手の西側にあり、鳥羽井沼自然公園として整備されている。沼はひょうたんの形をしており、そのなかほどの沼のほとりには、水を司るという九頭龍大権現と一目連大明神が祀られています。

 これが全景ですが、左が一目連大明神、右が九頭龍大権現。

 

            一目連大明神                           九頭龍大権現

  

 *明神も権現も、神仏習合から後付けされた神のようです。人格の残る仏が化身して神になる時の謂われかたのようです。


鳥羽井沼の二つ神社の入口付近に、二つの碑が建っています。


一つは、この神社の由来、今一つは土地改良事業の施工記念碑で、当時の知事の畑さんの事業の経緯の文が彫られている。
写真に撮って、後から読みかえして見ようと思ったが、写真から解読できず・・・

・・碑、手前の縦長が神社由来、奥の半分木に隠れた横長が土地改良の碑

記憶に辿って、要旨を再現してみると・・・

江戸時代、この地の洪水の後整備をして、ここの領主川越藩主松平OO(確か知恵伊豆ではなかった)が、水の神の神社を、伊勢から勧請したことが書かれています。九頭龍大権現が水の神なのは分かりますが、一目連大明神は水の神なのでしょうか。少し疑問が湧きます。

土地改良事業の施工記念碑の方は、・・・この地帯一帯が養蚕の為の大桑園であったこと、絹産業がナイロンの普及で壊滅したこと、桑園が放置され荒れて、広大な土地が不法投棄の場と化したこと、等書かれ、地元の熱意で、三地区に分けた大規模農業のモデル地区にしながら、土地改良事業計画が始まり、ようやく成ったことなどが記されています。

・・・記憶に頼ったため、細部は間違いがあるかも・・・、雑把な文です。川島図書館で確かめましたが、川島町史ではよく分かりませんでした。

・・沼に鳥が浮かびます。白鳥ならぬ黒鳥です。黒い水鳥は、記憶にありません。

・・・あとで、他のブログを覗いていたら、黒い水鳥の写真があった。オオバンという鳥かも知れない。

 

 

参考・・・一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は桑名の多度神社別宮の一目連神社の祭神。一目連は天候(風)を司る神とされ江戸時代には伊勢湾の海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。

一目連が神話の話、「ダイダラボッチ」や「ひょっとこ」に繋がるかと思ったが、そこは無理でした。ここでは「鍛冶の神」としても繋がらなかった。

 

 


巌殿観音の銀杏が色づき始めました ・・

2013-12-05 12:03:13 | 名勝

寺伝によれば・・・

沙門逸海が千手種観音像を刻み開山し正法庵と称し、鎌倉期頼朝が比企能員にに命じて復興し、頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝わっている。度々時の権力者から社領を与えられ、家康からも寺領二十五石の朱印地を与えられている。

仏閣は巌殿丘陵の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所にあり、山寺の雰囲気を持つ。大東文化大学に隣接・・・

この寺を有名にしているのは、岩殿山中腹を堀崩して平坦にし、寺院を建立した。堀崩した時、寺院の背後は岩壁が顕わになり、そこに多くの懸崖仏が彫って奉納安置された。それが物見山の風光と相まって、山寺の雰囲気を醸しだし、地元の尊敬を集めている・・・

 岩殿観音・・正式名称・岩殿山正法寺

寺は、大銀杏を持つ。この大銀杏は、ようやく色づき始めた・・・・

 この、やや遠景は、鐘楼の脇の小径を上り、懸崖仏の鎮座する上から撮影しました・・・

正法寺の紅葉・・・・・

 

 

・・・樹高は約25メートル、根周りが約11メートル(株立ち)ほどもあり、樹齢は700年を超えと推定されています。江戸時代の天保年間に書かれた正法寺縁起の絵図にも描かれています。イチョウの葉が木の周り一面に敷きつめられるとまるでじゅうたんのようになり訪れた人を幻想的な世界へいざないます。・・・

この銀杏の木には思い入れがあります。かつて、”つれ”が大病を患った時、大きな生命力を感じて、入院前に訪問し、また退院してからも参詣しました。以来欠かさずに毎年この時期にやってきます。本来そうゆうことを信じないのですが、あえて反対もせず、付き添います。・・・生命力とかパワースポットとかとは別に、ここの銀杏とこの寺の雰囲気は、安らいで、かなり気に入っています

  

寺なのに、狛犬が鎮座します・・・神仏習合の名残なのでしょうか。本来、仏は眷属を持ちません・・・。苔むして、かなりの年期もののようです。

鐘楼の脇に、里に下る小径と、登るけものみちのような道があります。登って、懸崖仏の上に、行ってみます。そこにも石仏が、20-30ぐらい、安置されていました。

  

   

 

 ・・・ 県道から、巌殿観音の下りの入口付近の、”椿”のトンネル・・・

・・・・・巌殿観音・歴史の由緒・

この寺は、北条得宗家と深い関係があります。頼朝が、比企能員の提案を受けて、能員に、巌殿観音・正法寺の復興を命じました。この経緯で、正法寺は、北条政子の守り本尊になりました。比企能員は、この地の生まれではありませんが、ここは頼朝の乳母、比企尼のさとであります。能員は比企尼の養子になって、比企を名乗る事になったと言われています。比企族は、この地方一帯を統べる藤原系の豪族です。頼朝が死んだ後、鎌倉比企一族は、外戚北条家を超える勢力になろうとした時、北条家に謀殺されて、一族は壊滅状態になります。・・・これが世に言う、比企の乱です。この乱の時、当時生まれたばかりの嫡子が助け出されて、この地に逃げ、正法寺復興の時、比企能員と復興の実務に当たった別当に、隠し育てられた、と言われています。この別当は、近くの川島町に住み、やがて別当寺になります。比企家の血筋は、鎌倉時代の北条得宗家の時代、世に隠棲して命脈を繋いだと言われています。その寺の名前は、金剛寺(川島町)といい、比企一族の歴代の墓が現在まで続いております。・・・このストーリーに、疑いのある所もありますが・・・

参考・・・ 比企の地名の由来 と 比企一族について

 

 

 

 

 

 

 

 

 


石庭の紅葉 ・・長泉院

2013-12-02 14:12:13 | 名勝

石庭にもみじが降る・・・

           札所29番 笹戸山長泉院

・・・この寺は、秩父34巡礼の唯一の石庭がある

     o-----o-----o---  石庭の秋 鐘の音に もみじ降る   ---o-----o-----o  

   

   

    

寺の秋 ・・・ 静寂と背景 寺の紅葉の名勝 長泉院  ・・・荒川地区と言うより浦山口の方が分かりやすい。

見上げれば、紅葉に色づいた浦山ダムが見えます・・・

 

場所;秩父市荒川上田野557  

 

 


コミネモミジの紅葉が空に広がる ・・西善寺

2013-12-01 01:46:37 | 名勝

 西善寺 秩父札所八番 ・・・

境内には樹齢約600年のコミネモミジ(カエデ)、埼玉県指定天然記念物の巨木があります。樹下のベンチに腰を下ろせば、静寂の中、苔むした庭に風がそよぎ心穏やかな癒しの空間、まさに600年の生命力を感じるパワースポット・・・寺の案内より

 もみじではなく、楓の一種のようです。その為、紅葉の葉に水分がないようです。落葉すると、地面に絨毯状に敷き詰められたようにならずに、風で飛んで行ってしまいます。小ぶりの楓は、モミジに見まがうようで、その為に、コミネモミジと名称したようです。色は、赤と黄色の中間ぐらい・・・

それにしても、大木です。この種の大木も珍しい。大木は、銀杏や杉に多いのですが、松の大木は余り見かけません。松は油分が多く、火事に弱そうで、反面杉や銀杏は、水分が多く火事に強い・・・大木になるには、そのそうな性質が絡んでいるのかも知れません。そうすると・・・コミネカエデの大木はかなり運のよい、貴重なものなのかも知れません・・・

  

 

 

 

 

強制ではないが、紅葉の時期、この寺は、拝観料が200円必要です。

住所:秩父市横瀬町根古谷598 TEL:0494-23-3413