ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

はなみずき通り・

2017-05-15 21:41:16 | 名勝

はなみずき通り・

名前は「はなみずき」通りなのですが、もはやこの時期には”はなみずき”の華やかさはありません。
新緑に変わっています。
この通りは、僅か500mぐらいの長さしかありませんが、
   ここの木漏れ日が好きで、散歩の折にかなりの頻度で寄っていきます。
   見沼用水のところで、「万葉の小径」に交差しています。
   交差のところに、水車小屋もあります。・・・廻っていま  ・・せん。(修理中)


   
   
「はなみずき」に代わって花が咲いています。
  植物に詳しくありません。「ウツギ(=空木?)」でしょうか?


  散歩を休める”小さな喫茶店”もあります。
  
  
この「はなみずき通り・」は、第一公園と第二公園を繋いでいます。
第一公園には、「サッカー場」と「野球場」と「競輪場」があります。
第二公園には、無料の駐車場があります。
「競輪」に負けた人は、競輪場から駐車場まで、
   「はなみずき通り」をとぼとぼと帰ります。
      「おけら通り」と呼ぶ人もいるようです。
   ・---・中山競馬場から駅までは、通称「おけら街道」といって、
         昭和レトロの「飲み屋」さんがところどころにあって、
            あの雰囲気は好きなのですが、・・自分は競馬や競輪はやりませんが・
    とにかく、この「はなみずき通り」は、レトロの荒んだ哀愁はありません・・

・この「はなみずき通り」は、”大宮二十景”というのがあって、選ばれているそうです。


国営昭和記念公園の秋・イチョウ落葉

2016-11-29 22:21:35 | 名勝

国営昭和記念公園の秋・イチョウ落葉

いまは、むかし・
 ・戦前に、陸軍の”立川飛行場”があった。
 ・・敗戦で、米軍が”立川飛行場”を接収して”立川基地”をつくり、
 ・・・その後、、、砂川(・立川の旧名である)。砂川?!
 ・・・その後、返還により、自衛隊の駐屯地と公園になった。

・その公園の名を、”国営昭和記念公園”という。広大で、立川市と昭島市に跨る。

 ・国立公園と国営公園 ・・・
  ・国立公園、・国立公園とは、国が指定し、その保護・管理を行う自然公園である・・環境庁
  ・国営公園、・国営公園とは、都市公園法に定められた要件の公園/緑地である・・国土交通省

  
ここのイチョウ並木の写真を撮りに来た ・・・
 大宮から35Kmなので、最短1時間ぐらい、混んでても1.5時間で来られると予測したが、
 とんでもない、 ・・・2.5時間かかった。
  大宮>富士見有料(今は無料)>浦所街道>所沢>狭山湖>立川  ・・浦所以降が進まない・
 
最盛期の落ち葉敷・

 

薄毛の頭髪の如・いま・

  


物見山のつつじ

2016-04-30 20:13:34 | 名勝

物見山のつつじ  in 比企丘陵







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎年の恒例で、つつじを見に来ています。

今年は、少し遅かったかもしれません。4/30来訪。

  じつは、上野・根岸神社の千本鳥居が気になっていて、そこの”つつじ”にも気がありました。


日本一 美しき村

2015-05-08 19:41:57 | 名勝

日本一 美しき村

「切り絵カレンダー」より

御所平 宗良親王寓居

花が咲いている。
季節は、春なのであろうか?!
背面に”巍巍として”聳える山は、 ・・・・・「小河内岳」?”赤石山脈”である。
こんなところに、南北朝時代の‘南朝’の指令本部の拠点があったとは、???
にわかには信じられないが、事実である。

「切り絵」が醸し出す単色の風景は、妙に懐かしい。
 ・・・ 柳さんの描く”大鹿村”の風景が、人々を魅了していくと、
 ほぼ同じ頃から、大鹿村が「日本一 美しき村」と評判になっていった。

ヒマラヤケシ

 

柳 土情(やなぎ どじょう)
     ・・・本名 柳下 修
1933年 神奈川県川崎市に生まれる
1987年 大鹿村に移住
1990年 カレンダーの切り絵の創作開始
1994年 「詩歌信濃路の旅」信濃毎日新聞連載
1995年 「詩歌信濃路の旅」単行本
1996年 「子どもたちの時間」内山節著 岩波書店刊 挿絵


柳さんの本物の「切り絵」を買うのはちと高いが、「カレンダー」なら手が出る・・ My Favorite Things ・・ 


足立野の風景

2015-02-04 23:05:20 | 名勝

足立野の風景

 足立 ・・飛鳥・奈良時代「足立」という地名が記録に残されているのは、735 年が最初で発見された木簡に「武蔵国足立郡」とその名が記されており、「足立」という地名は奈良時代に起源がある古い地名のようです。
起源を辿ると、足立郷の範囲は意外に広く、大宮・上尾・桶川・浦和・川口を含め、現在の都・足立区まで広がっています。
歴史資料を紐解くと、三室の武蔵武芝が、足立郡司を名乗っていたり、鎌倉期に、足立一族の足立遠元という武将が上尾一帯を支配していたことが「平治物語」に書かれたりしています。

それから暫くしてから、江戸の足立郷の千住に足立総鎮守の神社が出来たりして、足立の中心が移動しましたが、つい最近まで大宮近辺は、大きな郡郷の括りで足立と呼ばれていました。・・例:北足立郡伊奈町など。 ・・・足立郡の範囲. 足立郡は、東京府・埼玉県にあった郡。 ... 現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたるとされる。

浮世絵に描かれた足立野の風景 --

浦和宿 第四

『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
天保六年(1835)、渓斎英泉 画。
 ・支蘇路(木曽路)ノ驛
 ・浦和宿
 ・浅間山遠望
街道を行くとと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。・・・ただ、かなりディフォルムされていて、位置関係はおかしい。・・・浮世絵は、この様の省略・誇張・変形がよくつかわれる。

英泉の浮世絵は大宮宿の手前にある六国見の立場から高台橋を描いています。

吉敷町の神道小僧と高台橋と刑場
・・さいたま市大宮区北袋町1丁目
左が火の玉不動、右がお女郎地蔵の祠・・ここが高台橋で、かつて刑場があり、長谷川平蔵の出世話として有名な大盗賊神道小僧こと神道徳次郎が、この刑場の露と消えました。
この辺りは大宮原あるいは氷川原と呼ばれる野原だった。推測すると、ここ北袋は木崎の一部・浦和だったらしい。


・・・高台橋のお女郎地蔵
 「昔、大宮宿に柳屋という旅篭屋を兼ねた女郎屋に千鳥、都鳥という美人姉妹いました。姉の千鳥は宿場の材木屋の若旦那と恋仲になり結婚の約束までしましたが、当時悪名高い大泥棒の神道徳次郎が千鳥を見染め、若旦那に嫌がらせを始めました。そして千鳥は自分の為に迷惑はかけられないと進退窮まり高台橋から身を投げてしまいました。それからこの橋付近に人魂が現れるようになり、人々は哀れんで地蔵尊をたてたのがこの女郎地蔵のいわれ」。
・・・火の玉不動
 「この高台橋の火の玉が、哀れな千鳥の人魂かどうか、その正体をつきとめようと、一人の男が、小雨の降るなか松にかくれ出てくるのを待ち構えていました。そして火の玉が出てきたところを無我夢中に斬りつけてみるとキャッと声がして消えてしまい、かわりに物凄い面体の男が立っていました。男はおそるおそる何者だと尋ねてみると「俺は不動明王だ」というので、「それなら剣を持っているはずだ」といえば、「剣はいまお前が斬り落したじゃないか」といって消えてしまったそうです。翌日この話を聞いた人達が、高台橋に行ってみると不動様はにがい顔をしてその手には剣を持っていなかったそうです。それからというものこの不動様を誰いうとなく「火の玉不動」と呼ぶようになったそうです。」

 

大宮宿 第五

『木曾街道 大宮宿 冨士遠景
天保六- 八年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・大宮宿
 ・富士遠景
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷。
左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。
・・大宮台地の”はけ”が目立ちます。桜が咲く頃の田園風景が清々しい。

 

上尾宿 第六

『木曾街道 上尾宿 加茂之社
天保六-八年(1835-1837)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・上尾宿
 ・加茂之社
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男二人女二人の農民が唐箕を使って籾の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の二人連れ、一服しようと立ち寄る商人一人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は三つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。

 *** 中仙道六十九次 浦和宿 大宮宿 上尾宿 三枚の浮世絵は市立博物館所蔵。桜木古木の版木からの多色刷り・複製で、本物と思われます。浮世絵はその性質から本物が複数存在します。紙は高密度の和紙、細川紙かどうか、専門家でないので分かりません。江戸時代、中仙道が、一般呼称としては”木曾街道”(”支蘇路”・宛字)と呼ばれていたことが分かります。この時代の自然への信仰が厚く、”火山”が、愛情と畏敬をもって崇められていたことが見て取れます。


 

加茂神社


京の賀茂別雷神社(上賀茂神社)を勧請した加茂神社は、加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなった社である。 徳川幕府による文化七年(1810)の創建ともされ、『新篇武蔵風土記』にも「加茂社 加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数林あり 土地のさま 旧社と見ゆれど 勧請の年代詳かならず」と記されている。 なお、加茂神社と加茂宮村およびその周辺地域は、合併による宮原村等の時代を経て、さいたま市北区宮原町に重なる。
・別雷・わけいかずち ・・しばらく”雷”神社と思い込んでいた。雷神社は”菅原道真・神社”のこと。別雷は、雷を分かち、雷は雨を伴うところから、農耕の神とされる。別雷命が、加茂神社主祭神で、加茂明神とも呼ばれる。

加茂神社は、三つの地名を残している。一つは、加茂宮ズバリの地名、二つ目は、隣接は宮原 ・・宮原の宮は氷川神社ではなく加茂神社、三つ目は、鴨川 ・・鴨川は荒川の支流とも入間川の支流とも目されている。

実際の上尾宿は、ここからやや下った所にあった。風景の見せ場として、上尾宿の象徴が加茂神社だったのかも知れないが、定かではない。


巌殿観音の銀杏おち葉 ・・・

2014-12-02 18:20:34 | 名勝

○観世音 銀杏落ち葉の 道しるべ


2014/12/02  東松山市巌殿観音 今年の銀杏も見事です。

敷き詰められた、銀杏の落ち葉のじゅうたん ・・・ ”はらはら”と散り急ぐ”さま”が、自然の織りなす”美術品”

このところの、毎年の、定位置・定時の観測 ・・・ 恒例ながら、冷気が心地よい ・・・

 

 

こちらは、萱葺き屋根の鐘楼付近の紅葉 ・・・ 

 

  • 東松山市岩殿1229  0493-34-4156
  • 巌殿観音 正法寺   

    坂東三十三観音 第十番札所 巌殿観音巌殿山 正法寺( しょうぼうじ) 宗派:真言宗智山派 ご本尊:千手観音菩薩(観音堂) 阿弥陀如来(本堂)

 


ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

2014-11-27 18:53:48 | 名勝

ムーミン谷の紅葉 あけぼの杉

Metasequoia ・・メタセコイヤ(和名:あけぼの杉)
見れば、針葉樹である。
葉はモミに似て線のように細長く、短い。
秋に赤茶色に紅葉した後、落葉する。
樹高は高く、並木になると壮大である。

あけぼの杉が”生きている化石”であるという謂われは、
 ・・・メタセコイアの化石は、日本各地の新生代第三紀層の化石に見られ、
世界的には、カナダ北部など北半球の北極周辺に広く分布している。
日本では、 1939年に関西地方の第三紀層で、常緑種のセコイアに似た落葉種の植物遺体(化石の1種)が発見された。


場所は、ムーミン谷 ・・・
Tove Marika Jansson の童話『ムーミン』の世界観を表現した「子供公園」
 ・・・ 『あけぼのこどもの森公園』 ・・・ まるで”メルヘン”の世界だ ・・・

メタセコイヤの紅葉に包まれた『ムーミン谷』の風景


生きている化石の木が、加治丘陵にあることが、何故か謎めいて、意味深? ・・・

次回は、砂鉄の寺、高正寺と加治丘陵 ・・仏子と加治と金子


秋のバラ in 旧古河庭園

2014-10-13 01:20:27 | 名勝

秋のバラ in 旧古河庭園 

上中里から王子まで、秋の薔薇を見ながら、散歩 ・・・

この界隈の散策のルートの出発点は、内田康夫の小説の主人公・浅見光彦の地元ですから、最寄り駅はJR上中里駅です。そこから、平塚神社へ寄って参詣し、平塚亭の団子を買って頬張りながら旧古河庭園に行き、洋館を見て西洋庭園で薔薇を堪能し、日本庭園の回廊を散策するのが良かろうと思います。ここや、岩崎邸の洋館建築は、明治の政財界の西洋かぶれをいい意味で感じることが出来ます。建物内部は、流石に、生活スタイルまで西洋風になれなかったらしく、和洋折衷の妥協の産物のようですが・・・。内部まで見学できるかどうかは、定かではありません。
旧古河邸に飽きたら門を出て、右に行けば駒込・六義園方面ですが、来た道を戻り、本郷通りをそのまま下ります。地下鉄・南北線・西ヶ原駅の左手の住宅街は、浅見光彦の家のある西ヶ原3丁目、小説の中の家ですから架空です。時間があれば、右手に、桜で有名な「飛鳥山公園」があります。公園内は、青淵文庫、渋沢栄一資料館、飛鳥山博物館、紙の博物館が並びます。時間を食いそうなので、見ていきたい誘惑を押さえて、やり過ごします。「飛鳥山公園」を過ぎると王子駅。駅前商店街。ここでは石鍋商店のくず餅、「扇屋」の「釜焼き玉子焼き」。・・・特に、江戸落語「王子の狐」にちなんでの玉子焼きは絶品とか。散歩を堪能 ・・・

平塚神社 ・・八幡神社、昔この地にあった平塚城の鎮守
御祭神:八幡太郎 源義家命
 ・・ 源義家 岩清水八幡宮で元服したので八幡太郎と。
 ・・ 賀茂次郎 源義綱命:義家公の次弟。賀茂神社で元服したので賀茂次郎。
 ・・ 新羅三郎 源義光命:義家公の三弟で武田氏、佐竹氏、小笠原氏の先祖。
        新羅明神で元服したので新羅三郎。

 

新羅明神は、園城寺 (三井寺) の本尊の一つ。名前からして朝鮮と関係が深そうですが ・・・
神仏習合も、ここまで来ると、寺なのか神社なのか、さっぱり凡人には理解出来ません。
最初は、源氏武将の鎮守だったのが、いつの間にかこの地方の郷社になっていた ・・とか。


 

名探偵・浅見光彦や光彦のご母堂の好物の”だんご”。まあ・・美味しい!が、絶品とまでは ・・?1本¥130!

 

旧古河庭園 秋のバラ・フェスティバル

入場券:大人¥150

 

パンフレットから ・・・

旧古河庭園では、秋バラの見ごろに合わせ「秋のバラフェスティバル」を開催します。 秋のバラは、香りや色彩を長い期間お楽しみいただけます。 大正初期に建てられた重厚な洋館と、約90種180株のバラが織りなす旧古河庭園で、秋ならではの バラの美しさをご堪能ください。
日時:平成26年10月11日(土)~26日(日) :9時~17時(最終入園は16時30分)

 

西洋庭園

緑の中の彩り 薔薇も多いが・人出も多い。・・・顔はぼかしました。


秋の薔薇

 

 

セレクトは、筆者の好みで。グラディション、ベルベットタッチ、色変化 ・・・

 

苦にならない程度のアップダウン、洋から和への変化 ・・・意外に疲れない ・・・

 

旧古河邸
所在地:東京都北区西ヶ原1-27-39(電話03-3910-8440)
建築年:1917年(大正6年):設計者:ジョサイア・コンドル
:構造:煉瓦造地上2階・地下1階建
概要:
ジョサイア・コンドルの設計。、陸奥宗光の邸宅跡に、古河財閥三代目当主・古河虎之助の別邸として建てらた。煉瓦造で、外壁は荒い仕上げの安山岩を使い、落ち着いた雰囲気を見せています。・・旧古河邸は、和洋館並列型ではなく、洋館単独の建物です。外観はまったくの洋風なのですが、2階には床の間や違い棚、付け書院のある伝統的な和室が組み込まれています。・・ 建物に劣らず魅力的な庭園は、斜面に沿って洋風庭園から日本庭園へと続いています。洋風庭園にはバラが植えられ、5月と10月にはたくさんの見物客が訪れます。回遊式の日本庭園の作庭は、京都の名庭師・小川治兵衛の手。

 ジャサイア・コンドルの設計・建築 ・・・恐らく日本の建築造形に、多大の影響を与えたのでしょう ・・・

外壁は、煉瓦だと思ったが、石です。安山岩と書いてあります。

 

日本庭園

池は、心字池。池の周りに、大きな石灯籠 ・・・灯りが付いた模様を見て見たい。 ・・・幻想的かも !

日本庭園の池の周りの紅葉は 、少し色付きました。 少しだけ、秋です。