ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

見沼について ・八丁堤と通船堀

2013-09-28 23:42:32 | 歴史

見沼について ・八丁堤と通船堀

赤山街道という道がある。

最初に確認したのは、与野から、浦和の大間木、川口の木曽路を通って、川口の赤山に繋がる道路。後で知ったには、越谷から川口の赤山への道。さらには都足立の竹ノ塚から、川口赤山への道。まだ、あるのかもしれない。・・・これでは、まるで鎌倉街道みたいに、中心を川口赤山に置いて、放射線状に繋がっている。

この中心の、川口赤山は、一体何なんだろう、どうしてなんだろう、・・と。

むかし、沼地であった見沼の低湿地帯は、浦和の大間木と川口の木曽呂の辺りで台地がせり出し、見沼の湿地帯の巾を、急に縮める。この木曽路と大間木の間に、堤(=堤防)をつくって、灌漑用の貯水沼を造った。歴史書を紐解くと、1629年の事業とある。この沼のことを、人は”見沼の溜め井”と呼んだ。この年のうちの少し前に、荒川は、熊谷の久下付近で閉めきられて、いくつかの支流を経て、入間川に落とされて合流し、現在の荒川になっている。

 ・・大間木と木曽路の間の八丁堤・・・八丁・約800M強の長さから名付けられる。

・・左、赤山街道 右、芝川に掛かる赤山街道の橋

・・芝川(大間木付近)

八丁堤が出来た当初は、貯水の水量が増大して、見沼は膨張し、周囲42Kmの大湖水になった。そして雨期と重なった時、溜め井上流部は、水田や沿岸を湖水に隠して、多大な損害を出したと言う。

伊奈半左衛門忠治・・初代赤山城城主、初代関東郡代。父は関東代官頭の伊奈忠次。伊奈熊蔵家が嫡流が途絶えて廃絶した後、名門伊奈家を伊奈半左衛門家として復活させた。関東郡代頭伊奈忠次の次男。・・荒川の瀬替えを、伊奈忠次の業績とする書をよく見かけるが、それは誤りで、忠次は1609年に死去している。荒川の瀬替えや見沼の溜め井は伊奈忠治の業績で、関東郡代になった以後、忠次の治水や農政のテクノラート軍団を、ほぼ引き継いだと思われる。ちなみに三男は縫殿助。病弱のため仏門に入り、日誉源貞を称す。武州鴻巣勝願寺、鎌倉光明寺、京都智恩院と移り、寛永十八年十一月には紫衣を許される。慶安五年七月に没す。終年に大僧正位。墓は勝願寺にあると言われるが、確認できない。・・・恐らくは、ここの住職達の墓域の卵墓石のひとつで、伊奈家とは別世界に埋葬されていると推定する。

溜め井下流部(八丁堤より下流部)は、湿地帯を水田に変え、調整された水量により、江戸幕府の米の石高を増大させたという。

・・・下流地域は浦和領、戸田領、笹目領、舎人領、安行領、谷古田領、平柳領、淵江領の8領221ヶ村があり、この地域が泥土の河原から美田に変わったのであろう。この221ヶ村から生み出される米の生産量は相当な量になったと思われ、また丹念で調査の積み重ねで、精度の高い生産量も推定算出が可能と思われるが、ここは他人に任せたい。見沼溜め井は、これらの村の灌漑水源としたのである。

幕府は、この事業を成し遂げた伊奈忠治を、極めて高く評価した。その頃伊奈熊蔵家は、病弱の三代目で、それも七歳で相続し、九歳で早世している。嫡子を失った熊蔵家は、こうして廃絶する。幕府は、伊奈熊蔵家の治水に長けた「テクノラート集団」を惜しみ、さらに名家伊奈家の廃絶を惜しんで、忠次の次男の伊奈忠治に、この治水の「テクノラート集団」を継承させる。赤山城主伊奈忠治・・関東郡代の誕生である。

忠治の築いた堤防・・八丁堤の上を、今でも赤山街道が走っています・・・・・

だが、これは長くは続かなかった。

荒川水源を閉められて、見沼溜め井への水は少なくなる。見沼溜め井の水位は、どんどん下がり、上流は沼をシュリンクしていく。下流への水の供給も少なくなり、水田の維持も難しくなる。さらに、泥土は、見沼の沼底に積み上がり、水深を浅くする。

「水いかり」・・・見沼溜井は洪水時には下流側の江戸を水害から守る、遊水池としても機能していたが、溜井の上流側では八丁堤の存在によって、悪水の流下が妨げられるために湛水被害も多発していた。 農作物の収穫に大きな被害を及ぼすだけでなく、民家も浸水被害に陥っていた。溜井の水深が最も深かったのは、本郷村から大和田村(共に旧大宮市)にかけてだったが、これらの地域では、既存の田んぼが水没する被害が続出している。これを[水いかり]と称した。・・大宮市史 第三巻上、p.624によれば、水いかりによる犠牲田は、高鼻村で村高100石に対して51石(全体の51%)、大和田村では250石に対して88石(35%)だった。犠牲田には代替地が与えられた。なお、片柳村の万年寺は境内にまで浸水し、結局、移転を余儀なくされている。
見沼溜井の成立によって、上流側の地域では湛水被害が増えただけでなく、それまで入会地として利用されていた土地が水没してしまったので、肥料や燃料の供給機能も著しく低下してしまった。一方、溜井の下流側では水田の開発が進行し、結果として農業用水の不足がより深刻になった。しかし、見沼溜井はその水源自体が次第に枯渇していった。沼沢地に設けられた溜井だったが、直接、水源となるような河川が乏しく、天水(雨水)や湧水が主水源だったのが原因である。・・・

荒川瀬替えや見沼溜め井から、約100年経った吉宗の時代、・・・この「水いかり」に、溜め井の八丁堤の、上流からも下流からも、溜井の利点よりも弊害の方が深刻になり、見沼溜井周辺の治水対策が急務となった。一方で、急増する江戸の人口を支えるためには、食料の増産が必須だった。そのような社会情勢から、見沼溜井という農業水源までも潰して、そこに新田を開発する必要に迫られたのである。

そこで八代将軍吉宗は、この問題解決を紀州時代に紀州で治水に実績を上げた井沢為永に託した。正式名称は・・井沢 弥惣兵衛 為永・いざわ やそべえ ためなが・で、和歌山生まれの豪農である。

彼の役目は、八丁堤を抜き見沼を干拓すること、水源を確保して上・中・下流域に水を供給することである。

           見沼代用水路・・・図

           

上の図が、見沼代用水の経路である。・・・この部分も、先達により業績は調べ尽くされている観がある。

まず、利根大堰で取水が行われた。・・見沼用水の水源が利根川になったということ。そして、所々に堰をもうけて、水量の調整と他用水への分流と配流がされている。さらに、旧河川と交差する地点で、川の上に水路を通す工夫、川の下に水路を潜らせる工夫がなされた。従来の「伊奈流」の治水技術ではなく、新たな「紀州流」の治水技術である。見沼の沼干拓の地域では、沼の岸辺の高台に、二手に分けて用水路を造った。見沼東縁と見沼西縁の用水路の事で、上尾の瓦葺が分水の地点になった。これから水を抜いて干拓する土地に、水が流入しては元も子もない。ここの部分は慎重に細心な注意で、工事がおこなわれた。

この、見沼用水路の完成は、着工から僅か6ヶ月で成し遂げられる。その理由は、幕府の後押し、地元農民の期待からの協力などがあげられ、地域住民の期待の事業だったようである。

反面、見沼湖水の干拓事業は困難を極めたようだ。これには完成までに50年の年月を要した。そうして、今の見沼たんぼの風景ができあがったわけである。・・・・・

井沢弥惣兵衛の指揮の下に、見沼用水が開設されたには、1727年と言われる。伊奈忠治が、荒川を熊谷久下で締め切り、荒川の西遷をしたのが、1629年のことだから、実に約100(・・98)年たった後のことである。

   八丁堤付近の見沼代用水、東縁・西縁の風景・・・

       

                    ・・井沢弥惣兵衛像(見沼自然公園にて)

通船堀

この様にして、見沼用水路の流域は、江戸時代に新たな農耕作地として生まれ変わり、商業農作物は、一大消費地の江戸に運搬されるようになった。この大量輸送をになったのが、芝川と見沼用水路による船での運搬になる。芝川は、見沼の低湿地を流れる悪水路である。この場合の悪水路は、水がきたなく汚れて淀んでいることではなく。用水ではなく排水の水路の意味で、高台の縁を流れる西・東縁の用水路の対比で呼ばれる。従って、用水路と芝川では高低差が生まれる。この為、芝川と、見沼用水路との船の往来は、高低差の水位を調整する必要がある。・・・この水位の調整が通船堀で行われた。・・・つまり「運河」のことである。これは、スエズ運河が出来るかなり前の事ではあるが、歴史上見沼通船堀が初見ではない。

      

・・・見沼通船堀の記念碑、説明板、通船の方法の図・文の説明板

   ・・通船堀遺構

 ・・通船堀の船往来を取り仕切った鈴木家屋敷。・・井沢為永の紀州からの部下でもあった。

 

少しだけの感想・・・

伊奈忠治も井沢為永も、歴史から眺めれば、時代が少しずれるが、ともに優れた治水のテクノラート官僚に思えるが、川口地区と大宮地区では、評価に微妙な温度差を感じる。これが、治水の事業によって受けた恩恵の落差なのかどうか、後世の読み人は、推測するしかないが、しかし、官僚とは、かくあるものとして、尊敬の念は禁じ得ない。

 

 

 

 

 

 


見沼について ・氷川神社との関係 

2013-09-27 17:09:12 | 歴史

武蔵国一宮の氷川神社は、むかし大きな湖の畔にありました。江戸時代、八代将軍吉宗の頃までです。

その名残は、境内に幾つか残る神池となっています。湖の場所は、大宮公園に隣接する動物園やサッカー場辺りから蹴落としの坂となり、湖に繋がります。この湖は、最大に膨張した時で、周囲を42Km強に及びました。これの面積は、諏訪湖より一割強小さいぐらいで、かなり広大です。これだけ大きいと沼と呼べないと思い、湖としました。名称は「見沼」、・・・昔の呼び名は「御沼」とも「三沼」とも「箕沼」とも、古書に記されているそうです。水面を飛び跳ねる魚を詠んだ和歌も散見されると言います。

氷川神社は、もともと出雲系の神社で、水の神を祀っておりました。それでか、湖の畔に、氷川神社三社を建てております。 

・・・見沼周辺にある大宮市高鼻の氷川神社・浦和市三室の氷川女体神社・大宮市中川の中山神社は、それぞれ男体宮・女体宮・簸王子宮と称していました。この三社にはそれぞれ縁起書や古記によって創建年代を定めていますが、実際とは異なる場合があるともいわれています。信濃国諏訪湖畔の諏訪大社は、上社下社に分かれていますが、もとは一社で大社名は両社の総社であるといわれています。氷川三社も恐らくもとはこのような形態ではなかったといわれています。これは三社が深い関係をもっていたことを示しており、かつては一社であったことを物語るものと考えられます。・・・この三神社は、湖で繋がり、往来は船であろうかと、三室の女体氷川神社の「御船祭」の由縁から想像されます。御船祭は、見沼が干拓された後、岩舟祭に名前を変えて現在も継続・伝承されています。

大宮氷川神社・・高鼻の男体神社は有名なので割愛して、中山神社と氷川女体神社を紹介します。

中山神社・・

    ・・拝殿

   ・・本殿 ・・旧社(保存)

 ・・稲荷神社と合祀の村社 

・・火塚  まるで、ゾロアスター教の祭典のような火の祭がありました

・・中山神社の由来 ガイド板

中山神社は、江戸時代まで「中氷川神社」と呼ばれていました。明治になり、一村一神社が法律で決まり、村内の付近の神社が中氷川神社に合祀されました。また氷川三社の中で、この神社だけが火のお祭りを行い、中氷川の氷のの文字が溶けて無くなったとも言われています、これは"まさか”とは思いますが、付近の中川の地名とともに中川神社に変名したようです。

・・冬至と夏至の話は三神社の説明の後に・・・神話なのか!科学なのか!・・・


氷川女体神社・・

   ・・神社の鳥居と社稜

・・氷川女体神社の由来板と龍神の舞の祭事の説明

見沼氷川公園・・

公園の入口近くには、「案山子」の記念碑が建てられています。
     山田の中の一本足の案山子
     天気のよいのに簑笠着けて
     朝から晩まで立ちどおし
     歩けないのか山田の案山子

・・・・・この公園の付近の明治大正の頃の風景から、この歌が生まれました。見沼たんぼの原風景・・・

 

氷川女体神社は、奇稲田姫命を祀ってあります。彼女は須佐之男命の妻であります。・・ちなみに須佐之男命は氷川男体神社(=大宮氷川神社)の主神です。

この三社は別々の神社ではなく、氷川三社で一体の氷川神社を形成して見沼を神池「御沼」として広大な神域を有していた、と思われます。三社は、この湖水を船で往来したらしく、この女体社に御船祭の神事を残し、西縁用水路を挟んだ公園・・見沼氷川公園に祭事の跡を残しています。

 

氷川男体神社(=大宮氷川神社)と中山神社と氷川女体神社

中山神社は、氷川神社と氷川女体神社の直線上にあり、広大な見沼を挟んでちょうど中間に位置します。太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、稲作で重要な暦を正確に把握するための意図的な絶妙な位置関係です。

氷川神社(三社)は、暦の夏至と冬至を正確に推し量り、近在の農民に、種まきの時期や刈り取りの時期を教えていたと推測できます。

氷川神社は出雲族の神の出で、以前調べた日置部の知能・技術を兼ね備えていた模様です。日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通して、農耕の発展で豊作に通じている知識です。日置部は、太陽祭祀に秀でるもはシャーマンとなり、技能に優れるものは土師氏になって、土器や鉄の製造に携わるようになります。このシャーマンになったものは、武蔵国に来て氷川神社を創り、武蔵国国司に何代も君臨したと言うことです。

興味深い話が残っています。

明治維新がなり、天皇が京都より江戸へ行幸して、江戸城に入り、東京の命名をして遷都します。このとき、天皇は、関東の神社で、武蔵一宮の氷川神社に、いの一番で参詣したと言われています。氷川神社は出雲系であり、天皇家は天津系です。遠い昔に両系は争った経緯があり、須佐之男は追いやられました。遠い昔の諍いの仲直りの挨拶に来たのでしょうか・・・

・・・氷川神社や見沼のことは、資料も多く、熱心な研究者によって、ほぼ調べ尽くされているように思います。ここには自分の出る幕は無いようにも思えます。ただ、みな地味で、目立たないため知らない人も多そうです。

・・・・・次回は、見沼が一番湖水の面積を膨張させた時期を、追いかけてみたいと思います。ここには伊奈熊蔵忠次と伊奈半左衛門忠治が出てきます。





大慈寺 札所十番 ・・・秩父巡礼

2013-09-24 20:39:06 | 史跡

大慈寺 札所十番

 

 六慈寺の本堂

入り口 山門 六地蔵

 

札所

赤い頭巾と赤い腹がけを着せられた、ふっくらした顔だちの大きな延命地蔵が巡礼者たちを笑顔で迎えてくれております。

 

大慈寺の人気者は笑い顔の延命地蔵でしょうか。

 

住所:秩父市横瀬町川西5151


常楽寺 札所 十一番 ・・・秩父巡礼

2013-09-24 20:37:34 | 史跡

常楽寺 札所 十一番

 

 

この二つの寺は、昔は伽藍など建物が多かったが、火事で焼失したあと、再建で、いまの姿になったと聞きます。

 

●堂塔
この札所は、江戸時代には観音堂、仁王門、庫裡を備えた立派なtっらであったが、明治11年秩父大火ですべてが焼失してしまった。

●縁起
その昔、この寺の住持、門海上人は仁王門建立を志し、多年勧化に心をくだいたが、普請なかばで思い病気になってしまった。本願の達しがたいことを憂い、本尊に快気を祈ったところ、ある夜、黄面の老僧、金銅神を従えてあらわれ「門海の病気吾能治すべし」といい、金銅神に上人が肩を引き立てところで夢が覚めた。たちまちに病は全快して、仁王門建立の本願を遂げたという。・・・・・

住持門海
門海は智徳勝れたる聖にて、當山に二王門を建立せしけるが、普請なかばに邪気に犯されて臥けるが、 薬服もはかばかしく験もなければ、本尊に快気を祈念しけるが、その夜夢中に貴僧来りて、吾よく汝 が邪気を治さしめんと宣へば、ふしぎと其座へ金剛神あらわれ出て、門海の手を採て引き立つると 思へば夢覚めぬ。その翌日より忽ち平愈しければ本尊をいよいよ信心しけるに、猶数多の霊験を蒙り、 長寿を得たること、偏に當寺の利益ふしぎというもおろかなり。

住所;秩父市熊木町43番28号


 

 


卜雲寺 札所六番 ・・・秩父巡礼

2013-09-24 20:32:43 | 史跡
卜雲寺 札所六番
 
向陽山卜雲寺(札所6番)
 

卜雲寺 住所;横瀬町大字横瀬苅米1430番地

 

縁起

武甲山は秩父の象徴である。三峰山、両神山とともに秩父三山の一つとして信仰されている。山頂に熊野権現社を有する修験の山で、かつては多くの修験者が住んでいた。武甲山を眺めるとき、荻野堂からの景観が最も素晴らしく、高台にある本堂から正面に、雄々しい姿を望むことができる。縁起によると、本尊聖観音は武甲山熊野権現社に祀られていた。

行基菩薩が当地に巡錫した時、武甲山に住む山姥を、熊野権現の験力で捕まえて、松の木に藤蔓でしばった。しかし、これを哀れんで、山から退くことを条件に解き放った。山姥は起請のために、歯を三本抜いて差し出したので、行基は本尊を刻み安置したという。この時の山姥の歯は、『荻野堂縁起絵巻』一巻とともに、寺宝として現存している。

後に、とが池を埋め立てて武甲山の観音を移し、草堂を建立して荻野堂と称した。 武甲山に安置された観音は、長享二年(1488)当時、山を下りて、とが池と呼ばれるところに祀られ、第三十番札所となった。のちに別当の卜雲寺に合祀されて今日に到る。

・・・荻野堂とよばれた信仰の寺は、どうも渡来人の言葉らしき「卜」の占いの字を持つ寺に合祀されたようだ。火事もあったのかも知れない。荻野堂は、鉱山師と関係の深い修験者の信仰を一身に集めたらしい。その荻野堂は秩父を象徴する武甲の山を勇姿としてみる絶好のビューポイントだったらしい・・・・が、今は武甲は、表面の石灰石を削られ、無残な姿を晒す。

さて、この寺は、旧の巡礼札番は、三十番とみえる。

後日に記述を発見したので・・・追記;

室町時代の秩父巡礼の一番は定林寺だと言うことです。「秩父最初懺悔堂」とありますから、世界一般の宗教は、懺悔から、なのでしょうね。三十三巡礼が完遂すると最後は長野善光寺へ行くのだそうです。最後は善光寺に極楽浄土のなにかがあるかもしれません。あとで調べてみます。 

・・・・・以前、まとめてあったものを、独立して編集しました・。

 

護歌堂 札所五番 ・・・秩父巡礼 

2013-09-24 20:29:30 | 史跡

護歌堂 札所五番

        札所五番語歌堂

 秩父札所5番では美しい屋根の仁王門をくぐると、正面に三間四面の語歌寺の扁額のかかる観音堂が見えてきます。秩父札所5番は、昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者で、孫八は和歌の道に親しむ風流人でありました。ある日、ひとり堂にこもって歌想を練っていると一人の僧が訪ねてきて、話が好きな歌道のことに及ぶと大いにはずみ、二人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合いました。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧こそ聖徳太子の化身であったことがわかり、孫八はこの堂の名を語歌堂としたといいます。

語歌堂 住所:秩父市横瀬町下郷6086   

ここに、納経所はありません。

少し離れた場所に長興寺があります。納経所なっている臨済宗南禅寺派『長興寺』は歩いて数分、250メートルほど離れた山側にあり、花々が楚々と咲く手入れの行き届いた寺であります。

               「語歌堂の納経所、長興寺」
 
屋根に、金地の紋らしきものが三つ並んでいます。住職夫妻がいたので尋ねてみたら、小川山長興寺の「小川山」の山号で紋ではないようです。少し変形文字なので、間違えたみたいです。いろいろ話していたら、この寺の紋は、立葵とのことです。
家康が幕府を立てた時、松平・徳川家のみが「葵の紋」を使用を許され、一般には「葵紋」の使用を禁じました。しかし、それまで葵の紋を使っていた名家だけは、それまで通り使用を許しています。
 
葵の紋は、松平・徳川家が三つ葉葵(茎なし)で、賀茂神社系は双葉葵、立葵(茎あり)は善光寺系とされます。家康の参謀だった本多正信の本多家は、善光寺系の本多家で、うそかまことか、善光寺の祖である本田善光の末裔だといわれています。
 
長興寺は、そのように考えると、善光寺の末寺と言うことになるのでしょうか。・・・最後のこの点は、住職夫妻に確認できませんでした。・・・後日、ここを訪れて、紋に興味をお持ちの方は、ぜひ確認してみて下さい。
 
・・・・・以前、集合であったのものを独立させて、編集しました。
 
 
 

真福寺 札所二番 ・・・秩父巡礼

2013-09-24 20:26:42 | 史跡

真福寺 札所二番

真福寺 場所; 秩父市山田3095

縁起; 寺の開基は大棚禅師といわれる。禅師が岩屋にこもって読誦していると鬼となった老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。


堂塔; 昔は観音堂五間半四面、ほか本堂、札堂、仁王門、羅漢堂、稲荷社、諏訪社などがあったが、これらはすべて火災によって焼失してしまい、今は本堂がたつだけでる。本尊は聖観世音立像一木造りで高さ64cm、室町時代の作といわれている。

 

     山額    観音像 草花が石仏を飾る頃

 

一番から二番へは、畑の風景を過ぎてから傾斜の急な坂道となり、季節の花を眺めながら、やがて林間も行き、多少喘ぎながら、たどり着くという行程になります。焼失して残った本堂を礼拝してから、納経所のある光明寺への道のりも、同様に林間を下るという、脚力を必要とします。運動不足の輩にはほどよい距離といえるかも知れません。

             納経所 光明寺

 光明寺の縁起

ここには、比較的おもしろいことは書かれています。平安中期の高望王流桓武平氏の弟の恒望王が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置き、この地で逝き(807)、弔ったのが光明寺だという。そのあと衰退し、のちに隣の新木の荒船家から越生龍穏寺に出家していた僧が光明寺を再建したとある。荒船家は当時番匠屋(大工?)であったという。荒船家は、後に政治家荒船清十郎を生んだ、あの荒船家である。

*荒船清十郎(1907-1980)・・・政治家

決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれた。かれは、荒船放言として、じつに多くの「放言」をしてマスコミをにぎわした。川島庄次郎自民副総裁から「やはり野に置け蓮華草」と言われたことは有名である。彼の菩提寺は、山田にある金昌寺(札所四番)。

光明寺 場所;埼玉県秩父市山田2191

・・・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない。

・・・なお、札所二番は、一番と集合であったものを、独立して、編集しました。

 

 

 

曼珠沙華が道筋を飾る散歩道 ・・・見沼田圃にて

2013-09-21 00:48:37 | 日記

ここの曼珠沙華は、高麗の巾着田より一週間ぐらい遅く咲く。今は咲き始めの頃・・・。

埼玉で有名な曼珠沙華は、巾着田の河原と幸手の権現堂堤・・・。ともに群生が有名で、地面を覆い隠すばかりと咲き揃う。・・・しかしここは、散歩を楽しませるが如く、延々と桜の並木に沿って、咲き並んでいます。


見沼自然公園あたりから、総寺院・国生寺あたりまで・・・見沼用水東縁水路に沿って

           

・・・歩く道すがらの撮影ですが、順序は不順です。最盛期は、もっと花がぎっしり・・・


・・・見沼用水東縁水路、 遊歩道路は水路沿いですが、一部は車の通行は不可、他は、農耕道路と兼用なので車が通れます。

*見沼用水東縁水路・・・上尾市瓦葺から大宮・浦和・川口を経て都足立区まで続く用水路・・・、東縁があるので、当然西縁もあります・・その間が見沼田圃になります・・江戸時代に、広大な沼地からの開拓した農地です・・・

見沼用水路に沿った遊歩道は、規則正しく、約10m間隔で桜並木が、それはそれは延々と続き、春の桜の頃は壮大な眺めです。空から眺めたら、嘸かし桜の川のような帯なんでしょうね・・・。その桜並木に沿って、秋の彼岸の頃、彼岸花・曼珠沙華が咲き始めます。桜と同様に、見沼用水路に沿った道に、延々と咲いて道を飾ります。どこまで続くのか、、歩き疲れて確かめたことはありません。

犬を連れた散歩のひと、カメラを持った散策の人、水筒を片手に歩く人・・・三々五々の散歩道でもあります。

曼珠沙華の咲く散歩道を、勝手に・・・・・

「はらみつの道」と名付けてみました。呼称を他人に強要するつもりはありません。

・・サンスクリットの”pāramitā ”、漢語の”波羅蜜”に準えました。彼岸の意味のようですが、軽く、”季節の・・”と思っていただけるといいです。曼珠沙華の咲いている時限定です。

 


  ・・・土手の斜面にも・


ここの曼珠沙華は赤ばかり、・・白い曼珠沙華には、悪を離す、という言い伝えがあるそうです。山口百恵の歌では、・・・まんじゅうしゃか、と歌っていたと思います。作詞の阿木燿子の読み方のようです。好きな歌ですが、確かめてみて下さい・

http://www.youtube.com/watch?v=wrymFRFWAWo


見頃は10月始め、見るポイントは固定せず、出来れば、2,3時間かけて遊歩・散策がよいと思います・・・「はらみつの道」。


都幾川堤防に・・・曼珠沙華が咲く

2013-09-20 04:37:40 | 日記

 

県道74号岩殿観音・南戸守線・・・川島町長楽・・付近

 

     ・・・土手に咲く 曼珠沙華

 

もう、そんな時期になりました。都幾川の川風も幾分涼しく感じます。” 暑さ、寒さも、彼岸まで ”・・・この言葉はさすがです・

 

 


比企の地名の由来 と 比企一族について

2013-09-17 01:14:50 | 歴史

上野国佐野を拠点とした豪族、藤原秀郷の末裔が、比企に来て、比企一族を名乗ったとされる説があります。どの程度たどれるか、調べて見ます。例により、事実と事実をつなぎ合わせながらの構想のストーリーです。事実が誤認であれば、構想は虚構のストーリーとなる危うさは自覚しております。

・・大雷神社の大ケヤキ

この神社は、大雷・・おおいかずちじ・神社といい、日置部一族の信仰の基だったようです。大雷神社は神域が広く、鎮座する山一体が領域で、この神体山の中に一族の墳墓=大小の古墳を抱えております。恐らく一族は、この神体山の麓周辺に散在して住居し、仏教の初期の普及に多大の貢献をしたようです。寺院の屋根を覆う「瓦」の生産は重要な任務だったようです・・・大谷古窯。

・・・・・ 武蔵丘陵、川越ゴルフ場の中に、神社と古墳はあります。またこの山の大谷側は、比丘尼山とも呼ばれていた様です。大雷神社は、山火事の貰いで焼失した後縮小改築され、神社と古墳を残して神域は、今はゴルフ場に変わっています。

  ・・ゴルフ場風景の一部

 

日置とは・・・ 

比企の地名のおこり. 比企は埼玉県の中央部に位置し、山地から丘陵、そして沖積地へ と変化に富んだ地形が特徴です。平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名 として比企が登場しますが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力です。ちなみに、埼玉の比企の他に、鹿児島にも日置郡があります。

もう少し詳しく見て見ましょう。日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通していきます。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になってきます。こうなってくると、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっていきます。

こうして、「日置部は大和国家の新たな支配地へ中央から送りこまれた尖兵だったようです。彼らは武力集団であると同時に、太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団で・・・日置だけを取り上げましたが、弊岐・戸岐・戸木・部木、比企などの地名も、同じ仲間と考えますと、埼玉県の比企(ひき)郡があります。・・・「これらが大和朝廷の支配圏の拡大にともなって生まれた地名である」ことは、たぶん間違いないとおもえます。

 

こうして、日置の郷に古代窯がうまれます・・・

比企地域には、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられていきます。

そのうち、仏教の伝来と普及によって、地方にも寺院が建立されてきます。朝鮮あたりからの仏教伝来は、宗教だけでなく文化や技術も伝来します。その中に瓦の技法も当然あったと思われます。こうして、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになりました。


瓦窯跡の誕生・・・

・・大谷古代窒  ・・赤沼古代窯

古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。

新しい仏教の普及には、瓦の屋根で作られた寺院が、宗教として必要不可欠だったのかも知れません。ですが、当時の寺院はほとんどが廃寺になってしまったようです。


大谷瓦窯跡の例・・・

昭和30年5月に2基の窯跡の発掘調査が行われ、完全な形で掘り出された1基です。 瓦窯跡は、瓦を焼いて製作した窯のことで「登り窯」とよばれる形態をもっています。また、瓦の製造は、寺院建築とともに始まったものです。 この窯跡は、地山を掘り窪めて構築したもので、前長760センチメートル、約30度の傾斜をもっています。幅60センチメートルの焚口は、瓦を立てて補強してあります。燃焼部は一段深く掘り込まれて、一つの部屋を形成しています。また、瓦を利用して13の段が形成されているなど、全体に補強工作が慎重に行われています。出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦、文字瓦などです。年代としては、白鳳時代と思われます。

 

また、大谷瓦窯跡の付近に、日置部一族の墓と覚しき古墳群があります。三千塚古墳群というのだそうです。

・・古墳跡

三千塚古墳群 案内板より

昭和31年2月市指定史跡 
大岡地区には、雷電山古墳を中心として、数多くの小さな古墳が群集しています。これらの多くの古墳を総称して「三千塚古墳群」と呼んでいます。 三千塚古墳群は、明治二十年~三十年頃にそのほとんどが盗掘されてしまいました。・・・三千塚古墳群からは、古墳時代後期(六~七世紀)の古墳から発見される遺物(直刀・刀子・勾玉・菅玉など)が出土しています。 雷電山古墳は、これらの小さな古墳を見わたす丘陵の上に作られています。この古墳は、・・帆立貝式古墳(前方後円墳の一種)です。雷電山古墳からは、埴輪や底部穿孔土器(底に穴をあけた土器)などが発見されています。 雷電山古墳は、造られた場所や埴輪などから五世紀初頭(今から千五百年位前)に造られたものと思われます。また、雷電山古墳の周辺にある小さな古墳は、六世紀初頭から七世紀後半にかけて造られつづけた古墳であると思われます。

 

日置族は出雲臣族です。このうち紀伊・日置首は天照大神の子天穂日命の後裔で、大江・秋篠・菅原朝臣と同祖です。また、京師・日置臣は菅原朝臣を賜り、土師宿禰と同祖です。さらに日置部の伴造である幣岐君は応神天皇の子大山守命の後裔です。従って、日置族は天照大神、応神天皇の子孫ということになります。901年藤原氏によって太宰府に流された日置族(土師族)菅原道真は同族です。

 

また、この古墳群のあるところに、大雷神社というのがあります。

・・大雷神社   

大雷神社由緒沿革・・・・・

 当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斎し、御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元(八五九)年巳酉四月十二日と社伝に言い伝えられている。貞観六(八六四)年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ、三代実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である。・・・大神を祭祀してより五穀豊穣が伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし・・・て深く信仰された社殿は、雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し、社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され、付近一帯には陪臣の墓と思われる数百の古墳の群が散見せられた。
・・・安政四(一八五七)年、近くの山火事により類火して本社火災の折、御神体と奉斎せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の広大さに村民崇敬者益々畏敬の念を深め、この幣串を今も御神体として奉斎する。・・安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された。
昭和四十三年十月二十三日

・・・・・この神社の本分がが書かれています。穀物生産の基となる”雨ごいの祈願”です。このように、多くの神社は”水をもとめる”ところから出発しています。例えば、奥の院とか御神体山とか呼ばれるところは、水源の源流地を指しているようです。雷も雨を伴います。これこそ、太陽祭祀を司る日置部の本質のところです。


ここまで見て見ますと、日置部の日置(ヒキ)一族が、土師氏としてこの地に土着し、古代窯をもち、最初は埴輪などを焼き、やがて寺院と関わって、瓦を焼いたのだろうと確信してきます。

日置(ヒキ)の郷は、やがて比企の郷に、文字を変えます。菅原道真は、一族の希望の星でありました。菅原道真は、天神様とか天神宮とか、九州に流された怨念で、京都に雷の嵐を落とした由縁で、雷の神となって、日置一族に祀られます。すばり、菅原神社というのもあります。・・・東松山に道真に関係する神社が異様に多いのは、以上の理由によるものと思われます。比企(日置)の郷は、従って、古代窯のあった周辺が想定されます。根拠は薄いのですが、現在の比企郡より範囲が狭く、東松山と鳩山を中心にして、隣接する村あたりまでかと想像します。歴史の資料を確かめた訳ではないが、鎌倉時代初期、頼朝の時代、比企能員と畠山重忠は同時代の人で、ともに頼朝の重臣でありました。出身の拠点は、今の比企家の東松山と畠山家の嵐山町で分かれますが、隣接地です。畠山家の嵐山の菅谷の館は、比企の郷などと到底思えません。

 

大谷・・・東松山市

日置の痕跡が残る大谷は、古代窒、大雷神社、古墳跡、天神社、そして後で説明する宗悟寺などが集積する地域です。火を使う古代窒があるので、火伏せの信仰もないかと探したら、近くに秋葉神社もありました。さすがに秋葉神社まで比企と関係あるとも思えませんが・・。この大谷は、武蔵丘陵森林公園の東側の真隣です。

  ・・秋葉神社の狛犬と刀剣

狛犬は高麗犬とも謂われ、どうも日本古来の動物ではなさそうです。口を開けている方が「あ」で口を閉じている方が「うん」と言われ、相対は顔を向かい合わせ、「あ」が生誕を、「うん」が死去を顕して、その間が「生きる」という生命を表現している、という説があります。刀剣は神事に使うそうですが、みるとかなり錆びています。

 

比企一族が出現するのは、その後のことです。従って、比企一族が、比企の土地名をつけたのではありません。

・・藤原秀郷

 

上野佐野あたりを拠点とする藤原秀郷は、「平将門の乱」の残党を征伐しました。その褒美として、時の朝廷は、秀郷に、比企の郷の領地を与えました。秀郷は、子孫を比企の郷の派遣して領主にします。比企を領有した秀郷の子孫が、比企氏を名乗りました。

比企一族の当主である掃部允助宗の正式な名称は、名付けのルールに従えば、比企掃部允藤原朝臣助宗と言うことになる。この類型をもとめれば、 源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重は足利庄を出て上野国新田庄を継ぎました。この義重の正式名称は、新田源朝臣義重です。新田の後に官名が入る場合もあります。分割相続した場合は、相続した土地名を冠につけます。この足利氏は、後に足利尊氏に繋がり、新田氏は新田義貞に繋がります。

これについては、異説があります。以下・・・

 異説・・・1

今井信雄著『鎌倉武士物語』の比企一族の項に於ける、その出自に関しては興味深いことが書かれている。比企氏が勃興した比企郡は鉄が多く産出する場所であり、比企氏は製鉄業を扱う氏族ではなかったかというのである。
・・・鍛冶神たる天目一箇命の一族である。天目一箇命は日本全国各地に国造を残したことで知られる、この内、武蔵国では武蔵国造を輩出した。武蔵国造からは承平の乱で武蔵武芝が出て活躍し、その末裔には武蔵七党の一つである野与党、安達・足立氏等があり、知々夫国造一族(秩父・千葉一族)と頻繁に婚姻関係を結び、中世期には一体化した・・・上記の比企尼の長女・丹後局が安達盛長に嫁いでいるということである・・そして、安達・足立一族も又、その出自を、比企氏同様に魚名流藤原氏と仮冒しているのである・・・これ等のことを総合すると、比企氏は、武蔵国造の末裔で、安達・足立一族と同族とみるのが妥当だと思われる・・
 
・・・・・日置氏が製鉄業を扱う氏族のは、少し無理があるように思います。秩父の方では、砂鉄の産出を確認していますが、製鉄に関する遺跡は確認できておりません。秩父の鉱山を推論の根拠に据えた、武蔵丘陵や比企の郷への短略的な結論だと思いますが、如何でしょうか。秩父を含めて、この地方の豪族が婚姻関係を深めて、同族化しているのは事実でしょうが・・・。 
 
異説・・・2
「阿保朝臣系図」に拠って、比企氏の系図の概略を説明すると、次のとおり・・・ 
武蔵の比企氏の起源は、延暦期に阿保朝臣人上が武蔵に国司として赴任したことに起る。人上はもと阿保君といい、次に建部朝臣姓を賜り、延暦三年には阿保朝臣姓を賜り、・・大学頭に任じている。・・続日本紀に・・武蔵介従五位上の建部朝臣人上が見え、東大寺文書・・にも従五位上行介阿保朝臣人上が見えるから、武蔵介になったことは信頼してよい。その子の大国が武蔵に土着して比企郡司大領になったといい、その子の芳公、以下は宗人、只上、中宗と続いて歴代が比企郡ないし賀美郡の郡司をつとめ、中宗は武蔵介源経基に従って武蔵武芝を伐ったときに軍功があったという。中宗以降も比企郡領を世襲しつつ源家に仕え、その八世孫に掃部允宗員がおり、その子が掃部允遠宗であって、この妻が比企尼で、これが藤四郎能員の養母とされる。
 
・・・・・阿保氏が武蔵国の地方長官を歴任したのは判るが、比企氏との繋がりが不明で、八世孫に掃部允宗員あたりに比企氏との婚姻がなされて同族化した可能性はあるのかもしれないが・・・たしか、川島金剛寺に残存する比企家系図に、波多野遠宗=比企掃部允とあった、と思うので、全く無関係というのではなさそうだが・・・どうもストーリーが繋がらない。
 
この、異説1と異説2をみると、朝廷から派遣された氏族が、この地に土着して比企をおこし、さらに連続して、比企一族になったような説明です。この連続性には無理があるので、ところどころこじつけのような表現が出てきて違和感を感じます。そうでなくて、比企の地名を残した日置族と比企の名をもった武家の一族は不連続で、別物です。そうしないと、無理矢理のこじつけの物語が挟み込まれてしまいます。
 

比企一族

・・比企能員

・・ 扇谷山宗悟寺、扇谷・・おうぎがやつ

この比企一族の館は、宗悟寺の東側の城ヶ谷(じょうがやつ)にあったといわれておりますが特定されていないそうです。資料も残されていない、伝承のようです。比企掃部允助宗は、伊豆に流された頼朝の平家側の監視人です。比丘尼は助宗の妻ですが、助宗が死んだ後、比丘尼を名乗り、頼朝の乳母となり、頼朝を育てました。結婚当初、比企尼は城ヶ谷の館で過ごした事があるのかものかも知れません。比企能員は養子なので、比企の郷とは関係ありません。

比企一族の伝承は、むしろ比企の乱以後の、生き延びて逃れた一族のことがほとんどです。比企の乱の経緯については、吾妻鏡などで顕かにされて、解説も多いのでそちらを参考下さい。比企の乱の時、鎌倉にある比企一族は、悉く北条時政の支持勢力に殺されてしまったというのが、定説ですが、この比企の郷には、わずかに逃れて残存したという説が、まことしやかに残されています。

宗悟寺

・・宗悟寺 ・・比企一族顕彰碑 

その一つ、源頼家の側女、若狭の局は比企の郷に逃れ来て、隠れ住んだと言います。残ったわずかの一族の係累が若狭を守り、沈静化の後再び、比企一族を名乗り、継承して存続したと言います。この伝承は、比企郡、東松山市大谷で当地は扇ヶ谷といい、宗悟寺(そうごじ)というお寺で、この寺は若狭が夫頼家の供養のために建立した寿昌寺を、天正年間に旗本森川氏が、この地に移して中興したそうです。また宗悟寺の北西にある比丘尼山(びくにやま)は比企尼や若狭が草庵を結んだところだという伝承があります。・・・比丘尼と若狭の件は、確認されておりません。

この地は、比企一族の居館のあった本拠地である可能性は高いが、若狭の隠棲の場所は作り話のように思えます。


*・宗悟寺、鎌倉時代は寿昌寺  場所;東松山市大谷400

 

金剛寺と正法寺

・・金剛寺 ・・正法寺

その二つ、比企の乱が起きた時、頼家の側女の若狭の局は身ごもっておりました。それも臨月近く。しかし、北条時政の兵に、若狭は殺されます。比企能員の家臣は、隙を待って、とっさに死んだ若狭の腹を割って遺子を取り出し、比企に逃げて正法寺観音堂の別当に預けます。この正法寺観音堂の別当は、川島町にある金剛寺です。腹を割って等、かなり生々しい逸話で、どうかと思いますが、殺される前に生み落としたのかも知れません。後に、なぜか敵側であるはずの北条政子が正法寺を庇護し、菩提寺にしたことが、縁起書の案内に記載されていることを思えば、こちらの話は、現実味を帯びてきます。この金剛寺には、比企一族の系譜があり、藤原秀郷の子孫の系図を示していると言われております。

金剛寺本堂、改築されたばかりのようです。新しい寺は、ありがたみが湧きません、失礼。

・・寺門  ・・大日堂 

比企一族の墓・・・

寺門から、本堂を右に回り込み、竹藪の中にあります・・・

   


・・比企則員(1616没)・比企義久(1642没)・比企久員(1684没)・比企雅久(1701没)・比企重員(解読できず)、他にも累々一族の墓があります。

比企一族は、比企の乱で壊滅的になったが、ほんの一部は、前北条の時代は存在を隠し、室町時代になって、扇谷上杉に属し・・たぶん太田道灌などの軍に属し、のちも上杉家臣で残存して江戸時代も生き残り、現在も比企の名前を継承していると聞きます。前北条の時代の隠棲に、以前の拠点の大谷付近を選ばなかったのは、比企能員が、正法寺の中興に尽力した由縁で、追われた比企一族が、正法寺別当の金剛寺を頼ったことは納得出来ます。

しかし、比企の乱後の十六世紀までは、系図のみの証拠立てで、確認されておりません。

・・・場所;川島町。旧道の、白鳥の飛来地の越辺川入口とR254との中間ぐらいの位置。


金剛寺 場所;川島町中山1198


正法寺・・

正法寺 大銀杏

・・名刹、物見山下にあり、大東文化大となり。・・・懸崖仏で有名な巌殿観音ともよばれる。


その三つ、武蔵国の日置族の比丘尼の長女丹後局に子がありました。その子は、比企の乱で逃れて、薩摩に行きます。その子は、後に島津忠久と名乗り、薩摩の領主になりました。・・・これも説としては、存在しますが証拠とする資料は見つからないそうです。